カウンセラー紹介の提案について

1月ほど前に「もっとカウンセラーさんを紹介してはどうですか?」との意見をいただきました。2024年9月の会報をみた感想として提案です。
不登校情報センターが第一高等学院の旧校舎にあった時期(2001~05年)に、5~6名のカウンセラーが応援(兼実習?)のためにきていました。ある人をそのカウンセラーの一人Tkさんに紹介しました。後でTkさんが私に話しかけてきました。
「~さんは松田さんのいうことはよく聞くんですが、でも私とうまくいくかどうかは別ですよ…」と。うすうす感じていたことを紹介したカウンセラーさんが言葉にしてくれたわけです。
おおよその私のスタンスは「カウンセラーを紹介することもあるが、それを優先はしない」となります。私の経験からそれに至る理由を書いてみます。
カウンセラー(及び医師)を受診してもうまくいかない人から聞く理由——
私(受診者)の問題を見つけ出そうとするスタンス、先入観がある、心理学の原理からの判断、教科書通りの言葉、上から目線…表現に違いはあり、また受診者の思いにこみも含まれますが、ある共通の要素が見られます。
受診者として求めること・必要なこと——私(受診者)の現実を見てほしい、よく話を聞いてほしい、言葉尻だけでなく全体から判断して——なかばあきらめつつ、他に相談先がない、睡眠薬がほしい、などの理由で継続している人もいます。
それにしても受診者(心理的・精神的または社会的不安要因をもつ人)の思いがこれらに込められているのは確かでしょう。
私はカウンセラー/医師と受診者の間で中立的であるのがベストとは思いません。両方それぞれ言い分には根拠がありますし、実際には多くの方が上手くいっているともいえるからです。意見を寄せた人も上手くいった経験からの提案でしょう。

この受診の成否に先立って「信頼関係の成立」があります。心理的打撃を受けた人には対人不信・不安が強くなる人が多いのも事実で、それが「信頼関係の成立」を難しくしている面もあります。私はこれを正確な表現とはいえないでしょうが、「相性(あいしょう)が合う」「相性が合わない」と言うことにしています。Tkカウンセラーさんの話もそれを裏づけています。
私(松田)はある程度信頼関係ができた人を紹介してきたわけです。実は私との信頼関係の確立自体も不透明な部分はあります。不登校情報センターの居場所に来る、それも継続してくるのは一応の信用はあると思いますが、それでも絶対というわけにはいきません。
「紹介することもあるが、紹介を優先しない」のはこれらの経験を重ねた結果です。医師のばあいは「投薬中心とはいえない医師」を勧めますが、成り行きの結果「睡眠薬をもらう」ための受診に至る人もいます。自分なりに医師・医療機関を探して受診し、私も同行したり、入院見舞い(様子見?)に行くこともありました。私がカウンセラーで紹介したのは、情報センターに応援に来ていたカウンセラーと、サイトで紹介している心理相談員に限られます。
私のこの方法が最善とは決めかねますが、経験の蓄積によるわけで私のなかでは重要な根拠になります。受診者側の状態(精神心理的な理由)があって受診するのですが、その受診時点での状態に左右されます。

