不登校・引きこもりに関するエッセイ論評・五十田猛の「四行論」

不登校・引きこもりとその周辺事情に関する
エッセイ・論評など
(NPO法人不登校情報センター)

引きこもりからどう抜け出していくのか

(1)引きこもりと不登校、ニート


 不登校・引きこもりの状態に、私は本質的な差異はないと考えています。不登校は、学校所属を前提とし、引きこもりはそれを前提としませんので、一般には不登校のほうが年齢層が低くなります。引きこもりは学校在籍を含みますが、それを超えた年齢層に広がっています。

 主にこの学校所属と年齢層の違いが、両者に副次的な違いをもたらしています。

 不登校は、学校に登校できない(しない)状態像であり、それは引きこもりが唯一の理由ではありません。実はニート(NEET=Not in Enployment,Educatin or Training、若年無業者)も不登校と同じで、引きこもりがニートの唯一の理由ではありません。不登校には非行型、ニートにはヤンキー型と言われる人たちがいて、これは引きこもりとは対極の状態像を示す人たちです(背景には共通する部分はあります)。

 そのような引きこもりが主な理由ではない不登校、ニートに関しては、以下に述べる事情は必ずしも当てはまりません。引きこもりを共通する状態像であると考え、その本質、背景、現状および対応(脱出)方法を、比較的平易に説明します。

 引きこもりとは何かは、いくつかの原因や定義づけがされています。いずれも参考になる意見ですが、あまり深入りしないことにします。対人関係(特にある人との継続的な人間関係)から距離をおこうとするのが、引きこもり現象の中心的な部分です。「外出する・しない」というのは、それに比べれば二次的な要素でしょう。

 ただ一般には、この理解が定着しているとは思えませんから、この文の中でも自宅からほとんど外出しない人を引きこもりと表現することもあります。

(2)引きこもりのさまざまな原因・理由


 引きこもり(前述の意味で不登校、ニートを含む。以下同じ)が、日本でこのように増えていることに関しては、いくつかの意見があります。私がこれまで見聞きしたこと、本で読んだことのなかで、納得できる理由を列挙してみます。

@日本が、特に1960年代以降の高度経済成長期をとおして、高度に発達した経済社会になり豊かな国になっている。

A食生活が、この30〜40年間に大きく変わり、それらが心身の状態に影響している。農薬の影響、カルシウムなどミネラルの不足、乳幼児の母乳哺育の後退。

B旧来の家族関係が崩れ、新たな家族関係が十分に形成されないなかで、かなり多くの家族内にゆがみが出、矛盾がたまり、家族内の弱い立場の人(子どもなど)に問題が表われやすくなっている。

C伝統的な地域的共同体が崩れ、隣近所のつながりが少ない新興開発住宅地域やマンション住居者を典型的に、子育てが家族内のプライベートな事柄になっている。ここでは育児書が子育ての教材になり子育てが画一的な基準に左右されやすくなっている。

D明治期につくられた学校制度が百年以上の歳月を経て、子どもと社会の実情に柔軟に対応できずにいる。それが不登校の子どもとして表面化している。

E日本社会が変革期に入り、さまざまなゆがみや矛盾が、社会のなかの弱者に当たる人たちのところで表面化する社会病理現象を示している。

 見聞きしたことを私なりのしかたで表わしましたので、必ずしも一般に普及している表現とは同じではないかもしれませんが、おおむねこのような理由が語られているように思います。これらは、子どもの育つ環境条件を述べるという点で共通しています。

 私は、これらの理由、背景説明にそれぞれに納得できる部分があります。

 引きこもりに至る子どもの生育過程には、虐待、服従、いじめ、放置など、子どもに対する強い抑圧や禁止が、相当期間にわたって継続したり、繰り返されたりする例を見ることができます。そうなる背景には、上に述べたような、いくつかの理由があり、家族や学校、子どもの世界での精神的な圧迫、追い込まれ状態のはけ口が、「より弱い子ども」に向けられているためと説明できます。

 この「より弱い子ども」とは、その集団内における相対的な位置を表わします。したがって、家族のなかで父親や祖父母に対して比較的弱い立場の母親が、精神的な圧迫感情(ストレス)を、より弱い立場の子どもに向けることもあります。複数の子ども(きょうだい)がいる場合は、必ずしも末子が弱いというわけではなく、「よい子」でいようとする反発しないタイプの子ども(ときには長男や長女)に向けられることもあります。学校などの子ども世界では、おとなしい子、障害のある子、孤立しがちな子に向けられることもあります。

 これらは、ストレスが、強い者から弱い者に流れていく一般的な経路を示しています。同時に、その弱い立場の人の前で、保護者、教師や常識に富む人の、この経路を阻止する力が弱まっていることも示しているように思います。

 これらはおおよそ上に述べた要因の連鎖反応として説明することが可能でしょう。しかしそれにもかかわらず、それではうまく説明できない引きこもりに特有の、共通する理由があると思います。少なくとも引きこもり当事者たちに、ある期間接していれば、ごく普通に感じられる原因や背景が、この外側にあります。



(3)五感が敏感な人たち



 上述の子どもが育つ環境条件のほかに人が引きこもるもう一面の理由があります。引きこもりは、本人が持っている(天性の)要素と、後天的な要素が組み合わさってなります。上記では、後天的な要素を列挙しました。

 次に、子どものもつ先天的な要素の特色を述べましょう。ひとことで言えば、「ヒトの心の雰囲気が自然にわかってしまう繊細な感性の持ち主」ということです。先天的要素ではあるけれども、それがかつてのように生育過程で変容を遂げずに、ある年齢まで持ち越されるようになった、そういう社会状態が関係しています。

