本当はこんなんだったんだよー近況報告を兼ねて 2022年12月 S.N(匿名)

マツダさんへ いつも忘れたころに通信をおくってくれてありがとう。

今(ずっと?)キツい状況にあるのと、マツダさん直筆のメッセージに心動かされ、何か書いた方がいいんじゃないか、と思いペンをとりました。いつも文章を書く時はスマホなりで構成を考えた後、書きはじめるのだが、そんな事してる気力が無いので思いつくままダラダラ書く事も許してほしい。漢字も少ないし字もきたない。よろしくたのむ。(注:ひらがなのいくつかを漢字にしました)

不登校情報センターは、そもそも当時、サロンとよばれる場所にSMさんと会って一人で行く勇気が無いからいっしょに行こう、と誘われたのがきっかけ。その後SMさんとは長い付き合いになるんだけど、今は連絡とっていない。あのころとにかく人がこいしかった。人脈が無かった。どこでも顔を出そうと思っていた。ひきこもりとは無縁だった。むしろ強迫的に毎日外へ出た。通信で「インラインスケート」にふれているが、ぼくがみんなを誘った気がする。センターにはヒマさえあれば通い、SMさんと音楽の話をしたりTA君と、また彼ともけっこう付き合うのだが、しばらく前に決裂している。TA君ともたわいもない話をした。

当時、最近までだが、虚勢をはって、とにかくいきがっていた。何も見えていなかった。見た目と共に性格も強がって無理をしていた。多分無理をしていた事にすら気付いてなかった。そのくらいクスリと強迫観念にあおられていた。完全に強迫性障害だった。何かにがんばる事か、死ぬ事か両極端に大きくゆさぶられていた。センターはちょっと自分には物足りなく感じていた。

そのころTKさんと出会い、そのままWKさんのフリースペースに入りびたる事になりセンターとは疎遠になった。同じころ渋谷で花を植える活動をしているボランティア団体にも顔を出すようになる。その関係は今もつづいている。お世話になっている。

その間、何度も大量の薬づけ治療から抜け出そうと、薬を絶ってはまたもどすということをくり返している。最近、よき治療者と出会い、計画的に薬をぬいていったところ、想像以上に精神的にまいってしまって、ここ数か月、さんざんな日々をすごした。

結果、薬ぬきではやっていけない事を自覚し、薬をぬくことは二度としないと思う。前よりは少ないが、少しのんでいる。

いったい自分は何の障害なのか? ただのウツではない。ただの強迫性障害でもないと思う。

ずーっと東洋武術をやってきた。今もやってる。支えだったが、苦しみの原因でもあった。とにかく練習しないと一日が始まらなかったし、おえる事もできない。小さいころから不安が強く、その不安を、他人を「腕力」で黙らせる力をもつ事でごまかした。最初、筋肉を鍛えてのりきった。小学校卒業のころには疲れきっていて、そのまま中学二年の夏休みで不登校になった。身体の成長が遅かったため、弱さを感じ、バランスを崩した。もともと無かった自信が地に落ちた。

そこからはい上がるのに3、4年かかった。ひきこもりと言えるのはこのあたりだろう。心底自信を失っていて、「不潔恐怖」になったうえ、食べるのは悪だと思いこみ、食事を削った。

あのころ身長は今と同じくらいあって175㎝で体重は40.5㎏まで削った。もう死に手がとどく数字だった。食べられないし、物をさわれない、さわってほしくないという状態で、奇跡的に知り合いのつてで武術を個人的に習った。17、8歳の時だと思う。

その後、薬物治療を望んで始め、19のころ世の中デビューした。

本来、コミュニケーションでなんとかするべきところを、物理的な「何か」で解決してしまおうとしてしまったのが間違いだった。その思考は9、10歳のころから変わらず、今も身にしみこんでいる。

でも本来攻撃的な人間ではなく、臆病なので、多分に負荷をかけつづけている。なかなかその思考パターンというか、モデルからぬけられず、今も苦しんでいる。失うばっかりの年齢になり、キツい。成り立たなくなっていく。

