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フリースクール 啓輝館

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
2019年12月13日 (金) 23:05時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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フリースクール 啓輝館

校種 通信制サポート校(佐賀県立北高校通信制のレポート作成のサポート)

高卒認定予備校、フリースクール

代表者 進藤輝幸(しんどうてるひこ)
所在地 〒847-0056
佐賀県唐津市坊主町461-7 啓輝館ビル301

TEL&FAX 0955-75-4024
メール keikikan@gmail.com
設置コースと学費 個別対応なのでコースはなし。
入学金:5,000円
出席月4回まで基本料金5,000円。5回以降は1回ごとに1,000円
生徒数 定数はなく、1~6名程度。
入学の条件 本人のやる気があればOK!
帰国生・外国籍の生徒の入学 本人のやる気があれば可。
発達障害をもつ生徒の受入れ (LD、AD/HD、アスペルガー症候群など)
生徒の状態により受入れる。
メッセージ
入学のよびかけなど
一人ひとりの状況、希望に応じて対応します。
学校に行かなくともいろんな道があります。一緒に探しましょう。
情報提供年月 2019年5月

「損得より納得」元闘士、愚直に50年 フリースクール運営 全共闘世代の今
九州大の授業再開について、学生時代に作ったガリ版刷りのレポートを手にする進藤輝幸さん。紙は赤茶けていた
社会の矛盾と向き合い、あらがった60年代末の学生運動から半世紀が過ぎた。
運動の渦中に身を置いた全共闘世代の若者はどんな人生を経て、今という時代をどう見詰めているのか。
そんな先人の姿を、行動する現代の若者はどう受け止めるのか。
一人一人の「私」の「ダイアリー」をめくる。
     ×        ×    ×
陽光が差す窓辺で、女の子が夢中で漫画を読んでいる。佐賀県唐津市にある3階建てのビル。
ここで進藤輝幸さん(69)はフリースクールを営む。女児は学校を休みがちで、週2回は顔を見せる。
特に勉強は教えないが、「不登校の子には、ほっとする時間がいるんです」。
優しいまなざしに、かつて学生運動の闘士だった面影はない。
進藤さんがファイルから赤茶けた紙を取り出した。わら半紙にびっしり書き込まれた文字。
一部は薄く消えかかっている。文章にはどこか青い幼さも感じる。
〈僕らの「学生」という存在はなにか? 学問とはなにか?〉〈僕らはファントム墜落等を経る中で、「本当の勉強」を求めた〉
「ガリ版で100枚以上刷って、大学の構内で配りました」
1969年。激化するベトナム戦争や大学運営の在り方を巡り、各地で烈火のごとく大学紛争が広がった。
前年、大学構内に米軍機ファントムが墜落した九州大でも、学生が教室のバリケード封鎖や授業ストライキを繰り返した。
あの季節、二十歳の九大生だった進藤さんもデモやストライキに参加した。
60年代末、大学への進学率が1割強だった全共闘の時代。
東京大の学生を中心に、将来の社会的地位を約束された自身の立場を「自己否定」する考えが広まった。あれから50年。
進藤さんは自らをごまかさず、愚直に「自己否定」を重ね、生きてきた。
原点は九州大入学後に携わったセツルメント
進藤輝幸さん(69)の原点は、九州大入学後に携わったセツルメント(地域生活支援)だった。
被差別地域に入り、ボランティアで勉強を教える中、生徒に「あんたたちとおれたちは身分が違う」と言われた。
「どんなに学歴差別に反対しても、自分はその恩恵を受ける加害者の側じゃないか」。
自らを疑いながら、学生運動に身を投じた。
「人を変える仕事に就きたい」