 30代の男性Aくんが、ある日「きょう地下鉄に乗っていたら銀行のにおいがして…」(気が重くなった)と言ってきました。「銀行のにおい? 病院のにおいならわかるけど、銀行のにおいってどんな?」と聞き返すと、「銀行でも感じるんだけれども、もう少し違う場でも感じる、ビジネスマンのにおいかな」という答えです。少しわかる気がしました。

 Aくんの引きこもりとしての程度は軽いかもしれませんが、人間関係をつくる点では、ある限定した人にしか関われません。彼の「におい」という点に注目して、日ごろの言動をふり返ると、ゴミや、食べ物などに神経質になっている姿が思い出されます。Aくんは、おそらく嗅覚が鋭い感性の持ち主なのです。

 20代になったHくんの話しをしましょう。Hくんのお母さんから「食べ物の注文は多いです。特に料理をするときは気を遣います」と聞いていました。Hくんに「食べ物の好き嫌いは?」ときくと、「味の強いのが苦手なんです。それで好き嫌いは多いと思います」という返事でした。

 Hくんに限らず、食べ物に好き嫌いがある(その中心は、嫌いで食べられない物がある)というのは、引きこもりの人に比較的多いと思います。いろいろな人から話しを聞いてみて、彼(彼女)たちは、味覚が敏感である、そのために食べられない物があるというのが私の得た結論です。

 もちろん、「違いがわかる」味覚の持ち主であっても、それで自動的に好き嫌いが多くなるわけではありません。味覚が優れ、味の違いがわかり、それでも何でも食べられる人もいると思えるからです。

 嗅覚と味覚について、その鋭さの表われを二人の例で示しました。

 次に、視覚(目)と聴覚(耳)についても述べておきましょう。この感覚が優れている例は、嗅覚や味覚のような形で把握することができません。それは視力がよい、聴力がよい、というのとは少し違うと思うからです。視力が低くても視覚が優れている、聴力が低くても聴覚が優れているという現象があるのです。

 私たちは、たとえば街中を歩いていると、いろいろな人がいて、いろいろな物があって、さまざまなものが見え、さまざまな音が耳に入ります。しかし「見て見えず、聞いて聞こえず」という対応が自然にできています。

 このことわざ的表現は、注意力の散漫さを示すのですが、この場合にも共通する言い方です。視覚や聴覚から入る情報を、必要なものだけを自動的に仕分けしながら取りいれています。目に入ってもまったく意識しなかったり、耳に入ってくるものに一つひとつ反応しないようになっています。

 そういうことが自然にできるから日常生活ができるのです。自然に、意識外で、自動的に取捨選択をしながら、目や耳から入る外部情報を取り入れているのです。この取捨選択をし外部情報を取り入れるという過程が、引きこもりの人には必ずしもうまくいかない人がいるのです。

 たとえば、TくんはYくんと話し込んでいます。そこにTくんの顔見知りであるBくんが来て、Nくんと話し始めます。そうするとTくんは、一方ではYくん話しながら、他方では隣に座っているBくんとNくんの話しが気になるし、実際にそこではおよそどんな話しが進行しているのかがわかってしまうのです。たんに言葉だけでなく、BくんとNくんの表情や動きなどもわかるし、それによって何が話されているのかを把握する、会話以外の情報源にもなっているのです。

 Tくんタイプの人は、このような場合だけでなく、一般に、目や耳から入ってくる外部情報を、自動的に取捨選択して取り入れることが苦手です。いやもしかしたら、場合によってはそれを苦手とは感じていないのかもしれません。しかしこの能力(?)は、日常生活の面で、さまざまな不都合を招いていることは確かです。

 触覚についても、おそらく敏感なものあると推測できますが、私はこれといった具体例を出すことができません。おそらく触覚というのは、人と物との関係よりは人と人の関係、すなわちスキンシップというもう一つのコミュニケーション手段として、これら感覚の鋭い人たちのなかで役割を果たしているのではないかと思います。

 これら人間の感覚器官である五感は、人が外部(周囲)世界の情報を入手する手段です。そして五感は、それ自体が人と人とのコミュニケーションの手段でもあります。スキンシップもコミュニケーションです。「目が語る」というのもコミュニケーションでしょう。

 そして、コミュニケーションの中心である言葉は、口と舌、その音を聞きとる耳という五感の感覚器官の働きによります。この五感が、人とのコミュニケーションに大きく関わっていることと、この五感が敏感であるがゆえに人とのコミュニケーションが苦手となり、対人関係がうまくいかなくなることとの間には、強い連結した作用があるというのが私の推理であり、追究テーマの一つです。



(4)第六感としての「心の雰囲気がわかる」感性



 五感が人体の感覚器官によって得られる、内包されたものであるとすれば、その外側あるいは奥行きに、外延的に広がっている感覚があります。これが第六感です

 国語辞典によると第六感とは「〔五感の働き以外によるという意から〕直観的に何かを感じとる心の働き。勘」となります(『新明解国語辞典』第4版、三省堂、1989年)。「体調がいいときには、第六感もよく働く」という言葉を聞いたことがあり、これはもっともらしく聞こえます。五感を超えて五感を総動員しながら把握する総合的な外部情報入手、判断方法なのでしょう。