仕事はとにかくしたかった。25、6の時にうまい具合にヤマトの倉庫で働けた。一年ちょっと。何でやめたのかは覚えていない。34歳ころ、ちょっと離れた同じヤマトの倉庫で働き始めたが、4日でやめる。通い続ける事に精神的に、ものすごい苦痛を感じた。以来、働こうとはしていない。どっかの童貞男が、セックスすれば全てうまくいくと思っているように、自分も「働いてさえいれば」と強く思う。とにかく仕事について、人並みになりたい。強く思う。そうすれば全てうまくいく、と。でもなかなか踏み出せないし、現実的でない。

マツダさんにいいアイデアがあれば、おねがいしたい。

44歳現在、無職で障害年金をもらって20年くらいになる。

人間関係について。彼女とよべるものは二人いた。一人目は20代中盤にフリースペースで知り合った女で、当時大量の薬のせいか、セックスが全く楽しくなく一年くらいで終わった。

二人目は今もお付き合いしている。年上でアタマがよく、とても愛してくれる。でも、薬でさんざんアタマをゆさぶられたせいか、単純に愛せない。自然の感情が欠如しているようだ。これは友人関係にも言えることで、他人をおもいやる事が今いちできない。先ず自分、と考える。他人のため、というのが全く理解できない。だからマツダさんのような仕事もわからない。恩もすぐ忘れる。やってもらった事には、すなおにありがとうと言えず、通りこして「申しわけない」と感じてしまう。これは自己肯定感を際限なく下げる。

THさんの事にもふれておこう。THさんには、ただ上へ上へと努力することしか考えていなかったころ、その場で楽しければいい、というようなメッセージを感じた。みんなでインラインスケートをしていたころ、うまくなる事しか考えてなかったが、割り込んできたTHさんがちょっとやっただけで「いいや、おれは」と楽しそうにしていた。「こういう楽しみ方があるんだ」と思ったものだ。亡くなったのを知ったのはずっと後だった。いいオトコだった。彼女もすてきだった。残念なことをした。

なんかキタネー字で本当にダラダラ書いてしまった。マツダさんは少しはオレの事を覚えているだろうか? 本当はこんなだったんだよ。知ってたよな、多分。まずSMさんに感謝。いなければセンターも知らなかった。たくさんの人と会えた。TA君にはひどいことを言ってしまった。なんもわかってなかった。無神経な言葉をかけてしまった。機会があれば謝りたい。申しわけなかった。

センターを作ってくれたマツダさんにも感謝している。直接なんかしてもらったおぼえは全くないが。むしろ妙にしめつけられて、あおられて、いきがっていた自分は、当時、たくさんの人を傷つけたのではないかとさえ思う。それも申しわけなかった。場をあらしてしまったのではないか、と。

ふり返れば、申しわけないでいっぱいの人生。今もキツい。本当にキツい。でも人生は簡単に降りられない。死にたい。死ねばそれに越したことはない。みんなそう思っているのではないか? 人間は生きるようにはできてない。最後までまとまりがない。これはマツダさんだけにとどめといてくれ。

ホント、ダラダラすみません。何か「たし」になれば。もう一度、お会いしたい。

まっちゃん、元気で。

追伸 S.N                               

返信ありがとう。ただダラダタ書いて終わらせるつもりだったが、やはり何かを期待していた。うれしかった。とても。ありがとう。本当にありがとう。

キレイな紙にキレイな字で打ち込んである自分の生々しい文章にショックをうけた。

何度も読み返し「こんなんなのかオレは? こんなんなのかオレは??」と涙が出そうになった。なかなかの名文じゃないか。キタナイ文字を起こしてくれてありがとう。たった数週間前に書いた自分の言葉がこんなにもささるとは。理路整然とならんだ文字ならなおさらで。お手数おかけしました。