文献学習から実経験に移行した経過

2021年春に『ひきこもり国語辞典』を発行した後、私は「ひきこもりと経済社会の関係」を理解しようと考えました。私にはひきこもりに対して、医学的・心理的に対応できません。身体科学的な理解はできても、できることは社会的・福祉的な対応、教育的な内容になるしかありません。
しかし、社会的、教育的、福祉的な対応といっても、その具体的な内容やプログラムで説明できません。個人的な経験と確信にもとづく方法を採用したのです。
こうしてひきこもりを経済社会的に理解しようと考えました。10点以上の文献を集中的に読みました。経済学説史と日本経済史の基本的な本です。何冊かを挙げてみます。『ゼロからはじめる経済入門 経済学への招待』(有斐閣コンパクト)、慶應義塾大学出版会『日本経済史1600~2000』、2009)、坪井健一『経済思想史』(ダイアモンド社、2015)、ロバート・ハイルブローナー『入門 経済思想史』(ちくま学芸文庫)など。より直接的にひきこもり理解に近づくのは村上尚樹『日本の正しい未来』(講談社、2017)、徳野貞雄『農村の幸せ、都会の幸せ』(生活人新書・2007)、菊池英博『新自由主義の自滅』(文春新書・2015)などでしょう。
この最中にいくつかのエッセイを書き、ブログにも掲載しました。日本社会が高度経済成長期に大きく変わったこと、農村社会から都市の工業地帯にとくに若い世代が大量に移動したこと、これにともなって家族が分散し世代間の相違が広がったこと、そういう経済社会の変化があると知りました。
国民の意識もゆっくりと変わりました。先進国として工業化、機械化、情報分野の技術が進み、家族から個人に人の社会的な位置が移りました。学歴や資格の所持が重視され、そうでありながら学校教育の地位は下がり、世代間の意識の差も広がりました。旧世代には家族的な枠組みで対処しようとしていますが、この枠組はうまく機能なくなりました。若い世代は、感覚世代ともいうべきで、事態の理解や処理はスマート、巧みに行なわれます。(これは私の表現のしかたであります)。
私はこれらの変化を理解し、ひきこもりと関連付ける自分の力のなさを感じました。かといって学習経験、業務経験、社会経験は限られており、すでに70代後半に至っていては、スタートする基盤はありません。広い分野ではなく的を絞ることにしました。そのとき浮かんだのは、私の経験を重視する指向です。ものごとを考え、処理するのには、自分の経験に根ざしたことを根拠にする—さし当たりの私の経験主義の暫定定義がこれです。
あることの全般を見通したことはわからないし、言及しなくてもよい。ただ自分が経験したことを根拠にして、何かを論じることは可能になる。これが経験主義に基づく次の一手です。
まず家族に注目しました。家族に関係する自分の経験とは、自分が生まれ育った家族があります。これはこれとして意味があると思いますが、より広い理解として、家族内における対人ケア的な面を考えました。
子どもの保育や教育に関わることができるのか? さいわい江戸川区シルバー人材センターに申し込んでおいた校庭開放による「校庭の遊び場世話人」の空席があり、それに当たりました。ただこれは関わる程度が少なくて、多くは期待できません。
次は介護を考えました。以前の不登校情報センターの通所者が介護事業所で一定のポジションに就いています。彼に頼んで関係施設で働けるように頼みました。これは実現しませんでした。江戸川区ボランティアセンターに問い合わせると介護施設にはボランティアを募集している所があると言います。その結果、月2回、各2時間ほど相談ボランティアに就くことができました。
この介護施設を探している途中に、地域でポスティングをしているという案内チラシを見つけました。不登校情報センターの通所者の作業体験としてポスティングをした経験があります。部分的には私も直接ポスティングに加わりました。その経験で、街の様子を知る面があります。案内チラシのあったポスティング—それは宛先が明示されたメール便配達で、それに参加しています。「住居事情(団地、アパート・マンション、一軒家、空き家、空き地の状況など)を知ることができそう」という点です。
こうして私は現在、学校の遊び場開放の世話人、介護施設での相談ボランティア、周辺地域でのメール便のポスティングに就いています。
言い忘れましたが、不登校情報センターでは、これも20年以上にわたり不登校やひきこもりを中心テーマとする情報収集をつづけ、それらを整理・分担してサイトをつくっています。問題の所在や状況はこのサイト制作のなかでも把握できます。その問題の扱い方に、経験にもとづく論拠、基盤をおくのです。 「ひきこもりの関係する経済社会の事情」全体に見渡すことはできません。これらの視点も組み合わせて、一定の論拠にして、ひきこもりと周辺事情に関係する問題を考えていこうと考えています。

生活に関係する4つの活動分野

現在の私には大まかに4つの生活に関係する部分があります。

1つは不登校情報センターです。最近は情報収集によるサイト制作が中心です。居場所運営はなくなりましたが、つながる人は少なからずいます。連絡はかなり頻繁にあります。この不登校情報センターの説明は省きます。

2~4番目は活動を通して事態を見ようとする取り組みです。ここは2021年に『ひきこもり国語辞典』を発行した後から始めました。しばらく前に転居しており、通ってくる当事者も週2~3回、3~4人です。

ひきこもりを経済社会という背景事情から説明しようと、文献調査中心にしたのですが、それは違うと思い始めました。経験による実感を生かして取り組むのが私のスタイルです。生活時間と心身条件のバランスと一定の目標にかなうこと、これらを昨年以降、身近なところで偶然の機会により得ました。

