8日、坪井節子さんの講演を聞きました。
坪井さんはカリオンという子どものシェルターをつくっている方で、真実あふれるお話しでした。いじめを受けた子ども、虐待を経験した人の話に、雪の中を集まった人たちは涙でした。涙の情動は笑いよりも強いものです。
この講演会を主催したかつしか子ども応援ネットワークの終わりの会のとき、ある人が「葛飾にもシェルターがほしいね」と発言したので、オッと思いました。そうしたらもう一人のベテランも「つくりたい」というではありませんか。
ちょうど「家出少女の一時受け入れ」を考えていた私は「受け入れてもいい~ぐらついている」まで話しました。少なくとも3人はシェルターをつくりたいと考えているのです。その後の雑談ではさしたる名案も出ず、今後の成り行きになりそうです。
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人格の成長の阻止や破壊にあった人が持つ困難
前々回の終わりのほうで「何もする気はありません」という人と自己否定感の強い人はほぼ共通の状態にあると書きました。何かの根拠があるのかを問う人がいるかもしれません。
私の体験として見聞したことがあります。強烈ないじめを受けて40年近く家に閉じこもっている人との出会いです。出会いというよりも垣間見た印象です。もし「廃人」という表現がありうるとすればこういう状態ではないかと思いました。
人は成長します。成長とは心身が育つことです。身体の成長は外見にも現われます。心の成長はどうでしょうか。現われていることもありますがとらえがたいこともあります。その心の成長が自己肯定感につながります。ところで心の成長とは何でしょうか? 意外とわからない、答えられないものです。
私はこの強烈ないじめを受けた人を垣間見たあとに、心の成長とは人格の形成であると確信しました。心が成長していないとは人格の成長がストップした状態であると感じたからです。人格の成長がないまま身体が大きく成長しても人になりきらないのです。
心の成長を促進する栄養分は対人関係です。同時に心の成長を阻害する可能性がある毒素もまた対人関係なのです。
子ども時代に強いいじめや虐待を受けた人の困難は、人格の成長が阻止されたためか、ある程度成長した人格が破壊されたためではないかと思えます。対人関係が毒素として働いたためです。
そういう人は意識して何かをする状態にはなれないのです。生存すること自体がパニック、恐怖になるのではないでしょうか。それは自己存在感の空白、自己否定の深刻な状態です。
長期の引きこもり経験者はその手前にいます。「何もする気がありません」「何をしていいのかわかりません」という状態はそれに近づいた状態です。
引きこもり経験者の一人ひとり違う現実状態からスタートしなくてはなりません。誰かの頭のなかに描かれている「社会人としての基準」からはスタートできません。ゼロからの出発ではなく、マイナス状態からゼロに向かい、その勢いでプラス世界に進む取り組みです。
(その4)
運動音痴でいじめられたが元気づける手助けをしたい
「自分も昔、学校で嫌な思いをしたのでそういう方のために少しでもお役に立ちたくて」と連絡を取ってきた方がいます。
20代の静岡県在住の技術系の会社員です。こう自己紹介しています
「私は、学生時代、口がどもる事を何回もばかにされて性格が暗くなり、口がどもり後、運動音痴で対人関係がうまくいかなくなり幼稚園、小学校時代の友人から見放されました。
中学校1年の時は、落ち込んでひきこもっていましたが、2年ごろから部活でテニスをやりました。運動音痴で上達しなくみんなからバカにされました。高校時代も弓道をやりましたが、これも駄目でした。
一時は、自分は駄目だと思っていたこともありました。
私と同じようにいじめらて本来のいい自分を見失った人が元の魅力ある人にもどれるように、うまくは言えませんが輝けるように手助けをしたいと思います。受け入れて元気づけたりおもいっきり笑わせたりと…。」
この方に何かを聞いてみたい、頼んでみたいという方はいませんでしょうか。
外出困難になるいじめ後遺症
いじめの後遺症というのを以前に数回書いたことがあります(いじめ後遺症とは病名ではなく、状態像であると考えています)。
新聞取材があり、そのときに話したことをもう一度繰り返して書いた記憶もあります。
いじめ後遺症でいちばん思い出すのは、あるお宅に訪問した時に、チラッと見た方の姿です。家族の話によると30年以上は家から出られないということでした。その方についは詳しく知ることはできません。しかし、一瞬見たときの様子をなんと言葉で表わせばいいのかわからず、忘れられないものです。
これほどではありませんが、他にも数名はいじめ後遺症として家から出られない、母親としか一緒に出られない人にあったことがあります。
引きこもりの人にはかなり高い割合でいじめの後遺症、虐待の後遺症を含む強いストレスを受けた人がいることは確かです。いじめ後遺症の人について語ることは、それだけで引きこもりの重大な背景を知り、話すことになります。
当人がその体験を話せることは、いじめによる心身のマイナス要素を少しずつ相対化すること、解消に向かうことです。話せるためには聞き役がきわめて大事です。母親はときには耐え切れないし、それがわかっているためにいじめを受けても話せないままにいる人は少なくないでしょう。
