これだ、ここしかない! そう思ったひきこもり支援関係の企業の面接に落ちてからまだ二週間も経っていない。あの時はもうこの世の終わりだ、今までの自分の人生は何だったのかと死にそうになっていた。いや、死ぬ元気もなかった。そこから一転、今では仕事も決まり、住む家もほぼ決まり、不安は言い出したらキリがないが、まずまずの順境にある。
落とされた面接で、「あなたの強みは何ですか?」と聞かれた時、わたしはこう答えた。「当事者と常に対等の立場で接することができることです」と。それが支援者と当事者の関係としてあるべき姿だと思っている。人が勇気を、エネルギーを奮い起こされることがあるとすればそれはどんな時か。信頼し、尊敬できる人の悩み苦しむ姿、悩みながらも前へ進もうとみっともなくあがき続ける姿を見た時ではないだろうか。それをこそ見せるべきなのだ。ただ道を示せば良いというものではない。その道を歩む生の姿を見せるのだ。そこには恥ずかしくて他人には普通見せたくないような姿が多分に含まれる。「苦しいのは皆同じだよ」などという月並みな言葉では意味がない。いや、むしろ逆効果ですらあるかもしれない。私がその言葉をかけられたとしたら、「私と同じように苦しいのに、なぜ私は歩みを止め、なぜ世の中の大半の人々は歩き続けるのか?私の頭がおかしいからか?」と傷付くだろう。
「苦しいのは皆同じ」、それは確かに真理ではあるが、それをそのまま言葉にしてはいけないのだ。たとえば家族愛がテーマの映画があったとして、そこでそのまま台詞として「家族って大事だよね」というようなことを言ってしまってはナンセンスだ。そんな三流脚本では人の心は動かない。その言葉は直接使わず、いかに観る人にそう思ってもらうかが脚本や演出の腕の見せ所だろう。それと同様に、「苦しいのは皆同じ」ということを言葉ではなく自らの姿勢をもって示さればならないのだ。悩み、苦しみながらももがき続ける姿を。それは万の言葉よりも見る者の心を動かすだろう。そのようにお互いの苦しさを見せることができるというのは対等な関係でなくては成立しない。支援者と当事者、教師と学生のような関係では駄目だ。ありがたいアドバイスをくれる単なる支援者など不要なのだ。いつだって本当に欲しいのは支援者ではなく、理解者だ。隣で共に歩んでくれる伴走者だ。あなたもそうでしょう?
先日電話をかけてきた子がこんなことを言っていた。「僕と清水さんは年も離れているし、僕が全然自分の気持ちを言葉にできていない時もあるけど、それでも清水さんはわかってくれる」。それを聞いて安心した。私は私が思うようなことをできていたのだ。そしてその子も私のことをよく分かってくれていたのだ。それが嬉しかった。そして思った。お互いに理解し合える対等な関係とは何だろう。それはもう友達と言う以外にない。私はこれまでずっと友達を作っていたのだと。別の「友達」は私が面接に落ちたことを話すと、「ぴったりの仕事なのに見る目ないですね」と言ってくれた。本当に見る目がないのがその会社の人事なのか、あるいは私なのか、それは分からない。「ひきこもり支援とは対等な友達を作ることだ」、と言い切ってしまったら世の中の評価は賛否が分かれるのは間違いない。それも否のほうがずっと多いことだろう。そういう意味ではこの結果は妥当であったと言えるだろう。そもそも人間不信気味の私に福祉は最初から向いていなかったのかもしれない。
新しい仕事はビルメンテナンスになる。今までずっと人を相手にしてきたが、これからはまったく仕事の方向性が異なる。「人からコンクリートへ」である。福祉の仕事への未練がないと言えば嘘になる、と言いたいところだが少なくとも今のところは本当に未練がない。私はワタミの社長とはちがう。「ありがとう」の言葉で心は膨れても腹は膨れない。応えぬ神に祈り続けるほど私は暇人でもないし、信心深くもない。これまで私とかかわったことで幸せになった人はいるかもしれないし、あるいはいないかもしれない。それは私が言うことではないだろう。私に言えるのは、福祉は私を幸せにはしてくれなかったということだけだ。もうそろそろ、私は私を幸せにするために動いても良いはずだ。
ということで私はもうこれで最終回でも良いのではないかと思っているが、どうだろうか。ロクに推敲もせず、だらだらと自分の思考を駄文にして垂れ流すのは、これはこれでけっこう楽しいのだが読者の側には違った思いもあるだろう。もしも一定以上まだ私の駄文に付き合っても良いという奇特な方がいるようであれば、もう少し続けようかとも思っている。ご意見、ご要望をお待ちしております。(2024年8月)
ある支援団体の関係者でブロガーというHさんから不登校情報センターのサイトへの投稿の問い合わせを受けました。それに対する私(松田)の返事を掲載します。多くの方に共通する事情です。
《Hさんの提案 私はブロガーであり、私の経験を御社の読者様と共有したいと思っております。サイト futoko.info は、ゲスト投稿を随時受け付けていることがわかりました。ブログに書いていただけると嬉しいです!
