子育て、家事そして介護は人間にとっての基本的なエッセンシャルワークです。地球上に人間が生まれてからそれはずーっと続いてきたのです。食べ物、着る物、住まいの獲得など人間生活に必要な物は生産物ですが、子どもを育てることと高齢者などの介護、生活を支える家事は生産活動とは考えられなかったのです。当然すぎて考えが及ばなかったというべきでしょうか。
『NABAニュース・レター』は摂食障害など依存に取り組むNABAの会報です。そのNo.303(2023年6月29日)に〈すず〉さんのメッセージ「じゃあ普通のほうが間違ってんだわ」が載っていて、読んで感動しました。4ページ余りの長さの中から一部を抜き出してみます。
「私が祖父の家にいて、ほとんど全部を家族にあげた20数年は、履歴書に書けない、ということ。(中略)
私が何千回も洗った浴槽、毎日洗い干しては畳んだ6人分の洗濯物、伯父と父と弟と祖父とでそれぞれ作り分けるごはん作り、後片付け、洗い物、性行為。祖父のおしっこ、うんち、体位交換。あれらは、全部、社会、では、ゼロなんだ? たぶんこれを、仲間が教えてくれた動画の中では、「不払い労働」と呼んでいる。私は、知らなかった。(中略)
私は知っている。私が祖父の家で一緒に暮らしていた、父も伯父も祖父も祖母も弟も、たぶん全員、ただ普通に、生きていただけ。悪気もなく。全員が、ある程度は必死に。(中略)
家族が、ごく当たり前に、ふつう――――に、暮らすと、私に、家事と介護、つまり、自分より他人(家族)の肉体の調子(体はきれいか、お腹は空いていないか、服は洗われているか、床は快適か、喉は、眠りは、ごきげんかどうか。)を優先する役割が、全部、回ってきたということ。この社会、と呼ばれる、ここで、多分、家でやる肉体のお世話は、父や祖父がしている種類の、お務めという仕事、ではないのだ。劣位の。おんなこどもにもできること。(中略)
私は、家族の誰も死なないように、どうにかし続けてきたのに? 他の、誰も、やらないから。でもこれは、労働にカウントされないんだって。私は、頑張らなかったんだって。何これ。」
〈すず〉さんのメッセージは、強烈であるが本当のことです。経済は、金銭に換算されるものだけを積み上げて制度を考えてきたが、その働きがいかに貴重であり、人間の生命にかかわることであっても金銭に換算されなければ労働にカウントされません。
〈すず〉さんの例はもしかしたら特別の例かもしれませんが、世の中にはこのような特別な例が満ちあふれているのではないでしょうか? そういうときはもはや特別ではなく、普通というものです。子育て、家事、介護が家族間で完結し、外部に発注されない限りそれらの労働は金銭に換算されない、それが「普通」であることの異常さを〈すず〉さんは鋭く告発しています。これらはエッセンシャルワークと考えなくてはならないのです。
ボクサー(The Boxer)という曲を知っていますか? I’m just a poor boy(ぼくはただの貧しい少年)で始まるフォークで、1969年にサイモンとガーファンクルが歌ったものです。最近YouTubeで老サイモンが歌い、聴衆の若者が立ち上がって、一緒にリフレインするのを見ました。Lie lei lei,lei la la la lei lei 〈すず〉さんの「何これ。」とは「Lie lei lei」と同じでしょう。「普通のほうが間違って」(Lie)いるのです。
換金されず、労働にカウントされないものは、“無業者”に限りません。農業や漁業など第一次産業によく見られる自家消費や、近隣住民間での物々交換も経済活動にカウントされません。零細工場や小商店における家族就労者にもこの部類の人がいます。さらに貨幣経済の発達の広がりが少ない発展途上国のGDPの経済指標にもこれらの経済活動がカウントされていません。〈すず〉さんの指摘は、専門家を自称する経済学者たちの空白を衝く、率直な指摘とみなくてはならないのです。
このような金銭に換算されない労働を経済活動と把握するのは難しいです。しかし労働が「ない」のではありません。それは「間違って」(Lie)いると思います。