(9)就職氷河期世代とひきこもりの関係

就職氷河期世代の就職、転職、再就職への働きかけをハローワークや若者サポートステーションに行ったときポスターで見かけました。
ひきこもりと近い関係にあると思っていたのですが、先日の学習会(人権と民主主義の教育をめざすネットワーク)で、就職氷河期とひきこもりの関わりがあると説明する発表がありました。
木本喜美子「働くこと、そして生きること——就職氷河期世代の経験から考える」です。木本さんは一橋大学名誉教授で社会学を研究しています。直接のひきこもり研究ではありませんが、深く考える材料を提供してくれました。
2008年の木本さんの聞きとり調査で、大卒、無職・非正規の2人の言葉がありました。
《【男性29歳・無職で求職中】
「公務員試験は面接まで行くが落とされる。定職に就くってことは厳しいんでしょうか。自分が甘いからじゃないですか。まだまだ甘いんですよ、きっと。若いなんて思ってないですよ。ギリギリだと思って焦ってます。必死さに欠けてるんですよ」
【女性32歳・公務臨職、大卒】
「悩みましたね。正職員になれたのにまた臨時(市役所の臨時職員)にもどってしまうのが嫌だったんですが、(仕事が)きつくて。我慢すればできたのかもしれないですけれど甘かったんです。(親からも言われました)」》

木本さんは、これを「自罰的な語り」と言いますし、この「自罰的な語り」をよく聞いたといいます。実は私も同じ種類の言葉を、とくに2000年代の初めには多くきいた記憶があります。
2021年に出版した『ひきこもり国語辞典』でみると、表現はもう少し抑制的・内省的であり、ときに自虐的です。辞典内のあちこちに見られます。この微妙な違いがひきこもりとそうでない人の違いでしょう。気質(先天性)・性格(後天性)が関係すると思います。例えば次の言葉です。
「存在ハラスメント 私がここにいるだけで迷惑をかけているのではないか、そんな気持ちになります。私がここにいてもかまわないのか、周りの人を不快にしていないかと思う感覚があります」
「凡骨(ぽんこつ) 使い古して動きの悪い自動車をぽんこつといいますね。自分はそれと同じです。漢字で書くと凡骨で、「平凡な才能・素質」と辞書にあります。それほど極端に低く落とした表現ではなさそうです」

この2000年初期のことを私は前に、ひきこもり第2波として、1990年代に強まった非正規雇用の増大、就職難、ブラック企業の増大などの影響として書いてきました。就職氷河期世代を、木本さんはこう記しています。

「・1990年代初頭から2000年代半ばに学卒
   大卒:41歳~52歳
   高卒:37歳~48歳
 ・1991年以降:バブル経済崩壊後、長引く不況期=新卒採用手控え
      +加えて、労働市場の規制緩和=非正規化の進行
 ・新卒者が安定した職に就くことができず……非正規or無業……就職困難、生きがたさ、ひきこもり、病気……孤独、孤立
⇒⇒長期間にわたって、過去の経済・社会状態が累積的に影響を与えることになった世代」

ほぼ私のひきこもりの原因に関する問題意識と同じです。違うのは(?)、ひきこもりの初期の発生が高度経済成長期に由来する、という点ではないかと思います(発表の関係で木本さんは省いたのでしょう)。
木本さんはこの調査を(都市圏における調査は既にあるので)「地方圏における若者と仕事・結婚調査から」としています。別の質問者から、これは1995年の経団連の提言による非正規雇用推進との関係があると述べました。木本さんはその点に同意し、別の場で発表予定がある旨を答えました。

(8)ひきこもり支援策は社会全体をゆたかにする要素

昨年の調査でひきこもりは全国で146万人を超えると発表されました。ひきこもりは社会的病理に分類されていますが、それならこの30年近くの日本経済の停滞もまた社会的病理と言えます。
この日本経済の停滞から抜け出すこととひきこもりからの「回復」は重なります。ひきこもりに対し真剣に考えられ、研究もされてきた精神心理学、身体科学、社会福祉、職業習練等の基本は、個人の状態に目を向けられていました。個人の状態を改善するために、医学・心理的な理解や、社会制度等の体制を整えることに目を向けられました。
それは旅客船の乗客各人の好みや悩みを把握して対応することでしたが旅客船が平穏な海域に向かっているのか、波荒い海域に向かっているかは気にしていないもの——そうたとえることができるものです。
ひきこもりに基本的に対応する、経済社会の面から考えるというのは、日本経済のおかれた状態がどちらに向かうのか——旅客船はどこに向かうのか——を考えることになるのです。乗客個人——ひきこもり当事者に対応する努力がこれを考える基本になるのですがその合計では経済全体を把握できません。
私は、10月の臨時国会における総理の施政演説は評価できませんが、これまでの30年を「コストカット」であった点と認め、そこから方向転換をめざすところは同意できます。ひきこもり問題、とくに146万人とされる人たちへの対応はこの「コストカット型社会」から抜け出すことと一致すると思うからです。