その2番目は、学校開放の遊び場世話人です。月3~5回=各3.5時間~4時間です。江戸川区シルバー人材センターが担当し、個人事業者として行っています。

3番目は、メール便の配達です。週4日ほど=各3~4時間。地域の様子、できれば住宅事情に何かの視点を得たいと思います。これはギガワーク的な個人事業者になります。

4番目は、介護施設での相談ボランティアです。月2回=各2時間。家族には「世代の継承を図る機能」があり、その一端で高齢者の介護を考える現場です。こちらはボランティア活動です。

全体をもれなく見渡す点では不十分でしょうが、具体的に表現できると思います。うまくいくかどうかはやってみなくてはわかりません。

居場所における作業経験―心身の安定状態を身に着ける

ー会報『ひきこもり周辺たより』(2024年10月1日号)
人間が筋道を立ててモノゴトを考えるには、安定した精神状態であることが必要です。心身が不安定ななかでは、対人関係にしても考えをすすめるにしても動揺的で崩れてしまいます。
それが難しい課題であり、どう関わる必要があったのかその説明をします。
印象に残ることから話しましょう。不登校情報センターは大塚時代の2000年ごろから協力関係のあるサポート校や大検予備校などの学校案内パンフを預かり、配布していました。
やがてそのパンフを『ひきコミ』読者や相談者たち(住所別名簿にし、1.2万人を超える)にDMで発送しました。年に数回です。
この企画には数校から十校以上が参加し、スクール別に送付地域を指定してもらい、1通100円から150円ぐらいの送付料をもらいました。
同封するパンフは地域毎(市区町村)に違う組み合わせです。送付件数は2000通から7000通になり、これを「発送作業」として通所者の有志が分担しました。
作業参加者は多いときで十人以上、20人近いときも数人のときもありました。作業は数日から1週間以上、朝10時から午後5時ごろまでで、参加時間は人により異なります。参加者は参加時間を記録し、その時間数より作業費を受けとります。
印象に残るのはこの作業です。黙々と陰日向なく続けます。適当に休み時間を挟みますが、休もうとしない人が多いのです。作業範囲を一人ひとり区別しないとうまくいきません。その場で即座に対応を協同で進めるのは苦手です。
2日目になると10時からの参加者が減り、11時とか午後からの参加者が多くなります。
3日目になるとさらに遅くなる人が増えます。しかし作業は一生懸命に、多くは黙々と続けます。
この2日目以降に「朝10時に来られない」人が増えたのが予想以上でした。個別の事情がありますが、多くは起きられない、疲れがとれないのです。
このような仕事ぶりはDM発送作業だけではありません。パソコンによるホームページ制作作業でも、広告情報誌『ぱど』の地域配布ポスティングでもみられました。真面目に取り組みますが、連続した日数の作業参加者は目につくほど減少します。もちろん個人差はありますが、大きな傾向といえます。
もう1つ注目すべきことは、報告記録の正直さです。正直に申告という以上です。5分間休んだとか、このときは集中できていなかったから…といって過少に記録しがちです。「ズルをする」という発想がないのです。
「作業費の支払いになる」と聞いて記載しない人も出ます。自分はここに訓練(修業)に来ているのであって作業費などもらうつもりはない、というのです。
私には驚きでしたし学びでもありました。何という人たちでしょうか! まるで小学生の正直さに似ています。それが20代になって続いているのです。いや小学生の正直さだけでこの状態を表現するのは適切ではないでしょう。それは社会性の想定できない形での不足かもしれません。
しかしそこには別の面もあります。人によっては自分は精一杯やっているのにあの人はそうではない…近くで作業をしている人の集中のなさが気になってしょうがないのです。あの人はそれを無視して時間いっぱい記録しているのではないかという疑心を持つこともありました。
『ひきこもり国語辞典』を発行したとき、<まえがき>部分でこういうひきこもり経験者の特色をごく簡略にこう書きました。「人並み以上の感性と人並みに近い社会性を持つ」人としたのですが、意味するところが簡単には伝わらないのはやむをえません。
生身の人間は定規やコンパスで描くような姿で生きているわけではありません。そういう柔軟な見方ができるのも社会性の重要な内容です。そこに深い課題が見えてくるのでした。
私はこういう作業を通して表われる彼ら彼女らを深いところで信頼し、真の味方になろうとひきづられた事情でもあります。
アルバイトなど仕事に就いた人は、二日後に仕事があると二日前から緊張や不安がでるといいます。明日は仕事日となると、夕方早く帰宅して備えるという人もいます。
このような心身の不調・不安はどこからくるのか。外科的にはもちろん内科的にも異常はありません。心療内科的な大腸症状などの人はいますので、私には精神的・心理的な要因によるとしかいいようがありません。私の知る範囲では、このような状態を精神科医でも(診断はともかく)うまく表現しているのを見たことはありません。
ひきこもりの経験者、とくに20代の若い人には(あるいはほとんど外出せずに自宅から出ない人も)、そのような人が多いのではないかという思いがあります。私に関われるのは、それらに社会的な面からアプローチすることが残されている——そう信じています。彼ら彼女らの繊細な感性とひきこもり状態の心身状態を起点に対人関係のつみ重ね、社会的経験の不足を補足する居場所にする。そういう見方で不登校情報センターの居場所をふり返ってみると、ある程度は納得できるというものです。
社会の一員として生きていく力——そうなってこそ何かの技術・知識は生きます。相談先があれば足を運んで相談に行けます。知識や解決策を探し、それに向かう行動エネルギーが出てきます。
逆に言えば技術・知識を身につける過程で指導員や同僚との関係をつくる道もあります。それらは一人ひとり、それぞれの仕方で身につけていきます。
それは学校や教室で、職業訓練の場やサポートステーションで、スポーツクラブにおいてもでも同じでしょう。取り組みに平行して、施設や場所がそのような性格をもたざるを得ないのです。
これらが居場所の役割という面から考えられる、自立に向かう動きの前の「難しい問題」の内容です。
不登校情報センターという居場所おいて、統一的なプログラムを持たなかったことはいろいろな状件によりますが、それ以上に先行して積み重ねるテーマがあると考えたのはこの部分です。

