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居る場

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周辺ニュース

ページ名居る場、(居場所のニュース)
ケアとは何か?「ただ、いる、だけ」の仕事から見えた「その価値」スクール・セクシュアル・ハラスメント防止関東ネットワーク 「ただ、いる、だけ」という仕事
「あなたの仕事は、ただ、いる、だけ。そこに居るだけです」。さて、こんな風に言われたらどうだろうか。
「おぉ楽じゃないですか。ラッキー」と引き受ける人もいれば、「そんなんでお金をもらっていいんですか」と訝しむ人もいるだろう。
現実にこんな仕事があることを教えてくれるのが東畑開人(十文字学園女子大准教授、臨床心理士)の体験記『居るのはつらいよ』(医学書院)である。
超一流大学に進学、臨床心理学を学ぶために大学院にまで進み「長く苦しい学究生活」の末に「ハカセ」となった「僕=東畑」は、ハカセにふさわしい一流カウンセラーを目指すべく沖縄の精神科デイケアにたどり着く。
そこで待っていたのは、新人には異例とも言える超好待遇と施設にやってくる人々の「ケア」だった。スクール・セクシュアル・ハラスメント防止関東ネットワーク 日常の連続の先に、やがて見えてきた「ただ、いる、だけ」の意味とは――。
東畑開人、1983年生まれ。2010年に京都大学大学院で博士号を取得し、就職したのは沖縄の精神科クリニックだった。
博士号を取っても、非常勤、時給1000円のような条件が飛び交う臨床心理士の世界にあって、そこは「常勤、月給25万円、賞与6ヵ月」という条件を提示した。
ハカセの心はときめく。人生がときめく、好待遇の魔法である。
だが、世の中、そんな上手い話はない。
精神的な傷に触れていき、回復するセラピーをやりたいと思っていたはずなのに、与えられた仕事は「ただ、いる」ことだった。
なんといっても、与えられた最初の業務命令は座っていることだ。
ハカセに求められたのはなにかを「する」のではなく、「いる」こと。
《いきなり突きつけられたのは、当たり前なんですけど、博士号がなんの役に立たないって現実ですよね。
そのデイケアって汗とヤニと垢の匂いが充満していて、あまり綺麗な空間とは言えないんですよ。
それなのに、僕は心理職なんだからと思って、最初はYシャツにジャケットで出勤していました。
でも、働いている人も通ってくる人もみんなジャージなんですね。強烈に浮いてるんですよ。
だから、さすがにカウンセリングの時はシャツに着替えるんだけど、二週間もしたら、短パンにポロシャツで、みんなで一緒に野球をやってました(笑)。
綺麗なカウンセリングルームで、パリッとしたシャツとジャケットでセラピーをしたいみたいな憧れはあったんですけど、デイケアはちょっと違うということです。
そこは、みんなで暮らしている場所なんです。
だから、当然、色々な匂いがするし、「暮らす」のにはジャケットよりジャージがいいわけです。》
「足を引っ張ってたので、イルツラでした…」
そんな場所で、戦力として活躍していたのが、沖縄の女性たちだ。
ハカセも早朝に10人乗りのハイエースに乗り込み、運転して、自力でデイケアに通えない人たちを送迎する。
施設に集う人々と一緒に料理をしたり、洗濯したり、掃除をしたりもする。
しかし、ここでもハカセの労働は誰からもあてにされていない。
心理職の教科書にデイケアで働くのに、生活的なスキルが必要だとは書かれていない。
《車の運転も掃除も調理も、高卒の医療事務のスタッフのほうがよっぽどテキパキ働いているんですよね。
僕はそういう意味では本当に役立たずで、足を引っ張ってたので、イルツラでしたね》
お金をもらえれば、いいのではないか。そんな声も聞こえてきそうだが……。
《それじゃあ、調理とか以外で何をやっているのかというと、ただただメンバーさんと一緒に時間を過ごすのが僕の仕事でした。
お茶を飲んでいるメンバーさんの横で、僕もお茶を飲んでいる。
それどころか、お茶がないときもあって、ただただ、座っている。
本当になんもしないで、ただ、いる。これがつらいんですよ。
何か作業をしていれば、自分の世界に入れるんですよ。
手を動かしたり、車を運転したりしていると、「する」ことがあるので、それをやればいい。
でも、「いる」って何もやることがない。話を聴くとかでもないですからね。ただただ座っているんです。
周りに人がいるから、自分の空想の世界に逃避したり、瞑想状態に入るわけにもいかないですしね。これってとてもつらいんですよ。
そうやって、デイケアに通ってくる人たちと一緒に「ただ、いる、だけ」で給料がもらえる。
こんなんでいいのかってなるでしょう。》
東畑は当時デイケアで展開されていた日常をこんな文章でまとめている。



「朝、目覚めると、ショッピングセンターの駐車場に行く。送迎バスが迎えに来る。
鼻をほじりながら、デイケアに向かう。いつもの席に座ると、お茶を入れ、そして拾ってきたタバコの吸い殻を数える。
朝のミーティングがあり、ラジオ体操をする」
「それが終わると昼休みまでただ座っている。ときどきトランプをしたり、身の上話をしたりする。
昼食を食べると、ソフトボールをしにいく。帰ってきたら着替えて、ただ座っている。
夕食を食べて、送迎バスに揺られて、ショッピングセンターの駐車場まで帰る。………」