さまざまなトピックに関する投稿に興味を持っております。例えば、ギャンブルや賭け事に関するトピック はいかがでしょうか。
よろしければ、サイトに投稿を公開するのにかかる費用はいくらですか? もしご興味がありましたら、いつでもご連絡ください。お返事、心よりお待ちしております。》
《松田の返事 これまでにもそうした人はいますし、広義には今もいますが条件は同じではありません。
テーマ:心と行動の正常を揺るがした経験がある人の実体験を重視。
個人攻撃的なことはダメ、抑制的な批判はOK。
掲載個所:「ひきコミWEB版」と「ひきこもり居場所たより」のブログが中心であり、同じ文書をFacebookに転載することがあります。X(ツイッター)にはタイトルだけ載せることがあります。後に個人別のページをWikiシステムで作成します。
自作の月会報『ひきこもり周辺だより』に載せることがあります。会報読者は100~200人。読者に新聞記者などもいます。
1回の文章量、回数(投稿ペース)は特になし。テキスト文だけで、写真・絵・図表等はなし。費用は決めておらず、了解できる範囲でカンパしてください。
◎1回何かを書いてお送りください。それで考えるのがよいと思います。》
投稿日時: 2024年9月3日 松田武己(不登校情報センター)
ひきこもり経験者と関わり、恒常的な居場所をつづけるうちに、私の取り組みの目的は少しずつ変わりました。1996年に始めたころは仕事に就けるようにすることだったはずです。そうではないと感じ始めて「社会参加にする力と条件をつくる」としました。
ところがあまり意識しないうちに、私は〝仕掛ける〟型から〝受け取る〟型に変わっていきました。この変化の背景には2000年11月に文通目的の交流誌『ひきコミ』を月刊で発行したことが影響します。多くの投稿者の中に自己紹介とともに、マンガやイラストを送ってくる人がいました。小論文的なエッセイや4コマ漫画もありました。深く意識しないまま「表現をひき出す」スタイルが始まったのです。
イラストなどの絵画的なものを発表する創作品は、2005年2月に創作発表の場「片隅にいる私たちの創造展」が最初で、これは2012年4月までに5回開きました。2007年12月の第2回創造展のとき数名のカット絵集を手作り作ったのが手作り冊子の初めです。
居場所に「難しいと恥ずかしいは類似語です」という張り紙が出されたとき、ことば表現にも何か特別なものがあると感じました。彼ら彼女らのことば集めが始まり、それは10年後の2013年に手作り冊子『ひきこもり国語辞典』になりました。
手作り冊子づくりは創作展の間にも後にも続きました。全部ではないですが以下に紹介します。
お惚け者『世間は虚仮なのよ』(2008年2月)
中崎シホ『狂詩曲―中崎シホ詩集』(2009年2月)
makiko『TEARS―小さなカケラ』(2009年10月)=作者の自作
斯波盤宝『しあわせ村によく来たね』(2010年5月)=作者の自作
I・M『少女まんがに描かれた母親像』(卒業論文を冊子にしたもの)
二条純也『中年ひきこもり』(2013年4月)
太田勝己『不条理ものまんが集』(2014年3月)
葉月桜子『異物』(2014年4月)
この時期は冊子づくりが続いた時期とも言えます。2009年5月にSmさんの協力によりブログ(Yaplog)「片隅にいる私たちの創造展」を始めたのは展示会を続けるつもりだったからです。ただブログを始めることで別の展開が開けてきました。ブログ運営で私が様子を紹介するのを見て2010年終わりごろにMmくんが不登校情報センターのサイトをWIKIシステムにする提案をしてきました。そうすることにより活動ベースが大きな広がりました。
転居して居場所がなくなり、コロナ禍も重なった以降は様子が変わりました。3年ほど前から意識して数人と(手紙・電話・メールを含む)私との個人的やり取りをしています。
2021年3月に『ひきこもり国語辞典』が時事通信社から出版になりました。
2022年3月には江戸川区泉福寺でTokyo.U-clubの「ひきこもりと表現」学習会が開かれ、太田勝己作品などの展示を行いました。テーマの「ひきこもりと表現」はTokyo.U-club会長の久保義丸さんが提案したものですが、ピッタリと感じました。ひきこもりと関わる目的は彼ら彼女らの表現をひき出すことにあると納得したのです。