カウンセリングはここで有効です。しかし、カウンセラーの力量とともにおそらくは相性というものが関係します。力量には、そのときにはここまでにしておくという判断ができることも含まれますし、相性さえもある程度は力量に入ると思います。そのいじめを受けてからの長い年月の間の空白にも思いを寄せられる人でなくてはならないはずです。何よりもカウンセラーにあうことができない人が多数を占めるのです。
最近、かなり重大な状況のいじめ後遺症の人に会いました。継続して接点が持てればいいのですが…。
体罰教育は何を教えるのか
体罰を重要原因とする高校生の自殺事件が注目されています。
体罰でなくなった生徒に対して、体罰を行った教師は「数回殴った」と言っていたようですが、生徒本人は30回ぐらいと言っていたようです。体罰を行った教師は、体罰の程度を軽く見せようとウソをついたわけです。数回殴ったことが原因で亡くなったなら、1回殴る体罰の重大性をもっと深刻に考えないわけにはいきません。
もしこの教師が生徒指導において体罰を必要と主張するなら、なぜウソをついてまで自分のした体罰の程度は軽かったと思わせようとしたのでしょうか。必要ではあると言いながら、後ろめたさは隠しきれないということではないですか。ウソをつかなくてはならないところに、体罰の決定的なダメさが出ています。
人は、特に子どもは指導する立場の人の言うことによってではなく、すること(行為)によりどうすべきかを学ぶものです。暴力はいけないと言っている人が、暴力を振るっていたら、それは暴力でもって事を進めなさいと教えているのです。体罰という暴力は、生徒に暴力により主張を通すことを教えているのです。なんと悲しい、貧弱な教育方法でしょう。
教育現場でのいじめの原因の1つに、教師の体罰があると言うことになります。学校教育の必要性と向上を願うものとして、教師の体罰はなくして欲しいと切に願うものです。
斎藤晴雄さんが亡くなりました
斎藤晴雄さんが亡くなりました。
埼玉県で小学校教師をされているころ私は何度か雑誌の原稿を依頼したことがあります。
いちばんは『いじめ 発見・防止・克服のてびき』編集したときです。月刊教育誌『子どもと教育』(1985年12月臨時増刊号、A5版186ページ、あゆみ出版)です。
日常の子どもの生活や友人関係の中にいじめの兆候がある、それをどのように見るのか、その後どうするのかを意図にした企画です。教育実践記録を多数の先生に書いていただき、そのうち4本の詳しい実践記録を斎藤先生と大畑佳司先生に対談の形で見てもらいました。
斎藤先生は川口市立芝中央小学校、大畑先生は浦和市立文蔵小学校の教師でした。対談はかなり長くなった記憶がありますが、場所はどこであったのかは思い出せません。
いじめ問題はそれまでもときどき大きな社会問題として注目されていました。そのいじめを小学校の授業の場を含めた現場の先生がどうするのか、実例をあげて指導方法や紹介したものです。
いじめ問題のその当時の学校における状況を、編集の形で見ていたことになります。
この臨時増刊号の筆者の一人に白幡康則先生がいます。当時は山形県立川町立狩川小学校の教師です。現在は引きこもりへの支援活動をされているとネット上の情報で見ました。
私が不登校の子どもの問題を教育誌の編集としてかかわり始めたのはこの後のことです。このいじめの雑誌編集とは直接的なつながりはありませんが、問題をとらえていく視点を学んだ機会です。
斎藤晴雄先生に感謝し、御冥福をお祈りいたします。
イジメ、虐待、依存の経験談
イジメの取材を受ける体験者を探していますが(10月30日付)、申し出がありません。
実はかなり難しいと思っていました。相談活動の中でもかなり親しくならないと話してこないことがいくつかあります。イジメはそのなかでも特に難しいものです。3つの困難なものを紹介します。
(1) 乳幼児期の家族からの虐待経験。乳児期は記憶そのものがほとんどないことと関係しますが、これはなかなかありません。小学生や中学生時代にあった虐待のことは覚えていて、親しくなると話してくる人がいます。生死に関するほどの虐待を受けた人はいませんが、柱に縛り付けられた、食事抜きで家から出されたことがあるなどは聞いたことがあります。
(2) 親への依存経験です。中学生から20代にかけて親にぎゅっと抱きしめてほしいと言った、おんぶをしてもらったことなどです。依存経験は虐待より聞いたことは多いです。親しくなると話してくれます。
(3) イジメを受けた経験は、ごく表面的なイジメられたことがある、というのは比較的聞くことですが、具体的な状況を説明する人は本当にいません。
これらのことが話しづらいのは本人の究極の自尊感情や存在意識と関わるからと思います。相当に信頼できる関係になって初めて話せる気持ちになるのではないでしょうか。男性はことさら難しく女性のほうがそれでも話してくる可能性を感じています。
信頼感情が第一です。医師が診療上の必要性といってもこの壁はなかなか超えられないのかもしれません。カウンセラーは職業上のかかわりの中で信頼関係を築いている人があり比較的多いと予想します。
