情報センターのサイトを広報・告知に活用してください

東海地域の学習教室のあるNPOから次の問い合わせがありました。
それに回答しましたが、首都圏内の団体も意識してここに紹介する回答は少し詳しくしました。

① 学校や団体の基本的な情報を載せたい。無料・有料かをお教え願います。
→原則無料です。基本的な情報にURLが入る場合はリンクになり、それは有料です。
URLを除く情報掲載は無料です。

② 定例会、講演会などイベント情報を載せたい。何かしらコラボができたらと思います。
→「不登校ひきこもり発達障害のイベント」というページがあります。そこに無料で掲載します。

③ 支援者として取り組み内容を載せたい。私どもも、支援者を探しております!
→「支援者を募集するページ」があります。そこに無料で掲載します。
ただし、あまり効果的な募集告知とはいえません。
有効にするにはどうすればいいのか名案があれば提案してください。

④ 体験者として本音の声を載せたい。現役生徒の声も載せてみたいです。
→「体験者・体験記」というページがあり、無料掲載します。
30人余りが体験記を載せていますが、不登校やひきこもりの体験が中心です。
現役生徒の場合はどんな声になるのでしょうか。
新しい方法がいるかもしれないので、実際の声を見てから考えます。

⑤ 広告や類するものを載せたい。学園案内をと思っております。
→広告関係は基本的に有料です。URLへのリンクも広告の一種です。
バナーをつくり、数ページにバナー広告を置く方法もあります。
料金は年間3千円から5万円まで幅があります。

⑥ サイト利用以外のことで協力してほしい。共同でイベントを主催したいです!
→これまでも共同企画で講演会などを開いたことがあります。共同企画の種類、
情報センターの協力の仕方などにより費用負担をお願いすることがあります。
費用負担は交通費、宣伝費などの実費に少額の企画費を合算したものです。

⑦ 支援者個人を紹介する、本を出したので紹介したい。
→支援者個人を紹介するのは「支援者・講師等プロフィール」ページに載せます。無料です。
→出版した本の紹介はAmazonの紹介リンクを使い(数ページに)掲載しています。無料です。

◎以上です。ほとんどが情報紹介用の所定用紙があります。サイト内にも掲載しダウンロードできます。
他にも新聞に掲載されたときは記事を掲載するページなど多数あります。
心理相談室などに固有の情報提供する場合はその特別のページもあります。
ほとんどが学校・教室、相談室からの提案を受けてできたページです。
これからも「こういうものを掲載する方法はないか」という形でご相談いただければ、新たな企画作成の参考にさせていただきます。

カウンセラー長谷麻美さんの写真を掲載

カウンセリングルームWhereaboutsの長谷麻美さんが、ご自分の写真を「掲載できれば使ってください」と送ってこられました。
「おっ、これは自分のなかからは出てこない提案」と思いました。
そしていろいろなことが頭を巡りましたが、まずは長谷麻美さんのプロフィールページに載せました。
私は画像の扱い方が下手なのでSaさん即席で習いました。
巡らしたことの1つは、これを他の方にも呼びかけ広げようということです。
巡らしたことの2つ目は、似顔絵を使いたい人がいるかもしれないことです。
送られてきた写真そのままではなく、カット処理を必要とする場合……。
サイトが大きいので、扱う写真や似顔絵が多くなるので、ファイルの保存・管理も無視できなくなりそうです。
手間暇もかかるのでそこも考えなくてはなりません。
リンクをしている相談室の関係者に限り写真・似顔絵を扱うのもありかもしれません。
サイトで紹介する学校や相談室の情報はもともとはそこからの要望や提案が始まりです。今回の写真もまたそうです。
もっと言えば不登校情報センターのサイト制作自体もそういうものでした。
これからも要望や提案をお待ちしています。

〔長谷麻美さんのプロフィール〕
http://www.futoko.info/…/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%BA%BB%E7%BE%…