会報への掲載の件ですが、OKです。が、疑問と、いくつかの要望があります。当事者(このよび方には昔から違和感がある)がこれを読んで、はたして勇気づけられるか?という問いです。「どーしようもない自分だけど、先には光がある…」と思っている人たちに、どーしようもない自分には、どーしようもないが延長された未来しかない、と思いこまさせるようでピンときません。自分の人生のように。マァ松田さんの判断にお任せしますが。

近況報告として、最近、医者から「自己愛がたりないんじゃないか?」とのご指摘をいただいた。自分としては真逆だと思っていたので意外だった。今さら何をしたら「自己愛」が高まるのか知りたいものです。何かいい考えはありますかね?

S.Nくんの近況報告について 松田武己

私信として松田に伝えてきた近況報告に感動して、他の人にも読んでほしいと考え、S.Nくんに会報にも載せたいという連絡をしました。会報への掲載にはOKをもらいました。S.Nくんからは、近況報告に出てくる個有名詞の扱いとともに、いくつかの要望がありました。

1つは、これを読んではたして勇気づけられるのか、「どうしようもない延長された未来しかないと思いこませるのではないか」という心配。

もう1つは、S.Nくんが担当医から「自己愛がたりないんじゃないか?」と指摘され、今さら何をしたら自己愛がたりないのかという質問です。

S.Nくんの近況報告に感動したのに続いて、この「会報掲載OK」の返事にも私は感動しました。何度も読み返し「こんなんなのかオレは?」と自分を認め、ショックを受け、涙していること——そこにS.Nくんの真実をみた思いです。

自分を認めるとか自己愛を高めるには、自分の真実に向きあうことが出発になると思うのです。ときにそれはカッコわるいものだったり、恥ずかしいものだったりもします。形が立派で言葉が飾られたばかりではこうはなりません。S.Nくんはその実例を示してくれました。読む人にはきっと勇気を与えるものと思います。

S.Nくんへの返事などがあれば松田宛に送ってください。転送します。

テレビゲーム

「人生はゲームである」。
この言葉に込められているのはゲームに人生を見出すことのできた者の実感であろう。
自分なりの目標、努力、運、挫折、勝利の喜び……。
他の何をする気力もない時期も私は「ファザナドゥ」というテレビゲームをよくプレイした。
おもしろかったとはいえない。むしろプレイすればするほど惨めな気持ちは募っていった。
それでも私は、暗い街をネズミのようにさまよい歩いているうちに、ウニにつまずいてあっけなく死んでしまう、そんなまぎれもない自分の分身に会うだけのために毎日スイッチを入れたものである。
やがて私の興味は他のゲームソフトに移り、このゲームはさんざん罵倒された末、中古屋に売り払われてしまった。
しかし10年近く後、めきめきとゲームの腕前を上げた私はあの「ファザナドゥ」を探し求めてあちこちの店を回ることになる。
観察力、探究心、根気、体力、すべてにおいて昔よりはるかに充実している。
いろいろなことを好きになり、また好きなことになら全力で打ち込めるようになった私が、480円で再び手に入れたこのゲームを始めると、私の分身は最終ステージまで難なく突き進み、巨大なボスもあっけなくクリアしてしまった。
私の長いゲームはこうして終わった。
あれから後も私はさまざまなゲームに出会い、それぞれに思い出はつきない。
結局ゲームは私にとって家族であったとさえ言えるかもしれない。
心の底から喜び、悔しがることを教えてくれたのも、母の辛辣な視線と言葉を背に私が打ち下ろす拳を許し、受け入れてくれたのもゲームであった。
要するに「人が生きる」というのもそういうことであろう、と私は思う。
だから壊れて動かなくなってしまった今でも、私はこの器械を捨てることができないのである。(S)

私と父との関係―松田武己  2022年4月1日

私と父との関係はどうでしたか? と尋ねるRくんは同じ家に住みながら30年のあいだ父とまともな会話をしたことがないそうです。社会に関われない苦悩の源泉はそこにもあると思える彼に、はたして私と父との関係が何の役に立つのか。そんなことを考えながら浮かんできたのは父が亡くなった日のことです――。