マスコミ取材も信頼関係は基本的に変わらないと思うのですが、さてどうなるのでしょうか。
イジメの被害者に取材申込み
不登校情報センターあてに、ある通信社から「いじめを受けた被害者」への取材申込みがありました。
突然のメールを失礼いたします。報道機関・通信社の名古屋支社で記者をしていします。
「学生時代にいじめを受けた人のその後」というテーマで取材をする予定で、どなたか紹介していただきたく、メールさせていただきました。
先日までに数回、大河内清輝君の父祥晴さんに取材させていただくことがあり、その際、いじめを受けた子が大人になってもずっと苦しんでいることや、家族全員が心に傷を負い続けるということを知りました。
現在、いじめを受けている子どもの問題が重要なのは言うまでもないですが、いじめが相手の人生そのものを狂わす可能性があるということや、一方で、なんとか立ち直って新たに人生を歩み始めている人もいる、という報道をしたいと思っています。
「ホームページに掲載されているどなたかを紹介していただけたら嬉しいです」とありますが、取材を受けてもいい人がいましたら松田まで連絡をください。なるべく早いほうがいいと思います。連絡はメール(open@futoko.info)でお願いします。
過去のいじめも表面化し始めた
新聞・テレビのニュースからです。前橋市の18歳の女性が、中学時代に受けたいじめの被害届を提出し、警察に受理されました。
大津市の自殺・殺害に始まるいじめ問題は、全国各地のいじめを社会の表面に浮上させてきました。そこでは中学校などの学校と教育委員会のいじめへの無策といじめ隠しが暴露されました。
前橋の18歳女性の被害届は新たな展開を見せたことになります。私は昨年9月28日に「新聞取材「イジメの後遺症」」をこのブログで書きました。今年の2月16日には「いじめ後遺症が問われる時代」として、ある意味ではこのような被害届が出るのではないかと予測していました。
特に驚いているのは、これらの記事への検索が、このブログのレベルに対して異常に多くなったことです。検索等の分析は十分にできませんが、少なくとも夏休みに入ってからはこれまでとは違うアクセスの動きがあることは確かです。
いじめは学校時代の問題だけではなく、被害者のとっては一生の影響を持ちます。その実情が被害届の形で現在の問題になるのです。今回は18歳の人の中学時代のいじめ被害です。20歳の人、30歳になっている人、そしてさらに上の年代の人がいま現在の問題として、加害者を告発していく事態が始まるように予感します。
その動きは事なかれですましてきた学校や教育委員会や、はては教師を多忙と成績主義で追いつめてきた文科省を糾明することにもなるでしょう。
大事なことは、いじめをなくす学校や教師の態勢をつくることです。過去の問題はそれがどんなことを引き起こしているのかに向き合わなくては終わりにはなりません。
いじめを受けている方は“証拠”を残すことです。日記や写真、病院やカウンセリングの受診記録、教育相談の記録、物を取られたら盗難届け…などです。いずれ役に立ちますし、いじめの防止策になるかもしれません。
多くの方には、いじめ事件は無関係と思われるでしょう。ですが私も含めてそのような社会になっていることを見過ごしてきた責任はあるのです。ちょうど戦争責任が戦争を推進した政治家や天皇に問われるだけではなく、近隣諸国から国民にも問われるようにです。
いじめ事件の報道にしらける
大津のいじめに関わって、いじめについての報道が続いています。
わるくはないのですが、話されていることがしっくりきません。
「いじめをなくすにはどうしたらいいと思いますか 」という質問を見て、私ならどう答えるのかに迷っています。
例えばいじめられている子どもに対して「あなたは一人ではない」とか、「どこかに逃げなさい」とか、「信頼できる大人に話なさい」という助言がありますが、いじめられている子どもにそんなことができるのですか。
間違ってはいないけれども建前くさい話に聞こえて少ししらける気分です。
いつもはお笑いを業とし誰かをからかっているタレントが妙にまじめに「いじめはいけない」というのを聞くと、やめてくれ、といいたくなります。あれは演技でやっているということが通用しない子どもはいくらでもいるのです。子どもは大人のやることを極端にやってしまうことが往々にしてあるのです。
「信頼できる大人」を見分けることがどうしてできるのですか。
「どこかに逃げなさい」というのは、逃げ場のない子どもに向けられているのではないのか。
「自分は一人でない」をどうして子どもが確信できるのですか。
子どものいじめの背景には、大人社会の風潮が関係しています。それらに対して私は何ほどのこともできません。
できることは、周りの見聞できる範囲の子どもに対して優しくしてあげたいと心がけるだけです。
特に弱そうな子、障害のある子、貧しそうな子に対してはそうしているつもりです。
大人は実際にいじめられている子どもに出会うことは少ないし、出会ってもその子が目の前でいじめられているのでない限りわかりません。いじめをなくそうといっても空回りするだけです。
普段から子どもを大事にすること以上はできない、これが実感です。
テレビなどで発言する人には自分にとっての実感ある言葉を述べてほしいものです。