支援者交流会から実践交流会へ名称の変化

17日、全国若者・ひきこもり協同実践者交流会の実行委員会がありました。
多くは3月の大会準備の実務的な意見交換でした。そのなかでこの集会が始まって12年のうちに支援者交流会から実践交流に変わった意味をやり取りする場面がありました。
「ひきこもり」は支援の対象者であるばかりではなく、支援の側に回ることが相当に多いという事情があります。出席のある方が「支援の対象から現状変革の主体者でもある、それを内包している」といいました。そういう理解の仕方が12年のなかで広がり、数年前から支援者交流会から実践交流会に名称も変えたのです。
このことは私も気づいていたことです。これは「ひきこもり」の顕著に表れることかと思っていたのですが、障害者や高齢者などの取り組みにも共通する事情があるそうです。

「引きこもり経験者という“当事者”の可能性」(2016年5月10日)
「引きこもり素質のある人が引きこもりの支援者になる」(2016年2月28日)
http://www.futoko.info/…/%e5%bc%95%e3%81%8d%e3%81%93%e3%82…/

シドニー留学を進める阿相さんのバナー作成

オーストラリアはシドニーへの留学を進めている阿相守彦さんが訪ねてきました。
阿相さんはしばらく前にもある青年をシドニーに同行してきたところです。現地の語学学校に3か月の短期留学を進めるのです。
阿相さんが自分スタイルの留学のポイントとしてあげているのは次の3点です。
(1)現地のシドニーに日本人の世話人Guardianがいる。
(2)日本人が経営する精神科医師がいて連携している。
(3)ホストマザーが日本人のホームステイ先がある。
阿相さんはシドニーの異文化生活体験を、この日本人ネットワークを生かして青年の精神的・社会的な成長を図っているのです。
阿相さんは高校時代にやんちゃな生活をして警察にお世話になった経験があります。シドニー留学を進めるのは自分と経験の重なる人で、女子は苦手で対象とはしていないといいます。自分にできることとできそうにないことの判断に潔さがあります。
その阿相さんの留学支援を案内するバナーを作成しました。このようにどこかの団体・組織を背景に活動している人でもそれぞれの特徴はあります。そういう人の紹介につなぐ案内にもバナーを生かしたいと思います。

十数年前の情報センターの居場所を相対的に評価し直す機会

4月3日、フューチャーセッション庵に参加しました。会場は池袋の生活産業プラザです。5月の「ひきこもり大学 in 下町」の参考にしようと思いました。参加者は50名以上100名以下ですが、かなり多かったです。
情報センターの事務作業グループの一人Uくんもいて、後で話したことをまとめてみました。参加しての感想ですが、このフューチャーセッション庵の様子を、不登校情報センターの2003、4年ごろのフリースペースと比較していました。
(1)庵の参加者数がとても多く、情報センターの場合は毎回の参加者は10名から20名程度です。庵は2か月に1回の開催ですが、情報センターは毎日(土日曜日・祝日も)です。情報センターの場合は固定的な事務所があることに関係します。
*2004年2月・3月の参加者名簿が見つかりこれが確認できました。2月は実数63名、3月は64名が参加。数名が月に15日以上参加しています。
(2)参加者の年齢層が、おおよそ10歳以上違います。庵は20代中盤以上から40代後半までと推測され、30代が中心だと思います。
当時の情報センターは20代が中心で10代も少し、30代はそれよりも多く1~2割程度というところです。10余年の違いがそのまま移行している感じです。
(3)参加者の男女比は、庵は女性が2~3割で、スタッフが多いと思います(見た目の受け取り方です)。当時の情報センターを調べると、女性は25~30%程度です。
(4)庵には、親の参加が少しありました。子どもの問題解決の手掛かりにしようとする人も少しいたようです。情報センターには別に親の会が毎月定例会をしていて、こちらの参加者も数十名になりました。親子の両方が関わるのは2割以下ではないかと思います。
(5)運営体制が全然違います。庵にはスタッフとそれに準ずる人がかなりいますが、当時の情報センターは事実上スタッフがゼロで、カウンセラーさんが各自の都合で参加していましたが、これを確認する記録は見つかりません。カウンセラーさんが独自にセミナーや分科会をしたことはあります。
庵はこのスタッフが中心になり、テーマを設定した分科会が持ちます。分科会のテーマは固定的ではなくときどき変更するようです。
(6)庵はこの分科会が数時間で、その前後が開催時間ですから、全体でおよそ4時間になります。当時の情報センターは昼頃から誰かが参加し始めて、夕方から帰り始める人が多く、遅い人は8時、9時になりました。

