●75号-文通希望せず  WEB版掲載に寄せて

ミズキ [東京都 男 46歳 無職]

 「ひきコミ」と私の出会いは、8年前、創刊の記事を新聞で読んで書店を覗き、そこで手に取った時でした。

 その日の朝、見るともなしに見ていたテレビの占いが、「一生の宝となる出会いに恵まれるでしょう」であったこととあわせて日記に書いたことを思い出します。

 たしかに理解者を求めていた私にとって「ひきコミ」は希望のよりどころでした。

 「私は家畜ではない。野生動物の魂を守りぬくために戦っているのだ」。

 発表の場を得た私の頭からはいくらでも言葉があふれ出てきました。しかし、理解されたという実感はついに得られぬまま、私の過剰な期待も幻滅に変わり始めたころ、「ひきコミ」もまた書店から姿を消したのです。

 このたびその「ひきコミ」がネット上で復活するという通知を頂き、私も大変うれしい気持ちで読ませて頂きました。

 さて、私が文通や投稿の経験を通じて学んだ反省点に次の2つがあります。

 一つは、そのために議論を尽くすべき問題はあるとしても、心豊かな人間社会を実現する上で優先すべき言葉は、自分か「楽しい、美しい」と思える何かを伝えるものであるという点でしょう。

 正しさを巡る論争はそれ自体が怒り、悲しみの原因(=悪)になりかねません。

 ちなみに私は生活の中でも、ささやかなことに楽しさ、美しさを見出している自分をつとめて意識するようになりました。

 もう一つは、理解や正当な評価を求めて汲々をしても、おそらく満足は得られないだろうという点です。

 「理解されたい」というよりは、「理解されたという実感に浸りたい」という私の願望が単なる甘えに過ぎないのではないか、という可能性に思いが及んだとき、私の中で文章を書くモチベーションは半減しました。

 私か発見したことは、自分の人生に役立てば、それで十分価値かおるはずですから。

 他人が興味すら示さずとも、苛立ちや焦りを感じる必要もないでしょう。

 そう気づいて私は、それまでに書きためた原稿を捨てました。

 とはいっても、もちろん私の社会観自体が当時と変わった訳ではありません。

 不景気とやらのせいで、ものの見事に誰もが「モノ・カネ・体」の話しかしなくなった現在。私の「プライド経済論」に耳を貸す人は、当時よりさらに減っていると思われますが、不幸、不安の原因を安易に景気や治安に求めない人には、必ず説得力を持つものを確信しています。

 8年前に掲載して頂いた私の文章は訴え方にも幼さが目立ち、タイトルに目を通すだけで、懐かしさとともに恥ずかしさがこみ上げてきます。

 また、言葉が足りず、誤解を招きやすい部分もあったことでしょうが、当時の私の切羽詰まった心理状態をも表わすものとして、そのまま掲載して頂くにしました。

 最後になりましたが、近況をかいつまんでお知らせします。

 両親との関係は改善を見ることなくついに別居。私は約5年前より、単身生活に入りました。

 相変わらずの無職、無収入、できるだけ出費を抑え、質素な生活をしていますが、そのことにむしろスリルとロマンを感じています。

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