経済社会の大きな変化では家族も重要な要素です。核家族が進んだのですが、同時に個人もまた不動のものではなく歴史の中で様子は違ってきました。それは不登校やひきこもりにとどまらず、感性はいいが過敏に反応しやすい、優しいけれど我慢づよくないなど現代人の表われに関係しているのではないか。
手元の『新明解国語辞典(第4版)』(三省堂,1996)で「個人」がどう説明されているのかを調べました。
「①社会・団体を構成する一員としての一人ひとりの人。②その人の属する地位や職業などの面から切り放して考えた、一人の人間」。
これは相反する二つの意味が並んでいると思いました。そこで国語辞典としては詳しい『日本国語大辞典』(第二版・第5巻、小学館、2001年5月)の説明をみました。「国家や社会、またはある団体に対して、それを構成する個々の人。一個人。私人。また、その人の地位や職業の面を切り離した人間としてのひとりの人」です。
2つの辞書に書かれている内容に違いがないようですが、〈明解〉では相反する意味を分けて説明し、〈大辞典〉では分けないで説明している、と思います。私は後に説明する理由で〈明解〉の方が一歩進んでいるとみました。
この2つの辞典の説明を見ると、個人と社会団体の関係について書いていても個人と家族の関係にはふれていない点が共通します。その理由を次のように理解します。
人間は生まれてすぐには個人とは扱われないのです。それは人間として尊重されることとは矛盾しません。しかし家族の構成員は自動的には個人とは考えられないのです。いつまでも家族の構成員は個人と考えられないのかというとそうではありません。家族の精神文化にもよるし、地域環境や個体差もあるでしょうが、一般的基準は成人に達したときでしょう。法的に「成人」と扱われるのは年齢18歳に達したときです。
こういう条件があるので、家族の一員であることは自動的に個人とは扱われないのでしょう。これは現在の状況です。旧時代の女性が男性と同等とされなかった時代には、実体面で多くの例外があったとして〈家族の一員としての一人の人間〉とされたのは成人男性とされていました。母親中心のPTAが父兄会とされるのはその名残です。
もしかしたら旧時代は男性も個人とは考えられず家族、または家族集団の一員とされていたかもしれません。少なくとも現在では家族の一員であり、同時に個人であることは成り立つでしょう。
ここを考えると日本における個人の確立は、昔と今では同じではありません。家族との関係における個人もまた同じように変化してきたのです。
女性の地位を挙げましたが、この他に障害者、子ども、高齢者なども、社会状態の変化とともに、違って考えられるようになったと思います。私は高度経済成長によって到達したゆたかな社会になって、これらが明瞭になったと思います。それには、居住地(食生活・住居)の分離、家計の分離、通信手段の分離(携帯電話の普及)、プライバシーの尊重…などいろいろな条件が家族の中で同一でなくなった状態になり、その条件とともに一般に広まったと考えるのです。
国語辞典において「個人」は社会・団体で説明しています。それも時代とともに変化している事情を考えると〈明解〉の方がより現代的な説明になっているのです。法的な条件は、それらに先行する理念として生まれ、社会の変化とともに定着してきたのではないか、と考えます。