これが基本的な考え方の1つですが、もう1つの基本は、146万人(人口の1%余)という人たち自身が、この新しい方向の内実を埋めていく一端の役割をするという点です。彼ら彼女らは、一面では支援対象(財政支出)対象とされますが、主要な面は彼ら彼女らが日本経済を回復する役割の一端になるのです。それは「ひきこもり支援者交流会」がひきこもり当事者自身の参加によって「ひきこもり協同実践者交流会」と名称を変えたことと同じです。そう認められる社会が「ひきこもりであることが不当に見下されたりすることのない社会」であろうと思います。
国民全体がゆたかさをめざすとき、その国民に子ども、高齢者、障害者、社会的弱者、ひきこもりは入らないのでしょうか。経済的な発展を目指し商品開発を進め、新しいサービス産業ができてもその購入者や利用者がいないことには経済社会は成長しません。技術開発が生産性を向上させ、ゆたかな社会に導くカギを握っているとしても多くの国民がそれを利用できなければ、目標に近づくことはできません。この30年の日本社会の停滞とは、比較的少数の購入者・利用者による状態が続いてきた結果ではないですか。
すでにゆたかな少数の人よりも多数の人をゆたかにする方策の中で国民全体も豊かになり、新しいサービスも利用できやすくなります。それは国民経済全体を豊かにしていきます。こういう構図の中でひきこもり対応を考えるのが、経済社会面からのひきこもり支援策です。

同調型の「普通」でなく本音の意思表示が大事

アフガニスタンのタリバン政権下では道徳警察が設けられています。何をするのかの全体はわかりませんが、イスラムの戒律に反する服装をしているのか監視があるようです。女性が頭部を覆うベール(?)を着けていないために逮捕され、ひどい目に遭うニュースがよく伝わっています。
宗教としてのイスラムはきわめて平和的・人間的というのですが、ある一点だけを制度として実行するととんでもないことになる、そういう意味でタリバン政権は否定的にみられるのでしょう。
ところがこれは遠くの国の話ではなさそうです。日本には道徳警察はいませんが、世間という監視のなかで、「普通」という基準によって拘束をされる人が多くいます。とくに几帳面さが目立つ若者に多いのではないでしょうか?
先日の親の会(セシオネット親の会)5人が最近の若い世代の人たちを語るなかで感じたことです。拘束といってもつかまえられるわけではなく、精神的なものです。外出するときの服装、外出先での立ち振る舞い——どこかで誰かに一度でも何か言われたことがあるかどうかさえ疑わしいですが、とにかく「外れている」ことのないようにする、これが精神的な拘束です。
心理カウンセラーに相談すると「そのままの自分でいる」と勧められますが、わかっていてもそうはできない。「最低限の」という基準を持ち出して、いろいろなところを「普通」にしていきます。いったいどこが最低限なのかわからないほど、頭の先から足元までの外装をチェックする——これはある人を見ての私見です。そうすることで「外れていない状態」にするのです。

さて先月、仮名「いろは」さんから「4世代・約100年の子育て環境の変化」を書いてもらいました。他の人からも自分の親、親としての自分の子育ての様子を書いてもらいたいと期待していたのですが、届いていません。ただどうしたわけか外国人のばあいが2人から寄せられました。
1人は中東の産油国に行き、その国の男性と結婚し、今は日本にいるお母さんで、子どもさんは十代後半です。この国で感じたことは人々が(子どもも含めて)自分の思っていることをはっきりと言うことです。相手に意見につられて(?)似たように言うことはないといいます。雰囲気により自分の意見を決めないのです。去年この国で大規模なデモが発生したのですが、ちょっとわかる気がしました。
もう1人は、義理の母(夫の母ですが夫とは血のつながりはない)にあたる人で東南アジアの人です。「瞬間的に思ったことを率直に表現して、空気を読みすぎることがない。…南国の楽天的、我を張らず、家族を愛しいもの、守るものという感じ」と表わしてくれました。
私はこの2人の話と比較して日本人の特徴が表われていると思いました。中東の人と東南アジアの人が望ましい基準ではありません。それぞれ特長はあるけれども、日本人のばあいの望ましいとは思えない特徴が出ています。「世間基準」を自分なりに創作して、それから外れないように自己拘束しているのではないか。「自分らしく」あるいは「そのままの自分」といってもこの枠内から外れない程度というものでしょう。
自分がそれを内側から監視する道徳警察の役割を担い、ときにそれを周囲の人に向けているのです。それが暗黙の相互監視をつくっています。それが全部の理由とは言えないでしょうが日本人の秩序社会はそれを構造に含んでいるのではないでしょうか。このような精神文化が日本人の秩序社会を支えているとすれば崩してしまいたいものです。
私はそんな秩序社会は嫌ですね。気づかない小さな時分から自分が思ったこととは反対の意思表示はしてこなかった気はします。ただ若いころから服装に無頓着であった点をここで開き直ろうとするわけではありません。
何かに振り回されている多くのひきこもりの中で生活するようになって「そーじゃないんだ」と思いました。私が周囲の人に表現するように重視してきた1つの理由がこれです。普段の表現は言葉と振る舞いが中心ですが、もっといろいろな場面もあります。創作展を開き、『ひきこもり国語辞典』ができたのはそういう背景理由があります。
自分が心に感じたことを表現するという意味では上の中東の人や東南アジアのお母さんの例が私には望ましいと思います。
ついでに「4世代・約100年の子育て環境の変化」を参考に、日本人家族におけるみなさんの記憶・記録をお待ちしています。