セスナ機は20人ほど乗れる小型機で、機体の丸みが感じられる左右の壁が近くにありました。プロペラ機で左右に少し揺れます。東北の空を羽田から青森に向かう途中で右には太平洋、左側遠方かすかに日本海があると思わせる冬の情景を上から見下ろしながら飛んでいました。1981年12月の冬の空です。
青森空港は雪の中にあり、そこから青森市内へのバス、下北鉄道、大畑線と時間待ちをしながら乗り継ぎ、大畑駅についたのはすっかり夜になっていました。
駅に着くと待ち受けていた数人に案内され、車に乗って着いたところが父のいる病室です。すでに死期は迫っており、数分後死亡が確認されました。病床の父は目を開けることはなく、意識もなく、これを臨終の場に間に合ったというべきかどうかは難しいところです。父は70歳を目前にした69歳でした。

その前に直接会ったのは、父が還暦を迎えたときで、長兄がよびかけてきょうだい五人が集まったはずです。私は1974年に大阪から上京したのですが、そのときは大阪在住だったと思います。このときどんな話をしたのか。仕事の関係で水産庁とイカ漁の条件に関わったことが話されたはずです。その時点で父とは十年近くは会っていなかったのです。
1961年春、私が中学校を卒業し、高校に入学する前の春休みの期間、父が水産加工場で使うヨシを刈るために、少し離れた地域の水辺におそらく次兄と三人で行ったのが、まともに話をした最後ではないかと思います。
この水産加工場はその後、しばらくして廃業になり、さらにその後父は田舎(島根)から青森県大畑の親戚筋を頼って移っていきました。廃業までの期間、父は加工場で寝泊りをしていたようで、家に帰ることはありませんでした。
家族は離散していました。姉はすでに結婚していましたし、兄2人は高知と大阪にいました。田舎には母と弟と私の三人が残りました。母は事実上のシングルマザーです。納屋に住み、ジャガイモにバターという朝食が続きました。母の苦心を思えば、十代の2人には超貧乏生活もみじめ感は少なかったと思います。新聞配達と家庭教師と休日バイト(主に築港の土木作業)を続けていました。

父と私の関係はこういう背景事情を抜きには考えられません。私が小学校入学前は、村会議員をしていました。1953年に村は大田市に合併し村会議員はなくなりました。その後、中学校のPTA会長を勤めたらしく、私が中学生のころ、校長室に父の書いた色紙があったのを覚えています。
朝鮮戦争の後、田舎の海岸にアメリカ軍が使っていた浮きドッグが漂着しました。大量の鉄製品で、これをアメリカ軍から譲り受け、売却して中学校の体育館が建ちました。このアメリカ軍との折衝にPTA会長として関わったらしく、アメリカ兵2人が自宅に来ました。私と弟はまだ小学生のころで、この兵士から声を掛けられ何かをもらった記憶があります。
母からは「タケミは社会科はできるけれども、社会勉強はできない」と父が話していたと聞いたことがあります。一人でいる時間の多かった子ども時代の私を言い当てたものです。父の思い出はほんとに少ないです。とくに怒られたこともなければ誉められたこともありません。そこまで接点がないとは思いませんが、記憶に浮かんできません。父との関係が空白であるのは、こういう事情です。

父の葬儀の席で、地元漁業協同組合の弔辞が読まれています。漁業協同組合でイカつり漁の条件を各方面に働きかけた父の様子が詳しく語られました。父と離れた20年の様子を初めて知ることになりました。
苦しかった母と弟の3人の生活を思いながら、父もがんばっていたんだとこみ上げてきました。本当に泣きました。弟の方はもっとひどい泣き方になりました。弟も私も30代の半ばになっています。姉と2人の兄は事情を少し知っていたようです。私は、弔辞を聞きながら長い過ぎた時間を振り返っていたのです。
Gone with the condolences , hearing with my some tears.

