居場所を社会的な治療として再定義する試み

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 居場所を社会的な治療として再定義する試み
Facebook にシェア
[`google_buzz` not found]
[`yahoo` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

 怒りの感情のマネージメントの話を聞いたのを機に、ある臨床心理士さんに質問をしています。その2回目に送ったメールの主要部分を紹介します。 居場所の役割を社会的な治療の場として再定義する試みになりそうです。参考になれば…。

私は系統的に心理学や精神医学を学んでおらず、現場の経験によるものです。確認したい気分です。 ひきこもりの当事者は、楽しいも抑制し、喜びも抑制しています。怒りだけではなく感情全体を抑制します。それらの感情のなかでなぜ怒りの感情のマネージメントがピックアップされるのかがいまいちつかめません。 楽しいときも、喜びも抑制的でなく、自然に表現できるようになればいいのではないでしょうか? 怒りへの対応、怒りのマネージメントを特に取り上げる意味はなんでしょうか。

外側から見える彼ら彼女らの初期の対人場面での感情表現の試みは“笑い”です。ぎこちない笑いになりますが、そこから感情表出に取り組んでいると思えます。カラ笑いが痛々しく見えることもあります。それも彼ら彼女らの努力です。

ですから感情表現として始めたぎこちない笑いは、喜びやおかしさの笑いとは少し違って、意識的な笑いにならざるを得ないみたいです。ここは笑うところだから笑う。そういう意味のことを話してくれた人がいます。

私が嬉しく思えるときとは、彼ら彼女らが私に向かってささやかな抵抗を示すときでしょうか。実害のない“ノー”から始まることが多いと思います。何かを頼んだときに「わからない」⇒「自信がない」「難しい」⇒「やだ!」と言い始めるころです。 その“ノー”の本気度が強まると、実質的な拒否表現になります。だから私がその“ノー”にあったとき、おっと思い、嬉しく感じてきたのでしょう。 アサーティブコミュニケーション(私はこの意味をよく理解していないはず)の前に拒否表現ができるのが大事とみてきたのですが、どう思いますか?

これらの拒否表現は、見方によっては私への“甘え”がベースにあります。そういうベースがあるので拒否ができ、そして怒りを表現できるのではないか? 私はそう意味で私とその当事者の関係がある時期に依存的になるのを肯定的にとらえてきました。 そういう関係になるから怒りは表現しやすくなると思えるのです。怒りは単独で表われたり・表せるものではなく、とくに人環境に恵まれた状態で表せると理解しています。 そして、怒りを表現しないまま怒りをマネージメントする状態に到達することはあり得ないと思います。怒りが強すぎたり、弱すぎて伝わらない表現であったり、ぎこちなかったりします。そういう経過の先に怒りをマネージメントする力が身につくと思えます。 こういう込み入った感情条件の中で怒りは表現できるようになり、そのうち怒りの表現も自然なタイミングと雰囲気になります。それがマネージメントできる状態に近づいているのではないか。

ここまでの私の理解のしかたに何かとんでもない勘違いはありませんか?  ひきこもり経験者の集まる居場所では、対人不安・対人恐怖、人間不信・自分不信の状態にありながら、それぞれの感覚と感情を交錯させながら関わります。衝突を避けようとしつつ、自分を表現できる局面を探しています。この場面にいることが成長の機会になるというのが私の理解です。 失敗、ためらい、やりすぎ、やりたらず…そういう経験の積み重ねが成長につながるのではないか…と。このような居場所になればそこは社会的な治療の場です。居場所の役割をこのように評価する、あるいは再定義してみたいと思います。 参考意見やご感想をいただければありがたいです。(6月9日)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください