「甘えかたがわからない」とは

ある日の午後に電話がありました。
その場にいた人と私は話し中なので、ゆっくり電話を聞く時間がありません。
そう告げたのですが、精神的にセッパ詰まった感じで電話主はこう言いました。
「じゃあ何か言ってください!」と。
「どういうこと?」
「私が元気になるような、勇気づけられること」
こういう要望に対して、私はうまい言葉が浮かびません。
そのときも何かを言ったのですが、つまらないことのはずです。
元気になるとか勇気づける言葉ではなかったことは確かです。

電話が終わった後、同席していた人に話しました。
「すごくわかりますね」それがこの人の感想です。
私と言えば「元気になるような、勇気づける言葉が出ないね。いや、僕はほめるのがへたなんですよ」と告白。
なぜなんだろう?
そう、その場を取り繕うような言葉を飾ってうまく切り抜けるやり方に嫌悪感があるのです。
当事者にはそういうその場かぎりの言葉ってバレバレじゃないですか(それでもないよりはいいという人もいますが…)。
一般人には通用する社交的な言葉は当事者にはしらじらしいものだとの思いがあるのです。
自分で実感していることしか話せない、話すべきじゃない。
私にはそういうのが心の奥にあって、その場にあった取り繕いの言葉を考えないようにしているのだと気づきました。
そういう“努力”をむなしく感じて放棄しています。実はこれも私の居直りの一つです。
私の“居直り”が無害なものであるとわかっていただけますか? そして自己肯定の形であることも…。

その日の深夜、午前1時25分、先ほどの電話主からメールが届いていました。
「甘えかたがわからない」という題になっていました。
あるカウンセラーさんとのいい体験エピソードが書かれていました。
そのメールを読んでいるうちに感じたことはこうです。
そうか、「甘えかたがわからない」が依存しやすい理由の1つかもしれない、と。
甘えられないのと依存するというのは対極にありながら、同じ心性の表われ方なんです。
両極端にあらわれる例です。
そしてこれはまた子ども時代にうまく甘える(依存する)ことができなかった後遺症でもあると思いました。
言い換えるとマルトリート症候群の1つの状態像かもしれません。
人は甘え(依存)を経験しながら、依存を抜けていくのです。
幼児期にうまく依存経験できないと成人後に依存的な様子を残していきやすいのです。
これには理由があり、私は成人後のこのような依存は必要だと思っています。
そのような依存できる対象が必要、という意味です。
それと並行して“対等な”人間関係を経験する必要もあります。居場所にはその役割があります。
依存や人間関係を経験しながら、人は依存の心性から抜けられるのでしょう。
わりと最近の出来事です。

日本人の感覚が鋭い点について

味覚の中に旨味(うまみ)を見つけた日本人。
甘い、辛い、酸っぱい、苦いという人類共通の味覚に、旨味を追加しました。
味覚についての詳細は省略します(そのうち書くかも…)。
虫の声を、騒音ではなく、音色として受けとめるのは日本人の音認知の特徴です。
この聴覚の特徴は角田忠信さん(東京医科歯科大学講師)の研究が知られています。
(角田忠信『右脳と左脳―その機能と文化の異質性』小学館、1981年)
ここでは聴覚の特徴を『記憶のメカニズム』(高木貞敬、岩波新書、1976年)〕により紹介します(165~171ページ)。
日本人の聴覚は「大部分のヒトについて、母音と子音をふくめたヒトの声、また虫や動物の声は、すべて左半球が優位、つまりそちら側で聞いていることがわかり、それら以外の機械的な音はすべて右半球が優位、つまり右側の脳で聞いていることがわかった。
日本人は母音と子音とを区別なく言語中枢のある優位の脳(通常左半球)で聞いているが、印度ヨーロッパ語を母国語とする外国人は子音は優位の脳(通常左半球)で聞き、母音は劣位の脳(通常右半球)で聞いていることがわかった。
角田はこの結果から世界の言語を単脳言語(日本語パターン)と複脳言語(印欧語パターン)とに分類している」。
ある方法により「日本人について得られた成果は先天的なものではなく、日本語で育ったための後天的なものであることが証明され、日本語の特異性があらためて注目される結果となった」。
「このような左右の脳機能の分担は西洋哲学で認識過程をロゴス的(理性的―言語、計算)とパトス的(感性的)とにわける考え方と合致するから、外国人の優位の半球はロゴス的、劣位の半球はパトス的というふうにはっきり区別できるが、それに対して日本人の優位脳はロゴス的であると同時にパトス的であるといういわば二重構造をもっていることになる」。
 