おおよそがこのような違いになると思います。情報センターは成り行き任せで続いていたのに対して、庵はゆるいですが目的的で組織立っています。
情報センターのこの状況は2004年3月がピークで、4月から参加者は減少します。その原因はNHKの“ひきこもりキャンペーン”が終了したことです。各地のフリースペースや居場所がこの影響でなくなりました。
情報センターの居場所が続いたのは、相対的に参加者が多かったこと、それが毎日続いていたこととともに、その頃から作業グループが生まれたことに関係すると考えられます。実は庵についても何らかの変化が起こりうると感じています。どういうものになるのかはこれからです。
このように庵の動向を見ることは、十数年前の情報センターの居場所の状況を相対的に再評価する機会になりました。また2003年ころ生まれた作業グループを位置づけて評価する起点になりそうです。

個別プログラム方式と個別伴走型方式の違い

フリースクールやホームスクールを義務教育の一つの形態として位置付けることが見送られました。国会で議論されている多様な就学機会を確保する法案のなかのことです。
義務教育の場を学校に限定してきた教育の大転換になると注目されたのですが、「不登校を助長することになる」などの慎重論が上回ったためだといいます。
私は学校以外の教育を進めるのに2つの考え方があることが明瞭になったと理解しています。
1つは、生徒個人の状態を判断して、それに沿った個別プログラムを作成し、指導計画をつくり支援していくもの。これを個別プログラム方式と呼びましょう。今回の法案ではこの考え方が取り入れられていたようです。
もう一つは、そういう個別の指導計画は生徒を軌道に乗せて進もうとするもので、個人の提起する問題を置き去りにするという批判です。これを個別伴走型方式と呼びましょう。

実はひきこもりの支援に関しても同じことが生まれています。私の経験からすると個別プログラム方式はある時点から生徒・当事者の状態とは離れてしまいます。方式は絶えず修正しなくてはならないものです。個別プログラム方式はそれが意図されずに進み、当事者が置き去りにされてしまいやすいのです。
絶えず修正するとは、言葉を代えれば個別伴走型方式になることです。当事者の周囲にいて様子を見ながら対応策をつねに変えていくことになります。当事者の様子から離れることは少ないですが、難しい面もあります。当事者の様子に合わせて指導が漂流していることもあります。
福祉的な支援においては、当事者の関与を除いた解決策はないことが明確になっています。これを教育の場でも採用するしかないと思います。
目標を大きくし、当事者が向かう方向に手を加えず、伴走ないしは後ろから押していく形が望ましいと思うのです。支援現場では試行錯誤の連続ですが、私にはそういう姿も当事者にも見えてしまうのがいいと考えています。もともと完全はないからです。

