介護は家族の世代継承機能になるのか?

家族は世代継承の機能をもつ。こういう命題を立てて考えをすすめています。

世代継承の機能は「子育て」において最も明瞭に表われます。家族のだれかが病気とか体調不良になった。そういうときの看護や介護も容易に理解できるでしょう。

長期の障害者などの介護は家族内ケアの重要な内容ですし、高齢者介護も長期に及ぶこともあります。

これらの家族内ケアは、家族の世代継承機能にどう位置づけられるのでしょうか。子育てと同じ世代継承機能を成り立たせるのと同列に考えられるのでしょうか? 私にはこれに答えるのはなかなか難しいのです。

あるときふと思いました。

世代継承機能として家族の役割が低下したとき、それらが強く表われやすいのはどこだろうか? 子どもへの虐待、家族内の障害者や高齢者への虐待がそれではないかと。

最も近い関係にあるからこそ、この家族機能の低下は家族内の弱い立場(看護や介護を受ける、いわば家族内ケアを受ける側)への否定的な形で表われるのではないか?

この家族内の対応力低下を補うため生まれたのが、若年者(とくに子ども)のヤングケアラーの発生ではないか。そして苦しい状態におかれた子どものストレスの発散のしかたが子どもの間の「いじめ」の遠因になるかもしれない。そういう子どものストレスが家族内の人や場で生まれるのが家庭内暴力ではないのか……との思いに至りました。

このように家族の世代継承機能の低下、困難は反対側の問題行動として表出しているのではないか。そこを別角度からみたのが、子どもの不登校であり、いじめの発生や家庭内暴力であり、ヤングケアラーの問題ではないのか? 

これらの問題行動の原因のすべてを「家族の世代継承機能の低下」で説明できるとは思いませんが、重要な要素になると思いいたりました。

これをもって高齢者への介護が家族の世代継承機能を立証するとはいえそうにはありません。しかし、その機能の欠如が、家族を発生源として表出したのではないのでしょうか?

それは犯罪発生が、社会生活の困難の発生と強い相関関係にあるのを思わせます。基本的には取り締まる以前に、問題発生の遠因に目を向けるのが必要だと思います。

とはいえ、「介護は家族のもつ世代継承機能にどのような関係をもつのか」という問いへの答えは十分に引き出せていません。どなたか答えてくれませんか? 犯罪はいかなる理由があるにしても、合理的・倫理的に説明できないのと同じかもしれません。「介護は家族のもつ世代継承機能」も別口の人権とか人情で説明するしかないのでしょうか。