(7)ひきこもり支援策に3つの提案

東京都江戸川区のひきこもり実態調査に関して
2019年に東京都江戸川区が、行政機関として大規模な実態調査をしました。その調査報告書をみて、翌年4月に私は江戸川区長宛に要請をしました(私は江戸川区の住民です)。提案した具体策を参考には支援策3つの部分を紹介します。
1つはひきこもり当事者への支援です。もう1つはひきこもりを応援する側への支援です。
(1)江戸川区への要請のなかでの当事者支援を特徴的に言えば動きの少ないひきこもり当事者が動きやすくすることです。ひきこもり当事者が援助団体の開催する会合、相談機会等に参加するときは交通費を支給する。参加しやすい条件づくりにより援助団体等の利用を推進します。
居場所等への当事者の参加はほとんど全部が無料です。民間ボランティアの取り組みであって、これは行政の無為・無策であるとともに、民間の対応依存型のものです。ここも見ておかなくてはなりません。
他にも当事者への直接の支援には近親者が死亡したときの葬儀費用なども提案しました。
(2) 支援団体——当事者が医療・保健および心理カウンセリング等を利用するときは、相当額以上を援助する。
このうち心理カウンセリングについて実情を報告しなくてはなりません。多くの心理相談室がコロナ禍を通して閉鎖されています。それ以前からも事業としてはかなり難しい部分があったのですが、コロナ化で現実化しました。
心理カウンセリング業務を公的な資格制度にする取り組みにより2014年に公認心理師ができました。問題は、開業型心理相談室の経営困難があります。公認心理師の制度はできましたが、あとは放置されています。それぞれの自助努力に任されました。民間資格の臨床心理士ができた時は、スクールカウンセラーの導入が積極的に行われましたが、公認心理師ができても何もありません。
支援団体のうち開業型心理相談室を上げましたが、利用者を増やすだけではなく、産業政策としての支援策も必要です。心理相談に限らず、相談業務は広範になっており、サービス産業として評価していくものだと考えます。不登校情報センターとして開業型心理相談室の状況とそこからの要望を調査中です。
相談員有資格者の処遇も思わしくはありません。ある自治体が適応指導教室の職員募集をしているのを見ると、年限1年(実際は11か月)、給与12万5000円ほどでした。非正規・時限1年・低給与です。これは例外ではなく多くの自治体が採用する方式の1つです。
(3)もう1つの要請は自治体のひきこもり担当部署を統括的にすることです。自治体のいろいろなセクションでひきこもりも、就労困難も、貧困もその他のことも受け付けるのをやめるのではありません。各セクションで集まった事情を1カ所に集めて総合的に検討し対応策をつくる必要性があります。ひきこもりの関しては特にそうなると考えます。それがひきこもり対応部門の設立です。

江戸川区のひきこもり対応策には、全戸調査に近い実態調査(2019年)以降、みんなの就労センターの設立(2022年)、毎月の当事者の相談会・意見交換会、居場所・駄菓子屋の設立など特別な動きがあると評価できます。私の提案が参考になったのではなくて、独自の考え方と計画によるものであり、私には詳しい事情は分かりません。注目すべき内容になることを期待しています。