中学校内の居場所サミットに参加して

9月16日、祝日の月曜日、「中学校の居場所サミット2024」が池袋駅西口方面の豊島区立西池袋中学校で開かれました。昨年から校内フリースクールという取り組みが広がり、その一端を知るつもりで出かけました。報告されたのは都内4中学校のばあいで、取り組みの歴史は昨年から始まったものではなく、さらに以前からのものです。この日の発表では「校内フリースクール」という言葉は全くなく、中学校内の居場所的なとりくみです。
発表したのは豊島区立西池袋中学校「にしまるーむ」、西東京市立柳沢中学校「ヤギカフェ」、足立区立花保中学校「ASK」、板橋区立第三中学校「SBSルーム」です。校内フリースクールはこうした先行した取り組みを文科省・教育委員会が教育内容改革を目指して導入したものと考えられます。

全体として感想は、不登校情報センターで行っていた居場所の中学校版で、それがより組織的に支えられる形で行なわれていることでしょうか。様子は4校で少しずつ違いますが、ある発表で「ゴールはその子がやりたい所でやりたいことをする」、別の発表で「居場所として生徒に共通する目的を持たない」(表現はこの通りではありませんが)あたりでしょう。ある報告では必要なのは“ゆるい”、“ぬるい”、そして安全とありました。発表者の一人が教育基本法第一条にある「教育の目的は、人格の完成をめざす」ことであって、「学校に登校する」ことではない、と言われました。これらのすべては私が取り組んでいたことと共通する思いでした。
不登校情報センターで行なわれていた居場所と違うのは、学校のおかれたそれぞれの条件のなかで、地元住民の協力がある、ボランティア的な大学生が加わっている、公式筋の教育委員会や学校が公認し推進している、中学校の教師はその場には出ていないが応援している…あたりです。これには子ども支援団体であるNPOが入っているばあいと、そうでない場合があります。
居場所に加わっている生徒へのアンケート回答がありました。そこには相反する傾向がみられます。居場所に「話しかける人がいる」と「話しかけない人がいる」をそれぞれ肯定的・否定的に感じる人がいます。また「目的がある」と「目的がない」というのも、それぞれ肯定的・否定的な人がいます。相対立する要素によるのは、不登校情報センターの居場所でもありました。
情報センターではアンケートを取ってはいませんが、プログラム的な方針をもって関わってほしいという人が一方にいて、そういう人にはモノたりなかったでしょう。他方には居場所では何かに基づく方向性がないのがよかったと考える人もいたのです。情報センターのばあいは共通する目的・方針はなく、人のいる場にいて、そこで自分で何かを見つけていく、それに気づくことであったと思います。後に私はそれを表現→自分で表現していくことになると考えたのです。目的をもって動く前に、自分で感じとること、自分の心の奥にある潜在的な力に気づくこと——それが結局は本当に生きる、継続する力を育てると感じたわけです。

