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Center:1998年8月ー自分を生かす進路をさがそう

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目次

自分を生かす進路をさがそう

(出典『高校さがしと転編入の手引き』不登校情報センター、あゆみ出版、1998年8月)

本物さがしの時代

先日、不登校・高校中退の経験者を中心とする若者サークル「こみゆんとクラブ」で体験発表と交流会を開きました。
その一つの分散会の参加者は、私を除くと6家族8人です。
母娘2人で参加した人が2組いたからです。
この2組を含めて5人が中学校を卒業した後、高校に進学せず(または高校を中退して)、自分の生き方を探している若者でした。
残りの1人は高校3年生で、何とか“卒業”にたどりついてほしいと考える母親の出席です。

偶然の組み合わせとはいえ、6人のうち5人という高い割合で高校卒業をめざしていない人が集まったこと、そしてそのことに焦りがなく(もちろん内心の心配は察して余りあると思いますが)、何かの手がかりをつかもうという姿勢であったことに、驚きと安堵がありました。

それがわかったときいろんな思いが頭の中をよぎったように思います。
高校卒業でなくても社会に巣立っていく道を広げること(貴乃花やスター歌手のような特別の人だけが高校卒業にとらわれるのではないという意味で)。
地味であっても何か一芸(特技)があればそれを生かして働けるようにしたいこと。
高卒でなくてもすでに社会に出て生活している人は多数いるはずだからそういう人たちの体験証言集も作ってみたいこと。
就職における〈高卒条件〉を取り除く流れはできないだろうか、とも。

出席した2人の若者(16歳と19歳の女性)が共通して、「学校でどうこういうのではなくて、本当に打ち込めるものを見つけたい、それがなかなか見つからない」という趣旨の発言をしていました。
そうか、既成のレールに乗っかかって行くよりも、本物を探しているんだ、と再確認させられました。
学校とは、もともとそのために生み出されたはずだったんですが、この人たちには、遠くの外れたところで回転している建物になっていたようです。

“本当に打ち込めるもの”を求めるものは、登校拒否の子どもや若者だけでなく、今日の多くの子どもや若者が求めていることです。
毎日元気に通学している子どもや若者のなかで、いったいどれくらいの人が、本当に打ち込めるものをもっているのでしょうか?
  いや大人だって同じ問いに「私はある」と答えられるでしょうか。
社会の変動期です。
今まで安定していたはずの生活の土台が壊れています。
信じてきた社会規範が大きくゆがんでいたことが露呈し、生活の土台の揺れとともに、精神的な揺れが子どもだけでなく大人もいろんな場面に表われています。
本物さがしは日本人全体の共通項かもしれません。

そのことを子どもや若者はいち早く表に出しました。
大人社会ではバブル経済が崩壊した数年経てそれが表に出ました。
子どもや若者はずっと以前からそれを知らせていたのです。
私なりの理解では、それはからだのおかしさという形で、70年代の初めに出ました。
そして80年代になって登校拒否の増大、心のあり方として社会全体がゆがみつつあることをより強く警告していたのです。

しかし、いまの時点になってみると学校に行けないことを苦痛として感じる人がいる一方で、それを一歩つき抜け、「学校じゃない、自分をどう生かすか」で悩んでいる若者がいる。
私はそこに一つの前進をみる気がします。

高校卒業を必要とする人には、その道を広げることが必要です。
高校が不登校生や中退者の受け入れ、転編入学をしやすくすることはそれを助けることになるでしょう。
しかし高校ではなく別の道を求めるのならそれを生かす進路を確保することも必要です。
両者に目標の違いはありません。
東京にいる人は西に向かうことで名古屋につきます。
広島にいる人は東に向かうことで名古屋につきます。
目標は同じでも道や方向は違って当然なのです。

学校にこだわらず本物を求める、本当に打ち込めるものを探す人たちがいる。
今日のこの到達点は何を示しているのでしょうか。
私なりに学んだこと、そしていま必要と思われることを考察したいと思います。

自分さがし

子どもから大人になる過程(思春期・青年期)は、人にとって試練の時代です。
人として第二の誕生の時代というとおりです。
登校拒否は多くの場合、この過程で表われます。
登校拒否とは、思春期・青年期の課題のその人なりの表われ方(表わし方)であるように思えます。
登校拒否の子ども・若者が提示していることは、人間としてこの思春期・青年期をどう生きるのか、と共通しているのです。

