体験手記と文学作品

今回の不登校情報センターが文学フリマに出展する作品の中心は体験手記です。体験手記とは実話です。実話とはいえ、記憶違い、感覚のとり違い、解釈の間違いにより“実話”からふみ外すこともあります。また自分の肯定面の過大表現や否定面の過小表現により、“つくり話”レベルにまでふみ外すこともあります。そういう部分を含むことを認めたうえで、全体として体験手記とは実話です。すなわち自分はこのような体験をした、と自覚しているのです。自伝というのもそういうものでしょう。
私は体験手記を読むのを大事にしています。すべてがよい作品とは言えないでしょうが、時に感動することもあります。少なくとも「不登校情報センター」を表に出して何かをしている私への投稿などは、どうしようもないほどのものはありません。
何がしかのモノはありますし、それぞれが子ども時代や、青年期に経験したことを描いています。そして時にはすごいと思うものに出会うのです。その確率は私の中では高い確率です。ただ私は文学的なことや芸術的な内容を判断は出来ませんから、すごいとは言え主観的なモノです。
高校3年のとき、数Ⅲの積分関数の問題で解を初めて得たとき、少し感動したのを覚えています。しかし以来、数学の方程式や物理の方程式を見て、感動をしたことはありません。また法令を見て感動したというのもありません。日本国憲法の前文はそれなりのものですが、感動とまではいきません。そこに表現される数式や法令文によって得られるイメージが鮮やかではないからでしょう。
文学作品はどうか。これはピンからキリまでさまざまではあるが、優れた文学というものは感動を与えてくれます。それは確かな真実を示すものです。それを超えて自分の内側にある気づかないものに気づかせてくれるためかもしれません。
しかしこのレベルの文学作品であっても、必ずしも事実ではありません。例えば山本周五郎の『赤ひげ診療譚』の最終作品「氷の下の芽」は、そのような事実があったわけではないでしょう。誰かの体験を元にしているのかもしれません。人間の心情と周囲の状況に“ありうる”可能性が整っているなかでストーリーは展開・構成されています。これを虚構性というらしいですが、その詳しい説明はできません。
文学作品は、その高いレベルでは「つくり話」であっても、人はそういう場面、そういう状況におかれたとき、そういう動きをする可能性が納得できる形で描かれているのが条件になります。そして、勇気とか愛情とか、苦しみの実相をみせ、愉快な気分をひき出してくるものが、優れた作品と言えるのではないか?
体験手記は、それが事実である限り、文学作品のこの前半の条件を満たしています。それだけで文学の条件を少なくとも満たしています。それを超えて「優れた」文学作品になるには、省略と合理的な追加設定が求められるのでしょう。私にはそれを語るだけの能力はありません。
今回、改めて数人の体験手記を読むことになりました。私には「優れた文学」を感じるレベルのものもありました。そこには基本的には虚構性はありません。細部の比喩にそれはあるのかもしれませんが、それは虚構性が導入されているとはいえないと思います。今回の体験手記を読み返して、これらは「優れた文学作品」の素材になっている、と確信できました。
蛇足めいていますが、通信制高校、定時制高校、あるいは高校中退の経験者が混ざっていて、具体的なことを自分の言葉で語っています。貴重なものだと思います。