居場所サミットである発表者が言いました。学校の先生は真面目で、生徒に対して、目的をもって動きだすように考えて促す——生徒は無言のなかにそれをキャッチして「ねばならない」状態におかれていく——それができる生徒とはその芽があるときであり、それが熟していないとストレスになり、伸ばす芽をつんでしまう。それが自己否定感を強める——こう解釈する多くは私(松田)の言葉です。目的追求をする力が熟していない時期とは、その基本的な心身の体力をつくり、自分がしたいことを探す時期だと思うからです。

「居場所サミット」では他にもいろんな面がありますが、私の感想としてもう1つだけ述べましょう。
教育実践の方法——とくに教育実践記録、これは私が教育編集者の時代に特に熱心に追求してきたことですが、その意味するところを深くとらえ直す機会になったと思います。
子どもの現状に根差し考え抜かれた教育実践を追求した私が、高卒年齢を超えたひきこもり経験者を対象に脱力型の居場所をなぜ長期間運営しつづけたのか。その説明を今ごろになって改めて考える機会になった——その不思議さを感じています。
その根源的な力——人は生まれてきたことを喜ばれ、この世に生きることが肯定的に思われること——逆を言えば乳幼児期に粗末に扱われ、子ども時代にイヤな思いをくり返した経験を越えて自分が信じられ、人と世の中を肯定的に考えられるという意味での自己肯定感をもたなくては、その上に置かれることはもろいものになる——その根源的な状態のうえに意識的な取り組みが意味をもつということを、私は教育実践の奥に感じたのです。
その根源的な力をそれぞれの人が身に着け、取り戻す場は、むしろ意図性や誘導が少ない状態、自然な動きや表現を好感して受けとめられる必要がある。こういう面で居場所サミットの報告との共通点を見る思いでした。不登校情報センターの居場所の経験を、この中学校で取り組まれる居場所に感じました。
校内フリースクールは、各地で多様に展開されているでしょう。たぶん上からの公的な校内フリースクールも少なからずあるでしょう。全体としてどう進んでいくのか、注目していきます。

GDPを超える生活水準/満足度に不可欠の指標

ひきこもりから家事労働に迷い込んだ説明の補足です。実際にはいろいろなことがありました。『ひきこもり国語辞典』にもいくつかは紹介しています。

「主夫」は、男性のひきこもりのばあいですが、世間には独身者ではない「主夫」もいます。この人のなかには家計簿や大工仕事や機械修理が家事の中にありました。

「家事テツ姫」は女性ですが、一般には「家事手伝い」であり、社会的な認知も受けているものと言えますし、ひきこもりの人だけに限りません。

不登校情報センターの通所者には、〈ヤングケアラー〉の人もいました。家族〈身体障害者〉のケアの手伝いを子ども時代からしていました。

男女を問わず、成人になってから祖父母のケアをしていた人は少なからずいます。ひきこもり状態でこの役割をした数人の話をきいたことがあります。主に家族から聞いたのですが、それはとても行き届いた内容であり(当人はごく控えめに言うだけです)、職に就けばぴったりと思える人もいました。

「自宅警備員」というのは、自嘲めいた表現ですが、ある種の役割を示しています。

これらのひきこもり経験者の生活経験のなかに家事があり、それらを考えたことが「迷い込んだ」事情としておきます。

別の点ですが、家事(家事労働)は、2人以上の家族がいて成り立つものではないかという仮説も提示しなくてはならないかもしれません。一人暮らしの独身者(男女を問わず)が、自分のための食事をつくり、室内の掃除をする…などは、家事とはいえないかもしれません。どうでしょうか(状態によるかもしれません)。

親の会の席で、お母さん方から「夫や子どもがいないときの食事は、ありあわせの手抜きや残飯でもよかった」という意味の感想が出ました。場違いな事情ですがそれを裏付けるかもしれません。

家族へのケア作業を除く家事では、食事(炊事)が中心になるようにも思います。

もう1点の追加があります。国民の生活水準/生活満足度を表わす指標にGDP+各種の社会的条件を加える必要性を挙げました。

広く行われている「各種の社会的条件」のなかには、私の知る範囲では家事労働が入っていません。家事労働はGDPとは異なるけれども、人間の生活・生存に不可欠な要件であるのに、ここは空白になっているものです。 ここを埋めて(数値化だけではできないかもしれませんが)表示する必要性はあると考えます。   