 たとえば、自分が経験したことであっても、歳月とともに記憶に沈んだことが、ある場面で突然蘇り、自然な感情反応のように表出してくる経験も、もしかしたら第六感に入るのかもしれません。その場ではうまく説明できないけれども、何か確信めいたものがあって、とっさの判断として出でくる反応はどうでしょうか。

 これらは、第六感とはいってもおそらく何らかの自分の経験に基づくものがあり(それはその時点での感覚によって得られている)、感覚による外部(周辺)情報の入手とは同じなのかもしれません。

 それらの境界は不明ですが、引きこもりの人には、五感も第六感もよく働く人が多いという印象を私はもっています。この第六感の全体像は私にはわかりません。単一のものではなくて、いくつかの要素から構成される小宇宙という感じがします。

 要するに、引きこもりになる人は、五感や第六感が繊細で敏感であることになります。私は、これを引きこもりになる先天的要素だと考えています。そして、日本の現実は、この先天的要因を促進させる環境条件に満ちていて、かつてはこの先天的要因を子ども時代に取り去っていたのに、いまでは思春期からそのまま青年期にかけて持続させ、成長させているのです。前近代においてならば、貴族的生活者に限定して生じたことが、いまや庶民レベルにまで広がったと言ってもいいのかもしれません。

 繊細な感性は、人間としての優れた面と言っていいでしょう。ところが、これが引きこもり(特にその中心の対人関係がうまくいかない)の要素になるものです。なぜでしょうか。

 私は、この繊細な感性の持ち主は、言い換えれば、「ヒトの心の雰囲気がわかる人」であると考えています。五感や第六感の優れていることとは、このような役割をはたすのです。そして「ヒトの心の雰囲気がわかる」ことが、対人関係を萎縮させ、緊張させ、回避させるように働くのです。またそれが周囲にいる人を慎重にさせる連鎖反応をよびおこすのです。

 ある精神医学者は、次のように述べています。この人(およびその著書の訳者)は、私の「繊細な人」の代わりに「小胆な人」(大胆な人の反対語)を使っています。気が小さいという意味でしょうが、意味するところは「繊細な人」と同義です。

@小胆な人は、平凡な人が気がつかない日常のささいな出来事にいち早く気がつく。

Aそのことを小胆な人は、自信をもって外部に力強く発表することはない。しかし、それを継続して気にかけている。

B小胆な人は、気づいたことによって、自分の心が傷ついてしまう。何か自分に責任があるかのように葛藤したり、優柔不断になる。

 私の周囲にいる引きこもり経験者は、これに、ピタリと一致する人たちです。繊細な感

性をもち、ヒトの心の雰囲気がわかるがために自分のほうが萎縮し、気づいていながらも

発表できず、自分の心の世界のなかに向かっていくのです。

 しかし、私たちにはこのことを非難がましくいう権利はありません。このような内面的な作業をとおして、人間世界の重大な問題を提示する人が、このようなタイプの人から現われるからです。先の「小胆な人」について記した書名が『天才の心理学』であるというのは、著者E.クレッチマーのライフワークとも言える研究の上に立つ重みのある提示なのです。



(5)自己点検で感情を抑制していく



 さて、繊細な感性の持ち主は、「ヒトの心の雰囲気がわかる」と言いました。心には、自然に身につけた生命力があり、それは自己保存本能と種族保存本能に満ちていることを、繊細な感性の人たちは感じとってしまうのです。それは、引きこもりになる人が子ども時代から思春期にかけての生育過程のなかで見たくないもの、うとましいものとして、実は無意識的のうちに遠ざけてきた事柄です。

 繊細な人は、人々の日常生活にある、平凡な人なら見過ごす程度のことにいち早く気がつき、それと同じものが自分のなかにあると知ると、自分の問題として感じるのです。おそらくそれは、平凡な人にとってはささやかなこと、たとえば生活に必要な金銭願望であっても、まずその願望をもつ自分に傷ついてしまうのです。このような自己点検作業を絶えず繰り返しているのです。

 これはきはわめて道義心に富み、清く、正しく、美しいものを指向しているので、子どものころには多くの場合、「美質」と見なされます。しかし、彼(彼女)たちにとってのこの点検作業の本質はそこにはありません。

 本質部分は、自分の生命力の発露を制約していく働きと言っていいでしょう。自分のもつ生命力が個体維持本能と種族維持本能に基づくものであると感じ、それは自分にとって何か出すぎたもの、他人に対して迷惑になるようなものという気分が、からだに満ちていくのです。それは自己否定感の表われとして見られる現象です。

 もちろん、自己点検で自分のなかに見つけたものを、個体維持本能とか種族維持本能という言葉で察知するのではありません。所有欲とか不満感を解消したいとか、より日常的な感覚で表わせるものです。

 この点検作業が強まる時期は、人間の成長発達の時期から見ると、思春期にさしかかるころと重なります。思春期は「心身ともに大きく成長する」時期です。からだ(身体)の成長はそとからも容易にわかるので説明を省きます。

 「心の成長」とは何でしょうか。要約的に言えば、思春期にこそ人間の心の構造はできるのです。人間存在として赤ちゃんとして誕生し、思春期を経てもう一度、今度は心の構造をもつ人間として誕生するのです。

 心の構造には、先天的に引き継いだ生命力が一方にあります。他方にはさまざまな社会的な現実(家族関係、友人関係、社会生活のルール、日常生活のなかで身につける社会性などを総合したもの)があります。この両方を、うまく運転する統率力があります。この統率力は、生命力から引き出しているもので、「自我」といわれます。