個人的やり取りは近況報告などを聞くもので相談とはやや違います。メール交換は文章ですが、聞き書きもあります。うまくいっているのか微妙なものもあります。多くは生身の体験を聞き文章にしているわけですから、プライバシーに関係する個人情報が満載です。むしろ公表しないことが前提であり基本です。
2023年12月に手作り冊子『統失宇宙からの手紙』を発行しました。これはメールで意見交流をしている近江シホさんと私のやり取りの記録で、中心筆者は近江シホさんです。このように公表しなくても可能なものは、手作り冊子にしようと考えています。
ひきこもり経験者と私(松田)の関わる経過をこのようにたどってきました。私との個人的やり取りを希望する人がいましたら連絡をください。
新しいアイディアが浮かぶのは風呂、トイレ、寝床に居るときと相場が決まっているそうな。
先日夜中にふと目が覚めると、突然脳裏に言葉が奔った。
「世の中には話している相手の気持ちを汲もうとしない人のほうがずっと多いのではないか」。
なぜ自分は友人と話している時ですらひどく疲れるのか、逆になぜ自分以外の大抵の人間は他人と話していても疲れる様子がないのか。
長年疑問に思っていた問題に対してようやく一つの回答が得られた思いがした。
私は常に相手の言葉の裏にある感情や意図を読み取ろうとしながら聞き、この場はどういう言葉が求められているのかと頭をフル回転させながら話す、というのが当たり前になっている。
例えて言うなら常に現国の試験を受けている感覚だ。
「傍線部aの際の話者の心情についてn字以内で答えよ」(配点2)をひたすら解いているようなものだ。
だが実際の会話は試験とは違いじっくり考える暇などない。
次々と話題が展開していく。
だから限られた時間内に適切な回答をしなければならない。
そして相手は一人とは限らない。
話す相手が多くなるほどその処理はより複雑で高度なものになるから加速度的に疲労が増していく。
いつもそんな七面倒なことをしているから疲れるのだ。
そしてだからこそ独りになることがない。
自分で言うのも何だが、私はこれでけっこう友人には恵まれている。
大学時代だけは入学間もない頃に対人関係のトラブルが続いたことで人と接することを半ば拒否していたが、それでも親友と呼べる友人は出来たし、彼との交友関係は今でも続いている。
それは私が常に相手の言葉に誠実に向き合おうと努力してきたその姿勢を評価してくれる人がいるからだと思う。
だが一方で相手の感情を汲もうとしないタイプの人間もいる。何も考えていないとか、空気が読めないとかいった話ではない。
シンプルに、言葉は言葉、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
幽霊や死後の世界が存在しないのと同じように、存在を知覚できないものはそもそも存在しないと考える。
だから行間に込められた意図などないし、表向きの言葉の裏にある別の解釈などは存在しないのだ。
なるほどそうやって割り切って考えるのであれば相当負担は軽くなる。
そしておそらくそういうタイプのほうが多数派なのだろう。
だが私は相手の言葉の裏にあるものを読み取ろうと努力するのが当然だと思っているため、そこには大きな温度差ができる。
結果、自分はそうしているのに相手には自分の気持ちを汲んでもらえないと感じてしまう。
その時私にとって会話とは半ば相手への一方的な奉仕になっている。
結果、相手が私と話すのを快いと思ってくれていたとしても私の方は辟易してしまう。
それが分かったところで身に染み付いたものは変えられない。
今更言葉以上のものを受け取らないようにするということはできない。
ただやはり相手に多くを求めないようにしたほうが良いだろうとは思う。
勝手に期待することがなければ、勝手に失望することもない。
話は変わるが上の姉からPCとプリンタの無線接続が分からないのでやってほしいと頼まれて履歴書印刷を手伝った。
姉は以前から仕事を転々としており、昨年独学で保育士の資格を取って保育園で働き始めた。
だが女性の多い職場ならではのドロドロとした対人関係や、同僚が手のかかる子どもへ雑な対応をすることが嫌になってしまったそうだ。
一度はまた別の保育園に勤めたものの、結局以前やっていた事務の仕事に戻るつもりらしい。
そういったことを何度か繰り返しているから職歴の欄がずいぶん多い。
一般的にはこうして職を転々としていることはあまりプラスには見られないだろう。
ただそれが私には納得行かない。
「傷は男の勲章だ」というのなら、この経歴の「キズ」も勲章ではないのか?