GDPを超える人間の幸福基準

ひきこもりの(心理的背景理由ではなく)社会的背景理由を考えるなかで、私は家事労働に迷い込みました。思い返すにそうなるだけの理由はありました。数人の男性からきいた話です。ひきこもっていては家族に申しわけがないとの思いから、室内の掃除など自分にできることを始めました。

それに対する家族の反応は、「そんなどうでもいいことをしていないで、早く働くようになれ」という叱咤でした。それに反発する気持ちが生まれる人もいましたが、たしかにその通りだ、と思う人もいました。女性にも同じ行動をしていた人もいたと思いますが、女性からはこのような訴えを聞いたことはありません。当時の私はこの状態を特別にとりあげて考えることはありませんでした。

一昨年のことでした。すでにひきこもりの社会的背景理由——特に経済社会的な事情についていくつかのエッセイを書いていた時期です。摂食障害に関わるNABAの会報に〈すず〉さんの投稿がありました。〈すず〉さんは無職であり、両親はじめ祖父やきょうだいの世話をする生活をつづけていました。ヤングケアラーの年齢を超えて(!?)家族の世話を続ける生活でした。ところがその家族の世話は社会的な評価は0(ゼロ)、何の価値評価にもならないことへの抗議でした。

〈すず〉さんの訴えはもっともであると思いました。彼女の家族へのケアサービスが認められないのは、労働市場に出ていないためでしょう。同種のものであっても評価されないからです。*これを〈2023年9月18日〉にこのブログで紹介しました。

またこれをめぐるいくつかの事情を考えました。有益な活動や作業であっても、社会的に価格評価されないものは他にもあるのではないか? ボランティア活動などです。一定の評価対象であっても、十分に表現されないものもあるのではないか? たとえば自給自足生活です。そして家事労働の多くもそうです。整理していけば他にもそれに該当するものはありそうです。

一言でいえば、市場に出ていないこと、社会的な交換の場に出ていない、またはそれが特殊なことになっていると思えることでした。世界には、とくに市場経済が行き渡っていない地域には、このような社会的支援の場に出ていない生産活動は広く存在します。いや人間の歴史の大部分はそのようなものと言えます。時間的・空間的に市場経済による価値評価が行われているのは特別であるとも言えます。

市場経済一般というよりは、資本主義的な市場経済が広がるなかで、人間の生産(およびサービス)活動は、価格で評価されるようになりました。それがGDP(国内総生産)という数値にまとめられたのは20世紀に入ってからのことです。一般に使われたのはまだ100年も経っていないのです。むしろGDPで評価される人間の生産活動の時代が、先端的であるとはいえ、なお特殊でさえあると思います。

発展途上国といわれる多くの諸国では、一人当たりのGDPがはるかに低いレベルであっても、生活面では必ずしも破滅的な状態ではありません。経済・所得の格差(貧富の差)は大きくとも、考えようによっては精神文化的にはゆたかな生活と思える地域もあります。こうなる理由は単一の原因で十分に説明できるとは思いません。

ただ一人当たりのGDP、経済的な側面だけで人間の生活レベルを描くこともまた十分ではない、と考えられるのです。国連提唱のSDGs(持続可能な開発目標)の17項目も、経済的基準ばかりとは思いません。家事労働を考えるときにもこのような視点が必要だと考えます。

私は家事労働のあれこれを、GDPに比較できる要件を探していますが、それは限度のあることを前提としています。それを補足ないしは代わる別の基準、経済的に価格換算する以外の基準が求められると思います。

それはマネー遍重・偏在の幸福基準を考え直すことかもしれません。それは社会的満足度を計る(価格以外の)基準です。例えばジェンダーの平等性、言論・表現の自由などが入ります。これらには指数やランキングで国際比較されるものもあります。

自然条件は非社会的な要素ですが、言語・人種・男女などは非社会的な要素ですが、社会的要件に含まれることも多いです。地域により公平性がなく社会的満足度に影響するからです。精神的満足度も価格以外の基準になります。これも指数やランキングで表わされるものがあります。