精神的ひきこもりから社会的ひきこもりへ

30年にわたりひきこもり経験者に囲まれてきた私ですが、どれほどひきこもりを、その人間像を理解しているのかは、いまもって確信があるわけではありません。ただ数年前からひきこもりを個人の精神心理的な面を見るのではなく、経済社会を背景とする社会現象として調べ始めました。そういう条件のなかで、改めて逸見さんの手記を読み直す機会がありました。「文学フリマ」という自作本の展示即売イベントが予定され、逸見さんの作品を提出しようとこの体験記を読み直す機会にしました。
逸見さんの手記は『ひきコミ』第4号(2001年4月、当時は書店で市販)に掲載されたYさんの投稿への返事として書き始めたものです。                 《どこを直せばいいのか  Y (東京都立川市 女 27歳)          結婚して2年になります。中学のころから人間関係に悩み、高校は1年でやめて、結局通信制を卒業しました。社会にでてからも何度もつまずき、仕事を長続きさせることができませんでした。                           集団の中に入ると、どうしても浮いた存在になってしまいます。特に影響力のある人、力のある人から疎まれたり、嫌われてしまいます。私と一緒に何かをすることは嫌だ、と言われたことは一度や二度ではありません。                                             すっかり人間が怖くなってしまい、結婚する一年前から外で働いていません。夫も職場でうまくいっていないらしく、関係もぎくしゃくして辛いです。この年になって情けないですが、これからどう生きていったらいいのか、生きていけるのかわかりません。自分のどこをどう直せばいいのかもわかりません。これ以上、拒絶されたり、嫌われるのが怖いのです》
逸見さんの手記は、このよびかけへの答えとして書かれました。しかしそれができたのは6年後です。よびかけたYさんには届かないままです。社会問題になっているひきこもりの人は主に1970年以降に生まれた人たちです。もちろんそれ以前にも、私が関わる人のなかには1960年代に生まれた人もいます。このような社会現象、社会問題はある時から突然表われるわけではありませんから、これは当たり前です。
社会的事情を背景としてひきこもりを説明しようと試みてきた私には、これは説明可能です。すなわち1950年後半から1960年代にかけて展開した日本の高度経済成長期が、社会を大きく変えたのです。その心理的な影響はことに若い世代から、そのなかでも感受性がゆたかな人たちがそれを表わしました。ひきこもりはその特色のある表現といえるわけです。
逸見さんは1934年生まれです。1945年当時はまだ小学生であり、そして彼女は中学3年のとき不登校を経験しています。しかし、結局はひきこもり状態になりません。そうであるから(そうであるにもかかわらず)、彼女は最近のひきこもりのある範囲の人たちの心情をみごとに察知し、説明しています。
これは注目すべきことです。彼女は「精神的ひきこもり」と自称し、それがひきこもり(すなわち社会的ひきこもり)と共通することを見事に示しています。それでいながら、社会的ひきこもりに至らず精神的ひきこもりであったのです。この関係を逸見さんは事実上わかっていました。これはなかなかのものです。逸見さんは私よりはるか以前にこの事情を知りました。逸見さんのすごさが浮かび上がります。信州にはこのような人物を生み出す社会的土壌があると感じています。
日本のいつの時代かはわかりませんが、精神文化的には精神的ひきこもり状態が一定の範囲の人にありました。国民性としての内向性、心理的な縮み指向、配慮的な性格と考えられてきた人の中にいます。これが高度経済成長を経た後の社会においては、行動・行為の変化をもたらし、それが社会的ひきこもりの表現になったのです。
逸見さんの体験は変化のある時期の事情を示しています。もちろん彼女1人の事例をもってこれを過大に評価し、全体的な証明材料とすることはできないでしょう。それでも貴重な証言になるのです。この変化を精神心理学的な対応として説明できます。彼女はそういう心情をもちつつ社会的体験を重ねるなかで、いろいろな可能性が結びついて「精神的ひきこもり脱出」に至ったのです。
この社会的体験は、彼女が生活した時間帯でのことです。そこには戦後から続く「前高度経済成長の時期」がありました。自ら選んだ保健師という職業体験もあります。そのときどきで察知したいろいろな出来事の意味をみごとに言語化しています。おそらくはここには長野という文化環境、当時の生活の主流が農業と繊維産業という時代背景が働いているでしょう。
高度経済成長期もやはり日本社会を構成するもので、それまでの社会との連続性があり、1990年以降の「低迷期」といわれる時期ともつながっています。それは彼女の体験した場面ともつながっています。逸見さんの体験手記は、こういう事情を示しています。多くのひきこもりの体験者の話を聞いてきた私には他に例を見ない詳しく、具体的なものです。

介護と家族構成員調査のない家事調査報告

藤田朋子「無償労働のなかの『見えない家事』——夫婦の家事分担調査からの検証」(p101~121)を読みました。                         書かれたのは、最も新しい引用が総務省統計局「2006年社会生活基本調査」ホームページであり、それ以降となります。                    これまで日本で行なわれている家族調査を大きく3分類しています。        1) 官公庁等の大規模調査                           2) 家族社会学領域の調査                           3) 家政学領域の調査

これら調査全体の家事関連項目をみると同一ではありませんが、私には衣食住に関連する家事労働と、子育てに関することの2つに分類できると理解されます。                                 介護および病人・障害者のケアは全ての調査において見られません。いずれこの部分も加わっていくでしょう。                              1つの調査において、「回答者の基本的属性」を紹介しています。        大阪府内のある女子大学の卒業者で30代後半から40代になった人を対象としたアンケート調査(2007年7月実施、705通発送し284通の有効回答,p108)。これ以上の家族全員の構成を調べたものは見当たりません。実施したとしても集計は難しいと思えますが、その視点はない)。                   上の2つの点がないので、家事の現実を調べる点では有効であるとしても、家族状態の変化を動かす部分への言及は出てこないでしょう。ヤングケアラーの問題もここからは光が当てられないのでは…。 この論文の内容に関しては、多くの論文をみて、全体状況を把握したうえで、改めて個々の点に入っていくのが妥当になると思います。 