引きこもり素質のある人が引きこもりの支援者になる

訪問サポートを志望する学生などに、不登校や引きこもりの経験者がだんだん多くなっています。そういう経験はしていなくても気質的に共通性がある、摂食障害をしていた、自傷行為をしていた、いじめを受けた経験がある…などその経験に似たような素質の人も混じります。
これらの学生は不登校の子ども、引きこもりの人の所に行ったとき、かなりレベルの高い対応力を示す話をよく聞きます。人として柔軟に子どもの様子にあった的確な対応をするのです。
以前にある引きこもり支援団体が調べたところでは、引きこもりの当事者が自分の所の来てほしい“支援者”の第1位が引きこもりをした経験者と答えたのを思い出しました。気質、適性の面からの見方です。回答者は予感を含んでいるのでしょうが、両者は符合しています。
引きこもり経験者が引きこもりの支援者になる可能性はかなりあると思います。ある人が、引きこもり経験の中で自分なりに学習をしており、それを生かす仕事になると話したのを聞いたことがあります。
両者が顔を合わせたとき、現に引きこもっている人の状態の意味付けが肯定的にできるためだと思います。深いところでの共感が起きるのかもしれません。
これは思っているよりも広い意味があるかもしれません。彼ら彼女らの職業上の選択に有効であるだけではなさそうです。対人サービス的ないろいろな面に通用するかもしれません。条件は深いダメージを受ける症状にはなく、一般人と通常の人間関係ができる状態にあることです。今はできなくても、そのうちにできるかもしれません。
不登校・ひきこもりの親の会に参加した学生が感想を話したとき、改めて感じたことです。

母親と長いあいだ口を利かない娘さんのこと

最近の驚いた(驚かされた)話です。
40代の対人不安のある女性です。かなり離れた地域で開かれた引きこもり関係の講演会に参加しました。100名を超える出席者ですが顔を知る人はいないようです。会の終わりに「質問は3名まで」と言われ、2名の質問を終わったところで3人目の手が挙がりません。思わず自分で手を挙げていました。
さて質問となったのですが、あわあわして言いたいことがうまく言えません。
「どうしても人が怖いんです」「先生の所に診察に行けますか(講師は医師)」ということで終わったようです。
私にとってこれが驚いた話です。多数の出席者のいるところで挙手をして質問をする、驚くには十分な“事件”です。

会が終わった後、近くにいたおばさんから声をかけられて一緒に食事をすることになりました。質問に立ちあがったことで声をかけられたようです。その方には40歳近い娘さんがいて、いつのころからかまったく親子の会話ができなくなったと言います。
自分の話しをするつもりで、半分は娘さんの気持ちを考えてみようとしました。しかし、途中であきらめました。このおばさんは人が生きていくのに大事なことを一生懸命に話すのですが、相手の気持ちを聞いて理解しようとする姿勢はないのです。何を話しても「それはわかっている…」、「私もそういうことは経験した…」などというのですが、その部分にとどまって理解を深めるとか、話す相手の気持ちを考えるというのがありません。おばさんの大事だと思うことを手を変え品を変え話し続けていくのです。
自分の経験を話すとか、娘さんの気持ちを代弁しようという気持ちはたちまちうすれました。娘さんがこの親の前で何も話さなくなるのは当然だと納得しました。私にそういう体験を話してくれたわけです。

ときどき娘との会話ができない、という相談を受けます。この話しはそうなる原因、背景の一つがでています。親子関係というなかでも、母親と娘さんの関係に表われるのが特徴的です(一般論としては、父親との関係はそれ以前の気がします)。
困るのは話さなくなる娘さんは親や家族に対してだけではなく、誰に対しても話さなくなることが多いことです。“支援”としては、そうであっても話していくよりも、聞いていって理解しようとする姿勢がないと人と関わる糸口は見つからないのは確かです。

“対価を求めるのは当然”と一般化しないでおきたい

甲斐由美子さんがFacebookに「プロにタダで教えてくれという平然と言ってしまう人たち」を紹介されました。私も経験していることに基づいてコメントを書きました。私のコメントは少数意見です。
私の意見について甲斐由美子さんからお返事もいただきましたし、別の方からのコメントが寄せられました。これらのコメントに私の考えを書きます。取り組みのスタンスを表わす機会になるからです。

