私と父との関係―松田武己  2022年4月1日

私と父との関係はどうでしたか? と尋ねるRくんは同じ家に住みながら30年のあいだ父とまともな会話をしたことがないそうです。社会に関われない苦悩の源泉はそこにもあると思える彼に、はたして私と父との関係が何の役に立つのか。そんなことを考えながら浮かんできたのは父が亡くなった日のことです――。

セスナ機は20人ほど乗れる小型機で、機体の丸みが感じられる左右の壁が近くにありました。プロペラ機で左右に少し揺れます。東北の空を羽田から青森に向かう途中で右には太平洋、左側遠方かすかに日本海があると思わせる冬の情景を上から見下ろしながら飛んでいました。1981年12月の冬の空です。
青森空港は雪の中にあり、そこから青森市内へのバス、下北鉄道、大畑線と時間待ちをしながら乗り継ぎ、大畑駅についたのはすっかり夜になっていました。
駅に着くと待ち受けていた数人に案内され、車に乗って着いたところが父のいる病室です。すでに死期は迫っており、数分後死亡が確認されました。病床の父は目を開けることはなく、意識もなく、これを臨終の場に間に合ったというべきかどうかは難しいところです。父は70歳を目前にした69歳でした。

その前に直接会ったのは、父が還暦を迎えたときで、長兄がよびかけてきょうだい五人が集まったはずです。私は1974年に大阪から上京したのですが、そのときは大阪在住だったと思います。このときどんな話をしたのか。仕事の関係で水産庁とイカ漁の条件に関わったことが話されたはずです。その時点で父とは十年近くは会っていなかったのです。
1961年春、私が中学校を卒業し、高校に入学する前の春休みの期間、父が水産加工場で使うヨシを刈るために、少し離れた地域の水辺におそらく次兄と三人で行ったのが、まともに話をした最後ではないかと思います。
この水産加工場はその後、しばらくして廃業になり、さらにその後父は田舎(島根)から青森県大畑の親戚筋を頼って移っていきました。廃業までの期間、父は加工場で寝泊りをしていたようで、家に帰ることはありませんでした。
家族は離散していました。姉はすでに結婚していましたし、兄2人は高知と大阪にいました。田舎には母と弟と私の三人が残りました。母は事実上のシングルマザーです。納屋に住み、ジャガイモにバターという朝食が続きました。母の苦心を思えば、十代の2人には超貧乏生活もみじめ感は少なかったと思います。新聞配達と家庭教師と休日バイト(主に築港の土木作業)を続けていました。

父と私の関係はこういう背景事情を抜きには考えられません。私が小学校入学前は、村会議員をしていました。1953年に村は大田市に合併し村会議員はなくなりました。その後、中学校のPTA会長を勤めたらしく、私が中学生のころ、校長室に父の書いた色紙があったのを覚えています。
朝鮮戦争の後、田舎の海岸にアメリカ軍が使っていた浮きドッグが漂着しました。大量の鉄製品で、これをアメリカ軍から譲り受け、売却して中学校の体育館が建ちました。このアメリカ軍との折衝にPTA会長として関わったらしく、アメリカ兵2人が自宅に来ました。私と弟はまだ小学生のころで、この兵士から声を掛けられ何かをもらった記憶があります。
母からは「タケミは社会科はできるけれども、社会勉強はできない」と父が話していたと聞いたことがあります。一人でいる時間の多かった子ども時代の私を言い当てたものです。父の思い出はほんとに少ないです。とくに怒られたこともなければ誉められたこともありません。そこまで接点がないとは思いませんが、記憶に浮かんできません。父との関係が空白であるのは、こういう事情です。

父の葬儀の席で、地元漁業協同組合の弔辞が読まれています。漁業協同組合でイカつり漁の条件を各方面に働きかけた父の様子が詳しく語られました。父と離れた20年の様子を初めて知ることになりました。
苦しかった母と弟の3人の生活を思いながら、父もがんばっていたんだとこみ上げてきました。本当に泣きました。弟の方はもっとひどい泣き方になりました。弟も私も30代の半ばになっています。姉と2人の兄は事情を少し知っていたようです。私は、弔辞を聞きながら長い過ぎた時間を振り返っていたのです。
Gone with the condolences , hearing with my some tears.

Rくん、私と父の関係は大筋こういうものです。自分の経験を超えて語ることはできません。大きく異なりますが、相通じるところがあるかもしれません。

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