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体験記・こうのあさな・優しい空のオレンジ(上)

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目次

優しい空のオレンジ(上)

著者:こうのあさな(宮城県) 

子ども時代-不安な心とからだ

私は今29歳。もうじき30歳になる。
小学3年生あたりから、学校へ行くと腹痛や吐き気などが起こり、トイレも休み時間ごとに行っていた。
そのため、何度保健室へ通ったかわからない。
早退や欠席も多かった。
父は、働くことが嫌いな人だった。
一度仕事を辞めれば何か月も何年も定職に就かず、自由気ままに毎日を過ごした。
家族のこと、生活のことは何も考えない。
自分さえよければそれでいいという感じ。
そんな父にかわって母は水商売の世界へ入らざるを得なくなっていた。
私と兄を守るために、生活をしていくために。
母は一生懸命働き、自分の店を持つまでになっていた。
それでも父は焼きもちのせいか母が帰宅すると大声で怒鳴り、暴力を振るったりしていた。
私は怖くて母を助けに行けず、布団の中で耳をふさいで声を殺して泣くばかりだった。

数回アルバイト先をかえ、また働かなくなってしまった父に、母が敷地内に居酒屋をオープンさせたことがある。
父はすぐに他の店などに飲みに行ってしまうので結局、母がそれまでやっていた店を閉め、その居酒屋をやるようになってしまった。
私は、毎日母親は家に居る(敷地内なので)のが嬉しくてたまらなかった。
が、実際は甘いものではなかった。
客は入るのだが、たびたび客同士で喧嘩をした。
何かがガッシャーンと壊れる音がして大声を出す客がいた。
泥酔してカラオケのマイクで騒ぎまくる客などもいた。
私は怖くて眠ることができず、台所から包丁を持ち出したり、テーブルの下や時にはベッドの下、押し入れの隅などに隠れた。
もし誰かが家に入ってきて見つかったら、この包丁で身を守ろうと考えていた。

ある夜、怒鳴り声に目を覚まし、カーテンの隙間から店の方を見た。
鉄パイプを手にした男が店前に立っていて、「誰かかが殺される」と恐怖感で一杯になったりもした。
私は大人が大嫌いになっていた。特に酒を飲む男には憎しみさえ覚えるほどだった。
父の怒鳴り声や暴力に神経が過敏になり、自分が学校に行っている間に母親が殺されているのではないかと不安で仕方のない日々を過ごしていた。
腹痛や吐き気は毎日のように続いた。
小学校4年生の時の担任(女性)には、静かな授業中クラス全員の前で「いつもいつも具合が悪い、具合が悪いって、そんなにひどいならはじめから学校休みなさい」と叱られた。
私は泣きながら保健係の友達に付き添われて保健室へ向かった。
おそらく担任は仮病だと思っていたのだろう・・・。
でも決してそうではなかった。
自分でもどうしてなのかわからない。
わかってくれる人もなく、どうしたらいいのかと考え続けていた。
そんなことがあってから、休み時間のうちに保健室へ行ったり、学校を休むことが多くなった。
その担任はクラスのある女の子をひいきしていて、私は先生が信じられなくなっていた。

中学に入り私はバスケ部に入部した。 その厳しさに体力がついていけず、何度か倒れ、数か月で退部になった。
中1の数か月で退部する人は少なく、劣等感にさいなまれながら中学生活を送った。

中高時代-転居、中退、心療内科

中2の夏休み、私と両親は生活ができないために田舎の方へ引っ越すことになった。
母は軽いうつ状態になり、居酒屋をやれなくなった。
父は収入もなく、どうにもならないので土地と家を売却した。
私は生まれ育ったその土地とも、仲のいい友達とも離れなければならない。
私は近くにアパートを探して欲しいと頼んだ。
人目を気にする父は反対のようで田舎の中古1戸建にこだわり続けた。
「向こうへ行ったらバリバリ働いて小遣いも1万円位やるからな」と言っていたが、結果私に嘘をついた。
父は越してから自営業をしていたが、自分の遊ぶ金ができればもういいという感じが多かった。
ひどい時は月に1、2万円しか家に入れないありさまだった。
そのため、後にまた母がパートで働くことになった。