 こうして存在として赤ちゃんとして誕生した人間は、社会に生きる能力をもった人間、自我をもつ社会的人間に生まれ変わります。これが思春期という時期です。社会で生きていく力を急速に身につけていくのが思春期です。それを「心が成長する」と表現します。

 繊細な感性の持ち主たちは、ここで重大な危機に見舞われます。自分の心身の奥に感じる生命力を、何かうとましく感じてしまうのです。それはたぶん、周囲の大人(特に両親)が自分に向けている言動によって負荷された道徳律のような気がします。

 この道徳律による自己点検によって、自分の生命力を抑え、社会的に問題にされないものに突き進んでいきたいと感じます。生命力を抑える日常的な表われ方は、怒りや憎しみという否定感情を自分のなかから追放しようとします。実際には追放しきれないのですが、自分でも気がつかないくらいそれを押さえ込み、眠らせてしまいます。これこそ「よい子」への道です。

 そして、この自己点検作業に成功を収めた人ほど、引きこもりにつながる、引きこもりに伴うさまざまな身体症状が出てくるのです。押さえ込み、眠らせてしまったかに思えたとしても、それはからだのいろいろな方面に拡散し保存されていくだけだからです。感情を抑制していくことが、実際には自分の生命力を押さえ込んでいく方法になるのです。

 他方、社会性を獲得していく面でも、この感情を抑制する作業はマイナスに働きます。たとえば、相手の感情を害さないようにするつもりで、自分の感情を抑えようとします。これが実は、対人関係を妨げる方向に働くのです。

 素直な感情表現(それが常に怒りや憎悪に満ちている例外的なことを除けば)こそ対人関係を円滑にします。受けをねらって相手に都合のよいような演技をしても、それは不自然であり相手に見破られますし、対人関係の前進にはつながらないのです。社会性の獲得は、知の面がないとは言いませんが、人と関わるなかで自然と身につくものです。感情を抑制することで、他者とうまくつながるというのは、きわめて限定された特別な人だけにできることです。引きこもりの人は、こうして社会性の成長の環境づくりを困難にし停滞状態に入るのです。

 繊細な感性の持ち主が、思春期や青年期前期の十代において、不登校や引きこもりになるのは、この「心の成長」の停滞と結びついています。私の見るところでは、この時期の中心的な部分は、停滞というよりも“子ども返り”的ではないかと思います。幼児期(人によっては乳幼児期)や思春期以前の児童期にまで遡って、やり直しを始めようとしていると思えるのです。それが外見上は、「停滞」として映るのではないかと思います。

 引きこもり経験者の相当な割合の人たちが、外見上「子どもっぽく」見えたり、社会性が乏しいというのは、このことでかなりの部分は説明できるものと思います。相談した人のなかには、20代後半や30代になって「いま、私は思春期です」とか「思春期が遅れてやってきました」と言う人もいました。逆に、「若く見られる」ことに嫌悪感をもつ人もいます。表れ方、意識のしかたは、その人のおかれた状態などによって微妙に違ってくるものです。



(6)本人の悩み・訴え・症状と対応


 以上のように、引きこもりの人については、かなりの点を共通した事情として説明できます。しかし、一人ひとりがどこをどのように意識するかに関しては、その人にとって印象深い事件や身体症状、おかれた状態によって大きく違ってきます。

 私が、相談その他の形で聞くことができた本人の意識、悩み、課題などをおおまかにわけてみると、次のようになります。こういう形で自分の問題を感じているのです。

友達に関係すること――いじめや仲間はずれ、孤立、違和感、友人がいない。友達をつくりたいと(探している)…。

教師と学校――強い秩序の圧迫感、集団行動ができない(ついていけない)、教師が自分に向かうときの無頓着、成績が下がる(授業についていけない)…。

両親と家族――自分の感情や感覚を無視される(受けとめてもらえない、わかってもらえない)、指示命令、家族のなかでの異端者扱い、両親の不和、家族の殺伐とした状態、いつも常識的で紋切型のことばかりしか答えない…。

進路の選択――不登校自体への自己否定感、同年齢の人との比較、遅れを取り戻したい、学校をやめたい、卒業したくない…進学できる学校探し…。

社会と仕事――社会は自分が働けるところではない、自分に合った仕事をしたい、対人関係がうまくいかないから仕事が続けられない、作業が遅い、ついていけない…。

●性格など――性格を変えたい、気を強くしたい、自己主張できるようになりたい、悪に手を汚したくない…。

 これらが人によってはいくつか組み合わされて、語られます。それは悩み、苦しみであり、家族との関係や生活上の困難であり、未来への漠然とした不安となっています。

 私は、以上の不安や訴えにそれぞれ答えるわけですが、次の面にも気を配るようにしています。これらは問題を感じていても、なぜそうなるのか、どんな意味があるのか、考えてもよくわからなかったこと、考えの及ばなかったことなのです。自分を知るうえでは大事な点だと思います。

 感情を抑制した結果は、心的なストレスが重なり、さまざまな身体症状として表れます。意識以上に、本質的な状態はここに表れます。これらの身体症状は苦痛を伴い、また身体のエネルギー消耗を激しくします。疲れやすい人たちなのです。そういう症状が出ることにより、問題の所在を表出させる役割があります。

 さらに、そういう症状自体が自己保存的な役割も果たしています。もし症状が出ないのであれば、問題の所在に気づかないばかりか、個体を破壊する事態が一挙に進行します。身体症状は、この事態の悪化を止めることはできないはずですが、いくぶんは緩和させているのです。その過程で適切な対応をすれば、進行を止め、逆に改善方向に反転させることができます。