Rくん、私と父の関係は大筋こういうものです。自分の経験を超えて語ることはできません。大きく異なりますが、相通じるところがあるかもしれません。

父との関係―Rくんからの手紙 2022年3月

 さきごろ1冊の本を贈られました。井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社文庫.2021)です。ぜひ読んでほしいという添え書きがあります。エッセイ集でありどの部分を読んでもいいのですが、途中でふと思いました。彼はなぜこの本を読んでほしいと思ったのだろうかと。
そこでどういう意図があるのかを問い合わせたところ、いつもの几帳面な手紙が返されてきました。その答えにあたる部分を紹介します。読者の方にもどこか思い当たることはないでしょうか?

《実は、ぼくは、父との関係が小さい頃から良くなくて、成人してからはもう30年ほどもまともに口を利いていない状態が続いております。母や姉、弟とはふつうの関係を保っているのですが、なぜだか父とはうまく関係を築けませんでした。
前に、二条淳也さんが会報で、「ぼくは、母親から愛されなかった」と言っているのを目にしたことがありますが、実はぼくは、子供のころに、父親から愛されませんでした。それは被害妄想でも、思い込みでもなく、本当のこと、事実です。そんな訳で、小さいころや小学生のころに、ぼくは非常にさびしかったものでした。姉や弟は父から愛されたようですが、真ん中のぼくだけは、なぜだか全くかまわれませんでした。今考えても、ぼくにはそれが、謎ですし、全くわからないのです。
なので、ぼくは、今でも、父には良い感情が持てないでいます。詳述すると、長くなるので、省略しますが、何が言いたいのかといいますと、ぼくは、自分と父との関係について、ずっと悩み、考えてきたので、他人の家の、父子関係にも関心があるのです、ということが言いたいのです。松田さんと、父上の関係はいかがでしたでしょうか。いろんな人にお尋ねしたいくらいなんです。父親との関係は良いですか?悪いですか?と。
そんな思いが胸中にありましたので、『夜中の電話』では、父親と、娘の関係が率直に綴られてあり、それが、まず、ぼくの第1の関心事でした。井上麻矢さんの、父親への様々な思いや、複雑な感情が綴られていることに、まず、大きな興味をぼくは覚えました。実は、ぼくは、井上ひさし氏のメッセージそのものについては、特別深い関心を持った訳ではありません。随所に、いいことを言ってはおられますが。
井上ひさし氏が昭和9年生まれで、娘の麻矢さんが昭和42年生まれです。ぼくの父は昭和12年生まれで、ぼくが昭和43年生まれです。それぞれに年齢が近いということも、なんだか親近感を覚えました。
松田さんと、父上との関係がどのようなものだったのか、知る由もありませんが、ぼくは小さいころから父との関係が良くなくて、悩み続けてきました。今現在もです。父はどうしてこのぼくを助けてくれないのだろう。無関心を決め込んでいて。同じ家に住んでいて、父とぼくとは、気づまりで、居心地が悪く、互いに避けあっています。ぼくにはもう、父との関係をどうしたらいいのか、わからないんです。ぼくは、父に、愛情を全く感じておりません。長い長い年月です。父のことを優しいなと思ったことは、小学生の低学年のころに、1回くらいしかありません。このような父と居ると、ぼくは自然と肩に力が入り、緊張してしまいます。そのため、いつも上半身が痛いのです。背中の両肩のあたりがです。でもどうしたら、リラックスできるのか、わかりません。
前回申し上げました通り、ぼくは無気力ですが、この度は、気力をふり絞って、やや長めの手紙を書かせてもらいました。今回の会報には、松田さんの子ども時代のことが書かれてありますので、興味深く読ませて頂きます。》