私は新しい学校になじめず、吐き気、腹痛などの症状も強くなり、すぐに学校へ行けなくなってしまった。
その学校の私のクラスは、それまでいた中学の休み時間がそのまま授業中になっていまっているような状況だった。
お菓子を堂々と食べている子までいる。
突然廊下へ出てみたり、校庭へ出ていく子、先生に呼ばれてもすぐには戻らない。
騒々しさに戸惑う私は教師のだらしなさに落胆した。
数人しか真面目に話を聞いていないのに、当然のように小さな声でどんどん授業をすすめていくのだ。
私は後ろの席だったので何も聞こえないし、立っている生徒で黒板の字を書きうつすのも一苦労だった。

私には夢があった。
進学して卒業し、安定した公務員になることだ。
母と2人、神経を遣わず自由に安らかに暮らし、母に人生を楽しんでもらうという夢だ。
理由もわからず突然キレたり、嫌がらせを言ったりやったりする身勝手な父親と一日でも早く離れるために。
私は焦っていた。
これでは勉強にならない、高校に入学できないと。
友達は、すぐできたが、やはり小さい頃から一緒だった付き合いの長い親友が恋しくてたまらなかった。
私は朝になっても布団から出なかった。
具合が悪いと泣いても母はむりやり私を登校させようとした。
休んでしまえば具合がよくなる私を見てやはり仮病と思っていたらしい。
私が学校へ行かないと「お前が悪いからだ」と父に怒鳴られるが辛かったせいもあったのだろう。
父はどう考えても父が悪いと思うことでも何でも、何かあれば母を責める。
私が悪いんだから私を叱ればいいのに全て母の方へ向けて攻撃する。
私もそれは苦痛で仕方がなかった。
私は拒食症になってしまった。
母はいろいろ考えて、もとの中学へ戻ろうと決心してくれた。
父は人目が悪いので家に1人残り、母と私の2人だけで、もとの中学の近くにアパートを借りて暮らすことになった。

母は常に私のことを考えてくれる。
小学生の頃、深夜遅くまで働いても朝食は必ず用意し、学校へ送り出してくれた。
学校の行事も早めに必ず来てくれた。
家事もこなし、ずい分苦労させていた。
タフだったんだなあと感心してしまう。
私はもとの中学に戻ることができたが、やはり吐き気と腹痛は治らなかった。
休み時間ごとにトイレへ欠かさず行っていた。
ある日の数学の時間、どうしてもまたトイレに行きたくなってしまい、先生に申し出た。
しかしその若い女性教師は強い口調で言った。
「ダメです。休み時間に行かないのが悪いんです。」と。
私は、また教師嫌いになった。
それ以来、数学の時間が怖くなった。
トイレに行きたくなったらどうしようという不安で、何も頭に入らなくなってしまった。
その頃から乗り物酔いが強くなり、遠足や修学旅行も行けずに、中学生生活は終わった。
母と2人暮らしをしている時も、母はホテルで働いてくれた。

受験は希望高校に合格。初めての電車通学となった。
バスでは通学できないが、人の少ない下りの電車なら平気だろうと高をくくっていたのだ・・・・。
案の定、私は電車に酔い、吐きそうになったり動機や冷や汗が出てしまう。
ある時はトイレに行きたくなり、電車に乗ることの恐怖感が強くなった。
学校にやっとの思いで着いても、吐き気と腹痛などは止まらなかった。
親友と学校が別になった。
クラスにも同じ中学の子が2人しかいなかったし、その2人とも親しいわけではなかった。
心細さも強かった。
私は数日で休学、高1の終わりには退学した。
休学中に母と2人で家に戻り、私はとうとうみんなとは違う人間になってしまった。
落ちこぼれだというと思い絶望感で暗い気持ちで毎日を過ごした。
その頃の自分は鮮明には憶えていない。
心療内科へ行き、神経質そうな医師に母が責められ、腹が立って泣きながら帰ったことは忘れていない。
以来、心の病のための病院には行っていない。
休学中、私は‘親友を失ってしまう!‘という焦りから、信頼できる何人かの友人に手紙を出した。
ドキドキしながら返事を待った。数日後、待ちに待った返事が届いた。
それは私をほっとさせる優しい内容の手紙だった。
みんな結婚してしまったが、今でも文通は続いている。
あの時、勇気を出して手紙を出さなければ、きっと今頃後悔していただろう。
はじめのうちは会えたが、しだいに電話で話すことすら苦痛になった。
今は文通だけの申し訳ない関係だ。
元気に生活をしている若いコたちや同じくらいの年齢の人を見ると私の心は萎縮する。
情けない気持ちで自分と比較し、成長していない自分の現実を強く実感してしまうからだ。
いちばん自由で楽しい十代後半から二十代の全てを、私は無駄にダラダラと過ごしてきたような気がする。
どうしようもないくらいの空しさに襲われる。
自分なりに努力したつもりでも、もしかしたらあの時、もう少し頑張れたのかもしれないのに楽な方へ楽な方へと逃げていたのかも・・・。
チャンスを自分から見送っていたのかもしれないと思う時がある。
楽しいはずの二十代は、もう戻ることはない・・・。