 身体症状には、アレルギー系(皮膚炎、ぜん息)、消化器系の症状(胃腸障害、大腸症候群、過食と拒食など)、頭痛、胸部のしこり感などがあります。特定の身体部位ではなく、不安、恐怖、実在感の喪失、離人感、感情喪失…など精神疾患系に属することもあります。

 これらに対応するには、医師・医療機関に行き、投薬などの対処を必要とすることがあります。しかし、それで十分とは思えません。私は統合失調症に関する講座に出席したことがあります。その講師(医師)は、「服薬+自然治癒力」が治す方法であると述べました。いい表現だと思います。

 この医師の話のなかには、カウンセリングの方法はありませんでした。日本の精神医療の現場の多くはそうだからです。しかしこの医師は、自然治癒力(それは医療行為の場面で使用される生命力と同義の言葉)を根本をおき、服薬はそれを助けるものとしているのです。服薬にしてもカウンセリングにしても、それは適切さが問われますし、それはたんに医師やカウンセラーに任せられるものではなく、引きこもりの当事者の感覚的な判断が大切になります。その意味で、ドクター(カウンセラー)ショッピングと言われる、自分に合った医師やカウンセラーを探す試みは必要でもあります。

 この講師は、自然治癒力が第一だと言っているのです。それに比べれば、医療行為や心理療法は副次的なものです。私は、この医師の言葉の次に、さらに次の言葉を追加したいのです。「むしろ自然治癒力を発揮させるために医療行為や心理療法がある」と。

 そして自然治癒力(生命力)を引き出すに方法は、これ以外にもあります。



(7)意欲(生命力)を引きだす基本


 当事者(人間)の意欲を高める方法の中心で基本的なものは、その人の外部から注入するものではなく内部から引き出すものです。投薬の方法は外部からの注入する方法の一種です。

 内部から意欲を高める方法とはまたその人の生命感を高める方法でもあります。いろいろな言い方ができるでしょうが結局は1つです。本人を認めることです。親として不満を感じる、教師としてはもの足りない、カウンセラーとしてはもっと何かを考えたい、自分自身でもこんなことではダメだと思う……。そういう面は必ずあります。それは成長には限りがないからそうなのです。

 問題はいまです。いま現在が出発点であり、それから前に進みます。前に進む面に関心が強く傾くと現実を認める点が手うすになります。周囲の人は支援者も含めて毎日の現実を肯定的に見ていく、誉める、むしろ教えてもらうものを見つけだし、依頼できるほどのものをみつける。そういう姿勢で現実をみようとしていくと、当人の現実は意外とゆたかであるように思います。

 テレビばっかりみている、パソコンだけをする生活、何の役にも立たないことばかりしている……というのは当人のしていることの意味が何もわかっていない言葉です。毎日の生活のどの部分に光るものがあるのかはすぐにはわかりませんが、よく見る、継続してみるなかで、本人を認めるヒントは得られます。

 つまらないものと思っていても当人が離れられないでやっているものにはそれだけのもがあります。単純に「〜中毒」といえないのです。その離れられないでしているなかに何かを見つけ出し、助言を与えられる周囲の人間の力量が逆に問われます。その周囲の人間が親であっても、教師であってもカウンセラーであっても支援者であっても同じです。実は友達というのは、そういうものをいちばんみつけやすい状態にいる人間です、友達がいないことは、自分のよさを見つけやすい人がいないことを意味しています。

 これらの過程は、年齢が低いほど回復しやすいものですが、20代になってもの30代になっても回復可能だと思います。粘りづよく関わることです。

 引きこもりから抜け出す過程の中心は、当人のもつ自然な生命力を発揮させることです。それをいかに引き出し、伸ばしていくかにかかっています。それは自分の感情を信じ、それを肯定して表現していけるようになる過程を指しています。はじめは不自然でぎこちないものでも、いずれは自然な感情表現に近づき、定着していくことになるでしょう。



(8)引きこもりからの回復と母親の役割


 しかし、この作業を一人で続けていくことはきわめて困難であり、実際には不可能でしょう。この方法と内容には、ある程度の男女差を感じます。一人での作業は孤独感を強めることになると思います。この感情、特に悲しみ、苦しみ、愛情飢餓などを真正面からうけとめてくれる人が必要です。

 その第一候補は家族、とりわけ母親でしょう。母親はまず聞き役になることです。

 この聞き役にとって最も大事なことは、正しい判断とか正しい道筋を考え提示することではありません。それはむしろ言わないですませたい部類に入ります。第一に大事なのは愛情です。愛情を感じることができ、自分の感情を受けとめてもらえると思えれば、子どもは自分の苦しかったこと、愛情飢餓を甘えの形で訴えてくるようになります。私は、この甘え(依存)を肯定的に評価しています。

 聞く立場の人が聞くのをやめて正しいことを話すと、この作業をストップさせてしまいます。それは骨折している人を前に、いかにすれば骨折を防げるかを説くのに似ていて意味がありませんし、その場で必要な対応をしていません。

 子どもの話には、当人の勘違いや過大評価などが入っているとしても、本人にとっての真実があります。これを正面から丁寧に聞いていくのが聞き役です。

 しかし、この聞く作業は容易なことではありません。特に親の場合は深夜になって毎日のように数時間この聞く作業が続くこともあります。私は親のこの種の相談を受けたとき、それでも「社会生活に支障が出ないぎりぎりのところまで」「親の体力が続くところまで」続け、少しずつ子どもとの間にルールめいたことを取り入れるように話しています。たとえば、毎週2〜3回にする、夜2時には終えるという時間的ルールや話し方などの行為的ルール、話す場を決めるという空間的ルールなどです。

