テレビゲーム

「人生はゲームである」。
この言葉に込められているのはゲームに人生を見出すことのできた者の実感であろう。
自分なりの目標、努力、運、挫折、勝利の喜び……。
他の何をする気力もない時期も私は「ファザナドゥ」というテレビゲームをよくプレイした。
おもしろかったとはいえない。むしろプレイすればするほど惨めな気持ちは募っていった。
それでも私は、暗い街をネズミのようにさまよい歩いているうちに、ウニにつまずいてあっけなく死んでしまう、そんなまぎれもない自分の分身に会うだけのために毎日スイッチを入れたものである。
やがて私の興味は他のゲームソフトに移り、このゲームはさんざん罵倒された末、中古屋に売り払われてしまった。
しかし10年近く後、めきめきとゲームの腕前を上げた私はあの「ファザナドゥ」を探し求めてあちこちの店を回ることになる。
観察力、探究心、根気、体力、すべてにおいて昔よりはるかに充実している。
いろいろなことを好きになり、また好きなことになら全力で打ち込めるようになった私が、480円で再び手に入れたこのゲームを始めると、私の分身は最終ステージまで難なく突き進み、巨大なボスもあっけなくクリアしてしまった。
私の長いゲームはこうして終わった。
あれから後も私はさまざまなゲームに出会い、それぞれに思い出はつきない。
結局ゲームは私にとって家族であったとさえ言えるかもしれない。
心の底から喜び、悔しがることを教えてくれたのも、母の辛辣な視線と言葉を背に私が打ち下ろす拳を許し、受け入れてくれたのもゲームであった。
要するに「人が生きる」というのもそういうことであろう、と私は思う。
だから壊れて動かなくなってしまった今でも、私はこの器械を捨てることができないのである。(S)

私と父との関係―松田武己  2022年4月1日

私と父との関係はどうでしたか? と尋ねるRくんは同じ家に住みながら30年のあいだ父とまともな会話をしたことがないそうです。社会に関われない苦悩の源泉はそこにもあると思える彼に、はたして私と父との関係が何の役に立つのか。そんなことを考えながら浮かんできたのは父が亡くなった日のことです――。

セスナ機は20人ほど乗れる小型機で、機体の丸みが感じられる左右の壁が近くにありました。プロペラ機で左右に少し揺れます。東北の空を羽田から青森に向かう途中で右には太平洋、左側遠方かすかに日本海があると思わせる冬の情景を上から見下ろしながら飛んでいました。1981年12月の冬の空です。
青森空港は雪の中にあり、そこから青森市内へのバス、下北鉄道、大畑線と時間待ちをしながら乗り継ぎ、大畑駅についたのはすっかり夜になっていました。
駅に着くと待ち受けていた数人に案内され、車に乗って着いたところが父のいる病室です。すでに死期は迫っており、数分後死亡が確認されました。病床の父は目を開けることはなく、意識もなく、これを臨終の場に間に合ったというべきかどうかは難しいところです。父は70歳を目前にした69歳でした。

その前に直接会ったのは、父が還暦を迎えたときで、長兄がよびかけてきょうだい五人が集まったはずです。私は1974年に大阪から上京したのですが、そのときは大阪在住だったと思います。このときどんな話をしたのか。仕事の関係で水産庁とイカ漁の条件に関わったことが話されたはずです。その時点で父とは十年近くは会っていなかったのです。
1961年春、私が中学校を卒業し、高校に入学する前の春休みの期間、父が水産加工場で使うヨシを刈るために、少し離れた地域の水辺におそらく次兄と三人で行ったのが、まともに話をした最後ではないかと思います。
この水産加工場はその後、しばらくして廃業になり、さらにその後父は田舎(島根)から青森県大畑の親戚筋を頼って移っていきました。廃業までの期間、父は加工場で寝泊りをしていたようで、家に帰ることはありませんでした。
家族は離散していました。姉はすでに結婚していましたし、兄2人は高知と大阪にいました。田舎には母と弟と私の三人が残りました。母は事実上のシングルマザーです。納屋に住み、ジャガイモにバターという朝食が続きました。母の苦心を思えば、十代の2人には超貧乏生活もみじめ感は少なかったと思います。新聞配達と家庭教師と休日バイト(主に築港の土木作業)を続けていました。

