ひきこもり経験者が集まる居場所がなくなった不登校情報センター。しかし幕は閉じずに続いているのは「ひきこもり周辺ニュース」のサイト制作を続けているからです。サイト制作は20年前に始まり、はじめはフリースクール、相談室、親の会などに直接に所定用紙を送り、その回答を載せていました。
いくつかの変遷があり、いまは主に自治体広報紙から「ひきこもりと周辺」の動きを探しています。全体で2.8万ページの巨大サイトです。自治体広報紙の情報は「マイ広報」というプラットフォームがあり、そこに一定の検索語を考えて、関連記事をひき出しています。
マイ広報には多くの自治体が参加していますが政令指定都市が少ないのが制約です。しかし動きは他の自治体の情報でわかります。数年前のスタート時点の検索語には「ひきこもり」「発達障害」「不登校」でした。これにより講演会等のイベントがあれば、サイト内の「不登校・ひきこもり・発達障害のイベント」に日付順に紹介する形をとっています。
このあたりまでを、〈まえがき〉として今回の本題に入ります。今年になって検索語に「居場所」を考えました。検出された記事の扱う範囲が広くて、どの記事を採用しどれを捨てるのか—この判断に迷いもあり、しばらくこの迷いは続くはずですが—このなかに世の中の、とくに何らかの困難に直面している人たちの本質的な内容があると考えます。
居場所というのは〈居る場所〉ですから特別に意味をもつ日本語ではありません。それが特別の意味合いをもつようになりました。暮らしにくい、住みづらい、生きづらいという人のなかから「居場所がない」という感覚が育ち、そういう人たちが安心しておれる「居場所を求め始めた」ところから、居場所が特別の意味合いを持ち始めたものでしょう。
1980年代になってから不登校の子どもが増え始めたのは「学校が居づらい」と感じたためです。それは時代の雰囲気を感度よく察知したという意味でもあります。このあたりから居場所が特別の意味合いを持ち始めたように思います。
不登校の子どもたちとは学校に居場所がないばかりではなく、家にも居場所がないことも多いのです。自室に閉じこもるのはその対応策でしょう。他方には学校・家庭以外の第三の居場所を考える人もいました。これが居場所の正規の成立になるはずです。
不登校情報センターは1995年に立ち上げ、翌年の1996年に「通信生・大検生の会」を呼びかけて集まったのが、不登校情報センターの居場所のスタートです。誰かが自助会=自分で自分の力で自立していく力を育てる場というほどの意味合いをもつと、そのころには聞いていました。
1998年に情報センターの7畳ほどの狭い事務所に30人以上が詰めかけるようになりました。やがて集まって来るひきこもり経験者たちの中から「人生模索の会」をいう人が出てきました。さいわい新小岩にあった第一高等学院の校舎が閉鎖になり、無償提供の提案を受け、引っ越しました。2001年6月のことです。
これから不登校情報センターにとっては本格的な居場所になりました。30,40代あたりの人の居場所、あるいは当事者の会、フリースペースの動きを検索して収集するつもりだったのです。検索では多いのは高齢者の認知症の居場所、次が乳児など幼少期の子育てに関するママたちの居場所が記憶に残りました。これらはサイトには採用していません。たぶんこれからも採用しないでしょう。しかし、求めるものとそれらとの境界を見きわめがたい居場所があり、また居場所の性格が変わることもあります。これが採否を迷う理由です。
これとは別に2015年あたりから子ども食堂が全国に広がりました。子どもの貧困ということは家族の貧困が背景にあります。子ども食堂も数が多いばかりでなく、多様です。来ている子どもが宿題をする場になり、大人も一緒に集まる地域食堂の色合いをもつ場もできてきました。もはや居場所の一種、特別の形といってもいいのです。
これらがどこまでどのように広がるのかは予想できません。居場所は分野を広げながら生まれています。年代をこえて身心の状態をこえて、あるいは国籍もこえています。その先行きを私が何か言うのは適当とは思われません。そういう動きを必要とする社会状況の反映であり、証拠になると認めます。
