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文通誌『ひきこみ』の誕生から廃刊までの事情

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文通誌『ひきコミ』の誕生から廃刊までの事情

ひきこもり当事者によるひきこもり専門誌『HIKIPOS』(ひきポス)編集の喜久井ヤシンさんと会いました。
『HIKIPOS』は年3~4回の発行で、最近号の第9号は今年の7月15日付です。
喜久井ヤシンさんとは、正式な取材ではなく雑談みたいに不登校情報センターが以前に発行していた『ひきコミ』について話しました。
私も用意していなくてその場で思い出しながら古い記憶を掘り起こしたものです。
それに触発されて『ひきコミ』発行の事情を記録しておこうと思いました。
時期はあいまいで不確かなところはありますが、おおよその流れです。
『ひきコミ』誌の本当の成果は別にあったと確認しました。

不登校情報センターが当事者との集まりを始めたのは1996年8月の通信生・大検生の会でした。
当時リクルート社から『じゃマール』という交流誌が発行されていました。
そこには不登校経験者等の呼びかけも少なからず載っており、この会の呼びかけを投稿しました。
その結果集まったのは、横浜駅近くの神奈川県ボランティアセンターで私を含め6名です。
それ以降、少人数の集まりを繰り返しました。
通信生・大検生の会の加入者は徐々に増えましたが、集まるのはいつも十名以下でした。
会の加入者には自己紹介をB5版の紙1枚に書いてもらい、それをコピーして冊子にまとめ加入者に渡していました。
個人情報の扱いは今日ほど制約のない時代で、住所や電話番号も載せる人がいます。
新メンバーが加わるごとに自己紹介冊子に追加していました。
会合を重ねるうちに、彼ら彼女らに本当に必要なのは想定していることとは違うのに気づきました。