父と私の関係はこういう背景事情を抜きには考えられません。私が小学校入学前は、村会議員をしていました。1953年に村は大田市に合併し村会議員はなくなりました。その後、中学校のPTA会長を勤めたらしく、私が中学生のころ、校長室に父の書いた色紙があったのを覚えています。
朝鮮戦争の後、田舎の海岸にアメリカ軍が使っていた浮きドッグが漂着しました。大量の鉄製品で、これをアメリカ軍から譲り受け、売却して中学校の体育館が建ちました。このアメリカ軍との折衝にPTA会長として関わったらしく、アメリカ兵2人が自宅に来ました。私と弟はまだ小学生のころで、この兵士から声を掛けられ何かをもらった記憶があります。
母からは「タケミは社会科はできるけれども、社会勉強はできない」と父が話していたと聞いたことがあります。一人でいる時間の多かった子ども時代の私を言い当てたものです。父の思い出はほんとに少ないです。とくに怒られたこともなければ誉められたこともありません。そこまで接点がないとは思いませんが、記憶に浮かんできません。父との関係が空白であるのは、こういう事情です。

父の葬儀の席で、地元漁業協同組合の弔辞が読まれています。漁業協同組合でイカつり漁の条件を各方面に働きかけた父の様子が詳しく語られました。父と離れた20年の様子を初めて知ることになりました。
苦しかった母と弟の3人の生活を思いながら、父もがんばっていたんだとこみ上げてきました。本当に泣きました。弟の方はもっとひどい泣き方になりました。弟も私も30代の半ばになっています。姉と2人の兄は事情を少し知っていたようです。私は、弔辞を聞きながら長い過ぎた時間を振り返っていたのです。
Gone with the condolences , hearing with my some tears.

Rくん、私と父の関係は大筋こういうものです。自分の経験を超えて語ることはできません。大きく異なりますが、相通じるところがあるかもしれません。

父との関係―Rくんからの手紙 2022年3月

 さきごろ1冊の本を贈られました。井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社文庫.2021)です。ぜひ読んでほしいという添え書きがあります。エッセイ集でありどの部分を読んでもいいのですが、途中でふと思いました。彼はなぜこの本を読んでほしいと思ったのだろうかと。
そこでどういう意図があるのかを問い合わせたところ、いつもの几帳面な手紙が返されてきました。その答えにあたる部分を紹介します。読者の方にもどこか思い当たることはないでしょうか?

《実は、ぼくは、父との関係が小さい頃から良くなくて、成人してからはもう30年ほどもまともに口を利いていない状態が続いております。母や姉、弟とはふつうの関係を保っているのですが、なぜだか父とはうまく関係を築けませんでした。
前に、二条淳也さんが会報で、「ぼくは、母親から愛されなかった」と言っているのを目にしたことがありますが、実はぼくは、子供のころに、父親から愛されませんでした。それは被害妄想でも、思い込みでもなく、本当のこと、事実です。そんな訳で、小さいころや小学生のころに、ぼくは非常にさびしかったものでした。姉や弟は父から愛されたようですが、真ん中のぼくだけは、なぜだか全くかまわれませんでした。今考えても、ぼくにはそれが、謎ですし、全くわからないのです。
なので、ぼくは、今でも、父には良い感情が持てないでいます。詳述すると、長くなるので、省略しますが、何が言いたいのかといいますと、ぼくは、自分と父との関係について、ずっと悩み、考えてきたので、他人の家の、父子関係にも関心があるのです、ということが言いたいのです。松田さんと、父上の関係はいかがでしたでしょうか。いろんな人にお尋ねしたいくらいなんです。父親との関係は良いですか?悪いですか?と。
そんな思いが胸中にありましたので、『夜中の電話』では、父親と、娘の関係が率直に綴られてあり、それが、まず、ぼくの第1の関心事でした。井上麻矢さんの、父親への様々な思いや、複雑な感情が綴られていることに、まず、大きな興味をぼくは覚えました。実は、ぼくは、井上ひさし氏のメッセージそのものについては、特別深い関心を持った訳ではありません。随所に、いいことを言ってはおられますが。
井上ひさし氏が昭和9年生まれで、娘の麻矢さんが昭和42年生まれです。ぼくの父は昭和12年生まれで、ぼくが昭和43年生まれです。それぞれに年齢が近いということも、なんだか親近感を覚えました。
松田さんと、父上との関係がどのようなものだったのか、知る由もありませんが、ぼくは小さいころから父との関係が良くなくて、悩み続けてきました。今現在もです。父はどうしてこのぼくを助けてくれないのだろう。無関心を決め込んでいて。同じ家に住んでいて、父とぼくとは、気づまりで、居心地が悪く、互いに避けあっています。ぼくにはもう、父との関係をどうしたらいいのか、わからないんです。ぼくは、父に、愛情を全く感じておりません。長い長い年月です。父のことを優しいなと思ったことは、小学生の低学年のころに、1回くらいしかありません。このような父と居ると、ぼくは自然と肩に力が入り、緊張してしまいます。そのため、いつも上半身が痛いのです。背中の両肩のあたりがです。でもどうしたら、リラックスできるのか、わかりません。
前回申し上げました通り、ぼくは無気力ですが、この度は、気力をふり絞って、やや長めの手紙を書かせてもらいました。今回の会報には、松田さんの子ども時代のことが書かれてありますので、興味深く読ませて頂きます。》