 これは、それほど大事な作業だと思います。その忍耐と辛抱、それが愛情ではないかと思います。以上はとくに女性にとってより直接的な意味をもちます。男性にも当然意味はありますが、20歳を超えると男性の場合は、社会(集団)の中における自分の位置確認(確保)の方向に関心が動きます。

 これらの作業は、子どもにとっては、これまでの苦しかった自分の精神の癒しであり、エネルギーの回復(自己生命力の確認)であり、自分を肯定的に受け入れ、自分の立て直しの過程そのものの土台を築くことになります。一方で、話すこともまた苦しいことで、ときにはフラッシュバックが起きることもあります。

 この聞き役は、母親が中心になるのがいいのですが、そうならない場合もあります。また、母親だけでは持ちこたえられないほどのものです。そこで、母親以外の家族、特に父親の役割が出てきます。父親の場合は、聞き役としてはなかなかうまくいかないことが多いようです。「昔のことは取り戻せない」「結論は何で、どうしたいのか」という趣旨の話にもっていきやすいためです。父親は母親のサポート役であり、母親とは違った形で(たとえば釣り、パソコン、ドライブのような)、子どもの気分転換を図る試みをすすめたいと思います。

 専門的なカウンセラーは、家族にこのような役割が難しいときには欠かせません。また、カウンセラーから、日常的に家族としてどう子どもと関わっていけばいいのかの助言をもらえるといいと思います。カウンセラーとの関係は、こういう面からも大事になります。

 ただ、カウンセラーや医師やその他の支援者は、ときどきの状態の意味や判断で参考になることは聞けますが、子どもが愛情自体を求める対象にはなりませんし、親しい人間関係を築く相手にもなりません。個人的関係のなかでそれに近いことはあると思いますが、専門家や支援者のできる範囲は、懇切丁寧、的確な評価・対応のしかたなどになるはずです。それを超える役割を求めることは、一般にはいい結果になりません。

 しかし、引きこもり当事者の周囲で家族を中心にこういうさまざまな人がそれぞれの形で協力していければ、引きこもりから抜け出そうとする当人の試みは、環境条件の恵まれたところでなされることになります。周囲の人にできるのはこのところです。

 誤解してほしくないこともあります。この子はやはりその子らしさをもって成長する以外には、ありません。元気溌らつ、明るく行動的とはいきません。おとなしくて、気弱なところがあって、まじめで、生きづらいと思える人生を、自分なりの力で進む力をつけていくのです。それで十分ではないでしょうか。



(9)反発心が自立には必要



 当事者と親の関わりで重要と思う点をつづけます。

 親への反発心が自立のときには必要だということです。親への反発を聞くと、それだけで何かいけないことのように感じる人がいるかもしれませんが、そうではありません。それは人間を自立させる原動力です。信頼できる(言いやすい)相手であるからこそ、自分の自然な気持ちに基づく拒否を意志表示できます。これは自己を確立するときに欠かせない要素です。それが自我になります。20代を超えて自我が確立していないときは、相手に依存的になるか、支配下におこうとするかのニ極対応になりやすく、通常の対人関係がとてもつくりづらくなります。自我ができ自立をした後からは、それが親への感謝となって自然な感情として親孝行になるのです。人間の成長発達の過程には、思春期の終わりに反抗期があります。このときの反抗期こそ、最も重要で代表的な反抗期です。自立に必要なタイミングが、ここに用意されているのです。

 引きこもりの人に見られるのは、思春期がはっきりしないことよりも、反抗期がないことのほうがより重要な特徴です。自立しそこなっているのです。

 たぶん引きこもりは、「反抗期」をうまく迎えられなかった人に用意された、第二の自立の方法であり、「引きこもり期」というのを設けてもいいと思います。

 反抗らしきものがないわけではありません。私の観察では、当事者が「両価性」で葛藤するのが、反抗・反発がそれらしくなくなる原因のように思います。両価性とは、相反する感情が同時に生じることです。自分に向けられる親の言動への感情的な拒否感と、親には感謝しなくてはならないという道義的な意識があり、一方が表面に出ると次の瞬間には他方がそれを打ち消してしまうというものです(親への反発を暴力的に抑えられたタイプの人にもときどき出会います)。これは自我が未確立の証拠のような気がします。

 このため、どちらが自分の本心なのか混乱し、錯綜してしまい、反抗や反発がそのためにはっきりしなくなってしまうように思えます。

 これは、先に話した心的な葛藤の表れであり、特に拒否感情を自然に抑制してしまうことの表れのように思います。

 私の受ける感じでは、親に対して批判めいたことを話しますが(そう話せる相手がいることはいいでしょう)、いざ何かを決める段になると、たいていは親の提示に従っていることが多いように思います。

 親の話しで多く語られることは、「親もすすめたけれども、子どももそれに同意した、だから決して押しつけではない」という釈明です。それをあえて否定できる材料はありません。それは反発心を完全に奪ったからかもしれませんし、親の意見にしぶしぶ従っているという逆の証明かもしれません。親には、このような面には気づきたくないという感情が働きがちなのです。

 子どもはいずれの場合であっても、後になって「親が勝手に決めたこと」と言うことが多いのは事実です。大事なことは、本人(子ども)が自分の意思で、自分の自然な感情でと感覚のなかで決められるようになることです。親がそれに賛成するか、反対するかにかかわりなくです。そういう反発心が自立に結びつく力です。反発心を肯定的に見られるようになることは、自分の感情のなかに生じる否定感情を肯定していくことの一部です。反発心だけをピックアップして認める形ではうまくいきません。