自治体が参加する居場所はその一部でしょう。広報紙に紹介し、ときには自らその機構の一部で主導的に開催し、運営しています。住民の中に生まれたことを、公的な機関が認めて推奨する事態になっているのです。
私にはその内容を不登校情報センターの経験を参考にして言えるだけです。今はその一つの側面として次の役割があると考えています。
比較的共通のマイナス体験をした人が集まり、その要因、背景理由、対応策などを交流しながら、共通する前途を探そうとする場。自分の体験の否定的側面を心理的負担が少なく話せるなかで、より本質的な要素を明らかにしていけます。それは同時に自分の体験を肯定的に見る役割さえ持ち得るものです。
その上でさらに遠い見通しを予測すれば、次のことが言えるのではないでしょうか。
人間の集まりは、「家族・親族集団」から一定の地域の「地縁的集団」に移行しつつあります。この居場所はそれに加えて「課題の親和性による集団」といえるかもしれません。居場所は一定の地域が中心に展開されているので、地域共同体の別種の復活の形になるのです。それは家族が、孤立した個人が、自分の居る地域と自分の抱える課題により社会で生きていくための条件をつくり出していく一過程といえるでしょう。
投稿者「matsuda」のアーカイブ
江戸川区立駄菓子屋 よりみち屋
江戸川区が主導して設立した『駄菓子屋居場所 よりみち屋』が新聞で紹介されました。なにかと話題を掘り起こして紹介する『しんぶん赤旗』(日曜版2024年11月24日号)です。
ひきこもり経験者の居場所を駄菓子屋にするときいたのは3年ほど前のことです。ちょっと変わっているなという印象を持ちましたが、不登校情報センターの居場所の「建て前」は書店(あゆみ書店)でしたので、少し納得する部分もありました。居場所と名乗らないのがうまくいくかもしれないのです。
設置場所の条件をめぐり回り道があり、実際にできたのは2023年1月だそうです。不登校情報センターと同じ区内にあり、「できたらしい」という話はかなり前に聞いていましたが、行ったことはありません。
日曜版には設立経過が書かれています。2021年の区の調査で、区内に約9000人のひきこもり状態の人がいる。その人たちの要望に「家以外の居場所」と「就労支援」が多くあり、福祉部生活援護管理課の担当者が駄菓子屋を想定したといいます。もう1つの要望「就労支援」は、日曜版ではふれていませんが、「みんなの就労センター」になります。こちらは一般社団法人であり、その会員は江戸川区民以外も入れますし、私もその会員に勧める人と一緒に登録に行きました。
それでこの「江戸川区駄菓子屋居場所 よりみち屋」の内容は——おそらく日曜版記者はある1日の取材日を中心にした記事なので、いくぶん私の想像も混じりますが、少なくとも20年前に不登校情報センターで展開されたものよりもちゃんとしている感じはします。区の委託を受けた医療機関の関連会社が運営し、社会福祉士、ケアマネジャー、ピアサポーターなど職員が対応します。そのあたりは安心感があり、実際の様子はひきこもり当事者の状態を反映して、より自然な雰囲気を感じます。
そして思います。これはひきこもり経験者ばかりではなく、地域の人たちの世代を超えた交流の場の1つになる。長い目で見れば、孤立しがちな人たちが、少なくとも初めのうちはこれという利害関係なく、知り合っていく場です。「第2の家であり、家族みたいな場」という利用者の声はそれを示しています。
先日紹介した、NPO法人抱撲とはまた違う、地域共同体的に成長するように期待します。核家族になって家族が世代継承機能を低下させているなかでそれを補い、新しい形で機能を伸ばしていけるのか。そのように発展することを期待しています。
これが行政区の委託事案であることが、どのように影響するのかも注目点です。
文通・交流誌『ひきコミ』の発行と休刊
ある出版社が「不登校」をテーマにする出版企画を準備する過程で、以前に発行の『ひきコミ』を入手したい旨の連絡がありました。手持ちの『ひきコミ』を送付し、また問い合わせも簡単に答えました。以下は問合せへの返事です。
〈いくつかの質問がありますので、記憶がなくならないように返事を書きます。参考にはならない気がします。
雑誌からネット上のデータベースへの移行は、費用面の理由か?