Rくんには手紙で返事をするつもりです。読者の皆さんからも体験談をお待ちします。

セシオネット親の会で出会えた人間関係 Y子

初めてセシオネットに参加したのは、不登校だった次男が14歳の中学生のときでした。
上河辺先生と坂詰先生は初参加の私に、学校なんていかなくてもよいなどとおっしゃり、一刻も早く学校へ行かせたいと思っていた私にはなんて変なことを言う人たちなんだろうと思いました。

それでも通ううちに毎月、土曜日の午後、高田馬場へおじゃまするのが楽しく、夕陽のあたる部屋で話を聞いてもらったり、立ち直った親御さんの話を聞くことが私にとって大きな癒しになりました。
その後、高校の先輩になったKさんからは「そのうちに自転車で一人出かけたり、洋服に興味を持つようになり一緒に買い物にいくようになりますよ」と言われました。
そのときは信じられませんでしたが、予言されたかのようにその通りになりました。

次男は不登校の遅れを取り戻すため本人から塾へ行きたいと言い出したので坂詰先生の個人指導塾に通いました。
夫は上河辺先生の仏教塾に参加し、セシオネットのご縁で新しい世界が開けました。
坂詰先生はチャレンジスクール(高校)に入ったら、休まず通い、勉強をがんばれば行きたい大学に行けると次男に伝えました。
お蔭さまで卒業式には皆勤賞をもらいました。大学も推薦を受けることができ無事入学しました。

セシオネットを含め中学三年生から一年間通った適応指導教室の先生や、そこのカウンセラーは苦しい状況のときだからこそ出会えた人間関係だと思っています。
この先はどうなるか分かりませんが今は自分にとって不登校を経験して良かったと思っています。こんなことを粋がって書いてしまいましたが、あんな苦しみはもうごめんです。
あのときはうつ病のようになり、毎日泣きながら寝てばかりいました。苦しさのあまり思い詰めたこともあります。
ここから逃げれば全ての苦しみから解放されると思いました。
思い出すと懐かしい気がします。いま次男は25歳になりました。土木関係の仕事でほとんど地方に行っています。

中学1年の不登校時の担任の先生との面談で、本人は来られなかったので先生と私の二者面談でした。
そのとき先生が次男の子育てに関して「長男(お兄さん、もしくは上のお子さんと言ったかは忘れました)との育て方の違いは何ですか?」と聞かれ、その場をつくろう答えをしました。
でも部屋を出るときはふらふらになりました。自分の中での怒りをうまく表現できず身体が耐え切れなくなったのかも知れません。
後日、校長に呼ばれ、このときのことを話したら「そんなことを言われたら私だったら机をひっくり返して怒りますよ」と言われました。
怒りを無理に抑え込んだからいけなかったのかと思いました。

長くなってしましましたが、セシオネット親の会に出会えて良かったと思っています。

ボランティア休止の2年がつらい T.H 2022.1.18

いったいコロナ禍はいつまで続くのでしょうかね。参ります。
ぼくにとっては社会との唯一の接点であった〇O◇Sでのボランティアが休止となってから、もうじき丸2年になります。家にずっといるのはつらいですし、この2年間は長く感じられました。
早くボランティアに通いたいです。ほんの少しでも自分が何かの役に立っているんだという実感が欲しいからです。超単純作業ではあっても、何もしないよりはマシなのです。
でも今の感染状況から言ったら、まったく先が見通せません。つらいです。

展示会の案内です  A.S

百瀬研勢「吾が心の石仏」写真と言葉展
日時:2021年12月2日~12月5日
10:00am~16:00pm
会場:かなっくホール ギャラリーにて(入場無料)
横浜市鶴見区市場大和町9-17
 JR東神奈川、京急東神奈川から連絡橋で徒歩1分
 東急東横線東白楽 徒歩10分

旭川のいじめ凍死事件で署名を募ります  Ct

こないだNHKでもやってたのですが、旭川のいじめ凍死事件では署名を募っています。いじめの署名お願いいたしますというタイトルで、旭川いじめ凍死事件でみなさんに検索、署名をしていただきたくお願いいたします。
私はいじめで対人恐怖になりました。いじめは後々までその人の人生を左右するのです。日本からいじめをなくすために署名をお願いいたします。
検索ワードは、「旭川凍死いじめ事件、署名」で検索したらホームページが出ます。