少なくとも私には真似できない。
前の仕事をやめてからもう一度就職を決意するまで五年かかった。
姉は少し、いやかなり抜けている所の多い人ではあるが、その立ち直りと切り替えの早さは尊敬している。
そうやって他人のことを尊敬している暇があったらさっさと自分の仕事を決めろという話ではある。
それでもようやくここへ来て決意が固まってきた。
よくよく考えてみれば腹を括るのも首を括るのも大して変わらないではないか。
首より前にここはひとつ腹を括ってみよう。
その順番を逆にはできないので仕方ない。
駄目だったらその時こそ首を括れば良いのだから。
労働といふは死ぬ事と見つけたり。
中学 1 年生のときに摂食障害(嘔吐なしの過食症)、高3でうつ病と対人恐怖症(今でいう 社交不安障害)になり、長年苦しんできましたが、 50 代になった現在は、過食の症状はず いぶんと落ち着いてきています。
それでも 1 ヶ月に 1 回ほどむちゃ食いをしてしまいます が…。 うつ病も少しずつ改善してきていますが、今は社交不安障害がいちばん苦しいです。
子ども がまだ小2 なのでママ友づきあいやPTA、習いごとの送迎など、人と関わる機会があると 神経がすり減ります。
どうして自分はこんなに人と話すのが怖くて下手なんだろう…と落ち込むことが多いです が、自分なりに気分転換したり、家族の存在にホッとしたり…そういう時間を大切にしなが らなんとか乗り切っています。
*投稿を募集しています=編集室から
不登校やひきこもりの体験、いじめや虐待を受けた、対人コミュニケーションがむずかしく感じる人などからの投稿をお待ちしています。
1.投稿はメールによります(メルアドは下記に↓)。名前、住所、年齢、性別・ジェンダー、職業・状態(無職、自宅生活、高校生、通院中なども可)を書いてください。安全のため本人確認をする郵便物を送ることがあります。
1-2.サイトに掲載するためにペンネーム、年齢、発表できる住所(都道府県名など)、性別・ジェンダーを書いてください。
2.掲載中の投稿への問い合わせや返事をメールでするときも投稿と同じように名前、住所、年齢、性別・ジェンダー、職業・状態(無職、自宅生活、通院中なども可)を書いてください。これは原則としてこのサイトに掲載するためです。
3.投稿者と文通をしたい、相談をしたいときは、文通番号・掲載日・名前などで相手先を確定してください。手紙で相談するときは転送用に84円切手3枚を同封してください。安全のため本人確認をする郵便物を送ることがあります。手紙相談などの場合はサイトに掲載しません。
〔宛先〕 〒132-0035 東京都江戸川区平井3-10-4 不登校情報センター TEL/03-5875-3730 FAX/03-5875-3731 メール/open@futoko.info
私は、小学生の時に母を病気で亡くしました。
そして、父親が再婚をして再婚相手の人には子供がいたのでその子も一緒に4人で住む形になりました。
私の住んでいた地域は狭く保育園から小学校、中学校まではそのままのクラスメイトでした。
母が亡くなり、再婚相手との生活でストレスがあったのと同時に、家庭環境がきっかけでいじめに遭い、親からも虐待を受け不登校になり引きこもりになりました。
当時の私は泣くことしか出来なくて、誰にも心が開けなくなり自分の殻にこもり人と話すのが怖くなりました。
そして、精神疾患を患いました。
月日が流れ私は隣町の祖父母の家に預けられました。そこで新しい生活が始まりました。
だけど自分の気持ちを話せなかったので、自傷行為をする事でしか気持ちを表現出来ませんでした。
ですが、ここの街で知り合った人や祖父母や叔父のおかげで少しずつ笑えるようになり、自分の気持ちも話せるようになりました。
精神疾患を患った事で、親戚から心無い言葉をなげかけらる事もしばしばありますが、自分を大切に出来るように最近はなりました。
祖父母は、他界しましたが私に大切な事を残してくれたと思ってます。
最後に、今不登校やイジメで悩んでる人へ。苦しい時は、泣いていいんです。
辛い時は叫んで大丈夫。声をあげることで手を差し伸べてくれる人は、必ずいます。
悩んだ分思いきり笑える日が来ます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
文通を希望しています。お便りを待っています。
〔2024年3月10日〕
70年代生まれの子育て中のママさんからメールをもらいました。