市販版『ひきコミ』がなくなったのは出版社側の事情によります。編集に関する支払いは皆無でしたが、不登校情報センター直売の読者が相当数いましたし、多くの人が情報センターに集まり(居場所の形成)、多くの相談があり、親の会ができるなどの面で、編集費はなくても、私の側で市販版をなくす理由はありませんでした。
出版社は私の元いた出版社の営業部の人(T氏)で、その人の提案で市販版『ひきコミ』は始まったのです。しかし、市販版発行中の18か月の途中で、K氏(これも元同じ出版社の営業部)に交代し、K氏の関心が低かった(『ひきコミ』の販売数が減少?)ためと思います。市販の第1号は6000部でほぼ完売なのでよかったのですが、その後の発行・販売部数はわかりません。
19号(2003年9月に発行)以降は手作り版で、書店には並びません。記憶では手作り版の初期は2~300部であったと思います。売れ行きがいいわけはありません。投稿数も減り、内容は文通目的よりも、居場所に通う人や、親の会に参加する人たちを想定した、ひきこもりと周辺事情を説明した会報的なものになりました。平均すると3か月間2回ぐらい発行で、最後の97号は2012年4月の発行で、よく続いたものです。
実際に文通に参加した人は600人余です。文通が1回きりの人もいたでしょうし、10年以上続いた間柄の人もいるようです。市販版『ひきコミ』が途切れたおよそ8年後(2010年1~3月)に、これらの元文通者にアンケートをお願いしました。これは懇意にしていた通信制高校の協力によります。郵送したわけで転居などにより届かないものもありました。それでも約1割にあたる66名から回答がありました(アンケートの全文は「ひきコミWEB版」ページに掲載しています)。文通をしていたそれぞれの人の現状や文通についての思い出などが寄せられています。
「ひきコミWEB版」による文通はやめているのではありませんが、今はSNSの時代でほとんど機能していません。年に数人が「文通ボランティア」を希望する連絡をよこします。その全員が、不登校経験者、いじめの被害者にあたる人になります。自分の経験を生かしたいというものです。
文通を介してわかったことの1つは、アドバイスを求めていないことです。自分の苦しかった体験を理解してほしいことと、そして共感を求めているのです。これはきわめて重要なことです。文通によりアドバイスをしようとすると、その時点で連絡は途切れるものです——私が文通を仲介して得た最大の教訓といえます。
世の中で、一般に「文通」がどういう状況になっているのかわかりませんが、もしかしたら紙媒体なら文通のよびかけは成り立つかもしれません。〉
「なんちゃって家族」の発見
単婚(一夫一婦制)が家族形態として当たり前の日本においては、子育てを含む世代継承機能が困難になっています。それは徐々に進行してきたので、その移行期間に、保育所・幼稚園そして介護施設がつくられ、またそれらを財政的に支える保障や公的補助金制度も用意されてきました。
それで十分か?と問うと実際はそうでもなさそうです。1つはそれによって家族の役割をゼロにできない(してはならない)こと、もう1つはそれにもかかわらず家族が支えきれなくなる事態が続出しているからです。
この行きづまりを打開する方法は、家族形態そのものの変化に至ると想定しますが、これは相当に長い期間をかけて、多様な形をとって進展するものと推察します。その過程では、自治体(および国)と地域共同体(のある種の復活)が関わると想定できます。
ここに地域共同体ともいえる1つの事例が報じられました。2024年11月10日(日)朝日新聞朝刊の記事です。私はその見出しにある「なんちゃって家族」をタイトルに採用します。NPO法人抱樸(ほうぼく)が進める「希望のまち」プロジェクトです。福祉施設が「(死亡時の)みとりや育児など家族が担ってきた機能や役割を分担して引き受ける」という内容です。抱樸理事長の奥田知志さんは「家族機能の社会化」といいます。「単身生活者が増えた現在、家族のかたちにとらわれず、支え合える仕組み作り…。…そういう人を巻き込んで葬式も結婚式もする大実験」のようです。
抱樸は1988年から路上生活者(ホームレス)支援を始めました。2024年9月19日の「偲ぶ会」には抱樸互助会の80人が参加し、それまでに亡くなった222人の顔写真が並んでいます。
2020年国勢調査では単身世帯が全体の38%になります。現在の核家族世帯はいずれ単身世帯がさらに大量に増えるでしょう。それは個人が世帯(家族)から独立したものとして扱われる社会を表わしてもいるのですが、他方では家族のとくに世代継承機能の衰退を招いていくのです。
「なんちゃって家族」はこの状態への1つの対応策、回答であります。これが唯一の方法とは言えないまでも、これに類する形が生まれるのではないでしょうか。国や自治体は、このような民間の動きを参考にとり入れながら、そのうち対応策を考えるでしょう。フリースクールを参考にした学校内の居場所づくりなんかがそうです。抱樸に対しては地域の社会福祉協議会や企業も応援しています。社会福祉における自助、共助、公助という順番がここでも表われてきそうです。上から基準をつくって指導する型の公助には期待できませんが、共助や自助で取り組まれる自然な動きを参考にしていく公助が大事になると思います。制度づくり、財政・設備の支援、スタッフ養成、情報提供などが公助面の役割になると思います。
