「感覚が鋭いという発達障害」について

昨日の続きです。ある記事の中に見つけた言葉です。
しばらく前にNHKの番組でも「感覚が鋭いという発達障害」と取り上げられた放送があり、アレっと思ったことがあります。
発達障害とは先天的な脳神経系の特異性によるものです。
学習障害(LD)、注意欠如・多動性障害(ADHD)、アスペルガー症候群(または自閉症スペクトラム)が代表例です。
じつはチック障害、吃音症(どもり)なども発達障害とされます。
厚生労働省のHPの説明ではこうあります。
<生まれつきの特性で、「病気」とは異なります
発達障害はいくつかのタイプに分類されており、自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック障害、吃音(症)などが含まれます。
これらは、生まれつき脳の一部の機能に障害があるという点が共通しています。
同じ人に、いくつかのタイプの発達障害があることも珍しくなく、そのため、同じ障害がある人同士でもまったく似ていないように見えることがあります。
個人差がとても大きいという点が、「発達障害」の特徴といえるかもしれません。>
このあと、代表的な発達障害3種類の簡潔な説明がつづきます。
しかし、感覚過敏症に類するものは発達障害の説明にはありません。
私が書いた「マルトリートメント症候群」の記述もこれと軌は同一です。
ただし私は感覚の繊細さ(場合によっては感覚過敏症)の関係をこのエッセイの後半に書いています。
感覚の繊細さは先天性であるけれども、それ自体を発達障害とはしていません。
感覚の精細さが後天的な要因によるマルトリートメント症候群に結び付くと書いているのです。
それはこういうことです。
マルトリートメント症候群はいろいろな不適切のかかわりによりつくられる症状です。
それは例えば身体障害であったり、発達障害であったり、LGBTであったりします。
見かけ上の風貌や生活の貧しさによる差別的な扱いが関係する場合もあります。
虐待やいじめは不適切なかかわりの代表例といえるものです。
そういう不適切なかかわりがあった人(とりわけ子どもの場合)にマルトリートメント症候群になりやすいのです。
注意してほしいのは、なりやすいということは“ならない人もいる”ことです。
マルトリートメント症候群になる人とならない人がいるのです。
この違いはどこからくるのか。
不適切なかかわりの程度や種類に関係します。
もう一つは当人の感受性の強さが影響するし、感覚の精細さが関係するのです。
マルトリートメント症候群はいくぶん発達障害と似た状態を示します。
この理解では、発達障害であってまたマルトリートメント症候群というのもあり得るわけです。
結論は「感覚が鋭いという発達障害」というのは、少なくとも現在の発達障害の理解を間違えています
混同させやすい表現です。
ところで私見ですが、いつか感覚過敏が発達障害の1つに認められる可能性は必ずしも否定できないとは考えています。
昨日書いたハイリー・センシティブ・チャイルドが発達障害の1種と認められる可能性は排除できないともいえます。
ややこしい説明ですが、これが現状です。

発達障害にかんする異聞と状態像に独自の診断名を

ひきこもりの相談を受けている中で、「少し発達障害の傾向がありますね」と思える方がいます。
少なくはありませんし、私の感想にかなりの方が同意されます。
発達障害が知れ渡ってきたこと、家族もそれなりに調べている人が多いのが理由のようです。
しかし、よく考えると妙なこともあります。
「少し発達障害の傾向がある」というのは何でしょうか? 
軽度発達障害という言い方もありますが、これは公式にはあいまいな言い方として使わないように言われています。
発達障害が先天的な脳神経系の特異性によるものならあいまいな表現は避けるのがいいからです。
私は「少し発達障害の傾向がある」と感想を言えますが、詳しく調べると発達障害と診断できるのはそう多くはないと聞きます。
部分的には重なるところはあっても全体としての医学的な診断はされない状態です。
第4の発達障害を提唱される方もいます。
いじめを受けた人のなかには発達障害に近い症状を示す人がいる、それを指して第4の発達障害というわけです。
しかし、必ずしも多数の賛同を得てはいないかもしれません。
私は医学的な診断はできませんが、状態像を示すものとして私が感じることと共通するように思います。