ご自分の子育て環境状態を書いてもらっていますが、あわせて4世代(曾祖母→祖母→母→私)・約100年の子育て環境の変化も書いてくれました。現在の子育てママの環境条件をこれらの対比からも鮮明にしてくれます。(松田武己)
〔曾祖母〕 明治産まれ。戦前、戦中、戦後の子育てです。都市域から離れた地域で農業の生活。一族のつながりのある暮らし。10人程の子どもを産み、上の子どもほど労働力だったようです。
祖母の子ども時代は蕎麦作りや馬のお世話など家の手伝いをしながら年の近いきょうだいや村の仲間と豊かな自然で遊んでいたようです。
〔祖母〕 昭和元年産まれ。戦後の子育てです。仕事のある都市近郊に移ります。子どもは二人です。祖母のきょうだいのうち何人かは比較的近い地域に散在していました。デリケートな祖母はきょうだいと会い話す事が心の拠り所だったようです。祖母の夫である祖父は幼少時代、母元から離れ養子として暮らした不遇な時期がありました。
〔母〕 昭和20年代産まれ。比較的近い地域の農業一族の村で育ちました。きょうだいは二人です。母の父親は母が産まれてすぐ亡くなったため女手一つで育ちました。亡くなった父の一族の繋がりのある土地柄で育ち、親戚には恵まれていたようです。私を含め、二人の子どもを産みました。
私の子ども時代、二人の祖母宅でいとこ達とよく遊びました。まだ、ゲーム機はなく、自然に外遊びすることが多かったです。外は子ども達の声が響く遊び場でした。私は道路で自由に遊び、友達とブロックの壁を登り降りしながら追いかけっこをしたり、農地で蓮花摘みをしました。流れが早く広い川へ行き、水際で石を投げてたり薄暗い森にも入りました。今、思うと危険な場所、誰かの私有地、公共の場ですが、外遊びは当たり前で、注意を受けた事がないです。
〔私〕1970年代生まれの団塊ジュニアで、今も子育て中です。
子どもがまだ小さい頃、住まいの地区には子どもがいて毎日暗くなるまで遊んでいました。地区の子ども達は順に中学に上がったことで子どもがいなくなり、この数年はコロナや夏の猛暑をきっかけにしてさらに外遊びする子どもが激減しました。
子どもは外遊びしない・出来ないです。自由に遊んでよかった外の世界は、誰かの私有地に変わっていました。「危ないよ」「そこは入らない」、他のお母さん達が注意する事をさせられず、外の世界で自由を満喫した子ども時代を過ごした私にとって注意して回る事の多さに心が痛みました。
女性は自己実現のためだけに働くのではないと思いました。核家族で地域との繋がりが希薄であれば、働きに出るしかないようです。得られるのは様々な安心です。自分の安定、子どもは保育の先生に預けられ、習い事も用意でき単独育児ではならない安心。住宅費、レジャー費、老後の資金の安心。働いてレジャーを買い家族で楽しむ、こういうレールしかないです。逆にこうでないと親子ともに孤独に陥ってしまうように感じます。
子育ては自分自身が安定していること、働けること、経済力、安定した親、親類、親がいなければ誰かが助けてくれるような人柄がないとできない難行になっていると思います。母子にこれらがないと敵地に立っているような感覚になります。昭和の寛容な外の世界も、子どもにお節介する人もいない。親が人間関係が苦手でも、昔は子ども一人で出掛ける世界がありました。今はなく、親の持つもので子どもの人生が決まってしまうこわさがあります。
今は一人で生活を回していく自活力を求められるので、どうしても母子ともに評価に出会ってしまいます。母、子ともに性質や行いに対して、いい悪いを無視したところで大事にされる準備期間がなくなってしまいました。大事にされるとは、未熟な部分こそ大事にされ、想いを感じ取られ、共有し、評価されずに、認められる、守られる体験だと思います。こういったものが得られにくくなりました。
私は話を聞いてくれるある場で、毎回涙しか出ず泣き続けました。どれほどに孤独で、それでも踏ん張っているか、踏ん張った分の涙で溢れました。そんな事は誰も知りません。自活しきれていない私の行いは直すところだらけのようでした。
生きていく中の悩み、育児の悩みは自分一人だけで作ったものではないです。ここには上の代から引き継いだ思い残しを貰った自分がいます。人生に悲観していない、熱くて温かい血の流れを感じています。
私は73歳、50歳位までひきこもりでした。いまはすっかりよくなり幸せな毎日を送っています。ひきこもり当時のつらさはよくわかります。
3歳位までに人間の脳は出来上がると言われています。3歳位までのことを思い出してみよう。我慢して生きてこなかったか?