『書標』11月号の紹介です

TM瞑想を勧める人がいます

「メンタルな問題から抜け出す工夫にも華がほしい」という過食・不眠・うつ状態を重ねる事情をブログに書いたのは4年前のことです。
それについて先日、不眠からの抜け出し法としてTM瞑想(Transcendental Meditation )を勧めるコメントがありました。その主旨は次の通りです。

◎ TM瞑想をはじめてから「良く眠れるようになった!」という人は多いです。
TM中に寝てしまいます、という人は『過去の睡眠負債の解消』とこのサイトでも解説しています。
ですので、ぜひTMを習って、仮に夜目が覚めたらTM瞑想してみてください。多くの忙しいビジネスマンは忙しくて瞑想する時間がない、と言っています。
目が覚める人は瞑想時間が確保できる、と前向きにとらえてください。 夜、寝れない時間があれば瞑想する、すると寝てします。 ぜひお勧めの提案です。
1.もしよろしければお近くのTMセンターでTMを習ってみてください。無料説明会はZOOMも可能です。
HTTPS://MAHARISHI.OR.JP/CENTERS/
2.とても簡単な方法ですが慣れるまでTM教師による無料チェキングを何度も受けてください。
3.寝つきに改善傾向があると思いますが個人差はあるかもしれません。
そこで、「もし夜中に目が覚めたら、寝れない、と思わないでTMができるチャンス!と思ってTMしてみてください」
4.3は夜目が覚めてしまう方々で連絡しながら「遠隔でも一緒に実習できるチャンス!」でもあります。
5.ただし予め夜中の3時に瞑想しましょう、はNGです。もし夜中起きてしまったらTMをやってみましょう。
6.そして翌日仲間どおしで何時からTMをした、など情報を共有すると楽しいと思います。

以上が提案です、どうでしょうか? これは通常の社会生活を送っている人への提案になると思います。
ひきこもりの人にはいくつかの障壁があり、そのままでは有効にならないというのが私の感想です。
そうはいってもひきこもりの人のなかには不眠が多いし、TM瞑想に代わるいい方法は知っているわけではありません。
ひきこもりのなかには、過食・不眠・うつ状態の状況が巡回し、重なっている人は少なからずいます。
3つの状態を同時に何とかするのは対象が明確でなく、人により時期によりどれか対象をしぼり、意識的に改善を試みるのがよいと考えています。
しかし、実際はうまくいった人を知りません。
服薬を続けていたが独断で薬をやめて突破した人の話を聞いたことがあります。
誰にでも勧められるわけではありません。というより誰に対してもこのような断薬法を勧めたことはありません。
薬を止めた方がいいとは思いますが、その提案は責任が持てないのでできません。
他にも過食・不眠・うつ状態の悪循環から抜け出た人もいますが、何がどうしてそうなったと納得できる説明を聞いたことはないです。
本人の試みよりも、その人の生活している環境が変わって心身状態が改善したというのが当たっている気がします。
そういう環境を改善する、居心地のいい環境を選ぶ、というのが案外いいと思えます。
しかし、この悪循環の中にいる人は、環境を選ぶとか変えるには程遠いところにいます。
何よりも意思を働かせる状態にいませんし、動けないです。
そして大きくは変わらないまま時間が過ぎるのです。5年、十年という時間が過ぎるのです。

それで今回の提案ですが、私はこう受けとめます。
やってみようという人がいれば、お勧めします。もし条件があれば、私も同行または同席する形で応援するつもりでいます。
その気になった人は、ぜひ私の声をかけてください。提案者に連絡し、できるだけ一緒の行動をします。
これが私にできることだからです。
何事もやってみないとわからない、悪いと思わないものはやってみてから結論を出すのがいいというのが私流です。

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