十代後半以降-文通友達と心の病

私は十代後半に新しい親友をつくるために、いくつかの雑誌の文通コーナーにはがきを出した。
掲載されると全国からたくさんの文通希望者から手紙が届いた。
私は全員の手紙を読み、直感に近い感覚で文通相手をしぼりこんだ。
そして数人に返事を出した。
何でも話し合える親友になってくれるのか。
それは後にならなければわからない。
ダメならダメで縁がなかったんだと諦めればいいと思った。
文通を続けていくなかで相手の性格なども読めてきた。
今現在も続いている人、名前すら思い出せない人、さまざまだ。
友達というのは、こちらが遠のけばそれだけでどんどん離れていってしまう。
心を開いて真実(ほんとう)の自分でぶつかっていけば、わかってくれる人は、わかってくれる。
きっとずっと大切な存在になる。
私はそう信じている。

私は休学して家にいた頃、近所の目を異常なほど気にしていた。
電話さえ出ることができなくなっていた。
一人でいるときはもちろん、家族がいる時の玄関のチャイムの音にもビクビクし、自分の存在を隠すことに必死になっていた。
たまたま知人と会ってしまった時に必ずというほど聞かれる「今、何してるの?」という言葉は私をひどく苦しめた。
外見は元気そうに見えるので、ただ家にいることが不思議に思えて仕方がないのだろう。
心の病は理解されにくく、怠け者に見られがちで私は早く仕事をしなければと常に焦りを感じていた。
でも焦りからは何もうまれず、逆に自らを追い詰めてしまった。
私は仕事をすることが、自分に自信を持たせてくれるに違いないと思っている。
私は自分に自信が持てない。
人よりずっと劣っていると感じている。
バスケ部退部、高校中退、自動車教習所も途中でやめ、社会人にもなれない中途半端な自分。
自信など持てるはずもない。
でもいつかは持ちたい。
私は1日も早く仕事をしたいと思っている。
仕事をちゃんと覚えられるだろうか、大きな失敗をするのではないだろうか、人間関係はうまくできるだろうか、具合が悪くなりはしないだろうか・・・
不安と恐怖が先に立って面接を申し込む電話すらドキドキしてできない。
電話できたとしても、今度は面接で今までのことを聞かれたら何と言えばいいのだろう。
心の病なんて言ったら不採用になるのだろう。
心の病を説明したところで理解などされはしないだろう。
私は人前で飲食ができない。
吐き気がしてきて口に物を入れられない。
だから外食も十年以上したことがない。
なぜなのか自分でもわからない。
飲食に関係なく緊張したり不安になったりすると、特に吐き気がひどくなる。
嘔吐恐怖である。
乗り物に乗る時も乗る前から吐き気、動悸、手足の震えや、息苦しさ、めまい、発汗、頭痛などいろいろな症状が襲ってくる。
バスや自動車は、ほとんど乗れない。 地下鉄などに乗らなければならない時は、前日の夜からいっさい口に入れない。
当日は、吐く物がないから大丈夫と自分に言い聞かせ、乗り物に乗り、帰りが夜になろうと家に着くまで水一滴も口にしない。
それも一人では無理なので、この年になって母と一緒に出かけている。
歩きや自転車ならば今は一人でも外に出られる。
こんな面倒な人間と健康な人間がいれば誰だって健康な方を採用するだろう。でも私は諦めない。
(つづく)

⇒体験記・こうのあさな・優しい空のオレンジ(上)
体験記・こうのあさな・優しい空のオレンジ(下)

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