ひきこもり当事者が生活でき、動ける条件を支援すること、支援者側が事業者として成り立つように政策立案すること、これが日本経済をコストカット型から再生する道です。それがひきこもり個人対応型の支援を下支えする厚さのある社会的なひきこもり対応策になります。
支援というと国や自治体の財政支出、すなわちマイナス要因と考える向きがありますが、それはコストカット型の経済政策の考え方です。当事者も支援者も、国民として生活し消費する人であり、そして物品・サービスの生産者になります。ここを豊かにしなくては、経済は停滞します。経済が停滞する中ではひきこもり再発要因の大きな部分は継続しますし、経済が発展しゆたかになるなかで、ひきこもり問題は解決されやすい環境条件になります。
新しく商品開発が進み、各種の相談サービスも生まれましたが、狭い市場のなかでパイを分取るミニ競争にまき込まれています。日本経済30年の停滞とはそのようなもので、各種の相談サービスもその1つでした。
ひきこもり146万人をマイナス要因ではなく経済的面からの経済回復要因とみなされる方向に転換していく、それこそコストカット経済からの脱出であり、マクロ的視点でのひきこもり対応策になります。KHJ家族会のひきこもり基本法設立の動きはこれにマッチしていくものと考えます。

(6)KHJ提唱のひきこもり基本法

KHJ全国ひきこもり家族会連合会の提唱する「ひきこもり基本法」はこれから法制化を求める1つの動きです。KHJとしての原案(?)を考えているようですが、発表できるまでには至っていません。
池上正樹さん(副理事長)が東京新聞10月1日付「ひきこもり基本法の制定急げ」に、高和正純さん(理事.NPO法人はぁとぴあ21理事長)が(KHJジャーナル「たびだち」106号)に「教育機会確保法とひきこもりに関する法整備」として論点を挙げています。
経済社会面からの問題意識では、ひきこもりは「8050問題」など切迫感が強まる状態の人が増え、「問題の背景にあるのは、社会全体が余裕をなくし、職場でもパワハラ、セクハラなど人権を侵害する行為」が続いている(池上)——社会でのひきこもり発生の要因はつづいており、ひきこもりから社会参加の環境条件は緩和されていないことです。
また子ども・若者支援、生活困窮者支援、孤独・孤立対策という周辺の法体制はあっても「ひきこもり状態にある人やその家族を直接に対象とするものではない」(高和)——法制度により、不登校が「問題行動」扱いされないように、「ひきこもり=悪」という偏見から解放される役割も期待できます(高和)。

不登校情報センターのサイトに「生活困窮者自立支援法窓口」のページ群があります。生活困窮者自立支援法により2016年から全自治体に設置されています。この法律は初めてひきこもりの言葉が入った法律と聞いています。サイト制作のために対応を調べている途中ですが、結論として自治体も国もひきこもりへの対応は低調です。
例えば愛知県ある市の広報紙2023年4月号は簡潔にこの窓口を紹介しています。
「生活の困りごとを一緒に解決しませんか
経済的な問題で生活に困っている、働くことに不安、家計のやりくりが難しいなど、生活に困窮し不安を抱えている人を対象に、専門の支援員が相談にのります。どのような支援が必要か一緒に考え、支援計画を作成し、寄り添いながら自立に向けた支援を行います。個別の相談室となっていますので、お気軽にご相談ください。ご家族からの相談もお受けします。
日時:月~金曜日(祝日(振替休日を含む)、年末年始は除く)、午前8時30分~正午、午後1時~5時15分
場所:市役所2階生活自立支援相談室
支援内容:自立相談支援(就労支援、住居確保給付金)、家計改善支援、緊急食料支援など
問合せ:生活自立支援相談室(福祉課社会福祉グループ内)【電話】~」
広報紙のこの説明の仕方は平均レベルであり、簡潔に要点を紹介しています。多くの自治体のホームページも同じですが、そこがひきこもりにも対応しているとは分かりづらいでしょう。これらの広報やホームページの説明により一般市民が生活自立支援相談室をひきこもり相談の窓口と受け取るのは難しいです。
コロナ禍において特別給付金を支給する役割をしたことは認められますが、ひきこもりに対しては一部の自治体に限られます。池上さんは「国のひきこもり支援推進事業に着手しているのは全国1741自治体のうち、約1割に過ぎない」と指摘しています。
こういう状態を見れば、また問題の広がりや深さから考えて早急に「ひきこもり基本法」を制定するというKHJの動きは当然であり、私はこれに賛同します。広範な人の賛同により、法制度が早期に実現するのを期待します。