私は単婚世帯(一夫一婦制)による家族の機能不全の解消を、養育と子育ての補助の面から協力的住居環境づくりの面から進むと予測していました。抱樸が示していることは葬儀や結婚式という面からも進められることのようです。こちらが実際的なのかもしれません。
国民年金の第3号被保険者を考える
先の衆議院選挙で自民・公明両党の与党議員が過半数を下回り、キャスティングボートを握る国民民主党とのやりとりが報じられています。焦点は〈主に主婦の〉パートタイムの年収が103万円以上超えると所得税がかかる。これを変えて国民民主党は178万円まで所得税がかからないようにせよ、そうすれば自民・公明政権に協力するという政治劇を展開しています。
これによりパートタイム労働の制約がなくなり、雇用不足を解消するのがアピール点です。他方そうすると所得税の税収が年間7~8兆円少なくなり、国家・自治体収入に大きく影響する。財務省や自治体も関わる事態です。国民民主党の財政的視野の不足が露呈しました。178万円税への移行はそう簡単ではなさそうです。私はこの政治劇の外部観察者です。しかし別の面でこれを考えます。
現在の103万円までの収入を非課税にした制度が生まれた背景です。これは国民年金の「第3号被保険者」という仕組みです。1970年代まで続いた日本の高度経済成長の中で、「夫が仕事をして妻は専業主婦として家庭を守る」——風潮としては昔からあったと思いますがこれを制度として定めたのが1985年のことです。
専業主婦の年金の導入前は、夫名義で夫婦2人分の年金が支給され、専業主婦の国民年金の加入は任意(入っても入らなくてもよい)としました。しかし離婚などのケースで不整合があり、これを解消するために専業主婦を「第3号被保険者」の適用対象にして年金を受け取れるようにしました。その結果、専業主婦がいく分は働いて収入を得られるが年収103万円までは非課税というクッションを設けたのです。国会の動きは、この103万円の枠を178万円に向け広げようというものですが、他方では「第3号被保険者」制度を廃止しようとする動きが以前からあったようです。
それには「夫は仕事、妻は専業主婦」という社会状況が大きく変わっており、また世帯単位から個人単位にとらえ直すという動きもあります。
考える点はいくつかありますが、私は子育てや介護を含む家族内ケア(専業主婦が担ってきた役割)の役割を置き去りにしていると思います。事態の中心点を外した瑣末な事態を過大に扱うように伝わるのかもしれません。むしろ従来も現在も、家庭・家族内における子育てなどの家族内ケア労働が不当に軽視される事態が繰り返されると懸念するのです。
そこで「第3号被保険者」をどう考えるのかの私の意見です。「第3号被保険者」のユニークなところは、配偶者(専業主婦など)は賃金を受け取らないが、賃金を前提としている年金の支給を受け取れます。賃金収入を受け取る人(夫)に代わって、妻は子育てを含む家事を担い、夫に代表される賃金労働を支えていると認めています。この点を無視することは主婦の家事労働を引き続き無視することになります。
子育てや家事労働が、家族と社会を存続するのに欠かせないと評価すること——家族内ケア労働の一面だけで全体を表わすものではないとしても、児童手当があり、家事代行の利用料があり、保育料とその公費援助などがあり、参考になるでしょう。
それら全体を表わす社会的基準を確立させることです。それは必ずしもGDP評価方法とは同じではありません。「第3号被保険者」の存廃を考えるときそういうベースも視野に入れてもいいのではないかと思います。
仮にそのベースが考えられるとしても、それを支える制度がすぐに整うわけではありません。その進捗状況を見ながら、一定の期間をかけて「第3号被保険者」の内容を改変していく——あるいは法的な補充制度をつくり支えながら進める——こういう意見になります。社会動向の基本が家族(世帯)単位から個人単位と大きく移行していく現実が相当に進んでいます。それとの整合性を図る変更です。
現実の状態は多様に、相矛盾する複合的な要素をもちながら展開しています。別の面からみるなら男女ともに、就業と子育てという二刀流は正当に評価されていい社会です。家族の状態は激変していますが、そのなかで子育ては最も基本的な要素であり、それが社会を存続させていく〈生産活動と並ぶ〉もう一つの機能になります。
政治劇場面では、従業員51人以上の職場の106万円、50人以下の職場の130万円の収入で社会保険料負担が発生する事態をどう扱うか複雑な動きになります。子育てを含む家事労働が入り込む隙間はないかもしれません。長くここを無視してきた結果の1つがヤングケアラーの発生であり、それを見逃してきた要因です。
自治体が子どもの居場所を用意する時代
1980年代の初め、私は月刊教育誌の編集者をしていました。教育誌は主に小学校教師向きであり、 教師との接触も多く 教育実践記録などを書いてもらいました。