Rくんには手紙で返事をするつもりです。読者の皆さんからも体験談をお待ちします。

セシオネット親の会で出会えた人間関係 Y子

初めてセシオネットに参加したのは、不登校だった次男が14歳の中学生のときでした。
上河辺先生と坂詰先生は初参加の私に、学校なんていかなくてもよいなどとおっしゃり、一刻も早く学校へ行かせたいと思っていた私にはなんて変なことを言う人たちなんだろうと思いました。

それでも通ううちに毎月、土曜日の午後、高田馬場へおじゃまするのが楽しく、夕陽のあたる部屋で話を聞いてもらったり、立ち直った親御さんの話を聞くことが私にとって大きな癒しになりました。
その後、高校の先輩になったKさんからは「そのうちに自転車で一人出かけたり、洋服に興味を持つようになり一緒に買い物にいくようになりますよ」と言われました。
そのときは信じられませんでしたが、予言されたかのようにその通りになりました。

次男は不登校の遅れを取り戻すため本人から塾へ行きたいと言い出したので坂詰先生の個人指導塾に通いました。
夫は上河辺先生の仏教塾に参加し、セシオネットのご縁で新しい世界が開けました。
坂詰先生はチャレンジスクール(高校)に入ったら、休まず通い、勉強をがんばれば行きたい大学に行けると次男に伝えました。
お蔭さまで卒業式には皆勤賞をもらいました。大学も推薦を受けることができ無事入学しました。

セシオネットを含め中学三年生から一年間通った適応指導教室の先生や、そこのカウンセラーは苦しい状況のときだからこそ出会えた人間関係だと思っています。
この先はどうなるか分かりませんが今は自分にとって不登校を経験して良かったと思っています。こんなことを粋がって書いてしまいましたが、あんな苦しみはもうごめんです。
あのときはうつ病のようになり、毎日泣きながら寝てばかりいました。苦しさのあまり思い詰めたこともあります。
ここから逃げれば全ての苦しみから解放されると思いました。
思い出すと懐かしい気がします。いま次男は25歳になりました。土木関係の仕事でほとんど地方に行っています。

中学1年の不登校時の担任の先生との面談で、本人は来られなかったので先生と私の二者面談でした。
そのとき先生が次男の子育てに関して「長男(お兄さん、もしくは上のお子さんと言ったかは忘れました)との育て方の違いは何ですか?」と聞かれ、その場をつくろう答えをしました。
でも部屋を出るときはふらふらになりました。自分の中での怒りをうまく表現できず身体が耐え切れなくなったのかも知れません。
後日、校長に呼ばれ、このときのことを話したら「そんなことを言われたら私だったら机をひっくり返して怒りますよ」と言われました。
怒りを無理に抑え込んだからいけなかったのかと思いました。

長くなってしましましたが、セシオネット親の会に出会えて良かったと思っています。

ボランティア休止の2年がつらい T.H 2022.1.18

いったいコロナ禍はいつまで続くのでしょうかね。参ります。
ぼくにとっては社会との唯一の接点であった〇O◇Sでのボランティアが休止となってから、もうじき丸2年になります。家にずっといるのはつらいですし、この2年間は長く感じられました。
早くボランティアに通いたいです。ほんの少しでも自分が何かの役に立っているんだという実感が欲しいからです。超単純作業ではあっても、何もしないよりはマシなのです。
でも今の感染状況から言ったら、まったく先が見通せません。つらいです。

展示会の案内です  A.S

百瀬研勢「吾が心の石仏」写真と言葉展
日時:2021年12月2日~12月5日
10:00am~16:00pm
会場:かなっくホール ギャラリーにて(入場無料)
横浜市鶴見区市場大和町9-17
 JR東神奈川、京急東神奈川から連絡橋で徒歩1分
 東急東横線東白楽 徒歩10分