日本人の特異な聴覚が後天的要因である文化によること、ロゴス的とパトス的な二重構造の認識過程が備わる特長を示しました。
これを別の面からみれば日本人の聴覚の特異性は人種的な(生物学的な)優位性を示すのではなく、特長の1つを示したことです。
長い文化的な生活・生存環境のなかで蓄積されたものです。
余談ですが角田忠信『右脳と左脳―その機能と文化の異質性』、高木貞敬『記憶のメカニズム』の2冊はともに古本屋さんで入手しました。

「感覚が鋭いという発達障害」について

昨日の続きです。ある記事の中に見つけた言葉です。
しばらく前にNHKの番組でも「感覚が鋭いという発達障害」と取り上げられた放送があり、アレっと思ったことがあります。
発達障害とは先天的な脳神経系の特異性によるものです。
学習障害(LD)、注意欠如・多動性障害(ADHD)、アスペルガー症候群(または自閉症スペクトラム)が代表例です。
じつはチック障害、吃音症(どもり)なども発達障害とされます。
厚生労働省のHPの説明ではこうあります。
<生まれつきの特性で、「病気」とは異なります
発達障害はいくつかのタイプに分類されており、自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック障害、吃音(症)などが含まれます。
これらは、生まれつき脳の一部の機能に障害があるという点が共通しています。
同じ人に、いくつかのタイプの発達障害があることも珍しくなく、そのため、同じ障害がある人同士でもまったく似ていないように見えることがあります。
個人差がとても大きいという点が、「発達障害」の特徴といえるかもしれません。>
このあと、代表的な発達障害3種類の簡潔な説明がつづきます。
しかし、感覚過敏症に類するものは発達障害の説明にはありません。
私が書いた「マルトリートメント症候群」の記述もこれと軌は同一です。
ただし私は感覚の繊細さ(場合によっては感覚過敏症)の関係をこのエッセイの後半に書いています。
感覚の繊細さは先天性であるけれども、それ自体を発達障害とはしていません。
感覚の精細さが後天的な要因によるマルトリートメント症候群に結び付くと書いているのです。
それはこういうことです。
マルトリートメント症候群はいろいろな不適切のかかわりによりつくられる症状です。
それは例えば身体障害であったり、発達障害であったり、LGBTであったりします。
見かけ上の風貌や生活の貧しさによる差別的な扱いが関係する場合もあります。
虐待やいじめは不適切なかかわりの代表例といえるものです。
そういう不適切なかかわりがあった人(とりわけ子どもの場合)にマルトリートメント症候群になりやすいのです。
注意してほしいのは、なりやすいということは“ならない人もいる”ことです。
マルトリートメント症候群になる人とならない人がいるのです。
この違いはどこからくるのか。
不適切なかかわりの程度や種類に関係します。
もう一つは当人の感受性の強さが影響するし、感覚の精細さが関係するのです。
マルトリートメント症候群はいくぶん発達障害と似た状態を示します。
この理解では、発達障害であってまたマルトリートメント症候群というのもあり得るわけです。
結論は「感覚が鋭いという発達障害」というのは、少なくとも現在の発達障害の理解を間違えています
混同させやすい表現です。
ところで私見ですが、いつか感覚過敏が発達障害の1つに認められる可能性は必ずしも否定できないとは考えています。
昨日書いたハイリー・センシティブ・チャイルドが発達障害の1種と認められる可能性は排除できないともいえます。
ややこしい説明ですが、これが現状です。