そういうなかで友田明美さんがマルトリートメントと紹介しているのを知りました。
“不適切なかかわり”という意味です。
特に子ども時代にマルトリートメントを経験した人は、“攻撃”への防衛として、脳を変形させて対応したというのです。
これは多数の人の脳のMRI検査による裏付け調査の結果に基づく判断です。
脳神経系が“攻撃”に防衛対処しているうちにそれ相当の要素をつくったのだと思います。
このマルトリートメントを経験した人も、対人関係等において独特の状態・症状を示すことがあります。
それが発達障害の人の状態や症状と似ているみたいです。
言い換えると先天的な脳神経系の特異性ではなく、後天的な原因による特異な脳神経系の状態像と考えられます。
その表われ方が「少し発達障害の傾向がある」に重なるわけです。
私の関わってきたひきこもりのかなりの多くの人がこの「少し発達障害の傾向がある」に当てはまると思います。
多くはいじめを受けた後遺症状と理解してきました。
しかし、虐待やマルトリートメントを経験した人も少なからずいると思います。
発達障害にかんする異聞をまとめて考えるとこのようになります。
後天的な環境の中で発達障害に類似、ないしは一部の似た状態を示すことがあることを承認してもいいのではないでしょうか。
それに相当する診断名として、第4の発達障害や軽度発達障害とは異なる状態名があってもいいのではないか。
例えば“マルトリートメント障害”です。⇒<マルトリートメント症候群>とされていると知りました!
それはMRIレベルの診断調査で裏づけられるかもしれません。
ひきこもりの当事者と接点を持つ人に新たな視点を与えるかもしれません。

友田明美:
http://www.futoko.info/zzmediawiki/%E5%8F%8B%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%BE%8E

母からはほめられた記憶もなかった!

6月5日に「自閉的な私は母からしかられた経験がない」を投稿しました。
しかられた経験がない、記憶から消去しているのか…自分でも不思議なほどです。
先日のことです。「松田さんは前に人の怒りなどを感じる能力が低いと話していましたよ」という人が出てきました。
そういえばそんなことを言ったことがあるかもしれません。
そこでハッと気づいたのです。
私は母からこれというほめられた記憶もないのです。しかられた記憶もほめられた記憶もない!
これはどういうことなんだ?
子ども時代にほめられた記憶はあります。
保育園の保母さんやそこの園児たちが「絵が上手!」と言っていました。
園児たちとは一緒に遊んだ記憶はなく、園庭にある2つ並んだブランコの片側で一人ブランコに乗っていた記憶、1歳年下の子が何かを言いながらぶつかってきた記憶などです。
ひとり園内で自動車の絵を描いていることが多く、それをほめられたのです。
嬉しかった記憶はないのですが、覚えているのは好意的に受けていたためでしょう。
小学校に入ってからも似たようなものです。
ひとり淡々と何かをしていました。特に地図を見ていることが多く、多数の地図(特に都市の市街図)を描いていた。
やがて都市の人口を表にするなどのデータ作成に移り、さらに辞典づくりに進みました。
現在のHP作成はその延長です。
これらを詳しく書き続けるはやめて、次に進みます。
母からはしかられたことも、ほめられたこともない、少なくとも記憶にない。
それは母の感情的な表現、気持ちを受けとめる力が低かったなら説明がつきます。
自閉症的といっていいでしょう。程度はともかく母はそれに気付いていたと思えます。
感情表現を上手く受けとめられない代わりに、私は周囲の人への判断基準を自分なりにつくろうと試みていたのではないか。
中学生のころ、ちょっとオシャマな女の子が「武己くんは公平、だから認められている」と言ってきました。
これは学級内で弱い立場の子にも同じように関わったことがあり、そのとき言われたのです。
しかし、このオシャマな女の子はそのときだけではなく、いろいろな場面を含めて言ったのです。
生徒の選挙による学級委員長は毎年1学期に選ばれていました。
いろんな委員会にもよく選ばれました。それらを指して「認められている」と言ったのです。
そういう役目を自分から積極的に買って出たことはありません。
目立たないけれども地味に担当した気はします。
このときの公平という言葉はかなり印象深かったようで、このあとは自分でも「公平基準で」物事を見ようとし始めました。それまで気づかずにいたのに意識させられた感じです。
周囲の人を感情表現で判断するのでなく、公平な基準で対処しようとしたという意味です。
もちろんいつも成功したわけではないでしょう。
先日話した人は私のここを特に取り上げました。
「それは自分を確立していることです。多くの人は(その人も含めて)周囲の人の感情や意見に左右されて揺れ動いている。自分の軸がない。自分の基準をもっているようでも揺れ動いている。そのときどきで基準が変わり、周囲に流されるしかない、自信が持てない…」と続きます。
対して私はマイペースである、自分のやりたいことを地味に続けている。
成功するとかしないとか、金になるとかならないとか、それらにあまり関心を持ってこなかった。
だから今も貧乏生活をしているわけです。しかし、それで重大な後悔があるわけでもありません。
ご迷惑をかけている方には申し訳ないですが…。
取り組みが本質的なことに近づいているのか、そこがいちばんの関心です。
自分の能力や守備範囲は限られるけれども、できることを続ける気持ちでいます。
理解されないかもしれないが、人に認められるのを目標とせずに続けてきたと思います。
これはかなり正直な気持ちです。
自閉症、自閉傾向を調べたり、考える方には、私の場合は1つの参考になるかもしれません。
子ども時代のエピソードなどは「松田武己」ページにいろいろと紹介しています。