  • もくろみとしては学習も目的にしていましたが、それは不要でした。

通信生・大検生の会ですが、加入者は不登校経験者、高校の中退者、ひきこもりの経験者、対人関係に不安のある人、働けないでいる人などというべきでした。
当時の参加者の中心は18歳から20代前半の人たちです。
2年後の1998年7月には会メンバーは50名になっています。
当事者の会は初会合以来あちこちに会場を借りて移動していたのですが、山手線大塚駅近くの公共機関で定期化していました。
会場が固定するなかで集まる人も徐々に増え、常連も生まれました。
それを繰り返すうちにある事態に気づきました。
一度も会に参加していない人の話をする人がいるのです。
数人からそういう話があり確かめると文通をしています。
自己紹介を書く会報の発行を続けていた副産物です。
連絡先を書いていない人にも文通を広げるために、仲介方法などの仕組みを決めました。
1998年8月末に不登校情報センターの事務所を豊島区大塚に借りました。
それが固定して、当事者の集まりは居場所の性格をさらに強めました。
名前も人生模索に会になり、毎週水曜日に定期化しました。
狭い事務所なのに作業机などが場所を取り、実質7~8畳のスペースに30人以上が入ります。
参加者の履物が多くて玄関からはみ出しドアを閉められません。
室内は動けないほどの密集状態でした。
2000年7月、会員紹介式の会報から生まれた文通誌を定期化しようと、誌名を考えることになりました。
いろいろな案があったのですが、誰かが「ひきこみ!」と言ったので、それになったわけです。
文通誌に相当するものが先にあり、それに名前を付けることで生まれたのが『ひきコミ』です。
すぐに『ひきコミ 準備号』つくりました。
どのように作ったのか? 
パソコンはもらってきたものがありましたが、当時の私にはパソコンは使えません。
文書入力ができる数名に頼んで紙面をつくり(自宅に持ち帰って入力した人もいます)、ふぞろいな紙面ですが1冊にまとめました。
印刷は近くのコンビニのコピー機を使いました。
この準備号を居場所の参加者に配っていました。
あるとき池袋の公共機関を借りて集会も開いたのでここでも配りました。
ここに日本経済新聞と共同通信の記者が参加していたのです。
日本経済新聞で紹介されました。
しばらくしたら山形新聞などの地方紙(共同通信の配信)に掲載されました。
地方紙に載ったのはそこにいた3名の女性が準備号を持って立つという写真付きです。
2000年8月のことです。
これにより注文が続き、正確ではありませんが累計で800部以上になったはずです。
印刷は近くのコンビニのコピー機。
ページ数は多くはなかったのですが、コピー代がかさみます。
1冊売れるごとに赤字が増えるというとんでもない状況です。
ここに救世主(⁉)が表われました。
出版社時代の先輩がきて「これを出版する」と安請け合いをしたのです。
見出しを付け、分量調整をした原稿を出版社に渡し、あとの編集はほぼお任せです。
2000年12月に市販版『ひきコミ』はこうして発行されたのです。
B5版・64ページの月刊誌です。
奥付の発売日は2001年1月ですが、20世紀最後に発行された定期刊行誌の可能性があります(少なくとも日本では)。
「不登校、ひきこもり、対人不安の人から発信する個人情報誌」がサブタイトルになります。
紙面の中心は62人の自己紹介を兼ねた文通希望投稿です。
他に体験手記や活動報告があります。よく月刊誌にしたものです。
しかも64ページの量です。
そんなに多数の投稿が続くはずはないと気付くべきでしたが、うかつでした。
個人投稿は全国各地から集まりました。
何しろ全国紙に紹介され、書店販売されていますし、いろいろな新聞や雑誌で紹介されました。
不確かな記憶では第1号は増刷され6000部ほどになったはずです。
だから発行後は心配するほど投稿は少なくはなかったのです。
発行部数(≠発売部数)はこれが最大で、徐々に減少していったものと思いますが、私の手元に記録はありません。
ところで不登校情報センターの運営(活動)の中心は『ひきコミ』作成ではありません。
中心はひきこもり等の経験者が集まる居場所でした。いや居場所になりました。
2001年6月に葛飾区新小岩に移転しました。
大検予備校の第一高等学院(現在は第一高等学校として全国に40近いキャンパスがあります)の校舎が廃校になりここを無償提供されたのです。
この事情は省きます。
4階ビルの1・2階で教室4つと事務スペースなどもあり、使いこなせない広さです。
これも予想外の“天の救済”です。
ここが固定事務所になってからは、毎日が居場所になりました。
私以外の管理者はいませんし使い方は自由自在です。
参加者は控えめな人が多く、それぞれが気遣いながら参加していますので、乱雑なことにはなりません。
私はときどき外出するし、朝から不在の時もあります。
それでも休会にすることはなく(参加予定者がわからないので連絡はできない)そのまま参加者はやってきます。
乱雑になることなどはまったく心配しなくてよかったのです。
2004年2月と3月に参加者の記録があります。
この2ヵ月60日の間に参加者が誰もいない日はありません(うるう年で2月は29日です)。
絶対数は2月64名、3月63名で、1日平均の参加者は12.2人(2月)、10.8人(3月)です。
1月元旦も数名が来ていました。
このような居場所のなかで『ひきこみ』の発行が続きました。
居場所の状況にしめる文通誌発行の役割は大きくはありません。
特に初めのころは文通投稿の数が多く、編集企画も議論することはなかったのです。
投稿に催し物案内、体験手記、私のエッセイを1つ加えればいいだけです。
しかし、第18号発行したところで市販版『ひきこみ』は急に終わりました(2002年11月)。
出版社側の事情によりますが、私の肩の荷も降りたというべきでしょう。
多くの読者がいる月刊の定期刊行誌を出すことは責任があります。