(10)親の「あきらめ(?)」と子どもの自由への復帰



 このような自然な自分の感情を考えるとき、私がときどき出会う例が“親の「あきらめ(?)」と子どもの自由な感覚への復帰”です。親の「あきらめ」には(?)をつけました。本当にあきらめるということはないでしょうが、一時的なギブアップはあるでしょう。

 親が子どもの引きこもりを何とかしようと力を張っているとき、子どもは親のその日常の雰囲気にのみ込まれたり、緊張したり、萎縮していることがあります。親の熱意に応えようとする、自責感がわいてきて、何かそれに応えて脱出を図ろうとするのもよくあることです。

 ところが、こういうやり方では必ずしもうまくいきません。それもまた形を変えた親の意向に沿う動きであって、子どもの自立的な動きではないからです(ただ子どもが十代である場合は、“勢い”のなかで飛び出していくこともありますから、どんな場合でも絶対にダメとも言えません)。

 親のこのような熱心な関わりは、たぶん子どもが小さいときから続いていることなのだと思います。親による過干渉的な愛情表現の別種に思えます。親の思いに応えようとして、子どもは自分の内面にある生命力、感覚や感性を背後に押しやって、親の意向に従うのです。その継続の結果が「自信がない」ことになり、引きこもりに状態に入って自分探しをすることになります。

 それが長くなり子どもが25歳になった(30歳になった)そのあたりで親も途方にくれ、ギブアップ状態になります。子どもへの関わりに手抜きがでてきます。

 こういうとき、子どもから「気が楽になって、自然に動けるようになった」という体験が生まれてきます。このことによって自分の自然な感覚で動けるようになり、引きこもりから抜け出るきっかけになったという例はいくつもあります。

 また、親の協力をもともとあまり得られていない子どもが、自分で何とかしようと努力を続けてきたけれども、「努力疲れ」になって脱力状態になったことがある、そのときに何か自然な感じで動けるようになった、もちろん寝込むこともあったが楽に動けることもあり、それで引きこもりから抜け出せたという例もあります。

 このように語ると、熱心に関わるのがダメみたいな話しで恐縮ですが、これらは実例です。もちろん、逆のケースもあります。子どもの言い方を紹介すれば、<これまでさんざん自分をいじり回しておいて、急に掌を返したように「おまえのやり方でやれ」と言われても、自分にそんな力はない。そういう力を削いできたのは親の責任ではないか。これまでどおり全部めんどうをみろ>というものです。

 しかし、子どもの言うとおりに進むといずれ破綻はさけられません。子どもが自立できるように、自分の判断で前に進めるように、失敗を恐れて何も手がつけられない状態から、失敗しながらも何かを身につけていけるように支援する方法が必要です。

 たとえば、親として納得できないけれども、ともかく子どもが何を言おうとしているのか理解しようとすることでしょう。その前に、会話がない場合は、親からあいさつの声をかけるとか、外食に誘うなど、引きこもりに関係しない衣食住などの事柄で関わろうとする姿勢をとることです。これまでの姿勢が、ふと気がつけば子どもを置いて親が空回りしていた…。それを訂正した方法になると思います。

 親のギブアップ状態が、どちらに出るかは、取り巻く条件や環境、親子関係などいろいろなことに左右されてきます。

 このほか「不幸」が原動力になる例は多くあります。父や家族の死、家族のだれかの病気、家業の倒産、隣家の火事、自宅前の交通事故……などです。これらは引きこもっている人の危機感を高め、あるいは自分の役割を強く自覚させられたり、行動を促すからだと思います。

 日本が貧しかった時代は、その貧しさが日常的に危機感をつくり出していたのでしょう。貧しさとはそういう教育力をもっていたように思います。それにかわるゆたかな時代の教育力と教育方法が求められています。



(11)親しい友人づくりと同世代復帰



 引きこもりから抜け出すときは、家族以外の人との関わりも重要です。カウンセラーや医師などの専門家との関わり方は、すでに書いたことにとどめましょう。

 どんな人とも、自然な感じで関われるというのが望ましいかもしれませんが、それを引きこもりの人の対人関係の到達目標にするにはハードルが高すぎます。到達目標としては、一人でも二人でもいいので、親しい友人関係ができるというのがいいでしょう。

 そこに至るまでには、年齢が少し上の人との出会いから始めるのが楽です。年齢が違うことで、自己否定感を棚上げしてその人と関われるからです。家からの外出が困難であるとか、外出はしていても人と関わる場面にはとても入っていけないようなときには、メンタルフレンド的な訪問サポートを利用するのも一つの方法です。しかし、それさえ手を打っておけばよい、というものではありません。

 メンタルフレンド的な人と会えるようになることさえも、一つの社会的な動き・参加であり、それが始まるまでにさまざまな試みが必要であった例は多くあります。私の感覚では、「初回から会わなくてもよい」と考えていたほうが、事態がスムーズに展開していく気がします。

 とくに本人が自分の得意なこととは意識するしないにかかわらず、日常的にしていること、テレビゲームやよくみているテレビ番組、よくきいている音楽、手作業でつくっているもの…などから本人の興味や関心をつかみとっていくのは、メンタルフレンド的な人との接点になると思います。

