1991年の春『こみゆんと』(不登校・登校拒否の情報ネットワーク誌)を創刊しました。そのころのことです。不登校の子を持つ母親から手紙をもらいました。「子どもの不登校のおかげで家庭内のおかしなことが明るみになり、それが解消されるとともに不登校はなくなりました。子どもが学校に行かなかったことは、本人だけではなく家族にとってもよかった」という主旨でした。
幼児は泣くことであらゆることを表現します。周囲の人はその泣き声により何かあると知り、対応します。泣き声は何ら問題行動ではありません。不登校も同じです。少なくとも幼児の泣き声みたいなものが含まれています。
振り返るとこのときに感じたことが、私が不登校やひきこもりに関心を寄せていった大きな動機になります。その後、不登校やひきこもり経験者の個別事情から、その改善、解消策を求めていきました。それにつづいてこの数年、その社会的背景から問題をとらえ直そうと試みました。その私なりの1つの到達点です。
日本においては、1960年代の高度経済成長期が、社会の基盤を変動させてきたと改めて確認しました。それは家族制度におよびます。家族制度は社会基盤を構成する重要部分です。
私は家族の歴史についてF.エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』(1892年、『起源』と略します)を参考にしました。それを巡って身近な社会経済的な事態を調べ、多くのエッセイも書きました。そして改めて『起源』に立ち戻ってみました。
『起源』では家族に関していくつかの重要なことを指摘しました。私には3つの点への記述がないと気づきました。それは19世紀には到達しておらず、言及できませんでした。20世紀後半から明白になり、現在の焦点になっています。
まず、エンゲルスが家族に関して明らかにした要点です。
(1)歴史は人間の生産活動と人間自身の生産という2分野の生産により継続しています。人間自身の生産が家族史をつくります。
(2)家族状態は変遷してきました。それは19世紀にバッハオーフェンやL.モルガンが明らかにしました。バッハオーフェンはこの変遷を宗教的教義の変化により説明しました。モルガンは、人間の生活状態の変化により説明し、文化史として野蛮、未開、文明の3つの段階を経験していると述べました。
(3)人間が文明に達したのは、生活に必要な物質の生産力を高めた結果です。男女の性役割による分業が生産力を高めましたが、これが男女の社会的地位の差を生み出す基になりました。男女平等(女性の解放)には女性の生産活動への参加が必要です。女性の解放なくして、男性を含む人間全体の解放はありません。
*20世紀の後半以降、先進国では経済のサービス産業化により、女性の社会参加は進んでいます。しかし、男女平等が進んでいる北欧であっても男女間にはまだ相当の格差があります。
エンゲルスが『起源』で述べられなかった点は、これらに関係します。
(1)『起源』では、家事については簡潔にふれましたが、それは家庭生活の運営に関する部分—すなわち主に衣食住に関する家事についてでした。子どもの生産—私はこれを家族の世代継承機能とし、その行動を家族内ケア(子育て、家族の健康ケア、介護など)と考えますが、エンゲルスはこの面にはふれず、2つの家事を労働として評価できませんでした。
その理由は、これらの家事の社会的分業が19世紀にはまだ十分に普及していなかったためです。家族内ケアは人間の自然な生理的な行動と考えられました。20世紀に入り衣食住に関する社会的分業が発展し、20世紀後半になって家族内ケアの社会的分業が開かれました。こういう事情により家事が労働として評価できる基盤ができたのです。
(2)エンゲルスの時代には国内総生産(GDP)という理解はありませんでした。GDPとは、一国の広い範囲に市場経済が定着していることが条件です。19世紀にはその広がりも先進国の一部でした。21世紀の現代でも、これは未達成の地域(自給自足、物々交換、家族内労働、共有地の労働による非商品経済の広がり)があります。GDPが公式に成立したのは1993年のことであり、その成立までには国民総生産(GNP)などを巡り長い経過があります。
GDPの十分な確立はできていませんが、これに比して家事労働の評価が考えられますので、理論上であってもGDPの役割は欠かせません。
(3)エンゲルスは、家族制度の将来を記述していません。これは現代に生きる人たちにも想像の域を超えません。私に言えることは、この家族制度を変える原動力は家族内ケアです。エンゲルスの時代においては、男女平等に基づく社会は女性の社会的労働への参加でしたが、ここに家事労働、ことに家族内ケアの評価が加わることで、人間の将来の家族制度を考えられます。
若い世代には家族内の「わずかな」不具合を察知する鋭敏な感覚をもつ人が少なからずいます。当初その感じ方が、異変や常識外とされ不登校やひきこもりは「問題行動」扱いされました。常識や社会的慣習におかしさがあるのに、多くの人は気づかずにいます。家族内のおかしさを彼ら彼女らは察知し不登校として、次にひきこもりに表現したのです。その感覚を無視してはなりません。幼児の泣き声を無視してはならないのと同じです。