家事労働を金額評価する基準作成の動き

会報『ひきこもり周辺だより』(2025年3月号)掲載
3年ほど前からひきこもりへの対応を個人の精神心理面から見ていく視点から社会的背景から見ていく視点に移しました。社会的背景とは1960年代の高度経済成長期に家族関係が大きく変わり、その変化を感覚よく察知した若い世代に社会的なひきこもりが生まれてきたと理解できるようになりました。
私と関わった不登校やひきこもりの人が生まれたのは主に1970年以降です。このような変化は個人差がありますからいっぺんに全部が変わるではなく、若い世代の感受性の豊かな人から変わるのです。
こうして私は、ひきこもりの背景には家族状態の変化があるとみて、それを調べ始めました。歴史はこれまでの家族状態では継続できないときに、ゆっくりと徐々に変わると示しています。その動きの原動力は(少なくとも日本の今回の場合)、子育てなどの家族内ケアが持続的にできるかどうかにかかっていると見えます。
家族にはいくつかの役割があります。毎日の生活を続ける衣食住などのルーチン作業と子育てに代表される家族内ケアがその2つの部分です。これに関わる多くのエッセイを書いてきたのですが、小難しい読み物になり敬遠されると予感して、会報に掲載するのはごく控えめでした。
もっと分かりやすく、日常生活に関係するところを会報の先月2月号に載せました。家事労働の現状を表わす図表などです。会員・読者にはこれなら比較的に近づきやすいと考えたからです。ある人が自分のばあいを手紙で知らせてくれました。この手の話ならみなさんにも話しやすいので、親の会などでも話題にできそうです。この人の了解をいただければ、会報に掲載しみなさんの状況を話す糸口にしたいと思います。
それにしても人間の生活において家事は軽視されています。少なくとも収入を得られる仕事と比べて評価されていません。大事だといっても、言葉以上に大事さを表わす基準がありません。どうすればいいのか。あれこれ考えていたところ、世界には既にそう考える人はいました。どうやら国連に持ち込まれて専門的に研究されているようです。
今回は、そういう事情を調べたものを紹介します。実際には多くの周辺分野がありますが、今回はその1つとみてください。

▽家事労働を金額評価する基準作成の動き
私は家事労働に目を向けました。その労働が数値表示、特に金銭評価されていないために軽視される位置におかれているからです。
(1)それは、人類の発生以来(発生以前から)行なわれていた生存のための活動、生理的活動の継続を示しているとの認識に至りました。
(2)家事労働に限らず、このように数値表示されない活動は他にもいくつかあります。現代における代表的なものは、ボランティア活動です。ほかにも物々交換、自家消費生産もそうでしょう。有償・無償の境界ははっきりしませんが、入会権など共有地における労働や、細かくいえば家事と分離されない家業(商店・町工場など)の家族労働などが入ります。
こうした家事労働とそれに似た傾向にある数値表示されない、非評価労働をどう評価するのかを考えました。暫定的な結論は2つです。
1つは、家事労働のそれぞれに匹敵する市場換算に表出された労働(これは職種に当たる)に比定して、その対応する家事労働を労働評価していく方法。
もう1つは、家事労働の労働時間を、金銭換算しないで労働時間(望ましいのは社会的平均的な労働時間)を評価数値として表示することです。
このうち家事労働に対応する職種の賃金水準をもって家事労働を評価する試みはすでに始まっていることを知りました。それを紹介する論文「SNAにおける無償労働の貨幣評価と家計勘定」(佐藤勢津子/専修大学大学院,作間逸雄/専修大学経済学部)を参照に説明します。
SNAとはSystem of National Accounts(国民経済計算体系)という国連の機関です。そのサテライト作業の1つに無償労働の貨幣評価は取り組まれました。「1995年、北京女性会議は、その行動綱領のなかに、無償労働を貨幣評価し、中枢国民勘定ではなく、サテライト勘定にそれを反映させる方法を研究すべき」としています。30年ほど前にここまで話は進んでいたのです。
日本では1996年旧経済企画庁経済研究所は無償労働の貨幣評価を研究し、その推計結果を1997年に公表しました。
*経済企画庁は日本の国内総生産(GDP)をまとめる政府担当機関であり、これは省庁改編後には内閣府にひきつがれています。
上にいう中枢国民勘定とはGDPを指しています。SNAは、世界各国のGDP算出の基準も決める国連の機関です。その北京女性会議は第4回世界女性会議です。
日本の家事労働評価は、1997年からこの論文発表の2013年までに4回行なわれ、その都度いくつか改訂され、担当部署も交代しています。
評価には3つの方式があります。算出に用いる基礎データは、時間使用調査による行動カテゴリー別時間データと男女別、年齢別、職種別賃金データを使い、それには総務省統計局「社会生活基本調査、厚生労働省賃金構造基本調査(賃金センサス)」が主に用いられています。
方式が3つに分かれるのは、行動カテゴリーを予め定められている(プリコード方式)、記入者が自分で何をしていたかを自由に記入できる(アフターコード方式)、そして第三者基準(委任可能性基準)です。いずれも行動種類の中で無償労働に対応するカテゴリーを取り上げてその行動時間を賃金データで評価するものです。
家事労働を職種に当てはめる代替費用法を2009年公表の対応職種でみると次のようになります。
炊事→調理師、調理師見習
掃除→ビル清掃員
洗濯→洗濯工
縫物・編物→ミシン縫製工、洋裁工、洋服工
家事雑事→用務員
買物→用務員
育児→保育士
介護・看護→看護補助者、ホームヘルパー
「家庭内サービスを代替するサービスを生産する産業の現業職種は一般に低賃金である」(p9)とされています。これらを「家事的労働」と呼ぶ人もいるようです。上の家事のうち育児と介護・看護が私の分類する「家族内ケア」になります。
これら右側に表示されている職種の〈時間給〉がどれくらいかは調べていませんが、
‘’納得のいかない‘’事情説明を実際にされているみなさんにそれぞれ教えていただきたいわけです。