私のアスペ人生を載せました

会報『ひきこもり周辺だより』の2月号と3月号に「アスペルガー的な私はこのように生きてきました」を上下2回に分けて書きました。
これに対して感想というかご自分の体験を書いてくれた方がいます。
いつもながらすごく圧縮して書いているので内容がとらえにくいと思います。自分にはこういう書き方しかできないと自虐感を味わっています。そんな中での感想で感謝しています。
その上下2つを「論文とエッセイ」コーナーに転載しました。これで合計291本載せました。カウントを見ると思いのほか多くの方が読んでいます。
http://urx.mobi/J02J
今回は特にアスペルガー的な方に見ていただきたいと思います。

日本遺伝学会は色覚多様性と決めました

これまで色盲、色弱は色覚異常と言われています。
日本遺伝学会は色覚異常をやめ色覚多様性にすると決めました。
色覚多様性とはなかなかの表記法です。
私の場合はうろ覚えですが“赤緑色弱”ではないかと思います。
はじめて色弱がわかったのは小学校1年か2年の時です。
検査表があり、他の子が読めて自分には読めないページがある、逆に自分だけが読めて他の子は読めないページがある。
それにより色弱と判断されました。
そのときはちょっと特別視された記憶があります。
その時点で“赤緑色弱”といわれたか、後だったか、よくわかりません。
後にこの検査表は石井式色覚検査表と知りました。
大学病院勤務時代に医療事務として担当した眼科の医師といろいろ話したこともあります。
中学か高校時代に“赤緑色弱”というのを意識していた時期があると思いますがはっきりしません。
高校のとき就職試験である会社に履歴書を送ったところ不採用になりました。
返された履歴書の「色弱」と書いたところに赤のアンダーラインを引かれていた記憶は鮮明です。
担任のF先生がそこを指して「これが理由かも」とつぶやいていました。
実はその会社はデザイン会社です。
当時はレタリングなどの商業デザインの通信教育を受けようとしていたので関心はあったのです。
しかしこの通信教育をやめた理由はもともと通信教育が無理だったためかもしれません。
結局あやふやなまま過ぎました。
逆に考えれば色弱によりこれという不都合がその後の生活ではなかったとも言えます。
目についていえば斜視の方がもう少し何かがあったと思います。
車の運転に全然関心が向かなかったのは、斜視や色弱とは関係ないとしてきたのですが…。

さてこのたび日本遺伝学会が色覚異常を、色覚多様性と決めました。
身体のいろいろな独特性を異常を使わずに表記する面でいいと思います。
社会生活のうえで身体的に異常とされることで引き起こされることはいろいろあります。
知らなければ何もないのに、知らされるがゆえに不都合が発生するものです。
そういうものを表現のうえで多様性というのはよさそうです。
似たような用語に「障害」があります。
「少数者」も時と場合によって社会的な不都合になるときがあります。
しかし、障害と判断や診断されることの全部がマイナスや不都合というのではありません。
私は自己判断により、アスペルガー障害ないしは自閉症スペクトラムと考えています。
世にはこのような診断を受けた人も多くいます。
私の場合は、知り合いの臨床心理士さんがアスペルガー障害の特色を詳しく話しているのを聞いていた時のことです。
臨床心理士さんから話の感想を聞かれたときの答えは「自分の子ども時代のことを聞いた感じがしました」。
臨床心理士さんも私の感想を聞いて、これまでの振る舞いからして納得できるところがあったように思います。
そうか、自分はアスペルガー障害だったんだと理解した時です。
それがわかったときの気分は楽になったという感じです。
自分を理解する1つの手がかりを得たようにも思いました。
色弱、斜視、アスペルガー障害、そのほかに私には食べ物の好き嫌いが多い(たぶん味覚過敏)などの身体特徴がありますが、すべてつながっているように思います。
中学2年の時に調べた知能指数はかなり高かったのですが、これも関係するかもしれません。
これらはいい悪いの価値判断ではなく、TPOによっていい場合もあればまずいこともある、という状態におけるのです。

