ひきこもりが生まれるには、日本人の精神文化、国民性のうえにもう一段の要因が加わることによります。そのもう一段の要因とはなんでしょうか。
私はかかわったひきこもり経験者、その親たちの話を聞いて考えた結論はこうです。幼児期・子ども時代においては、虐待とその周縁の躾(しつけ)です(『ひきこもり 当事者と家族の出口』子どもの未来社、2006)。後に知ったことですが、児童精神科医の友田明美さんはマルトリートメント(不適切な養育)と言いました(『いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳』、2006)。
その状態を子どもは脳を変形させて対応していると友田さんは脳の画像診断によって実証しました。友田さんと私はほとんど同じことを指していたと思います。友田さんは画像による実証あり、私よりもはるかに説得力のある提示をしました。
その対応による幼児期の症状の中心が愛着障害です。私の推測ではうつ状態などもう少し違った症状や状態も表われることもありそうだと思います。
では思春期以降、とくに成人期において要因はどうなるでしょうか。これには虐待(学齢期においての教育虐待を含む)をはじめ、多様なハラスメントになります。多くの人では幼児期以来の同じ場面が続いています。同世代の中でのいじめを受けやすい状態になります。身体への暴力や暴言・差別語、見下し的なからかいなどを受けやすくなります。自己肯定感が低いことが多く、そういう位置におかれやすいからです。
これらのいろいろなハラスメントへの対応として現れるのが、不登校でありひきこもりです。しかし表れ方の個人差は幼児期よりも大きくなります。摂食障害、リストカット(自傷行為)、オーバードーズ(大量の薬)、うつ状態などであり、人によっては、精神障害につながります。意欲喪失(やる気が出ない)、希死念慮(自殺願望)になることもあります。人と関われない、仕事に就けない、仕事に就いても違和感を持ちやすく辞めやすい…などです。
私がひきこもり経験者の集まる居場所で出会った人たちは、以上のような身体的、精神的、さらには社会的な状態になった人たちでした。
これらの不登校やひきこもりに進むもう一段の要因とは、基本的には後天的な要因です。居場所においては、発達障害と思える人(似た人)やLGBTかそれに通じる人もいました。この人たちの中には先天的な要因の人もいるわけですが、実際には後天的事情によってそれらに近い状態になる人もいると思います。私にはこの違いの判断を十分にはできません。したがって違った対応はしてこなかったのです。
さらに大事なことがあります。ひきこもりを含めてこれらの症状・状態からどのようにすれば回復し社会参加の道に進めるのか。私には基本的な定式はまだ描けないでいます。子どもの愛着障害からの回復の経緯から、その回復の道は見えてくると期待していますが、精神医学的には必ずしも明確ではないと受けとめています。
成人を含む愛着障害からの回復を紹介している岡田尊司『愛着障害』(光文社新書、2011)を見ても、その道は明確ではなく、むしろ難しさが示されています。ひきこもりへの支援が就労支援に傾いている点は、ひきこもり当事者側からも指摘されています。この指摘は上の背景からみて十分に納得のできることです。
私が運営してきたひきこもり等の当事者の居場所は、この回復過程の一端になると考えてのものです。その役割は有効であるとは思いますが、それで十分に回復の経路が開かれていたわけではありません。個人差(向き不向きの差)、偶然に集まっている人たちの関係など整理しづらい要素が絡み合っています。少なくとも不登校になる子どもたち、ひきこもりになる人たちの“生きづらさ”を感じるところは特別に(心理学的というよりも社会的な問題としても)具体的に見ていく必要があります。
私の能力では外見上、各人の身体・精神状態の傾向を明示することはできません。ある人は社会参加に向かい、ある人は出たり戻ったり状態であり、ある人は精神症状が出てきます。それらのことが確認できるだけです。いつの日か脳神経系の観察可能な条件が整い、身体科学的に明らかになることを期待しています。
それでも居場所における経験により社会参加に向かう人が一定割合、他の居場所の経験を聞いても過半数になります。それが完全なものとはいえないにしても、それぞれの人の途中段階で対人関係づくりや社会参加できる状態に進むことは確信できます。