旭川のいじめ凍死事件で署名を募ります  Ct

こないだNHKでもやってたのですが、旭川のいじめ凍死事件では署名を募っています。いじめの署名お願いいたしますというタイトルで、旭川いじめ凍死事件でみなさんに検索、署名をしていただきたくお願いいたします。
私はいじめで対人恐怖になりました。いじめは後々までその人の人生を左右するのです。日本からいじめをなくすために署名をお願いいたします。
検索ワードは、「旭川凍死いじめ事件、署名」で検索したらホームページが出ます。

『書標』11月号の紹介です

TM瞑想を勧める人がいます

「メンタルな問題から抜け出す工夫にも華がほしい」という過食・不眠・うつ状態を重ねる事情をブログに書いたのは4年前のことです。
それについて先日、不眠からの抜け出し法としてTM瞑想(Transcendental Meditation )を勧めるコメントがありました。その主旨は次の通りです。

◎ TM瞑想をはじめてから「良く眠れるようになった!」という人は多いです。
TM中に寝てしまいます、という人は『過去の睡眠負債の解消』とこのサイトでも解説しています。
ですので、ぜひTMを習って、仮に夜目が覚めたらTM瞑想してみてください。多くの忙しいビジネスマンは忙しくて瞑想する時間がない、と言っています。
目が覚める人は瞑想時間が確保できる、と前向きにとらえてください。 夜、寝れない時間があれば瞑想する、すると寝てします。 ぜひお勧めの提案です。
1.もしよろしければお近くのTMセンターでTMを習ってみてください。無料説明会はZOOMも可能です。
HTTPS://MAHARISHI.OR.JP/CENTERS/
2.とても簡単な方法ですが慣れるまでTM教師による無料チェキングを何度も受けてください。
3.寝つきに改善傾向があると思いますが個人差はあるかもしれません。
そこで、「もし夜中に目が覚めたら、寝れない、と思わないでTMができるチャンス!と思ってTMしてみてください」
4.3は夜目が覚めてしまう方々で連絡しながら「遠隔でも一緒に実習できるチャンス!」でもあります。
5.ただし予め夜中の3時に瞑想しましょう、はNGです。もし夜中起きてしまったらTMをやってみましょう。
6.そして翌日仲間どおしで何時からTMをした、など情報を共有すると楽しいと思います。

以上が提案です、どうでしょうか? これは通常の社会生活を送っている人への提案になると思います。
ひきこもりの人にはいくつかの障壁があり、そのままでは有効にならないというのが私の感想です。
そうはいってもひきこもりの人のなかには不眠が多いし、TM瞑想に代わるいい方法は知っているわけではありません。
ひきこもりのなかには、過食・不眠・うつ状態の状況が巡回し、重なっている人は少なからずいます。
3つの状態を同時に何とかするのは対象が明確でなく、人により時期によりどれか対象をしぼり、意識的に改善を試みるのがよいと考えています。
しかし、実際はうまくいった人を知りません。
服薬を続けていたが独断で薬をやめて突破した人の話を聞いたことがあります。
誰にでも勧められるわけではありません。というより誰に対してもこのような断薬法を勧めたことはありません。
薬を止めた方がいいとは思いますが、その提案は責任が持てないのでできません。
他にも過食・不眠・うつ状態の悪循環から抜け出た人もいますが、何がどうしてそうなったと納得できる説明を聞いたことはないです。
本人の試みよりも、その人の生活している環境が変わって心身状態が改善したというのが当たっている気がします。
そういう環境を改善する、居心地のいい環境を選ぶ、というのが案外いいと思えます。
しかし、この悪循環の中にいる人は、環境を選ぶとか変えるには程遠いところにいます。
何よりも意思を働かせる状態にいませんし、動けないです。
そして大きくは変わらないまま時間が過ぎるのです。5年、十年という時間が過ぎるのです。

それで今回の提案ですが、私はこう受けとめます。
やってみようという人がいれば、お勧めします。もし条件があれば、私も同行または同席する形で応援するつもりでいます。
その気になった人は、ぜひ私の声をかけてください。提案者に連絡し、できるだけ一緒の行動をします。
これが私にできることだからです。
何事もやってみないとわからない、悪いと思わないものはやってみてから結論を出すのがいいというのが私流です。

書評:頭木弘樹『ひきこもり国語辞典』

WordPress Themes