これらの社会的満足度や精神的満足度には、家事労働の役割は関係します。それらには吸収されない独自のものもあります。家事労働の評価は、人間の生活全般レベルに大きくかかわっているにもかかわらず、社会的満足度の対象にされていないのが現状です。

最後に誤解なきように願うのはGDPを軽視することではありません。それを操作して見せかけの繁栄を示すことなどは論外です。

*「家事労働、換金計算されない労働の空白(Lie)」と掲載し、同じ文を 2024年2月2日に再掲載しました。

不登校情報センターサイトへの投稿について

ある支援団体の関係者でブロガーというHさんから不登校情報センターのサイトへの投稿の問い合わせを受けました。それに対する私(松田)の返事を掲載します。多くの方に共通する事情です。
 
《Hさんの提案  私はブロガーであり、私の経験を御社の読者様と共有したいと思っております。サイト futoko.info は、ゲスト投稿を随時受け付けていることがわかりました。ブログに書いていただけると嬉しいです!
さまざまなトピックに関する投稿に興味を持っております。例えば、ギャンブルや賭け事に関するトピック はいかがでしょうか。
よろしければ、サイトに投稿を公開するのにかかる費用はいくらですか? もしご興味がありましたら、いつでもご連絡ください。お返事、心よりお待ちしております。》
《松田の返事  これまでにもそうした人はいますし、広義には今もいますが条件は同じではありません。
テーマ:心と行動の正常を揺るがした経験がある人の実体験を重視。
個人攻撃的なことはダメ、抑制的な批判はOK。
掲載個所:「ひきコミWEB版」と「ひきこもり居場所たより」のブログが中心であり、同じ文書をFacebookに転載することがあります。X(ツイッター)にはタイトルだけ載せることがあります。後に個人別のページをWikiシステムで作成します。
自作の月会報『ひきこもり周辺だより』に載せることがあります。会報読者は100~200人。読者に新聞記者などもいます。
1回の文章量、回数(投稿ペース)は特になし。テキスト文だけで、写真・絵・図表等はなし。費用は決めておらず、了解できる範囲でカンパしてください。 
◎1回何かを書いてお送りください。それで考えるのがよいと思います。》

少子化対策としての家事労働者を受入れ

8月31日(土)朝日新聞国際面の記事。見出しは「韓国、外国人家事労働者が研修中」。内容は、日本以上に少子化が進む韓国で、その対策の1つとして、外国人家事労働者を受入れるということ。
韓国の2023年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む見込みの子ども数)は0.72。日本は1.20と低いのですが韓国ではそれよりもさらに低い。
外国人とは、フィリピン政府公認の関連資格をもつ人材から選ばれた100人。4週間の研修には、子どもの世話や家事、韓国語などが入ります。ソウル市内の家庭で「家事管理士」として働きます。事業主体は韓国政府とソウル市で、700以上の家庭から申し込みがあり、157家庭への派遣が決まったといいます。

少子化対策を名目とする家事労働の支援を受けられるのは、ある程度の収入がある家庭(夫婦共働きなど)が想定されます。少子化対策の有効性は限られると予測できます。成り行きによって157家庭から増えていけば効果も増えていく可能性があるでしょう。
労働の内容に「子どもの世話」が家事と並列にされています。「子どもの世話」は家事とは別とも受け取れますし、事業全体からすれば加えられているとも読めます。
この方法により家事労働が労働市場に表われ、これはGDP(国内総生産)にカウントされるでしょう。一般家庭の家事労働と同一とは思えませんが、参考にはなります。
家事労働は、韓国、フィリピンの2つの国で、対応している——東南アジア諸国には、中東などへの家事労働者を派遣していると以前にきいたことがあります。フィリピンには「政府公認の関連資格」があるというのは驚きです。その研修内容に「子どもの世話」が入っています。
日本にもかつて家政婦協会、いまは看護家政婦協会があり、家政婦の派遣を行っています。職業紹介業がハローワーク等に限られていた時代にも(中学校・高校の進路指導と並んで)、家政婦の派遣紹介は公認されていたと記憶しています。日本の現在の状況を知れば、家政婦の労働市場における評価、したがってGDP換算の参考値を知ることにもなるでしょう。
『新明解国語辞典』(第4版,三省堂,1996)によると「家政婦 その家に通って、家事を手伝うことを職業とする婦人」、「家事 家庭内で、生活上必要な仕事。料理・洗濯・育児など」とありました。
「メード maid ホテルや外国人の家庭に雇われて働く女性」というのもあります。
ベビーシッター、家事代行も調べる、看護家政婦協会にきいてみる道もありそう。