一言でいえば、自立に向かう準備、挑戦台ということでしょう。
もっと違った言い方をする人もいます。
3つのセイ(生活、性、政治)が大事である、主権者を育てる、変革者を育てる、という人やグループもあります。
この表わし方は思春期や青年期の課題に限定したものではなく、子どもの教育全体の中心的課題としてあげているのですが、私には、それぞれに納得できる言い方です。

ただ私が自分で主張するとなると、いちばんぴったりするのが、自分さがしです。
上で主張されることの前提や条件になる部分かもしれません。
たとえば「自分さがしの結果、主権者に成長する手がかりを得る」というような関係になります。

生まれてから思春期までに、親・家族・親戚、あるいは保母や教師、友達、周りの人(要するに自分の近くにいる人)から自分に向けられてきた言葉や態度や行動があります。
そして自分の体験と学習が重なって人間は自分が何者であるのかをわかってくるのです。
ある人はきわめておぼろげに、別のある人は、看護婦になるとか自分は内気な人間なのだ、とかなり具体的にです。

思春期のころから、子どもは内側から自分は何ものかと考 えるように思います。
その材料としては特に体験が大きいでしょうし、学習もたぶん体験の一部になると思います。
周囲で自分に向けられていた評価、感情、あるいは期待-それと自分の中で芽生えてきたものがあります。
多くの場合は両者が一致するか、心の中で調整可能な範囲の違い、ズレで収まります。

しかしすべての人が周りの人の見方と自分で考える姿が一致したり、調整可能なわけではありません。
本人の心の奥にある自分の姿と周囲の思いが調整できない程度に違う場合もあります。
それがたとえば中学校や高校の受験の失敗、家族の一員の死亡や事故、教師への不信、友達関係の崩れなどがきっかけになり、このズレが表面化することが多いように思います。
登校拒否とは、それが“調整困難”の表わし方(表われ方)の一つのように思います。

その役割は安全地帯への避難(危機回避)であったり、自分のより本質を探す過程として時間と場所の確保であったり、自分の新しい姿を周囲に受け入れてもらう準備過程であったり、人間関係のごちゃごちゃした状態を自分のペースで整理していく時間であったり……人によっていろいろであり、また一人の中でいろんな要素がまじっているのではないかと思います。

子ども・若者は、登校拒否を伴う生活の中で、エネルギーを回復する 時間を持ちます。
休まる環境と時間を得て、思春期・青年期の課題に向きあいます。
自分は何が好きなのか、どんなときに嬉しく、どんなときに悲しく感じるのか。
過去にあった友達や家族や周囲の出来事を反芻しながら、この作業をするのです。

しかしこの自問への答えは、いきなり姿を表わすわけではありません。
何かをつくったり、文化祭やスポーツに取り組むことで確かめていくものです。
たとえば友達の中で確かめられ、修正され、強められるものです。
頭の中で思い巡らしていたことを、自分の行動と他人(友達など)との関係で、具体化し、確かめていくしかありません。

これが自分さがしです。
それは自己表現であり、友達さがしにもなります。
人間は人間関係の中で、自分を見つけられるのです。

自分を生かす―適応ではない!

登校拒否、引きこもりで学校へ行かなくなると、友人関係がせばまります。
話し相手にも事欠くことになります。
親はここまでは、社会に出られない、適応できない、と心配になります。
「せめて高校ぐらいは卒業して」というのは、それに比べれば要求が高いと思うくらいです。
この親の心配(そして子どもと若者自身の心配)は故なきことはないのですが、前進の方向としてよく語られる適応する・できる、というのに私は疑問を感じます。
自分を生かすことが先行しなくてはだめなように思います。

この課題は、子どもと若者一人ひとりのところで、一人ひとり違ったものとして表われます。
それは体験と学習を必要とする過程です。
私には、特に学習が大事だと思いますが、今日の学習の求められ方は異様です。
学習と並ぶのは遊びですが、遊び(特に運動を伴う集団的遊び)は散々たる状態です。
そして失敗を認められる社会が必要です。

学習、遊び、そして失敗― これら全部が人間にとっての学習ですが、今日の日本ではこの全体がゆがんでいます。
子どもや若者は自分のいろいろな姿を試してみることで自分を見つけます。
あるときは闘士であっていいし、あるときは道化師であっていいのです。
それらが自由に試され、ずっこけがあり、どんくさい姿がある-そんなことこそが、おかしいけれども健康な若者らしさを表すのです。