いじめはきっかけであって本質ではない。私の場合は2歳の時に妹がうまれ、私はおばあちゃんおじいちゃんの所で寝かされました。
母親がいなければ夜も日も明けない頃です。見捨てられる恐怖をいやというほど味わいました。誰も助けてくれない、理解してもくれない2歳の幼児には自分を自分で守ることはできない。自分の感情で生きられない。人に受け入れてもらえるか否かで生きている。よく思われたい中毒で心はボロボロ。
自分であってはいけない、愛されないと思い込んでいる。我慢強く言うことをよく聞く。人間関係のスタートは親子関係です。
実際の自分の感情にならなければよくならないのです。人はけして嫌わない(嫌われる恐怖が強い)。
人と心が触れあえば依存性から自立性へと成長できる。これが信じられるか否かなのです。恐怖を抱えながら自分を出したときそれが受け入れられた。これがきっかけでした。
人と人との心の触れあいを知らない、たから人が怖いのです。自己実現した人との中で自分を出してください。必ずよくなります。
文通を希望しています。お便りを待っています。
――マーサン (30代男性、愛知県)2023年8月15日
自分は小学三、四生から学校を休みがちになって中学ではいじめや不良グループからカツアゲにあったりして学校に行けなくなり、ズル休みしたり、囲碁を打ちに日本棋院にいったり好き放題な事をしまくっていました。
そして、僕が中学を卒業して弟がいじめによって不登校になってしまいました。
後々から兄の自分の素行の悪さも弟がいじめによる不登校の原因になっていてショックを受けました。
なんとかしようとしたけど何もできなかったこと虚しさがあり、同じように苦しんで方の力に今度こそなりたく、不登校訪問支援員の資格の勉強をしていて、支援の現実を知りたいとおもったのが動機です
得意なことは、興味を持ったことへの知識を集めることです。
自分の性格は明るい方だと思いますが、空気を読むのが苦手で、トンチンカンな事を行ってしまったりします。
人生史上自分の印象に残ってるのは後輩からカツアゲされたことだと思います。
「俺の親はヤクザだぞ」とかマンガでしか言わないセリフを恥ずかしげもなく言ってる姿です。
(カツアゲしてきた子の家は地元駅横にある小さな建築会社の息子)で組=ヤクザと勘違いしていたようでした。
◎ 相談したい人、意見交換したい人は不登校情報センターに、手紙やメールを送ってください。 マーサン に転送します。
文通ボランティアの希望者が少しずつ続いています。多くはご本人も何らかの被害を受け、あるいは苦しい体験をされたことがあると思います。
そう考えて、文通ボランティアの希望者にはご自分の経験を書き送っていただくようにお願いしています。しかし、文通ボランティアを希望する気持ちには被害や苦しい経験を語るよりも、逆にそういう体験者の助けになるように役立てたいと考えているように思います。マーサンさんはそれをはっきりと言っています。
文通において「相談したい人、体験の意見交換したい人」の双方を対象としているのはこのためです。読まれた皆さんからのお便りを待っています。
文通を希望しています。お便りを待っています。