NHKの「発達障害」番組を見る

昨日(21日)夜、NHKで「発達障害」の1時間番組がありました。
ちょうどパソコンの作業中のHくんもいて、途中から一緒に眺めていました。
彼も私もそれぞれに感じることがありました。
私にとってはさほど新しい内容はありませんでしたが、イギリスの研究者が脳の働きを紹介していてこれは初めて聞きました。
聴覚と視覚の特異な状況は、Hくんにも感じるところがあったようで、けっこう共感できました。
私の場合は味覚に敏感なことがあり、これが食べ物の好き嫌いになっています。
味覚についてはとくには取り上げられませんでしたし、触覚も同様です。嗅覚は少し触れられました。
私もHくんも、「自閉症スペクトラム」のところがメインで、ADHDのところも少し関係します。
私のばあい思い出すのは、小学校・中学校時代のノートの“きたなさ”です。
いまでも、他の人がノートをきれいに書いているのと比べて、私のノートは乱雑です。
このあたりが自分のなかのADHDらしいと感じるところです。
Hくんはほとんど自分の場合を語りませんでしたが、時にうなずきながら10時の放送終了まで残ってこれを見ていました。
久しぶりにスポーツ番組やニュース番組以外のテレビを見た気がします。
今回これがNHKにより一般に報じられる意味はかなり大きいと思います。

アスペルガー症候群について書いたものが出てきました

10年前のアスペルガー症候群への対応を書いた文書が出てきました
引っ越し時(2013年)の荷物を片付けなくてはならず、作業中にアスペルガー症候群についてやりとりした文章が見つかりました。
2006年8月にメールを受けとり、9月に返事をしています。私自身がアスペルガー症候群について書いたものは手稿(下書き)なので、返事には含まれていないはずです。
メールを送ってきたのは、子どもさんがアスペルガー症候群である勉強中のお母さん(K.Mさん)からで「アスペルガー症候群について」と文書名がついています。
私の返事は、不登校情報センターとして発達障害の関連団体の情報を集めようとしていることを伝えるものです。返事の手紙の日付は2006年9月23日になっています。
手稿の文書は未完成ですが同じころ書いたものです。
私が自分のアスペルガー気質を知ったのは、2007年の秋です。それ以前に書いたことになります。

〔アスペルガー症候群についてのやりとり〕
http://www.futoko.info/…/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%…

進化論的ラフスケッチによる発達障害

発達障害を進化論から説明する、これは私なりには自然なアプローチです。しかし、こういう説は見かけませんので、実に心細い限りです。それはどうにもできないので、わが道を行きます。
まずラフスケッチを考えてみました。心当たりというか、関心がある人を見つけるためです。
今のところ2つの面から調べて行くことになりそうです。原因としてのウィルスの遺伝への影響(しかた)と、結果としての表面化したもの、すなわち移行状態である発達障害の現象学です。

遺伝のメカニズムは、ウィルス説で説明しやすいと思います。ただ、実験や観察により論証する条件は私にはありません…。
ウィルスは人をはじめ生物の活動に大きな役割をしています。すでにウィルスは人によって遺伝子操作に利用されています。ウィルスは比較的、短期間に広がる要素があります。それはウィルスが病原体として働いたときの病気の急激な広がり方で知られます。
ダーウィン進化論の改訂版では、突然変異が持ち込まれています。ウィルスが広範に急速に人に広がれば人の進化に影響します。新ダーウィン進化論を超える突然変異を示します(?)。人は動物として進化の途上にあり、それなら発達障害をこの過程として描くことは可能ではないでしょうか。