1997年の経済企画庁の推計結果をこの論文筆者は次のように紹介しています。
「基礎統計である時間使用の制約は厳しく、各国の先行事例と比べて過小評価にならざるをえなかった…先進諸国の無償労働者の貨幣評価額は、GDPのおよそ6割であり、わが国の無償労働の貨幣評価額(20%台)との差を統計上の問題として説明することは不可能と思われる」(p5)。
著者は遠慮がちに言っていますが、日本の家事労働評価は先進諸国と比べても半分以下にしか評価していないとあきれているのです。お分かりでしょうか?
その後の年度の家事労働の評価方式がどのように変化したのかはまだ調べていません。いずれにしても不十分であり、大いに改善の余地はあると思います。そう判断しますが、しかし、家事労働を金銭評価する一つの土台ができていたことは大きな発見です。
それにしても、この質量の評価レベルをそのまま家族の世代継承機能を有償換算された表現とみるには、あまりにも軽率であり、事の重要性と結びついていない感じがします。機会があればこの評価内容に言及したいと思います。

●これを「家族と家事労働」勉強会にしたいと希望します。賛同者はいませんでしょうか。論文が多くあり、分担をして読みたいと思います。

介護と周辺の見聞・体験について

私は経験により物事をわかろうとする人間と自覚しています。このところ介護を家族ケアの重要な要素としてよくとり上げています。現在ある入所型介護施設で相談ボランティアなる任に就いているのは自分で直接にこの要件を満たすためです。
しかし、ひきこもり経験者に囲まれる生活をしたときに、彼ら彼女らから介護について学ぶことが3つありました。
1つは、彼ら彼女らのなかに数人、高齢者家族を介護担当を重ねている人がいたことです。家族からはそれを強く感謝されていたことです。そのうちの1人に対して、介護職についてはどうかと話したことがあります。これはひきこもりと準ひきこもり経験者には介護職についた人が一定数いると知っていたからです。
2つは、介護をもう少し広く対人ケアとしてみると、マッサージ師、整体師などの療術師をめざす人が何人かいました。1つ目の例と同じく、彼ら彼女らは人への対応が丁寧で、しかも感覚・感情的にも適合する人が少なからずいます。そういう思いから一度その主旨の集まりをよびかけたところ数人が参加してくれました。実際に療法師になった人は少ないです。別の理由があるためだと思います。
3つは、きょうだいに自力でからだを動かせない障害者がいて、今日でいうヤングケアラーを経験した人がいます。その人はこの難しい状態から逃れるために、小遣いをためついに家出をしました。しかし数か月後に生活に行きづまり、生活保護申請に私は同行しました。生活保護窓口でも医療機関でも好意的に受け入れてもらいました。
この人からはすごく詳しい経験や苦しみを手紙の形でもらっています。A4版用紙にして、厚さは10㎝近くになる大変に詳しい内容です。その繊細な感覚には大へん学ぶところがあります。ヤングケアラーがひきこもりと類似の状態になること、その人がひきこもり経験者の集まる不登校情報センターの居場所に通ったことは納得がいくのです。