Sho Yamamotoさんからのコメントは「プロ=仕事=金を貰う」で始まったものが、24時間365日、休日ぐらいは休む、という別テーマに変わってしまいました。別テーマに変わり「休日は休む、24時間365日全力はできない」は同感です。しかし、これらは対価の件とは別のテーマです。
若い方に希望するのは、こういう意見を読んで、わかったつもりで自分の意見にしないでほしいことです。可能ならば、ご自身で実際にやってみて体験による意見にしてください。私はもう少し若いころは休日なしのつもりで、枕元に携帯をおいて寝ました。真夜中にしょっちゅう電話があり、付き合ってきました。引きこもりの人には昼夜逆転生活の人が多く、夜中に不安が高まってしまうからです。
いまは携帯自体を持ちません。体力と日中の行動への支障が出るようになったのです。

Shintarou Kawakamiさんからのコメントはこうあります。
「人を「助ける」という見地からすれば、これは、言い過ぎる点が存在す、人を助けるには、見返りを、求めない。」
わかりづらいですが「言い過ぎる点が存在」というのは、対価を求めるのは当然として、それがないとダメなのかという意味に受け取れます。「人を助けるには、見返りを、求めない」につながります。私の考えにやや近いのかもしれません(読み違いならごめんなさい)。
私と違うのは「人を助けるには、見返りを、求めない」を一般化することです。私は見返りを求めることもあるし、求めないこともあるのです。
私は対価を求めないこともありますが、対価という収入がないと仕事として続けられません。収入は天から降ってきませんし、特別のスポンサーや篤志家はいないのです。
このあたりまで話せばコメントの多数者と大きな違いはないはずです。もっと柔軟であっていいと思うのです。
河之口眞宏さんのコメントはなごませてくれます。紹介してくれた「三浦千賀子さんも青少年に対する無償の援助続けています」も嬉しいです。

山本周五郎『赤ひげ診療譚』は江戸期の医師の物語ですが、“対価を求めるのは当然”とはしていません。実話に聞く無産者診療所もそうでした。医療だけでなく福祉や教育でも“対価を求めるのは当然”と一般化しなくてもいい、一般化したくはないです。
経済的に貧しいことが背景にあって困っている人にはこういうスタンスがないと、金のある人は助けるがそうでなければダメに終わってしまいます。
甲斐由美子さんのコメントにも私なりの思いを述べようと思いますが、長くなったので稿を変えます。

対価はなくても収支はプラスなので働きます

Facebookのタイムラインに「プロにタダで教えてくれという平然と言ってしまう人たち」というのが入ってきました。コメントするみなさんは対価をもらうのが当たり前でしょう、という意見です。
必ずしもそうはなっていない私の場合をコメントに書きました。

青年期以上の引きこもり当事者からの相談やときには訪問では無料はおろか、交通費などの持ち出しで対応することは珍しくありません。
その機会を逃すと、その人は完全に誰かと連絡をしなくなるのではないかと思うと、金のことなんかはいっておれないのです。こういう私は皆さんの水準から言えばかなりおばかさんです。ま、許容してください。

あまりよく伝わらないかと思い、もう一度あらためてコメントしました。
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職業として継続していくには相応の対価をいただくのに異論はありません。私も職業として続けています。ただ最大の顧客である引きこもりの青年は要するに無収入です。払おうにもお金を持っていません。親ともけんか状態のことも珍しくありません。それを確認してやっているのではないので、金はもらわなくてもいい、そういうスタンスです。対価をもらうのを批判的に見る気はありません。論外扱いされるのを承知で、でもこういうタイプもいるので笑ってやってください。

後になって読み返すと、「じゃあなぜ」という理由がありません。居住まいをただすつもりで、そこを書きます。

私には特別の救済精神はありません。救済精神はどちらかといえば淡白です。
そういう人は私に人間を教えてくれます。私には特別の学問知識はありません。生きる死ぬがさし迫っている人は掛け値なしの人間の状態を示します。
本人は教えるつもりなど全然ないのに人間の深いところを表してくれます。私はそれにひかれます。ある種の依存症みたいなもので、対価のない不満足感よりも感謝があります。
実はその日もそうでした。交通費800円、総時間5時間かけて対価はなく会いに行きました。これだけの授業料で得たものを考えると特別の学問知識のない私には収支は十分プラスです。これがお金をもらわなくても働く理由です。