創作活動を勧める私の理由

創作活動を勧める意味を会報で「みか」さんが説明してくれました。私の思っていることを、私以上に行き届いた形で、わかりやすく説明しました。それで私は別の面での創作活動を勧める意味を書こうと思いました。
イラストをよく描く人がいました。そのお母さんが叱っている(?)ようなのです。「こんなことが上手くなっても何にもならない。経理学校にでも行った方がよっぽどいい…」という主旨でした。
その言葉の強さにイラスト好きのその人ばかりか、離れたところで見ていた私も何も言えません。今に思うと実に残念で情けない結果です。
人には向き不向きがあり好き嫌いがあります。不向きなどにより社会で生きていくのに差し障りがあるのであれば最低限の位置をめざすことになります。しかし多くは自分の好きなこと、自分に向いていることに取りくめば、スムーズに前進できますし、達成も多いのです。
私は、いつかわからない時期から表現活動を勧めるようになっていました(向いているかどうかは別です)。若い時代に本の編集者になったのは偶然でしたが、そこで思った以上のことを学び、身につけました。ひきこもり経験者と関わるなかでも、文章を書き絵に描くこと、創作を当然のように勧めてきました。
「ニート・ひきこもり支援」として社会生活、経済生活のできる力をめざすプログラムが大事にされるのを否定するつもりはありません。しかし、この方法で現実に生まれていることは次のように表われています。
(1) 当事者の心身状態でこの形に合う人が対象になり、全体への対応にはなりません。それ以前の課題がある人は少なくないのです。
(2)対応内容が就業支援中心にならざるを得ません。これが現状のひきこもり支援が就業支援に偏っているといわれる理由です。
(3)当事者の提起するものを受けとめられず、当事者を社会への適応・同化を促す対応になります。上記紹介のイラスト愛好者に経理学校を勧めた人がしていることがこれです。
私はそういう就業に固定した取り組みをするのは向いていないこともあって、別の道を進んだことになります。それが創作活動を勧める道です。
一般には、中心的方法以外の多様な道を肯定してよい、と思います。人は多様なわけで、好都合な道があればそこから目的に近づくことは可能です。

2023年に太田勝己作品の展示企画が提案されました。Tokyo-U・クラブというグループの提案で、企画が具体化し進んでいくなかで、そのテーマが「ひきこもりと表現」になりました。Tokyo-U・クラブ会長のKさんが提案したものです。企画の準備過程で十分に練られた結果とはいえませんが、私はかなり斬新さを感じるテーマに思えました。
考えるにひきこもりを続けるなかで失われる、むしろ育たないのは表現ではないでしょうか。自分の気持ちをどう表わすのか、思いや考えを周囲の人に伝えるにはどうするのか、それが表現です。ひきこもり生活では、ときには家族とさえも話すことはありません。表現力を失うのではなく育つ環境がないのです。ネットやSNSがそれを補充する面はありますが、生の社会的様子を知らないとうまくいかないのではないか。「表現」という提示はそれを考えさせてくれました。
表現と創作活動は同じではありません。表現が日常に求められるとすれば創作は自分の中の目的の意図性、構想や論理、感情の主体性が求められるという意味で、表現と創作には連続性と重複性があります。
結局私は、自分のできそうな分野で(必ずしも得意分野とはいえませんが)周囲に集まってきたひきこもり経験者たちに、創作活動を勧めることで、自分を表現することを勧めてきたことになりそうです。
ネットの普及によりあたり前に、ある情報、特定の事柄に関する知識を得られるようになっています。私はここに危険性を感じています。AIが活用されるようになって、さらにその感を強くします。自分の内側からのものを通さない多くの知識や情報を得られるようになり、それでわかった気になるのです。自分に受けとめる実感がなく、自分の感覚や経験を通さないで分かったつもりになるのです。それは何かを失われる感じがします。表現は、創作活動は自分の内側から出るものです。自分の感覚、自分の経験を通して、「正しい」とされるものとの整合性が確認される必要があると信じます。自分の感覚をもっとも大事にしたいのです。