ところが、この3つの体験は、私自身で体験したものではありません。自分で介護の現場を体験し、入所し介護を受けている人の話を聞こうと考えました。家族内ケアには子育て、病気や障害者のケアとともに高齢者の介護が重要な部分を占めると認めるからです。
いくつかの経過をへて昨年6月から、入所型介護施設で相談ボランティアに就きました。経験としては周辺事態にすぎません。家族内ケアにおける介護の特別の意味を、十分にとはいきませんが少しは知ることができたでしょう。

子どもの居場所=学齢期以降の子育て環境の変化

子育ては、家族内ケアの中心部分です。今日では保育園・幼稚園が広がり、乳児からの受入れるところもあります。小学生以降の学齢期は主要には学校であり、明治期の設立以降これは全国に設立されました。
これらが家庭外にある子育て施設です。それらに加えて今日、学校と並ぶもう1つの家庭外の、学校以外の子育て施設が生まれつつある時代に入ったと私には思えます。
以前からあるのは学童保育ではないでしょうか。あるいは学習塾や習い事教室なども相当するでしょう。これらの需要が増えたのは、子どもを持つ主婦の就業機会が増えてきたことが背景にあります。
最近十年には、これらに加えて子ども食堂の全国的増加、2017年施行の教育機会確保法以降(コロナ禍を経験して)には不登校の小中学生の増大も関わっています。いま全国各地の自治体は、子どもの居場所づくりに積極的に取り組まざるをえなくなっています。
教師の働き方改革にあわせて、学校の部活動を地域のスポーツクラブなどに移行させる動きもあり、文化部的活動もこれに匹敵する動きがあると予想できます。これらは「校内フリースクール」設立の動きとあいまって、学校制度が大きく変わっていく過程が始まったものと想定できます。家庭・家族制度の変動はより長期を要するでしょうが、学校をめぐる変化は、それよりは短期間に進むと考えられます。
小学校以前を含めて小学生から高校年齢までの子育ては、家庭外の各種の受け入れ手段・施設が求められる時代に入っていると判断できます。こうして子育てに関わる家事労働の評価は、乳幼児期から学齢期まで対象となる家庭外サービス業・施設ができています。あわせてボランティア活動を評価する比較対象とされる要素が生まれていると考えることも可能になっているのです。

介護が家族の世代継承機能をもてるのか?


私は介護の役割を家族の世代継承機能において高齢者(祖父母)世代、または介護を受ける側からも考えたいと思います。人に生まれ成長し社会を担い、そして高齢期を迎える。主に高齢期に介護を受けます。障害者など子ども時代から看護・介護を受けるばあいもこの家族の世代継承機能を担っていると推測します。

1つの論文を見ました。森川美絵「在宅介護労働の制度化過程——初期(1970年代~80年代前半)における領域設定と行為者属性の連関をめぐって」(大原社会問題研究所雑誌 №486/1999.5)です。私の求める目的に一致するとはいえませんが、〈介護〉が社会のなかで確立する経過を詳しく説明します。

指摘されたなかで4つの点が参考になります。

1つは、介護が本気で政策的課題になったのは1967年の調査で「70歳以上の寝たきり老人が全国に20万人以上もいる」(p27)と明らかになったことでしょう。

2つは、この介護をめぐり、初期は施設(入所)介護が重視され、それが在宅介護重視に徐々に移行していくこと。

3つは、非専門的な「主婦役割・大衆役割」化がすすみ、専門的な「特殊な技能・知識を要する行為」が対置され理解が動揺的でありつつ、今日に続いていること。

「負担を感じる家族それぞれに念頭される介護とは、病院への付き添い、食事づくり、尿道カテーテルや人工肛門の処置、公共の福祉制度の情報収集、そのような明確な行為として表現できない様々な気遣いや気苦労かもしれない。介護という表記法は、このような、介護という言葉で社会的に了解されるあいまいな行為領域を、あいまいなまま総体的に指示する表記法である」(p26)。

これは介護に限定されるのではなく家族内ケアの全体に通じるものと見ます。

4つは森川さんの論文では、それを乗り越えるために、介護の社会化、介護の地域社会化としながら、問題を抱えたままの現状を指摘しています。

*この論文発表の後1998年に、介護保険制度が制定されました。

一般家庭の家事労働としては、介護の手がたらずヤングケアラーの事態を生み出し、他方では「介護退職」という親の介護のために娘などが40代、50代の早期退職になる事態も生み出しています。