小鳥の死骸

学校が休みになる日の校庭開放の見守り役(?)をしています。校庭では小学生の子どもが野球の練習をしていました。詰所にいて声をかけられ、顔を上げると野球チーム応援のお母さんが二人いました。校舎の横に小鳥の死骸があるといいます。
手袋をし、ビニール袋を持って現場に行くと、スズメよりは大きく、カラスよりは小さいやや赤味がかった羽をした小鳥の死骸でした。学校は休日で置き場に困り、自宅に持ち帰りました。
どうするか考え、翌日清掃事務所に電話しました。「死骸を取りに来る」とのことでしたが、「一般ゴミと一緒に出してもらってもいい」とも言います。一般ゴミ扱いは許容範囲の対処方法のようです。わざわざ来てもらうのも…と思い「一般ゴミ」にしようと思いました。
小動物を一般のゴミと同じに扱うのに少し抵抗感があります。死骸があると告げたお母さんも、他のゴミと同じに扱うのに抵抗感があったから、私に告げに来たのでしょう。
そういえば、うちの子が小学校に入る前に飼っていたハムスターが亡くなったことがありました。大きな霊園が近くにあったので子どもと一緒に霊園にハムスターの死骸をもっていきました。その片隅に小さな穴を掘って埋めたことがあります。あのときは「一般ゴミ」扱いはしなかったのです。
ペットを飼っている人には、それが亡くなった後、「一般ゴミ」扱いしない、できない人は多いと思います。火葬し家族の墓地に一緒に埋葬する人も多いようです。これは宗教性なのでしょうか? そこまで深い理由はないかもしれませんが、小鳥の死骸も見て、それをどう扱うかという場面に立ち合ったとき、「一般ゴミ」には扱い難いという感情はごく自然に表われます。動物の命に対する自然信仰心のような気がします。私はアニミストであると自覚しました。
「一般ゴミ」回収の前日に、清掃事務所に小鳥の死骸を届けました。受け取ったのは偶然に電話で答えてくれた人で、事情を教えてくれました。ペットなどは霊園があり、有料で受けとるそうです。他は「一般ゴミ」扱いになるとのこと。この人もそれがベストとは思えない心情があると思いました。日本にはアニミスト、それに近い心情の人が多いみたいです。アニメが日本発なのはアニメ的な心情と関係があるのではないでしょうか。

(5)経済復興策としてのひきこもり支援の方向

不登校・ひきこもりを生み出した経済社会的な条件は、1960年代を中心とする高度経済成長期にあると描いてきました。1974年以降の安定経済成長やバブル経済の崩壊以降の経済社会状況は、ひきこもりをより広げ深化した時期と考えました。
この過程で、不登校とはひきこもりの先行的・少年期の状態であることも明確になりました。言いかえれば安定経済成長期以降は2020年代の現在も含めて、ひきこもりは少年期を超えて全世代的に広がる時期になっている言えるわけです。それは2016-18年ごろのひきこもり115万人から2022年の146万人に増大したことで確認できます。

不登校・ひきこもりに対しては、自助グループ的な当事者の会、居場所、家族会のとりくみが続いています。フリースクールやサポートステーションなどの支援団体の取りくみも続いています。全国の自治体がそれぞれに取り組んでいます。そこでは精神心理学、身体科学、社会福祉、障害者支援の知識や対応策が生かされてきました。
このなかで注目すべきことは、ひきこもり経験者自体がこの対応支援の取り組みに参加し始めていることでしょう。その全国的な団体である「ひきこもり支援者交流会」が「ひきこもり協同実践者交流会」に名称を変えたことが象徴的です。ひきこもり経験者は、支援を受ける対象であるばかりではなく、支援する側、支援方法を発展させる側にも加わっています。私が関わる居場所の通所者からも介護施設、相談機関、訪問活動の支援者側に加わった人がいます。
これは近年のマイノリティ側に関わる事態改善の取り組みの特色(当事者視点と当事者参加)であり、ひきこもりもその一翼になっています。
もう1つ重視したいのは、146万人の人たちです。この人たちが何らかの生産活動(財貨生産とサービス提供)に参加するだけで、局面が違ってくることです。これは経済面では財政支出から転換する視点です。生産活動の一部としてGDPのプラス要因になります。
こういう事態を私は、経済社会の動きの関係でひきこもりを見てきました。そこから言える1つは、1991年のバブル崩壊以降の「失われた30年」という日本経済の失速、低滞を打破し成長に向かうことが、ひきこもり支援になる点です。
高度経済成長の達成により、日本はゆたかな経済社会になりました。その時点で、その背後にあった問題が子どもたちの体のおかしさ、心のおかしさ(不登校)、いのちのおかしさ(自殺や殺人行為)として表われました。現在は、それが大人世代に広がり、ウツ・不眠・摂食障害などの病理になり、その反対側に凶悪、残酷な犯罪が相当に見られます。この構図はゆたかな社会が大きなゆがみを内にかかえたまま続いているのを示しています。