結果としての表われ(発達障害)は社会的な面と自然的な面から見ることができます。
社会的な面では「子どもから成人になる期間が長くなった」点が注目されます。高等動物ほど成熟するのに時間がかかると言われます。これは自然動物として人の成熟期間の説明です。しかし人間の場合の生育環境は社会環境といっていいのです。すなわちこれは社会的な面になります。
そのばあい子どもから成人になる期間が長くなっただけではなく、人間が長寿になっていることも関係します。そして長寿も主に社会的な理由により説明されます。
自然的な面(生物としての表われ)は、主に発達障害の人の観察的な事実(および自覚的な意識)に基づきます。順序で示すと、
(1)感覚器官の変化に見ることができます。神経過敏とか感覚が鈍感といわれるものです。
(2)感覚の大きなブレは感情面・情動面の特異性として表われています。
(3)感覚と感情面・情動面の特異性が言動(認識面と行動面)の特異性に表われています。

ラフスケッチですからこの程度にします。あらためて興味・関心のある方のご協力をお願いします。

発達障害を進化論から説明する協力者を探しています

11月末から12月にかけて、「発達障害を歴史性と進化論からみる」を書きました。発達障害を進化論から説明しようとする試みです。
その支えとなるのが中原英臣氏などの考え方です。具体的には『ウィルス進化論』(中原英臣・佐川峻、早川書房、1996年)によります。しかしまた、他のいくつかも参照にしており、この『ウィルス進化論』とは異なる進化の説明もあります。先日は「種の変化、定向進化を含む“ウィルス進化論”を肯定的に参照しています」と含みのある表現にしたのはこのためです。
手元にある参考書は『ウィルスは生物をどう変えたか』(畑中正一、講談社ブルーバックス、1993年)と『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一、講談社現代新書、2007年)などです。
例えば、新ダーウィン主義での突然変異を中原説では否定的に受け入れていますが、畑中説と福岡説では突然変異をウィルスの働きとしています。
このような点を含めての確認事項が多数あります。当然、それを理解するのに必要な文献も多いでしょう。実験・観察する条件はありませんので、文献から合理的に理解し説明できる道をたどることになります。
しかし、私にはそれ以前に生物学の基本とか、DNA及びRNAなどの基礎知識が欠けています。それらの分子生物学の理解から取り組まなくてはなりません。たとえば『DNAと遺伝情報』(三浦謹一郎、岩波新書、1984年)というのがあります。
以上の2点は、いわば裾野のところであって、その上にウィルスの働きで人間が進化する、それも現在進行形にあると進みます。発達障害は人間進化の途上の現象と説明したいと考えます。
これらを一緒に取り組もうとする方を探しています。また文献紹介(入手可能な)もお願いします。

不登校の親の会で発達障害を語る

27日の不登校・ひきこもりの親の会には、アスペルガー症候群と言われている2人が参加予定と聞きました。いつも何か短いレクチャーをするように言われています。今回はアスペルガー症候群について話すつもりでテキストを準備しました。
アスペルガー症候群の当事者であれば(状態像はいろいろに分かれるにしても)、
具体的で実感のある話がいいと思います。けれども私の経験はすでに多く書きました。経験談はその場の状況に応じて話そうと決めました。
なぜ今の時代にアスペルガー症候群が目立つようになったのか、歴史的社会的な背景に目を向けるのも、当事者にとっては自分理解にとって役立つのではないか、そんな考えが浮かんできます。
それを表わすには前から考えていた進化論と発達障害を結び付けて説明するのがよさそうです。しかしこの考え方というか説明の仕方は、意外なことにこれまで他で見たことがありません。自分なりにはごくオーソドックスな論理なのですが、ちょっと不思議です。
そこで「私論」か「試論」を付けるのがいいのですが、両方を付けるのはもったいぶっている感じがして「試論」を採用しました。
会のなかでは自分が実感したいくつかの場面の話をしました。出席の青年からの話を聞きながら、記憶が薄くなっていた経験も思い出しました。「そうだ! あれが気になっていたんだ」というものもあります。
アスペルガー症候群で「あいまいな表現が苦手・伝わらない」というのがあります。私の方から言えば、「なぜそんな言い方で伝わるのか、もっとはっきりしてほしい」と、思い続けていた子ども時代や青年時代のことを思い出しました。思うにそれで伝わったのはことば以外の周りの人の様子や雰囲気があったのです。そこを感知するのが苦手だったのか、と改めて確信します。しかし、ことばのレベルで伝えるのが正当という思いはいまもあります。
その「発達障害についての試論」は、時間の制約と長さの制限で何か書き残している感じがあります。近く訂正しようと思います。