岐阜県恵那地域に石田和男さんという教師がいて、何かのおりに「住民から生活のいろいろな問題が学校に持ち込まれている」主旨の話をしていました。地域の人との結びつきが強く、学校や教師が信頼されており、いろんなことが学校に持ち込まれていたのです。あの時代から40年が過ぎ、当時の子どもたちも50代になっています。社会のベテランとして生活と地域を支えています。
現在の子どもたち——幼児から中学生を想定します——はどうでしょうか? ここでそれを詳しく述べるのではありません。私が携わっている不登校情報センター内に「ひきこもり周辺ニュース」サイトがあり、自治体が子どもの居場所づくりに取り組んでいる状況を掲載しています。それに関連することが今回のテーマです。
40年前、いやもう少し前の1950年代(日本の高度経済成長以前)からふり返りましょう。当時は既に明治期つくられた小学校、中学校がありました。幼稚園もあり、保育園もできていました。
その外側に大人が関わらない子ども世界がありました。田舎にいた私には浜辺や林野が遊び場であり、多くの子どもがいました。大人の影はまれで異年齢の子ども集団です。学習塾はなく、珠算教室がありました。外遊び中心、集団遊び中心の子ども世界です。これは主に男子のことで実は私には女子の世界や都市部のことはよくわかりません。
高度経済成長の時代を迎えました。中学・高校を卒業すると若い世代は都市・工業地域に大量に移動しました。その後帰郷する者は少なく、都市に出かけた人はそこに住み、都市は肥大化し、農山村地域は徐々に過疎化が進行しました。子ども時代を過ごした島根県石見地方は「過疎」という言葉の発祥地だそうです。
当時すでに学校外の子どもの居場所には都市域中心に児童館がありました。また都市域で働く女性が結婚し共働きが増大するとともに保育所も増えていきました。
70年代はじめに「子どものからだがおかしい」という報道がされました。学校の朝礼時に倒れる子どもが各地に表われ、アトピー症状をもつ子どもがふえました。80年代(私が編集者のころ)不登校の中学生が表われ、90年代にはひきこもり、発達障害という言葉がよく使われるようになりました。
行政の側では不登校の子どもを迎える適応指導教室が生まれました(民間のフリースクールの官制版)。保育所の延長である学童保育も徐々に増えていきました。
保育所・幼稚園、適応指導教室、学童保育、児童館の活動状況や名称は必ずしも統一的ではありません。東京都江戸川区では、学童保育は「すくすくスクール」、適応指導教室は「サポート教室」、児童館は「共育プラザ」です。取り組み内容や目的は違うといっても重なる部分もあり、全国を見渡すと名称がばらばらなのでこれらの区別は難しいです。
2013年ごろに子どもの貧困(子どもの6人に1人が貧困に相当)状態が明らかになるなかで、子ども食堂が広がりました。少なくとも全国に4000か所以上あり、宿題など学習もできる場、親と一緒に来る所、地域食堂に向かう所など内容は多様化しています。
ここに2020年にコロナ禍がきました。それが落ち着いたのが現在であり、コロナ禍になって「成育期・成長期にコミュニケーションを身につける場」を失くした子どもに、何らかの居場所がそれを補足し、代替できる場が求められているのです。
私の知る範囲では全国の自治体が、子どもの居場所、生活場所づくりにさまざまな工夫をしています。埼玉県北本市には居場所として、子ども食堂、駄菓子屋、寺小屋(学習のあるお寺)、団地の中庭、制服リユースの機会などが居場所ネットワークとして広報されています。千葉県松戸市では「子どもの居場所課」ができました。この動きは全国的であり、自治体が子どもや父母の取り組みを応援し、子どもの居場所をつくり、呼びかける状況です。
この子ども世代の動向、社会の受け入れ対応状況、施設や制度について私は全体状況を知りません。明確なことは家族の世代継承機能が、個別の家族では行ないにくくなり、地域や自治体の助力を要することになっている、と認められことです。
これは1980年代に私が「そのうちに必要になる」と予感していたこと——月刊教育誌を編集するなかで感じていたこと、石田和男先生が「学校・教師でできないこと」を社会が相当する場をつくって対処することが避けられない時期になっているのです。
文科省の不登校・いじめの調査発表について
文部科学省の「問題行動・不登校調査(2023年度)」が発表されました。かなり前から不登校を問題行動と別扱いにしています。11月1日の全国紙には、不登校といじめを主に取り上げて報じている点は共通しています。
子どもはいつも時代の先を予告してくれます。1970年に「子どものからだがおかしい」と発表したのは、日本体育大学の正木健雄先生のグループでした。1980年代に入り不登校生が増えたのは今日の不登校状況の起点になります。
文科省発表による2023年度の小学生・中学生の不登校生は346452人(前年比47434人:15.9%増)で11年連続増大しています。小中学生の全体数が減少しているなかでの増加です。