この事態をどう解決するのかを経済社会の面から考えていきます。大筋で言えば、さらに豊かになり、あわせて内に抱える歪みを正していくことです。それを最近、発表された2つの文書と1つの動きから考えます。
1つの動きはKHJ全国ひきこもり家族会が提唱する「ひきこもり基本法」です。2つ目は政党として経済政策を発表した日本共産党の「日本共産党の経済再生プラン」(2023年9月28日)です。3つ目は先の臨時国会における「岸田首相の所信表明演説」(2023年10月23日)です。
私には政治について詳しく語る見識はありません。ひきこもりに関心を集中する一人として言えることは、政治は中長期を見通したなかで足元を固めながら進んでいく世界だろうということです。
岸田首相の演説では、30年間のコストカット政策を転換する時期がきた、この情勢をうまくとらえて経済回復をすすめたいというものでしょう。これを中期的見通しとする点で、私は反対ではありません。ところが足元がぐらついていますし、矛盾しています。防衛費を43兆円まで増やすと突出させる具体的な金額を提示する一方で、物価高への短期的な対策では、減税か給付を問われ疑問を持たれました。さらに消費税を減税する効果的で分かりやすいところは手をつけないと決めました。国民にはわかりづらいです。
細かく見れば方向性で納得できるものもありますが、技術改新の中心が「デジタル革命」でマイナンバーカードの強行に見るように丁寧着実さが欠けています。日本的な進め方とは言えず、支持率激減という国民の反応を得ています。
共産党の経済政策は、ひきこもりへの対応を特に意識したものではありません。30年間の経済不振を脱する方向で、賃金上昇(非正規雇用の改善、ジェンダー不平等の改善による国民所得の増大)が明白です。経済の停滞期にもち込まれた経済制度内のゆがみの改善には、食料自給率の向上(農業重視)、産業の軍事化の進行阻止が明確です。こうした中長期的な方向のうえで足元の物価高、生活防衛、生活困窮者など社会的弱者に目を向けたものになっています。大幅な財政出動を提案しながら、うちに抱えた歪みの是正も含まれます。
印象的なのは「社会保障は経済」ということばです。社会保障が削られれば消費は落ち込むし、経済回復とは逆行します。この30年はそうだったのであり、岸田総理のコストカットはそれをさして、転換の必要性を言ったものではないですか。
146万人への支援と、それによる彼ら彼女らの生産活動(財貨生産とサービス提供)と消費生活への参加は経済停滞からの回復と重なります。経済面からのひきこもり支援とはこのことです。「ひきこもり基本法」の動きは項を改めます。

性虐待を告げること

教育誌の編集者をしていたころの話です。

とても信頼できる高校の先生から雑誌に載せる原稿を受けとりました。その最後あたりでとても気になることが書いてありました。関わっていた生徒とのとても心温まる実践記録だったのですが、その生徒がある日から急に荒れ始めたのです。なぜなのか? それまでの話の流れのなかでは考えられないほどのものです。

それでこの先生に問い合わせをしました。先生は理由を聞いていたようですが、具体的には答えてくれませんでした。先生は「妹のことだ」と短く言っただけです。意味はわかりませんでしたが、気憶には残りました。

それから15年以上の時間がたちました。私はひきこもり経験者の集まる居場所を運営する活動をつづけていました。ある女性が家族の関係を話してくれたのですが、どうしても具体的に話をすすめないところがあります。自分から話す分には耳を傾けるつもりでいますが、私は言い淀むものはあまり深く入らないようにしています。ですが、話の流れがスムースにならないのを気にしてか、その人は一言「インセスト」と言って離れてしまいました。

実際は「インセスト」とはっきり聞こえたわけではなく、早口で何か言って逃げた感じです。「これ以上は言えない」的なことばだと、その場は終わりました。insestを辞書で調べましたが辞書にはない言葉でした。

あるとき、イギリス留学をしていた人がいるので「インセストって何?」と聞いてみたら、「近親相姦かな…」と答えたので、意外な言葉をきいてちょっとどぎまぎしました。incestと綴ることを後で知りました。これは2002~2003年のことです。

子どもの虐待について、私はこう書いたことがあります。ひきこもり経験者からはいじめを受けたということはよく聞きます。全員に確かめたわけではありませんが、たぶん3分の2以上は何らかのいじめを受けていました。暴力的なことは多くなく、仲間外し、自分だけには伝わらないようになった、一斉にさけられた…などです。言葉による攻撃では、嫌味とか否定してくるもの、容姿をやゆすることが多かったようです。

それは家族の内でもありました。家族内では暴力に近い身体拘束みたいなもの、押し倒されたとか、しばられたという人もいます。家族内でのことになると、これは虐待です。

しかし、こと家族内でのこのようなことは、多くの人はあまり話そうとはしません。何かの事件みたいな報道があると、「うちでもそれに近いことがあった」というのが、せいぜいです。