森川さんが表わしているのは介護を提供する側、介護を社会的に支える行政的視点からのものです。その意味するところは大切と思いますが、人の一生として介護を受ける当事者の視点は見当たりません。この点での何かを明示しないと、家族内ケアの構成部分である介護はよく理解できないのではないか。これが感想です。

一般に家族内ケアにおいて、それを受ける例——乳幼児期から成長期の子ども、成人の障害者、高齢の被介護者——の立場からも問題を見ないと、それが家族制度を動かす原動力である点は、十分にはないかもしれません。

私は上の仮説に近づくためにもう1つの論文を見ました。西川真規子「感情労働とその評価」(大原社会問題研究所雑誌 №567/2006.2)です。この論文には感情労働の事例として「在宅介護」が挙げられています。介護の質を高めるには「4つの気働き」があります。それは①感情的知性(自分と利用者の感情や立場を理解し…サービス実践に反映する能力、②〈メッセージ伝達や行動説明、問題解決策や利用者の説得なサービス実践に必要なコミュニケーションスキル〉、③感情管理スキル(ネガティブな感情を抑えヘルパーとしての適切な感情を維持するスキル)、④場の設定スキル(初対面での対処や利用者のニーズの把握など利用者との関係構築、共通の場の設定に関するスキル)です。

この4部分をサービスの質および介護に関する所有資格において調査しました。首都圏130の訪問介護事業所の545名のヘルパーを対象に実施されました。著者は「4つの気働きスキルとサービスの質は有無な相関関係がある」(p11)とし、また資格上の関係では「関連性は希薄である」としています。

私にはこれを判断できる能力はありませんが、調査した施設における介護士は、いずれにしても低くはないとの感想を持ちました。著者はこのスキルを高める「現状の資格講習システムでは、感情労働に関する能力・スキルの向上に十分に対応できていない」(p12)としています。

西川さんの論文は、対応する介護側の技量の点からのアプローチであり、当事者側からのものではありません。ただ介護を「感情労働」ととらえる見方は、実務的・ルーティン作業とは別の労働評価にあたります。知識集約型労働と対置する労働の性格をとらえています。

私が見た範囲では、介護を受ける側の意見は統計的に扱われる規模で集約されたものはまだありません。私が期待していることは介護を受けている側の状態・気持ちを多く見ることにより明らかにされるでしょう。総合において在宅介護の方が介護受給者にはいい環境にあると言えるでしょう。私のささやかな経験の範囲では、家族と切り離された入所型介護施設では介護が「世代継承機能の一部を担う」とする面を証明するには十分ではありません。

家事は人類誕生からの生理的活動の続き

20世紀後半以降の日本の経済社会は、家族の姿も大きな変動期にあります。1950年代後半から始まる高度経済成長期を通して、日本の産業社会は工業化・サービスン業化し、農業は衰退に向かいました。それにともない家族状態も変化し、家業や家事労働の内容にも変化があります。

その変化を感性の優れた若い世代が先端的に表わしました。1960年の後半に生まれた人たちからそれは徐々に増え始めました。初めは不登校の子どもとして、やがて社会的ひきこもりになりました。ひきこもりとはこの社会の変化を身体症状として表わした人達です。現在はそこから社会の中心にいる多数者に広がる時期に入ってきたと見ます。

それらの変化を追求していくと、家族関係、家族制度あるいは親族制度につき当たり、いずれ家族制度は大きく変化する時期を迎えると予測しています。

家族関係の変化を呼び起こす原動力は家事労働です。家事労働には2つの部分があり1つは家族内ケア(子育て・介護など)、別の1つが衣食住に関する日常です。そして家族関係の変化を起こす原動力は家族内ケアとするのが私の結論です。

人間は誕生とともに(厳密には誕生以前から)、生存のために、食べるために、眠るために(棲み家)、身体を守るために、すなわち衣食住の確保をしてきました。しかしその動きは労働ではありません。呼吸や消化・排泄などの新陳代謝が、さらに言えば出産やその元になる性行為や授乳が労働ではないのと同じです。

家事が労働となるにしても、労働以前の人間の動き、働きの継続といってもいいのです。これらの人間の動きが、労働になるには一定の条件が整ったときです。言いかえれば家事とは、人間が誕生以来(誕生以前から)身体に備わった動き、生理的な活動として生存を図るためにとってきた動きの後継的活動です。