家事労働時間から考える

国立社会保障・人口問題研究所が全国家庭動向調査を発表しています。
2022年の調査では、妻が平日に行う家事時間は平均4時間7分、休日は4時間36分です。これは2008年、2015年の平均4時間40分、休日5時間と比べると短くなっています。
妻にも内訳があって、正規労働者は約3時間、非正規労働者/自営業者は約4時間、専業主婦6時間弱といいます。
同じ調査結果は夫にもあります。夫の平日の家事労働47分、休日1時間21分です。2018年調査以降は夫の家事労働時間は上昇傾向であり、「夫婦の協力による家事労働時間は増えている」と言います。
なかなか貴重な調査であり、現在の家事労働をめぐるいろいろなことがうかがい知れます。
① 家事労働時間は全体として減少している——家電の利用や外部サービスの利用(外食、宅配、クリーニングなど)が増えている。
② 夫と妻の家事分担として、わずかずつ夫の分担が増えている——これには夫婦と子どもで構成される核家族化が働いていると考えられます。
私が調べたのは別のネット上の記事で、家の間取り(個人住宅づくり)や電気料節約などを考えるサイトです。従って、ここは「家事労働」の内容にはふれていません。
問題は家事労働の範囲です。食事(炊事)、掃除・整理(ゴミ出し)、洗濯を中心にしたものが、家事労働と考えられているはずです。とくに食事は欠かせません。
私が大阪にいた1970年のころです。南米ペルーの映画「みどりの壁」というのが上映され見に行きました。若い夫婦と子どもの物語でした。その子が事件か事故で亡くなります。若い夫婦はひどく打ちひしがれていました。夫は怒りに燃え、妻も深く沈んでいました。やがてその若い妻は立ち上がり、食事の準備を始めました。どんな場合でも、食事は欠かせません。このとき何か女性の勁さを感じたことを覚えています。家事はコロナ禍の中でエッセンシャルワークといわれるようになりましたが、昔からそうだったのです。思うに母の姿そのままでした。
他には、家計簿(これはかなり小さい!?)、家具修理、大工仕事、庭作業なども家事かもしれません。そして決定的なのは子育て、介護および看護的な役割がこの調査発表にはありません。同研究所ではこれらも調べているかもしれませんので、探してみる意味はありそうです。
子育ては、とくに乳幼児の養育は、保育所等に預けるとしても、家庭に重要な役割があります。疾病や障害者のいるばあいは、家族の手配りの範囲を越えるにしても、家庭・家族の役割(?)がなくなるわけではありません。高齢者の介護は、状態に大きく左右されますが、高齢者施設に入所したとしても負担がなくなるわけではないでしょう。
家事労働の範囲に、子育て教育、看護、介護を含めて、可能な形で数値化して表現されることを願いたいものです。

この発表とは別に、厚労省は育児休業を設け、父母ともにその取得をすすめています。2020年度の取得率は母が80%以上であり、父は14%ほどで、男性の取得率の低さが示されています。父の育休取得は2025年までに30%という政府目標が掲げられていますが、かなり難しいでしょう。乳幼児に対して、父親がどうかかわるのかはそう簡単ではなく、「非得意分野」の家事に当たるともいえます。
ひきこもりを生み出す背景事情の一端に、社会の歴史的変化とともに、父母の直接的なかかわり方も相応に関係しています。その意味で育児休業制度の効果的な活用をすすめるのは意味があります。そういうことも含めて、子育ては重要な家事労働に入ります。
私の近所(直線距離で100m以内)に2つの保育園と2つの(小規模)幼稚園があります。父親の送り迎えに頻繁にあいます。これは父親の育児参加のほんの一部でしょうが、相当に変わってきたのも確かです。

もう1つは、限定的な範囲で考えられた家事労働時間を、どのように評価するかです。それは生産的な社会的労働の指標GDPにはカウントされていません。社会的な生産・サービスと同一基準が最適とは思えませんが、かといって0(ゼロ)評価にはならないでしょう。
社会的な生産・サービス活動に基づくGDPは、資本主義的社会が確立して相当に過ぎた20世紀に入ってからつくられました。まだ視野に入れられていない家事労働を、どのように加えられるのか——おそらくはポスト資本主義や資本主義に代わる社会では考慮されると思います。