1969年秋、福岡市・六本松の九大教養部。ストが解除され、授業が約半年ぶりに始まった。
「何で授業を再開するのか!」。講義室に響く怒鳴り声。
進藤さんは再開に納得できず、ガリ版刷りのリポートを配り、講義室に単身乗り込んだ。
「大学の在り方を無視して、学問だけすればいいのか」。教授との押し問答は数十分続いた。他の学生は皆、押し黙ったままだった。
やがて政治の季節はしぼんでいく。自問の末、進藤さんは仕送りを断ち休学し、2年後に中退した。
アルバイト先のガソリンスタンドに就職したころ、父親を交通事故で亡くした。
どう生きるべきか考えた。「人が変わらないと社会は変わらない。人を変える仕事に就きたい」。
教員免許を取るため九大に再入学し、30歳を目前に中学校の社会科教諭となった。
授業の充実だけでなく、生徒と共に良いクラスをつくろうと週1~2回、学級通信を発行した。
生徒が荒れた時代もあったが、体罰根絶には特にこだわった。
だが50歳を迎えた秋、女子生徒の態度にカッとなり、弁当箱で頭をたたいてしまった。
頭にヘアピンが刺さり、1針縫うけがをさせた。「体罰は暴力と批判していたのに…。余裕をなくして、焼きが回った」
学級通信に謝罪文を書いた。それをきっかけの一つとして、早期退職した。
多忙のあまり生徒と向き合えなかった反省から、古里の佐賀県唐津市に開いたフリースクール。教育者としての再出発だった。
自らが営むフリースクールで、女子児童を見守る進藤輝幸さん=4月25日、佐賀県唐津市
◇   ◇   ◇
いま、不登校の児童を支える傍ら、近くにある玄海原発の反対運動も続ける。
平日朝の街頭で、のぼりを手につじ立ちを始めて2年8カ月。累計550回に達する。
不正入試、政治家の失言、安全神話が招いた原発事故…。
近年、大学も政治も企業も不祥事が明るみに出るたび、責任逃れに終始し、うやむやに幕引きするケースが目につく。
来し方を振り返った進藤さんは「結局、要領が悪かったんでしょうけどね」と照れ笑いし、こう付け加えた。
「人生の岐路に立ったとき、損か得かより、納得できるかどうかを基準にしてきた。それが、私のささやかな誇りです」
全共闘運動、九州の大学にも飛び火
全共闘運動は1968~69年、九州各地の大学にも飛び火していった。
それぞれの大学史に、その概要が記されている。
九州大では68年6月、米軍機ファントムが建設中の電算機センターに墜落したことで、反戦闘争は加速した。
市民も巻き込み、米軍板付基地(現福岡空港)の撤去運動が発生。
学生はファントムの周囲にバリケードを張り、反基地の象徴として機体引き下ろしに反発した。
熊本大では68年末、生協食堂の定食費値上げを巡って、授業ストライキや本部封鎖など半年あまりの紛争が続いた。
大分大では69年、学生会館や学生寮の管理を巡って大学側と対立し、学生が建物を占拠した。
紛争は私立大でも起きた。
西南学院大では68年、学費値上げ反対や米原子力空母エンタープライズの佐世保港寄港阻止の闘争が盛り上がり、学生が院長室・学長室を封鎖。
福岡大では69年4月の入学式当日、口元にタオルをまき、ヘルメットをかぶった「ゲバスタイル」が出現した。
全共闘 党派超え連帯
大学の学費値上げや管理運営体制、ベトナム戦争などに反発した学生が1960年代後半、バリケード封鎖や授業のストライキを展開した。
大学側が機動隊導入などの強硬措置を繰り返すと、学生たちはセクト(党派)の枠組みを超えた学生組織「全学共闘会議」(全共闘)を結成して連帯し、紛争は全国的に波及した。
68年度には67大学、69年度には127大学で紛争が発生している。
69年8月には紛争収拾に向け、大学の休校や廃校を可能にする「大学の運営に関する臨時措置法」(大学立法)が施行された。
一部の過激派学生が大学内外で暴力行為を繰り返したこともあり、紛争は下火になっていった。
〔2019年6/18(火) 西日本新聞〕

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