しかし、それが性的なものになるとほとんど話してきません。実際にそういうことが頻発しているとは思わないのですが、とにかく言いづらいのです。

それでも私が聞いたなかには皆無ではありません。それは私との関係性によるし、その場の雰囲気というのもあります。ここに紹介して2つの例も家族内の性虐待かどうかは確定しがたいものです。

そう考えると先の高校の先生とその生徒の間には、きわめて強い信頼関係があったと思えます。そういう事情があったと推測できるのです。

ジャニー喜多川事件の報道を見て、本人が性虐待を受けていたと言うのはとても大きな難関があると思います。これはincest傾向とは違う性虐待です。多くのばあい信頼できる人に、ある時間を経て、初めて話せるようになるのではないか…と。

(4)いわゆる「安定成長期」以降(1974年~)の要因

放送大学教授の宮本みち子さんが、こんなことを書いていました。ひきこもり問題と貧困や失業やホームレスなどの社会問題が「地続きの問題」になっている。これを読んだとき、私と同じだと思いました。その時期の私の受けとめ方は『ひきこもり国語辞典』のあとがきにあります。こう書きました。

「第二の波は、2000年代に入りしばらくしてからです。第一波の流れに気づかないうちに合流していた人たちです。発達障害やLGBTs(性的少数者)、障害者、就職難や貧困に見舞われた人たちでした。いわば社会にうまく入れず、ときには排除されてきた社会的な弱者に当たる人たちです。第二波を感じた当時の私は、ひきこもりの社会参加が目標でした。しかし周りの状況は、私の思いとは反対に社会のあちこちからひきこもり側に近づく人が続いています。自分の心身の状態を維持する方法として、ひきこもり状態に近づくのです。この動きを感じて確実な将来像は描けませんでしたが、この動きは悪いことではない、肯定的な面もあると思い始めました」(258-259p)。

私はひきこもりの側から事態を見ていました。ところが向かって進むべき社会の側から、いろいろなタイプの人たちがひきこもり側に近づいてきている状態だったのです。これが私の感覚では2000年に入った数年間の様子です。宮本さんが「地続きの問題」というのはこれと同じと思ったのです。
ひきこもり誕生の初期は、不登校の子ども世界から始まりました。それにつづく第二波は、より年齢の高い社会人の人たちのなかで生まれていました。これは私がひきこもり経験者の集まる居場所という、現場にいて感じたことなので、全体として正当な評価であるかどうかはわかりません。
この第二波をひき起こす社会的動きとは、高度経済成長期を終えた1974年以降の経済基盤にも太い根をもっています。『日本経済史1600-2000』のなかでは、その面での特別な言及はありません。安定成長期からバブル経済崩壊後の1974年以降をこの視点から見ていくことが可能ではないかと思います。
『世界経済史1600-2000』第6章(筆者は牛島利明)は2009年発行であり、高度経済成長から2000年までの「平成不況まで」を扱います。高度経済成長期(1955-73年)に次ぎ、「高度経済成長の終焉と構造調整」(1974-91年)、「バブル経済とその崩壊」(1991年~)が続きます。
社会的ひきこもりの発生は高度経済成長期に始まりますが、高度経済成長期以降の経済事情も社会的ひきこもりの発生に深くかかわります。
資本の海外進出と国内産業の衰退=就業条件の悪化(就職難)、ブラック企業の出現などはその最たるものです。他方ではインターネットの爆発的な普及が起き、情報社会に向かいます。その時期に進んでいるいくつかの特徴をあげておきます。
「産業構造のもう1つの重要な変化は、サービス産業の重要性が高まったことである。…1973-85年におけるサービス産業の年平均実質成長率は4.4%と製造業全体(4.2%)を上回る水準を記録した。また、就業者数も1960年代からしだいに増加する傾向にあったが、1970年に46.6%であったサービス産業の就業者構成比は80年には55.5%へと大きく増加している。
個人消費におけるサービス支出の費目別構成比をみると、70年代には住居、保健医療、被服および履物サービスがシェアを低下させ、逆に交通通信サービス、教育サービス、教養娯楽サービスがシェアを高めた(佐和1990:47,66-67)。
自家用車保有の増加にともなう自動車関連サービス、塾・家庭教師・予備校による補習教育の普及、スポーツクラブやカルチャーセンターの月謝支払いの増加など、国民生活の変化に対応したサービス支出の高まりが見られ、経済のソフト化・サービス化といる議論が盛んになるのもこの時期以降のことであった」(P291)。
サービス産業は個人の必要性や好みに従って多様に発展しました。サービス産業は物を生産するのではなく、販売を含めて人の心身の働きに関係する分野です。医療・保健衛生、芸術・芸能、スポーツ、放送・報道、通信・宣伝、教育・職業訓練など多くがあります。これらがゆたかな社会をつくり表わしているのです。