 それら一つひとつが小さな階段であり、一つひとつの階段を登っていく過程がトントン拍子というわけではないからです。そのことを予想する心構えができるまでに、親も当人も数か月から年単位を要することさえあります。

 人と関わる面で本格的に大事な要素は、同年齢・同世代の人との関わり合いがもてることによって得られます。これには、いくつかの手順を踏んだうえで到達するのがいいでしょう。早急に同年齢・同世代の人と関わり始めるのは、苦痛であることも珍しくありません。ハイキングを始めようとする人に、いきなりヒマラヤ登山をすすめるようなものです。順序性を丁寧に追い、自分の感情や感覚を長い視野で尊重していくことが求められます。

 同世代の人との人間関係をつくることは、教える・教えられるという意識を働かせない自然状態で自分探し、自分の発見、人間の発見、社会の発見につながります。

 いかに同世代の人との関わりをもてるようにするのか。これに単一の答えがあるとは思えません。あらゆることがその機会になり得るとも言えるし、どんなに多くの人と出会っても、だれ一人として知人から友人になることがないのかもしれません。目の前にあるできそうなことをするのが最善だと思います。

 引きこもりの人にとって、普通に用意されているのは、近い経験をもつ人たちの集まるフリースペースです。社会のあらゆる人と出会う機会いのなかで、いわば専売特許のように用意されているのがフリースペースでしょう。十代の引きこもり系の人にとっては、フリースクールなどにも同じ要素が含まれています。

 フリースペース的な場での対人関係づくりにおいては、細かく言えば苦労することも多いのですが、平均的には世間一般の人間関係よりはかなり楽だと思います。対人関係づくりには、非常に多くの面と多くの過程があり、個人差や人との相性があり、要約して書くので抽象的にならざるを得ません。

 ある人は、フリースペースにおける対人関係づくりを「まるで修行をしてるみたい」と言いました。人との関係だけでなく、自分の心にわき起こってくるさまざまな感情の調節にもエネルギーを消費するでしょう。そういう心の作業をして、いろいろなことが「心の訓練」になり、社会に入るときのミニサイズの予行演習になるのです。

 その到達の程度、そこにおける友人関係づくりの広さと深さがどの程度できるのか、自分なりの役割や特徴をどの程度開示でき、自分のなかの自己否定感とどう折り合いをつけられるようになるのか…。そういうことによって、その後の社会との関わり方、社会の一員としての生き方の基本が形づくられるのです。

 人間関係がよくなるといっても、子ども時代から青年時代にかけて、まるで何も問題がなかったかのように、自然に振る舞えるようになると考えるのは、むしろ不自然です。対人関係の場でいろいろな葛藤、動揺、後悔、行きすぎ、不器用…を表わしながらも、誠実性、悪気のなさなどは、だれからもやがて認められるようになるでしょう。

 一方、ストレスの強い社会においては、攻撃やいじめの対象にされることもあります。ですから比較的安全な小事業所や単独行動が可能な場を見つけていく人が多いように思います。そうして社会の一員として生きる方法を見つけるのが、その人らしい人生選択のように思います。

 おそらく歴史に名を残した多くの天才と言われる人たちも、一社会人としては、このような、生きづらい人生を背負っていたのではないでしょうか。自分の人生がそうなることも決して悪いことではありません。世の中の不正や不条理…に気づき、それによって自ら傷つきながらも、自分の節は曲げないという意味において、かけがえのない人生を送ることができると思います。



(12)精神的な健康回復が先行



 そうはいっても、私は引きこもりの人にとって、精神的な健康を達成することが最初の目的だと考えています。その「健康」の意味は、医療現場における「病気」と対置する健康とは少し違っていて、対人関係における困難が、最小限の社会生活を送るうえで支障にならない程度になることを指しています。

 それはある程度、親しく話し合える友人がいて、仕事的なことがその人なりのペースでできることと言ってもいいでしょう。友人と仕事というレベルの違う二つのことができる状態です。一般的にはまず友人はできます。これが平行(段違い平行?)の形で進んでいく先に、健康の達成があるように思います。

 長期の引きこもりから対人関係ができるところ、そこから仕事につける(社会参加できる)ようになるまでの二つの過程を見ると、一般的には後者はより大きな苦労を要します。「自分なりにできるところから進むのがよい」と述べておきます。

 この過程は、本人と家族の努力だけでは達成しづらい面もあります。公共的な支援、民間の支援それらの組み合わせが広く築かれていくなかで、より効果的な支援が生まれるでしょう。

 日本社会が変革期にあるというとき、その変革の後で生まれるべきものは、このような引きこもりの人、高齢者、障害者、子どもを含むさまざまな弱い立場にある人が、安心して生活できる状態でなければならないことは疑いのないことだと思います。引きこもりに関わって(自らが引きこもりであることも含めて)、何かを求めて動くことは、次の新しい社会をつくる、ささやかではあるが欠かせない一部になります。

 以上で、引きこもりの原因と脱出方法の基本を概略的に説明しました。引きこもりから抜け出すには、数年から、十数年に及ぶ時間が必要です。それだけにさまざまな問題に直面し、関わっている医師やカウンセラー(相談員)の対応に迷うことも避けられません。ここでは専門家の関わりをごく簡単に説明しました。協力者である専門家をかえることはできても、家族をかえることはできません。何よりも本人の生命力を引き出すことが最も重要です。それでも長い歳月のなかで、よりよいカウンセラー(相談員)や医師や支援者と出会うことは重要です。

(『不登校・引きこもり・ニート支援団体』の「序に代えて」として2004年10月発表。2008年5月に加筆・修正しました)

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