このような時間と場所が確保される中で、子どもや若者は、自分は何が似合うのか、自分の好きなこと、嫌いなことを自然に発見できます。
少なくとも、高度経済成長のころまでは、この社会規範と若者が手さぐりで選択して向かった先には、大きな違いはありませんでした。
しかしこの30年の間に社会はゆがんできたのです。
そういう時代において既成の社会規範や流れ(レー ル)の中に、教育の力で流し込んでいいわけではありません。
管理主義的といわれるのは、たぶん、以前ほどうまくいかなくなったので、教育の分野でも強制的な方法がより作用しているからだと思います。

適応を求めるのはいまは違っている、と私には思えます。
若者は、日本のいまの社会規範、既成の文化の中に入っていくことには「不安を感じる」し、「危ない!」と感じる人さえいます。
子どもや若者のこの動物的(!?)な勘は大筋で間違いないように思えるのです。

若者の考えや行動は、整備されていないぶん短絡的で激しいものです。
しかし、大人の狡猾さによって隠蔽されたものよりもはるかにわかりやすいし、たぶんいさぎよいでしょう。
子どもと若者のなかに危ない、キレる、逆ギレ、ナイフ……まさに狂気が広がっています。
その一方で、引きこもり、対人不安の子どもや若者も相当に広がっています。
これら全体の子どもと若者の生活状態、いや生存状態、その幅の広さが、時代の動揺性を示しています。
大人(社会)の状況を写し出し、それを増幅して表しているのです。

子どもや若者の中に、社会にすんなり入っていく・溶け込んでいくのを拒否する(あるいはできない)という人が大量に生まれるのは、ある面で肯定的に考えていいのです。
子どもや若者が一人ひとり、個性を生かし、自分を生かすことになれば、既成の社会規範である〈全体の秩序〉や〈集団としての姿〉が乱れ、バラけることになります。
いまは乱れが進行中です。
それはまた新しい規範がつくられていないためです。
全体に従わせることは古い規範へ押しこむことであり、放棄すべきものだと思います。

では新しい規範とは何でしょうか? 
それは誰かの頭の中からは出てきません。
自分を生かそうという子どもや若者(そして大人)が、時間と場所を共有するなかで自然法則のように生み出されていく関係です。
それは決して難しいものでも、突飛なものでもないでしょう。

私なりにいえることは、
(1)互いに相手を身体的に傷つけないこと(生存権の尊重)、
(2)互いに相手を精神的に傷つけないこと(人権の尊重)、が保たれることです。
利益が関係するとき、自分と相手の利益を同時に100%満たすことができない場合も、十分に想定できます。
自分の主張と利益を守るとともに、相手方の主張と利益も犯さない行動(行為)をする方法がでてくると思います。
最近の流行語ともいうべき共生がそれに当てはまるでしょう。

対人関係不安の子どもや若者が増えている背景には、実は上に述べた関係が、学校や家庭で、あるいは社会で、つくられていないことと結びついているように思います。
発言力が弱い、自己表現力が貧しい、正直で真面目でおとなしい、そういうタイプの子どもや若者に、対人関係不安の人が多いのはそのためではないでしょうか。
押しが強い、グループで迫ってくる、力で押してくる人間関係を経験する中で、自分が生かされてこなかったのです。
この子たちは相手を尊重しようとしていたけれども、相手からは尊重されてこなかったのです。

その極端なものが、いじめです。
しかしいじめ以外にも、不公平な人間関係が蔓延しています。
民主主義は多数決にすり替わり、この子どもたちは、しばしば多数決によって被害を受けています。
その集団における 弱い立場の人、発言力の弱い人の意志や利益が尊重されてこそ多数決は本物の民主主義に近づくのです。
対人関係に不安を持つ子どもや若者は、この社会のゆがみの被害者だと思えるのです。

教室に入っていくとき「自分がロボットのようになる」といった小学生がいます。
ルーズソックスと細い眉の集団に入っていくのに違和感を覚えた女子高生がいます。
これは人間関係とは別の問題にみえますが〈集団性〉に関する共通の根があります。
自分が尊重されない点で同じです。
彼ら彼女らは、そこに入っていくよう適応をせまられているのです。
自分をおし殺してその集団に入っていくこのような 適応は、むしろ拒否するのが健全な精神状態であると思います。

多くの若者が小さいころから、このような適応を積み 重ねてくるなかで、自分はいったい何なのか、芯のないフニャフニャな精神状態に苦しんでいます。
外見上は元気でも、このような適応の連続、そのような適応 で構成されている日本の社会に、社会のこのようなゆがみに苦しみ行きづまっているのです。
彼ら彼女らは新しい人間関係の中では大丈夫ですし、彼ら、彼女ら こそそれをつくりだす原動力であると私は信じています。
しかし多くの子どもと若者は傷を負っていること、そこを出発点とするための配慮が必要だと思います。

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