恥の文化がひきこもりに関係する精神文化の1つ?

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精神文化の特色が、人間の生活行動様式の基底にあると考える人は多いし、私もそうです。ただし、精神文化とは何か指すのかの範囲は必ずしも統一的ではありません。いろいろな視点から精神文化が考えられ、その要素はいくつかが挙げられています。地理的条件(西北太平洋の島国で台風多い)や地球物理学的な要素(地震や火山活動)が日本人の精神文化に影響しているとの意見を見たことがあります。私は別の機会に住宅条件や日本語の特徴などを挙げて日本人の精神文化を説明する予定です。ここではこれまで見たことのある「恥の文化」論を取り上げてみます。
アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、戦時中の調査結果をもとに、1946年に『菊と刀』“The Chrysanthemum and The Sword”を著し、その中で日本人の精神文化の特色を「恥の文化」と示しました。多くの注目を集めた見解で各方面からの論評があり、ひきこもりの背景条件に結びつけたものも見たことがあります(該当文献を探し出せませんでしたが)。
日本人の精神文化の型をR・ベネディクトは、世間体や外聞を基準とし、それを「恥の文化」と表わしました。対する西洋人は、各人の内面的な良心を基準とした「罪の文化」と対比させました。どちらがよいか悪いかというものではなく、精神文化の表われ方の違いになります。
恥の文化が、日常の生活行動に表われるのは、いろいろな場面、いろいろな形になります。たとえば精神科への受診を知られたくない、たとえば生活保護を受給したくない…というのもその1つの表われです。成人年齢に達して身体的障害がないのに「働いていない」というのも恥と感じるのもそれに当たるというわけです。
一般に、日本人の精神文化がひきこもりに結びつくには、精神文化の面にもう一段の要件が加わらないと説明できないと考えています。言い換えます恥の文化の中にあっても、それがひきこもりに結びつくにはもう一段の要件があると考えます。それについては別の機会に説明します。ここでは以上のごく概略的なことと、その要素が変わりつつあるという意見を追加しておきます。

ひきこもりは、とくに顔見知りとか近所の人と顔を会わせたくない、さらに社会から身を退くという生活に結びつくと説明されます。この精神面を恥の文化として説明するのです。おそらくこれに該当する人はいそうですが、そうでないかもしれない、ちょっと飛躍があると感じるのです。
私は少し違った表われを見聞きしています。私が接してきたひきこもり経験者には「恥ずかしい」とか恥という言葉遣いをする人はあまりいないからです。性的なこととか、服装の乱れなどに関して「恥ずかしい」ということはありましたが、自分がひきこもっている、働いていない…ということに際しては違った言い方が多いのです。
どういう言い方を聞いたかといえば、自分を育てた家族に申しわけない、罪悪感がある、責任がある…という言い方です。とくに、罪悪感というのは、R・ベネディクトの言う「罪の文化」に属する言い方ではないかと思うわけです。
責任があるというのは、90年代以降強まってきた「自己責任」という受けとめ方や言い方に関係するのかもしれません。私が見聞きした範囲になるので、罪悪感や自己責任がどの程度で影響しているのかはこれだけで判断できないと思います。もしかしたらこの傾向、日本人の精神文化にわずかずつですが、変化があるのかもしれません。
「恥の文化」とひきこもりを生み出す精神文化の基底の1つの上げるには十分ではないとちゅうちょするこの点ですが、どうでしょうか。
ひきこもりパラドクス

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