子どもの不登校はなくそうとする前に受けとめる——こういうスタンスに社会も変わってきました。不登校の親の相談にも「どういう進路があるのですか?」というのもありました。心配して登校を促すのではなく、受けとめて対応を考えていると思いました。
親個人ではなく、社会もそのようになりつつあります。子どもを(親の思う方向に)どうかするのが中心ではなく、子どもが感じ、表わしている状態から社会を見る方向に親が変わりつつあります。文科省も社会も変わりつつある—と私は受けとめています。
2017年に施行された「義務教育の教育機会確保法」は、不登校の子どもの提示に、社会や国が動いた一つの結果です。近年の校内フリースクールの動きもそうです。これらの動きの全てが肯定的な内容になるとは思いませんが、9月に参加した「中学校の居場所サミット」はすばらしい内容を反映していました。
各地の自治体が、幼児から中学生まで(あるいはそれ以上の世代の)居場所づくりに手を着けています。それは、不登校やひきこもりやさらにその周辺にある生きづらさを感じる子どもたちが求める社会的環境条件をつくる取り組みが必要とされる事態になっているからです。その少年期の明白な証拠が不登校、あるいは高校中退の件数です。
「いじめ」認知件数は732568件(前年比42.1%増)であり、このうち「重大事態」は1306件です。また「ネットいじめ」は24678件(前年比758件)で過去最高です。失敗、間違いには人間として自然なものもあります。むしろそれは積極性の表われです。それを追い込むのではありません。間違いや失敗を隠し、居直り、合理化して継続する——それが社会や人との関係をゆがめます。
とくに「いじめ」認知件数の増大が目につきます。これはいじめを隠蔽(いんぺい)するのではなく、学校として認めて対応する方向にシフトした状態がかなり進んでいることを示しています。それでも隠蔽・見逃し部分に余白はあると見ています。
とくに子どもの行為に関しては、行動性を押さえ込むのではありません。先日、小学生が雨上がりの日の下校時に傘をふり回して路上でチャンバラごっこをしていました。自転車を止めてそれを見ていた私に数人の小学生も動きを止めてしまいました。「けがをしないようにな…」と、うまい言葉が思い浮かばず最適の言葉という自信はないですが、数人から「ハイッ!」という返事がありました。
40年近く前の編集者時代に私が遭遇した「いじめの結果亡くなった中学生の事件」が、「他の生徒の進路にも影響する」と隠蔽されたのと比べると、大きく変わってきたと思わずにおれません。
私が心配するのが「いじめの重大事態」の増加です。2023年度1306件、前年比42.1%増です。40年前のように隠蔽ではないですが、件数が異常に多いと思います。対応は1つずつ数人の専門性の高い人たちが調査して対応する定式ができています。これは2011年の大津いじめ事件のときに原型が確立したと記憶しています。それまでにも何人の子どもが自殺や殺害を受けていたのです。
件数の多さとともに、近年みられる「闇バイト」にまき込まれる若い世代の強盗・暴力・殺人事件につながる、精神的な共通性をどこかで感じるからです。事件を起こす少年あるいは青年にはそれほどの凶悪性は感じられず、ときには偶然性や意図性の軽さを感じるものもあります。共通するのは他者への思いの不足ではないでしょうか。幼児期、小学生・中学生の時期に他人との接触、コミュニケーションの不足・欠如、それらが軽い動機で凶暴な事件をひき起こしてしまう予感をするからです。
子ども時代に学校を含むさまざまな機会が、子どもが自由に自分を表現できる場であること、それによって他者との関係をつくり、人間として成長できる場にできること——それが居場所です。
文科省の調査と発表は、長期間に渡り続けられ、相当に信頼性のおけるものです。それを子どもを上から見下ろしていく指標ではなく、子どもの姿、その表現をする姿として受けとめ、社会と制度を改善している指標にできると考えます。
介護施設の相談ボランテイア
介護施設で相談ボランティアをはじめて4カ月が過ぎました。短期間の乏しいですが経験談として話してみます。
入所者には女性が多く、私よりも年齢が下の人も少なからずいます。最高齢は百歳を超えていました。有料老人ホームであり、入所者は穏やかに過ごされています。
職員は全体に若く、女性が3分の2以上(?)だと思います。みなさんやさしくて親切です。私は「押しかけて行って、静かに待機する」という不思議な存在になります。職員はどう対応すればいいのかわからないかもしれないですが、感じよく放置してくれています。おかげで居心地は悪くはないです。
入所者には車いすで動く人が多いです。4階の建物で、各階に大きなフロアがあり食事もたいがいはそこでします(自室に持ち込む人もいるはずですが)。このフロアには大きな窓があり、外の景色は街並みが広がります。
しかし、家族が訪ねてきた機会を除くと施設の外に出ることはないようです。外に出ても知らない地域であり行きたい先もないでしょう。出かけても知った人はいないでしょう。介護保険ができ、介護施設ができたことで、穏やかな老後を過ごせるのはいいことですが、人の一生を考えるととてもベストとは言えません。そういう介護保険さえ抑制の対象になっています。