ここで私はエンゲルスの未完のエッセイ『サルが人に進化する際における労働の役割』(1877年)にふれます。ここにいう労働とは<人間の誕生とともに(厳密には誕生以前から)>のところです。人が人になる以前の過程で生活・生存に必要な衣食住の条件を獲得するための動き、サルが人に進化する際にはこれが役割を持ったというのです。エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』の記述はこれとも矛盾なく続いています。出産から家族内ケアもまた(厳密には誕生以前から)続いているとしていいのです。

さて生理的活動は大筋においてはじめは男女の役割分担として発展しました。役割分担において女性は生理的活動の延長といえる子育てなどケア分野を、男性はそれ以外の食料の確保などの採取・獲得の活動につきました。この役割分担が分業のはじまりです。分業はより効果的に生産的に事をすすめました。それでも家族内ケアの起源のうち、直接に子どもを産み出すのは女性です。性役割による分業は、この自然的与件によります。

なぜ家族内ケアが労働とは考えられてこなかったのか? 理由の1つは子育てが、親にとっての生理的活動だからです。健康人の空気呼吸が問題にされないように、食事をするのが労働でないのと同じです。もっといえば排泄もそうでしょう—トイレでの振るまい—は問題外ではないですか? 子どもを産み、育てる—その前の性行為も含めて—これらは人間の生理的(自然的)行為であって、労働ではなかったのです。家族内または親族内の生活の仕方に扱われたのです。

もう1つ理由があります。家庭内で自然に行われていた生活の仕方が、家庭の外側に、分業として現れてからそれが価値を持つ労働として見られたのです。氏族(部族) 間の生産物のやり取りのときが始まってから、物品の交換は特別の人間労働と考えられます。家事労働もまた同じです。養育・子育て、家族の健康ケア、介護などの家族内の動きはそれまで労働とは考えられません。それが家族の外側に用意されるとともに、特別の労働と考えられたのです。これらは最近50年にようやく広く認められるようになったことです。

出産から子育てまでの自然な生理的活動の社会的側面は大きくなっているのが現代です。核家族・単婚制という今日の一夫一婦制においては、子育てや介護という世代継承機能が支障をきたし、困難な状態が明らかになっています。家族には多くの機能があり、衣食住に関する日常生活はいろいろ改善できます。電化製品が広まり日常家事を改善向上させる用具も発展しました。外食店やクリーニング店など多くのサービス業が生まれ家庭内の家事労働を助けてくれます。

その一方で、家族にとっての世代継承機能はなくせません。産院ができ、幼稚園・保育園ができ、学校ができ、病院ができ、介護施設ができました。これらに助けられ、軽減されることはあっても、家族の世代継承の働きをなくすことはできません。物理的・時間的に減らせても主要部分を家族が受け持つのが世代継承機能です。それは家族が本来もつ不可欠な役割だからです。

とくに世代継承機能の力が低下していること、それが家族状態の変化を必要としているのです。この変化の過程がどのように表われるのか。この変化は一国についてみても数十年から百年単位の、数世代にまたがる長い期間を要するものでしょう。誰かが画期的な発明をしてさっと広まるようなことではありません。

文学フリマ・東京に出展するので応援頼みます

文学フリマ・東京が5月11日(日)に開催されるとわかりました。主催は一般社団法人文学フリマ事務局。会場は江東区の東京ビッグサイト。 出展申し込みをしました。 不登校情報センターの名前で出展します。ブースは長机(180cm)=2ブース分を申し込みます。出展料は14200円。

(1)販売に参加する人を募集します。入場は無料。開始の12時前から夕方5時の終了までお願いしたいですが、時間の事情は考慮します。できれば松田を含めて5名交代にしたいです。

(2)販売参加者には総売り上げの半分を、販売参加者に時間数により分割して支払います。著者にはその本・冊子の売り上げの半額を支払います(合計千円を超えた場合)。千円未満のときは別案を考えます。不登校情報センターとしては持ち出し(赤字収支)ですが、たぶん多額にはならないからです。

(3)出展作品は、①あゆみ書店発行の既刊作品、②これから作成する新作品、③出版社から発行している体験記など。候補作品を列記します(取り下げ・追加もあるはずです)。

*①あゆみ書店発行の既刊作品は、

▼中崎シホ『狂詩曲-中崎シホ詩集』 (B6版64ページ 定価300円) 、

▼二条淳也『中年ひきこもり』 (A5版86ページ 定価400円)

▼井下真由美『少女まん画に描かれた母親像』 (A5版 ●ページ 定価300円) 

▼葉月桜子『異物』 ( A5版90ページ 定価300円 )