読者=書店=取次店=出版社を結ぶルートを動かしているからです。
この市販版『ひきこみ』発行による出版社側からの支払いはありません。
自分で販売している分の『ひきこみ』の購読料が収入です。
出版社側からの支払いはありませんが、不満はありません。
逆の事実をみるなら、ほとんど資金支出をしないで月刊誌を発行でき続けたといえるからです。
これは奇跡に近いことです。しかも、事務所は無償貸与されているのです。
発行により多くのひきこもり当事者の心を揺り動かし、行動を促したのが役割でした。
資金面で『ひきこみ』発行の入金があればより発展的に何かができたのかもしれません。
しかし毎日の事態に追われていて、他に手を伸ばせる状況ではありません。
それが当時の社会状況であったともいえるでしょう。
私には自分の力量の範囲で手を出せる環境条件を得ていたのです。
そこに第三の“正当な報酬”を望むことはありません。
『ひきこみ』は発行停止の1年近く後の2003年秋に、手作りの雑誌として再発行を始めました。
B5版32ページ、不定期刊です。
協力校などからもらったパソコンと印刷機を使い、居場所に来ている人が作業として文書入力をし作成しました。
これが“第3の報酬”というべきものです。
手作り版『ひきコミ』は97号(2012年4月)まで発行を続けました。
後半は毎月発行をめざしましたが、平均すると4か月で3回の発行頻度が手作り版です。
投稿者も減りましたが、それ以上に居場所の参加者が減少していました。
参加者減少の主な要因は、NHKのひきこもりキャンペーンが2004年3月に終了していたことだと理解しています。
本当は逆で、NHKの2003年度のひきこもりキャンペーンは、このタイミングに合わせて企画されたものであったというべきなのです。
多くの居場所が活動停止になりました。
居場所はしばらく“冬の時代”を迎えていたのです。
不登校情報センターの居場所はそれでもこの時期に活動停止にならず継続できました。
なぜ他の居場所と違って、不登校情報センターの居場所が継続したのか。
最大の理由は当事者の動きを自由にしていたこと、決められたコースやプログラムに乗せる方法をとっていなかったことが背景にあると考えています。
2002年に「不登校情報センターを働ける場にしてください」という要請があり、「小遣い程度の収入を得られる」目的で、ポスティング(月2~3回定期)、学校案内書のDM配布(年数回数・10日前後)をしました。
少し遅れて不登校情報センターの公式サイトの制作を始めました。
不登校情報センターのサイト制作の経過と現在を見よ(2022年8月)
この作業に参加する人が来所の中心になりました。
場所が固定しているのが作業のある居場所の前提でしょう。
付け加えれば、当事者の体験発表の機会、毎月の親の会、協力する学校の進路相談会の開催なども、居場所が継続できた周辺状況であったと思います。
その時期に、発達障害者支援法が生まれ、ニート対策が生まれ、若者自立塾が生まれました。
これらはNHKのひきこもりキャンペーンと並んで社会の関心をひきこもりに注目させたのですが、全体として十分に的確ではなかったと思います。
これ以上の説明は私の手に及ばないところの動きであり、こむずかしい持論になるのでやめておきます。
上の作業うちサイト制作は収入になっていません。
不登校情報センターのサイトは、初めは関心を持つ個人が作成し、数人が交代してそのつど自分の好みのものをつくる状態でした。
2004年の春先にある協力事業者の提案を受け公式サイトをつくることになりました。
Htmlシステムであり、私には知識はなく、全体構想を紙に書いて後は数名のできる当事者にお任せして作り重ねてきました。
当事者数名の固定メンバーによる情報収集と情報提供の大きなサイト制作に向かいました。
2011年から不登校情報センターのサイトをWikiシステムに変えました。
パソコンもワードしか扱えない私のためにサイトをWikiシステムにしてくれたのです(Wikiシステムが辞書づくりに適している点もあります)。
こうしてサイト制作を始めてから6年後に私も参加できるようになったわけです。
『ひきコミ』に話を戻すと、文通活動が活発な時期を終えた2010年に文通参加者にアンケートを送りました。
アンケートの発送数は約680名、これが文通の参加者総数です。
回答をしてくれたのは1割ほどの66名です。
そして、このサイトのなかに『ひきコミ』で投稿した文を転載することにしました。
転載を了解してくれたのは少数ですが「ひきコミWEB版」になりました(最近見た投稿絶対数は181件ですが、たぶん数十名の投稿者のはずです)。
2010年のアンケート結果もここに記録しています。
今はすっかりさびれた文通投稿ですが、ときたま文通ボランティアとして文通希望が入り、可能な人の投稿を「ひきコミWEB版」に載せています。
不登校情報センターにとって『ひきコミ』とはなんであったのか。
それは各地のひきこもり当事者の声を届けるものでした。
それは不登校情報センターに多くの当事者をひきつけました。
1年365日、朝から夜まで誰かが集まってくる場所でした。
カウンセリングや相談ではなく、ひきこもり当事者の日常を表わす場所になりました。
居場所に作業する機会が生まれ、作業する当事者が生まれました。
それが日常になった居場所において、参加者は生活感と個人史が自然に表われる場になりました。
生身の当事者が周囲の人に示す姿形に、私はひきこもりを理解できる場面を得たと思います。
『ひきコミ』による金銭的な収益はありませんが、それをはるかに上回る環境条件を得たというべきではないでしょうか。
いまその集約と言えるひきこもり国語辞典の発行を準備中です。
当事者目線によるひきこもりの理解によるひきこもり対応策を生み出す1つの要素になると期待しています。

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