入所している高齢者と接して感じることは、特に女性の場合の忍従です。70年代くらいまでは「現役世代」とされていたのでしょうが、嫁入り先の家庭内での生活は忍従ではなかったかと思わずにはおれません。もちろん生活条件も本人の気質もいろいろですから…個人差はあります。乏しい表現から想像できるのはこの点です。それを強く非難する言葉を聞くことはまだないです。それに馴染んできたのかもしれません。
ともかくこの状態は人の自然状態としては正常とは言えず、この数十年の世の動きはそれが静かに、着実に是正されているだけなのではないかと、そういう解釈をしてみました。
江戸川区平井3丁目の地理学的外観
江戸川区平井3丁目でメール便の配達(ポスティング)を担当しています。下町の様子から住宅問題をうかがえる可能性を感じて偶然の機会を生かして就いたものです。家族に関わる住宅問題にどう手を着けることができるのかはまだ明確な道筋は見えませんが、いくつかの材料を利用し始めたところです。
さて私は小学生のころから地理オタク、geographerです。経済学方面は頭を悩ませますが、地理学となると頭を活性化させてくれます。メール便配達の半年を経験したあたりの第一報として地理学的観測をまとめましょう。
平井3丁目は江戸川区の西端にあります。その前にこの「平井・小松川地域」は地理学的に特別の地域と言いたいです。地理学的な詳しい文献とは別に、江戸川区の「都市計画マスタープラン」にある説明を別視点から補足します。
この地は広義の「中の島」に当たり、四方を川で囲まれています。東西どこに向かうにも橋(と鉄道橋)を渡らねばなりません。地理学の中州は河川中の滞留物によりできた島です。しかし、狭義の滞留物でできた島と違うので「中州」ではなく「準中の島」とします。東側の荒川に対して西側の旧中川が流れは少なく、他地域の中州と比べると面積も広いです。「準中の島」の面積は3.349㎢、人口は57660人(2018年)。この「準中の島」が地理学的な特徴の第1です。
だいたい旧中川という川の名前がおかしくはないですか? 元もとは中川(の本体)でした。東京都東部地域は東に江戸川、西に隅田川、中央に荒川が流れ、これは荒川が海に近づく地域のデルタ地帯です。洪水対策として明治-大正期に荒川を大工事により拡幅しました。中川の本体はこの荒川の横に沿って作り直され、そこから枝分かれで残ったのが旧中川となるわけです。
この平井・小松川地域は中州とは違うので勝手に「準中の島」と名づけました。川の沖積地であり、従って平地です。その南側(小松川地域)にやや高い台地がありますが、その台地も平地です。
第2の特徴はこの平地は海抜ゼロメートル地帯です。東京都東部の江戸川区や葛飾区などを含めて、荒川水系がいったん洪水に見舞われるとすれば人口220万人のこの一帯は水没します。小松川第2小学校の校庭は海抜20cmの表示板があります。少し高い位置で校庭横を通るバス通りは校庭から7段の階段を下りた高さで海抜-50cmです。
旧中川沿いは自然堤防的条件により台地状になり、そこから平地のゼロメートル地帯に向かって坂になります。やや急な坂で高低差はたぶん3~4メートルでしょう。私も自転車で登ることができる程度です。近くの保育園の保母さんが5、6人の園児を載せたワゴン車を押しながら登るのをよく見かけます。
東京都東部にあり千葉県に接するこの「準中の島」は両地を結ぶのが主な交通路です。「準中の島」やや北寄りにJR総武線が走り、平井駅があります。南端に地下鉄都営新宿線があり、その東大島駅は旧中川の上にホームがあり、東側改札口が江戸川区、西側改札口が江東区になります。新宿線東大島駅には地下部分はありません。この2本が鉄道です。
幹線道路は「準中の島」の中央部を千葉街道が、総武線の北寄りに蔵前通りが、中央南寄りに高速7号線が東西に走ります。南北を結ぶ幹線の中心は「ゆりの木橋通り」といい、南北の交通は定期バス(都営、京成バス)が走行しています。この東西を結ぶ交通網が第3の特徴といえます。これは人文地理学の範囲です。
北側の平井地域は古くからの住宅地で、京葉工業地帯の一画を示す町工場があちこちにあります。対する南側の小松川地域は比較的新しく開かれた所で、10階以上の高層マンションが林立する住宅地といえます。
平井3丁目はこの「準中の島」の中央西側になります。変形的な長方形で南北400m余、東西500m余、面積は0.25~0.3㎢でしょう。人口密度は1.5~2万人という過密地域です。北側は総武線で区切られ、西側は旧中川のゆるい曲線で江東区と区切られ、東側と南側は直線の道路で区切られています。
平井駅南側に続く商店街が平井3丁目の東端で、商店街の道を挟んで東側に平井4丁目が、商店街は南に伸びて平井2丁目、1丁目と続きます。居酒屋などの飲食店は多いですが、喫茶店は少なくなりました。
古くからの住宅地ですが、西側の旧中川寄りはおそらく宅地開発がすすんでいない地域であったはずで、いまは都営の団地群があります。14号棟まで番号がありますが、建替えなどの関係で実際の団地ビルは9棟です。