絵文集『BONHEUR』(ボヌール)への道

Angelさんは20年以上前から『ひきコミ』にイラストを投稿してきました。それ以来ときどきイラストが届いていたのですが、昨年夏ごろ私から「いつか作品集にしませんか」と呼びかけました。その気になったようでイラスト送付の回数が増えました。
回数が多くなった他に、内容も徐々に変わってきました。「ねこちゃんとうさぎちゃん」という2匹が登場することが多くなり、全体に前以上にファンタジーの色彩が強まったと思います。それに比較的短い文章が添えられることが多くなりました。
Angelさんはこのイラスト送付のときに便箋1枚ほどの手紙を付けてきました。私は作品集をまとめるのに、これら手元に集まる作品をどう整理するのか考えました。それで今年(2025年)正月期間に、古くからのイラストや手紙を含め、時間順に並べて全体状況を表わす“素材集”をつくりました。
この“素材集”を基に年内に作品集をつくるつもりで作業を始めました。ところが3月に入ってから「文学フリマ・東京40」に出展する企画を知り、Angelさんの作品を準備していたのでこれに間に合わせようと考えたのです。
長い期間にわたり描きためた作品であり、その経過において作風や目的が変動してきたこと、仕上げともいえる時期に入って文章を加え、書き直す作業が加わったこと、しかも最後にはこの文章を手書きのものから活字にしようという事態が生まれました。
こういう事情で、掲載作品は50点ほどですが、編集製作作業は相当に複雑なものになりました。
細かなことは省きますが、こうしてAngelさんの作品集は、イラスト集やカット集とは違うものになりました。世に「絵手紙」という絵と短文を組み合わせたジャンルがあります。それと似ていますが文章は手紙ではなく、あるときは説明文でしたが、やがて見る側の人に絵の表現する様子を想像してもらおうとする意図さえ感じるものになりました。文章は説明というよりはファンタジーへの導入になってきたのです。ですが私はこれを「絵文集」と呼ぶことにします。
絵文集というのはAngelさんにとっては最終形ではないかもしれません。今現在は一定のテーマを感じさせ推測させる短文集というあたりです。このようなジャンルは私の勝手な推測の域を出ませんが新登場の可能性があるとしておきましょう。
作品集の名称をAngelさんは「BONHEUR」(ボヌール/よろこびの花)としたのは、こういう流れ見ると私なりには了解できます。確かにイラストやカット絵を超えた心の表現をめざしていると思います。
イラスト愛好者にとってはこのような変遷は参考になるのではないでしょうか。参考に見てほしいと思います。

「文学フリマ・東京40」からの連絡

「文学フリマ・東京40」事務局から連絡があり、不登校情報センターのブースの位置が確定しました。
会場は東京ビッグサイト南1~4ホールです。全体が南1・2ホールと南3・4ホールの2会場に分かれます。不登校情報センターのブースは南3・4ホールの「そー75・76」番になります。「そー」番という番号付けは、「あいうえおかきくけこさしすせそたちつてと」の20グループに大きくわけ、そのなかでさらに「01」~「92」まで小分けしたものです。2つの会場全体で合計2746出店・3191ブースになり、不登校情報センターは2ブースを占めます。ブースは会場入口からはかなり遠くの左手の中ぐらいの場所です。参加予定者には事前にブースの位置図を送ります。
開催時間は5月11日(日)12:00~17:00です。ブース設営の準備のために11:00には会場に入ります。一般入場は12時です。1ブース2名が要員(合計4名)で無料参加できますがそれ以上は参加時に1000円が要ります。現在松田を含め5名が参加予定です。要員4名は松田からお願いした人が2名、あと1枚誰かにお願いします。
出展作品は現在作成中です。新作品(6点)は版下作りから、既作品(7点)は増刷(一部に解説等追加)をします。新作品6点はほぼ版下作りはできました。既作品は読み直しており、解説等の追加もほぼ終わりました。できればこれら全部を4月19日の親会の場に持っていきたいのですが、確定できません。表紙のカラー紙、製本テープ集めが不十分です。作業をする気力・体力も不足して休みがちになり、ときに寝込んでしまいます。別に出版社から出した5点があり、合計18点になります。
「文学フリマ・東京40」事務局では出展作「WEBカタログ」ページを設けています。まだそのページを見てはいないですが出展する全作品の紹介を書き込みたいと思います。事前に見て参加する人も多いようで、販売数に影響するからです。
これとは別に不登校情報センター(あゆみ書店)の『出展作目録と手作り本の手工芸』(仮称)のリーフレットを作るつもりです。会場で配布するなどを考えています。
今回は出展しなくても、これからもみなさんの新しい作品を作るのを応援したいと思います。出展や販売の機会はこれからも広がるとみていいのです。

「アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤」に寄せて

不登校情報センターの設立は1995年です。教育誌を編集していた時期から不登校の相談を受け、相談先情報を広げる目的で不登校情報センターをつくったのです。ところが実際には不登校情報センターへの相談が増えていきました。
その時期(90年代後半)の相談は十代後半から20代前半の年齢が多く、相談に来るのは主に親でした。様子は少しずつ違いますし、当時と似た状態の人はいまもいます。年齢は十代後半から20代前半で、相談内容も90年代後半とだいたい同じです。
私は現在の「社会的ひきこもり」は全体として日本社会がゆたかになったためと考えますが、他方には「ゆたかさ」とは言えない生活状態におかれ、ひきこもりになる人もいるわけです。
本書『アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤』の著者、高村ぴのさんは90年代後半から不登校やひきこもり状態に近い精神状態におかれたものです。
医師の診断を受ければ、対人恐怖症、神経症または強迫神経症さらには不安神経症とか社会不安症…という系列の診断を受けることでしょう。遠因にはいじめを受けた体験を忘れるわけにはいきませんが、生まれつきの感受性の強さも関係していると思います。
症状の程度によっては、心身状況を悪化させてしまいます。医師に相談すると多くは就業を勧められないでしょう。そういう状態にありながら、経済生活上の切迫した環境のなかで、彼女は15歳でアルバイトに就く道を選びました。彼女はさいわい「妥協する」道を経験し、対人関係がわずかずつ改善している様子が読み取れます。
私(松田)の知る限りでもこれに似た事情のなかで働く道に進んだ人はいます。何人かはこの難関を通り抜けました。案外すんなり抜けた人もいるようですが、そう容易な道ではない人もまたいます。高村さんの手記はそういうばあいどのような苦難を通らなければならないのかを体験談として表現してくれました。

私は、このような状態においては「生活保護を含む福祉の利用」を考え、制度の充実性を訴えます。しかし彼ら彼女らのなかにはそれを望まない、拒絶する人もいます。その生活状態のなかで葛藤するすさまじい努力を応援するしかありません。その私の気持ちをどう表わせばいいのか迷いますが、自分の高校時代に経験した貧乏生活がある種の心の居所となっていると思うこともあります(心理面は違うかもしれません)。そしてハラハラしながら見守る気持ちになってしまいます。
「アルバイト体験記」は、15歳の中学卒で働き始めた人の実話です。その試練をリアルに語ってくれました。文中に一人の老人の姿が彼女を勇気づけています。そこまでではないにしても、周囲の人には目に見える応援ではなくても、「フラットに、普通に」目を向けてほしいと思うのです。
このような生活や環境条件から「働くに働けない」状態でいながら働かざるを得ない人はいまもいます。30代、40代、50代で、ひきこもり状態がつづいてきたなかでそうするしかない(と思う)人たちです。
うまくすり抜ける(?)方法はあるかもしれませんが、それは手助けする人との協力が前提であり、この条件がないなかでは期待できないのです。そして正面からこの難しい事態に立ち向かい取り組んでいる人たち——それがどんな目にあっているのかを、間接的な文章表現でしか伝えられませんが、読んでいただくように期待します。

4月の親の会

3月の親会では「親の会をこれからどうしよう」という話もしました。

セシオネット親の会では子ども不登校やひきこもりの様子を話す機会が少なくなっています。辞め時かとも思いますが、人との関係をそう扱うのもどうかと思います。しばらくは試行錯誤の時期になりそうです。

4月は創作の手作り本10点以上をもっていきます。創作活動をしている方にはそれを個人的な自作の作品集にできます。その参考見本になると思います。

セシオネット親の会の定例会は毎月第3土曜日、午後2時~4時です。参加をお待ちしています。⇒4月19日(土)14:00~16:00 

場所は助走の場・雲:新宿区下落合2-2-2 高田馬場住宅220号室

5月の親の会は「助走の場・雲」の説明会(?)。この春に「助走の場・雲」でサポート役をしていた学生が卒業になりました。その人に来てもらって、見学に来る学生への説明会をしようという話持ち上がりました。どうできるか楽しみです。親の会の今後は謎めいています。