この高度経済成長期を体感した世代が不登校・ひきこもりを経験したのではありません(例外はあります)。この人たちの子ども・ジュニア世代に不登校・ひきこもりが生まれました。子ども・ジュニア世代こそ子ども時代からゆたかな時代を体験してきたのです。そうはいっても不登校・ひきこもりを経験するのは同世代のなかの少数です。
『ひきこもり国語辞典』のなかで私は、それは「必ずしも否定的なことばかりではない」主旨を書きました。
「ひきこもりは社会の異端として登場し、ゆっくりと広がりました。彼らは、やがて社会の新しい役割を示していくのではないか。これが長くひきこもり当事者の中で暮らしてきた私の感慨です。彼らは日常生活のいろいろな場面で、そういう気づきを表してくれました。私は横にいて、それらに驚き、教えられ、おもしろがりながら記憶に留めてきました」(261p)。
もちろん無条件に歓迎しているのではありません。新しい事態への対応は初めからうまく整合性がとれるわけではありません。人間の自然史的な過程とも言えますし、ひきこもりの登場は社会的動きの大きな流れの一部を構成しており、その流れのなかで社会問題全体の改革というか改善の内容になると確信できるのです。
テーマを「社会的ひきこもりの起源」とするかぎり、このテーマはそれに次ぐ現実の運動課題そのものです。
注目すべきは、この高度成長期以降の時代配分は、ひきこもりに関わって私が取り扱うテーマで細かく区分けされているのではありません。不登校発生の本格的な転換点をとっても、1980年代中頃以降のことです。すなわち高度経済成長期を終えて10年近く経っているのです。関係するほとんどすべての問題が時間差をもって表面に出るのは、当然なのです。
他にも欠かせないことがあります。核家族化が進んだというのでは不十分でしょう。農業型の家業の激減は、同一家族内で構成員の就業先が異なること、親族関係も含めて近隣在住から全国各地に分散していること、これらも同時に影響しています。ここもまた別に取り上げてみます。

校内フリースクールが進められている

昨年度の小学校・中学校・特別支援学校の不登校生徒数が29.9万人と発表されました。10年前の2倍で、この間には2016年の教育機会確保法の成立、2020-23年のコロナ禍という大きな要因があり、国民の意識に大きな変化が生まれてきたと想像されます。
不登校生の2倍化という事情をみて学校教育を担当する文科省が、学校教育の崩壊を予感するのでなければ、よほど感覚が乏しいといわなくてはなりません。
私の知る範囲で、文科省、教育委員会の対応では次の点を指摘できそうです。
(1)自治体教育委員会の動きは、全体として緩慢に思えます。学級定数を35人以下にすることと、特別支援学校を広げようと努めていますが、教員不足の現状もあり苦労しています。
(2)自治体は近辺のフリースクールに通う小中学生に学習支援費を支払うところが少しあります。まだフリースクールを設立しようとする教育団体に、無料塾などの設置を業務委託などの形で勧めたところがあります。この2つの方式が少数の自治体で生まれています。
(3)校内フリースクールを設けようとする自治体があります。
東京都教委は2023年4月から公立高校でこれを進めています。実施状況は内容も含めてまだよくわかりません。全国的には小中学校を含めて校内フリースクール設置の動きが進められています。これまでの適応指導教室が学校外に子どもを小中学校に在籍させたまま利用する方式とは違います。
校内フリースクールは学校内に設けるものです。その実際の運用は多様になるものと想像されます。肯定的なところも、否定的なところも生まれると推測できます。
私の知り得る範囲では、校内フリースクールは神奈川県と大阪府の公立高校で数年前に始まりました。これを文科省、教育委員会が目にして、不登校への対応策として導入を考えたものと推察します。生徒を同じ校内に置くことで、現行の学校制度を維持する試みになると考えたのでしょうか。肯定的な面は、これにより学校内の教育内容が変わるきっかけになるかもしれません。
しかし多くの教職員にとってこの変化は予想外と思われ、複雑な問題が発生すると予測できます。その解決方向によっては否定的な面が顕在化します。これはさけられないのですが、発生の規模(程度)や広がりによっては現行の学校制度が大きく崩れる可能性があります。
不登校生・中退生を長期にわたり受け入れてきた高校、不登校特例校、とくに寄宿寮制の高校は、この面で肯定的な見本になると思われます。先駆的な教育活動の内容を学ぶことにより、校内フリースクールを設ける学校がいくぶんは円滑に広がることを期待します。