北東端が平井駅で、平井3丁目には駅前の21階の準タワーマンションと、中小のマンションとアパートが建ち並んでいます。多くは古くからの一般住宅地です。平井駅北側に29階のタワーマンションが近じか完成します。
緑地は旧中川の川沿いが広い場所で、団地・マンション周辺の児童遊園、やや大きな通りに続く街路樹、人家の植え込み、そして民家に並ぶ鉢・プランターの列です。空地の多くは駐車場に使われています。緑を求める動きと車社会の現実が衝突&調和している姿とみることができます。
所得税法56条により否認される家族労働
所得税法56条の廃止または修正を求められていると知りました。これは「事業から対価を受ける親族がある場合の必要経費の特例」といわれ、条文はこうです。「不動産所得、事業所得又は山林所得を生ずべき事業を営む居住者と生計を一にする配偶者その他の親族がその有する資産を無償で当該事業の用に供している場合には、その対価の授受があったものとしたならば、法第56条の規定により当該居住者の営む当該事業に係る所得の金額の計算上必要経費に算入されることとなる金額を当該居住者の営む当該事業に係る所得の金額の計算上必要経費に算入するものとする」。
法律文になじまない私には難解ですが、平たく言えば「大部分を女性が占める商店や農業などの家族従事者の働き分(金額)を認めない」法律的根拠です。女性の経済的自立を妨げている—従ってこの条文を廃止または修正を求める動きです。
日本国内では、商店事業者などで構成される全国商工団体連合会(とくに婦人部協議会)が廃止を訴えています。2016年国連女性差別撤廃委員会から日本政府に「所得税法が自営業者や農業者の配偶者や家族に対する報酬を事業経費として認めていないため、女性の経済的独立を妨げる影響があることを懸念」し、「家族経営における女性の労働を評価し、女性の経済的エンパワーメントを促すため、所得税法の見直しを検討することを要請」するように勧告されています。
この「 」内の説明は参議院常任委員会調査室で発行する文書内に掲載されている、高木夏子「親族に支払われる対価に関する税法上の取扱い」からの引用です。
私は前に「家業の成立=家事労働を考える前の社会的分業」(2024年1月18日)を書いています。高木論文において「家事労働と家業の区分けができなかった時代から、それが変化してきたこと(経費性を有する対価の支払いか、扶養の立場からの家計的な支出なのかを明確に区分することが困難である)」、税制度において税額を算定する課税単位が、夫婦単位や家族単位から個人単位に移行してきたけれども、第56条をそのまま継続してきたと指摘しています。
現在の所得税法は、1952年の成立でその後改正を重ねてきましたが、この部分の基本は残ってきたのです。家業の一部を担当するといってもそれが家事労働と一致するわけではなく、むしろ一部が重なるのです。基本的には別部分ですが、その区分けが難しいのです。
私がエッセイに書いたのは主に私の経験した瑣末(さまつ)な事柄です。より全体を見るのは、宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活法』(中公新書、1981)がいいでしょう。そう思いつつ、この愛読書を改めてみるに、そもそも家事という項目が見当たりません。それらしい記述を探してひっくり返して見ましたが、ついに見つけ出せませんでした。次の記述を紹介できるのがやっとこのことです。求めるものとの差は大きいと認めざるを得ません。
「私は…民衆の作り出す有形文化を軟質文化と硬質文化に分けている。軟質文化というのはその制作にあたってほとんど刃物を使用せず、手足によって作り出していくものをいう。土・茎皮繊維・竹などを素材として作られるもので、これはだれでも練習すれば作り方を身につけることができる。親から子へ、兄から弟へ、姉から妹へ、友達から友達へと技術を伝えることのできるもので、その制作は主として家族内で行なった。日本の民衆の家庭は軟質文化の工場でもあり、家庭はそういうものを制作することによって成り立っていたともいえる。
これに対して硬質文化は主として刃物を利用して制作するもので、素材としては木材・石・金属などがある。その制作技術は素人でも可能ではあるが、よりよいものを作ろうとすれば玄人の力を要求される。いわゆる職人によって制作されるものであり、このほうは商品として取り扱われる性格を持っている。
もとより、軟質文化の中にも商品化されていったものは少なくなく、日本の文化は自給度の高い軟質文化を中心にして発達してきたことを知る。そしてそれは大正期以前の日本文化を理解する上で重要な鍵になるものであり、西欧の工業文明が浸透するまでの日本文化の特質は、民衆による軟質文化が主体になっていたといっていい」(p.124-125)。
自営業と家事労働の区別、高木論文で正しく表現されている「経費性を有する対価の支払いか、扶養の立場からの家計的な支出なのかを明確に区分する」は難しい面はあります。それを全部「家計的な支出」に区分するのが所得税法56条です。
56条の廃止に根拠はあります。自営業者家族の労働が不当に計算されず、削除されているからです。この部分もGDPにカウントされない生産労働に当たります。