簡単に整理をしておくと、彼が志したセラピーというのは何かを「する」ことで、心が病んだ目の前の患者を回復させるという行為だ。これはとてもわかりやすい。
「回復する」というのは成果であり、成果があることで人は経済的な報酬を気持ちよく受け取ることができる。
ケアとは何か?
では「居る」とは何か。「日常に付き添い続けること」と定義できる。
繰り返される、ぐるぐるとした日常はそれ自体が「ケア」として機能している。
さて、問題はケアとは何か、ケアの価値とは何かである。
お茶を飲んだり、タバコを吸ったり、ソフトボールをしたり、一緒に食事をしたり……。これで報酬が発生する。
その時、少なくない人はこう思うはずだ。
「えっこれでお金をもらっていいのか」。あるいは「この人たちこれでいいのか?」
東畑はここまでの話に「そうそう」と言いながら、大きくうなずきながら、言葉を探していく。
《この本の難しかったところなんです。
専門職としてデイケアにいるのは、もちろんそこに通ってくるメンバーの人たちに回復してほしいという思いがあるからです。
でも、現実は10年そこにいる人がいて、彼や彼女はおそらく次の10年もそこにずっと居続けるだろうという現実があるんです。
では、その人たちの回復って何か? 
あるいはそうやって生きることの価値って何か? ということをずっと現場で考えてきたと思うんですよね。
「生産性が無い」といって生きることを否定するのは違うし、逆に「生きているだけで価値がある」という言葉で思考を止めてしまうと軽すぎる。
スタッフが何もしなくても、彼らがデイケアに10年通えていたかと問われたら、それも違うんです。
一緒に麦茶を飲んだり、いるだけの時間を過ごすことはきわめて大事だった。
それがなかったら、「居る」は簡単に損なわれてしまう。
そして、それだけじゃなくて、彼が「居る」ことによって、デイケア全体が豊かな場所になっていたというのもあるんです。
それぞれのメンバーさんがそうです。
ひとりひとりが「居る」ことで、「場」ができるんですよ。
それは間違いなく、そう。でも……だけど……、「ただ、いる、だけ」でいいのか、となるのが本当に悩ましいところでした。
僕は専門家として、この「ただ、いる」時間をどう理解していいか分からなかった。どうしても口ごもってしまうんです。
だからこそ、あえて学術論文の言葉ではなく、エッセイの言葉でこの本を書いたのは、見た人、関わった人たちのリアリティを通じて「いる」ことの意味を考えたかったからなんですね。》
ケアは「場」が主体になるもの
デイケアに勤務経験がある専門家たちは、一様に座っていることがつらいという記述に共感するという。
《あれが一番しんどい、とみな言ってました(笑)。ただ座っているのって、難しいんです。
でもね、難しいことには価値があるはずだと思うんです。
ケアする施設で本当に大切なのは、民俗学でいう「ハレとケ」の「ケの時間」です。
お祭りではなくて、退屈な日常こそがケアだと思うし、人間が生きてるってそういうことだと思うんです。
だけど、そういうケの部分の価値って本当に難しい。それは泡のように消えてしまう。
例えば、「ただ、いる」ことの価値はもしかしたらエビデンスで示せるかもしれない。
でも、それが示されたら、次に「じゃあもっと効率的に『いる』ことの効用を高めよう」みたいな話になっちゃって、そうするとその価値はすぐに消えてしまう。
だって、「居る」の効率をあげるためには、そこに「居る」のが専門家ではなく、素人でも、ロボットでも犬でもいいじゃないかという話にもなります。
そして実際、そうかもしれないんです。
素人もまた「居る」を支えますから。
考えていると、よくわからなくなるんです。
「ただ、いる」ってなんなんだって。
それはそこに居るときには価値を感じるんだけど、でもその価値は語ろうとするとあわく消えていってしまう。
ただ、これって実は「みんな」の問いなのではないかと。
つまり、僕らの日常もまた価値を説明しえないものによってできているのではないかと》
例えば、不登校や出社ができなくなる状況を想像してみるといい。
経験者は「ただ、いる」ことが辛くなり、やがて「自分は役に立っているだろうか」「自分には価値がないのではないか」と問うことになる。
私にもよくわかる。フリーランスになる直前、2017年末~2018年にかけてこれまでにない体調不良に襲われた私は「適応障害」と診断を受けることになった。
そこで感じていたのが、「自分は役に立っていない」という思いだった。
《そして、自分には価値がないから、会社とか学校に行かない方がいいのかもしれないとか、みんなバカにしているんじゃないかと悩むことになるんです。
そのときに「心のケア」が必要だと言われています。
世間的に「心のケア」って、カウンセラーが1対1で深い話をするというイメージがあると思うんですけど、それは実は「ケア」ではないんですね。
いや、ケアになる場合もあるんだけど、むしろ1対1で向き合っていくと、「セラピー」的な要素が多くなります。
1対1だとどうしても自分と向き合うことになるんですよ。
非日常的な時間と場所で、自分を掘り下げていく。それがセラピーです。
だけど、自分の傷と向き合っていくことが有効な時もあるし、そのことでよりしんどくなってしまう時もある。
セラピーは相手とタイミングを選びます。カウンセリングは有効なものですが、万能ではない。
これに対して、ケアというのは「場」が主体になるものだと思うんです。
居場所という言葉がありますけど、「居る」ことが可能な場所。
それは一対一というよりも、色々な人がいる場所です。
いろんな人がいて、場が出来ることによって、人はなんとなく日常が可能になっていく。
そうやって、普通に生きることが支えられていく。》
ここに「ただ、いる、こと」の意味、「ケア」の価値がある。
〔2019年5/14(火) 現代ビジネス〕
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