『不条理ものまんが集―太田勝己の作品』 (A5版50ページ 定価400円) 

▼とおふじさおり『生い立ちに名はない』(A5版65ページ 定価400円)

*②これから作成する新作品は、

▼Angelさんの絵画作品集「BONHEUR」の他に、サイト内の保管している4つの体験記のうち本人の了解が取れる場合。

*4つの体験記は、かなり以前に投稿してもらい『ひきコミ』に連載済み。

▼高村ぴの『アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤』、

▼ナガエ『私の物語』、

▼辺見ゆたか『精神的ひきこもり脱出記』、

▼森田はるか『引きこもり模索日記』。

*③出版社から発行している体験記などは、当日の特別定価で販売予定。

▼水元香苗『学校なんてやだもんね』、

▼三須かほり『マイペースがいちばん』、

▼桜井愛『いじめとの九年戦争』、

▼三田大作『いじめで子どもが死なないために』、

▼松田武己『ひきこもり国語辞典』。

出版社発行本の売り上げの半分は著者に渡す予定。

(4)新作品の作成を4月の休日午後に行います。既刊作品の増刷を含む。

*出展作品を事前に届ける必要があるかもしれませんので、それに間に合う日を設定します。

(5)上記の作品が全部そろえば16点になります。販売目標として出展作品は最低1冊以上、全体で100冊、50000円をめざします。

★応援参加者(当日販売者)は、松田まで連絡をお願いします。

GDP(国内総生産)の利用に関して

家事労働をどう評価する前に出合ったのが、生産・サービスおよび投資を金額表示している国内総生産(GDP)です。〔*ウィキペディア「国内総生産」2025年1月15日アクセスを参考にします〕。
エンゲルスの時代、19世紀にはGDPの考えはありませんでした。しかも20世紀に入ってからのGDPの成立には長い経過があり、しかもいまもって十分に確立しているとはいえないでしょう。GDPが公式に国連SNAの基準として採用されたのはようやく1993年のことです。私の記憶でもそれまでにGNP(国民総生産)という言葉が使われていました。それでいてGDP自体は今なお確固とした正確性や公平性をもっているとはいえません
そういう不正確さ、あいまいさを持ちながら一国の経済規模を計るにはある程度の確かさをもち、数字換算されているので便利に利用されます。成立経過を省いてGDPを私なりに紹介します。
エンゲルスの時代にはGDPは存在しません。GDPで扱うのは「市場で取引きされた物品・サービスの生産を計上」されているものです。その市場の成立は世界各地で大きな時間差があります。19世紀に市場取引が進んでいたのはむしろ一部の地域、主に西ヨーロッパ、北アメリカおよび日本の都市域に限られていました。その時間差は今日も続いています。
ウィキペディアの「国内総生産」のページに表示されているIMFの国別GDP(2016年)の地図には、MER(名目)ベースとPPP(実質)ベースが併存しており、「名目ベースでは先進国の値が高く、PPPベースではインドや中華人民共和国など新興国やアフリカなどの発展途上国の値が高く表示されやすいことが読み取れる」としています。これは名目GDPと実質GDPの違いを表わすだけではありません。
概略を知るためですからこれを詳しくは述べませんが、「市場取引き」といっても、市場外取引の経済活動を完全に無視することはできないのです。市場外取引の分量は必ずしも少ないわけではなく、さまざまな推計により計算する方法を採用しています。すなわちGDPは、一国の経済活動を市場取引きによって計算しているが、それ以外のものを推計して取り入れざるを得ないのです。
数値に関しては、米ドルベースで表示しますが、これは為替の変動を直接に受けます。円高時の日本は高く表示され、円安になれば低く表示されるのです。
何をGDPの経済活動に含むのかに関しては異論もあります。国により範囲に含む・含まないの違いもあります。麻薬取引や売春サービスなど地下経済を計上されないのですが国によっては計算に入れています。すなわちSNAの基準はありますが、その適応は各国に任されており同一に実施されていません。日本は内閣府が担当ですが、計算方法は公開されていません。国家機密が含まれ、多くの国も公開していません。
この他にもいくつかの問題をもつのがGDPです。それでも大まかな国民の経済活動を表示するのに便利であるために使われます。GDPは事態を把握しやすいといえます。
そのGDPと比べると事態の把握がかなり難しいのが家事労働です。信用性の高い家事労働を計測する方式が確立するにはまだかなりの年月を要するでしょう。