マルトリートメント症候群と先天的な要因

私なりのマルトリートメント症候群の理解では、発達障害とは違いそれは先天的・遺伝的な状態・症状ではありません。
では先天的・遺伝的なことは関係がないかというとそうとも言えません。
それに関係する体質や気質はあります。
感覚が鋭いのです。これは病状ではありません。
感覚には視覚、聴覚、味覚、皮膚感覚、嗅覚それに平衡感覚があり、これらを五感といいます。
平衡感覚は五感という言葉が生まれた後に認識された感覚のはずです。
六感というと別の意味があるのでここでは六番目の五感(!)としましょう。
皮膚感覚を除く全体を特殊感覚と言います。
さらに内臓感覚というのがあり、これは皮膚感覚(接触感・圧迫感など)と合わせて体性感覚と呼ばれます。
感覚の表われ方や程度には個人差があります。これらを細かく書くのは省略します。
平均的な感覚の持ち主ではとらえられないものを、感覚の鋭さによってとらえてしまうのが特徴です。
病気ではないし優れたものですが、不便なことはあります。
鋭利な刃物は取扱注意になるのと似ています。そのあたりも省略します。
人によっては感覚過敏症という病気に診断されますが、それではせっかくの特殊な才能を壊しかねません。
特別な感覚の中で注目したいのは内臓感覚に関係することです。
周囲の人の気持ち・感情もまた敏感にとらえてしまいます。
これは五感によることを前提として、腸感覚(内臓感覚の中心)が働いていると思えます。
気持ちがいい、なんだか変だ、などを自分と周囲に感じるときです。
「なんだか変、不気味」など論理的に説明が難しいときの状況把握です。
からだ全体で感じるように思うのですが、中心は腸感覚でしょう。
そこを中心に人の気持ちや感情を察知する力が優れているのです。
じつは幼児期の多くの子どもがそうです。
関わる人に対する子どもの反応が外れることがないのは多くの人が知るところです。
詳しく研究されたものを見たことはありませんが、腸感覚あるいは内臓感覚にも個人差がありそうです
(もしかしたら特殊感覚以上に個人差が)。
子ども時代からの生育過程で、平均的な感覚の持ち主以上に自分に向けられた感情を受け取ります。
ときには自分ではなく周りの誰かに向かって発せられる強い怒りなどの感情表現も取り込みます。
不登校の子どもの事情にはそういう事情が関係します。
そう理解すると説明がつくことはある、というべきかもしれません。
子どもに対して「なぜ学校に行けないのか」と聞いても、子どもには答えようがないのは当然でしょう。
自分が体験した虐待、いじめ、無視、押し付け、自分か普通に大事にされていない…がストレスとなって蓄積しています。
その表われがマルトリートメント症候群。
これが私のマルトリートメント症候群の理解です。

発達障害にかんする異聞と状態像に独自の診断名を

ひきこもりの相談を受けている中で、「少し発達障害の傾向がありますね」と思える方がいます。
少なくはありませんし、私の感想にかなりの方が同意されます。
発達障害が知れ渡ってきたこと、家族もそれなりに調べている人が多いのが理由のようです。
しかし、よく考えると妙なこともあります。
「少し発達障害の傾向がある」というのは何でしょうか? 
軽度発達障害という言い方もありますが、これは公式にはあいまいな言い方として使わないように言われています。
発達障害が先天的な脳神経系の特異性によるものならあいまいな表現は避けるのがいいからです。
私は「少し発達障害の傾向がある」と感想を言えますが、詳しく調べると発達障害と診断できるのはそう多くはないと聞きます。
部分的には重なるところはあっても全体としての医学的な診断はされない状態です。
第4の発達障害を提唱される方もいます。
いじめを受けた人のなかには発達障害に近い症状を示す人がいる、それを指して第4の発達障害というわけです。
しかし、必ずしも多数の賛同を得てはいないかもしれません。
私は医学的な診断はできませんが、状態像を示すものとして私が感じることと共通するように思います。

そういうなかで友田明美さんがマルトリートメントと紹介しているのを知りました。
“不適切なかかわり”という意味です。
特に子ども時代にマルトリートメントを経験した人は、“攻撃”への防衛として、脳を変形させて対応したというのです。
これは多数の人の脳のMRI検査による裏付け調査の結果に基づく判断です。
脳神経系が“攻撃”に防衛対処しているうちにそれ相当の要素をつくったのだと思います。
このマルトリートメントを経験した人も、対人関係等において独特の状態・症状を示すことがあります。
それが発達障害の人の状態や症状と似ているみたいです。
言い換えると先天的な脳神経系の特異性ではなく、後天的な原因による特異な脳神経系の状態像と考えられます。
その表われ方が「少し発達障害の傾向がある」に重なるわけです。
私の関わってきたひきこもりのかなりの多くの人がこの「少し発達障害の傾向がある」に当てはまると思います。
多くはいじめを受けた後遺症状と理解してきました。
しかし、虐待やマルトリートメントを経験した人も少なからずいると思います。
発達障害にかんする異聞をまとめて考えるとこのようになります。
後天的な環境の中で発達障害に類似、ないしは一部の似た状態を示すことがあることを承認してもいいのではないでしょうか。
それに相当する診断名として、第4の発達障害や軽度発達障害とは異なる状態名があってもいいのではないか。
例えば“マルトリートメント障害”です。⇒<マルトリートメント症候群>とされていると知りました!
それはMRIレベルの診断調査で裏づけられるかもしれません。
ひきこもりの当事者と接点を持つ人に新たな視点を与えるかもしれません。

友田明美:
http://www.futoko.info/zzmediawiki/%E5%8F%8B%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%BE%8E

睡眠薬は身体能力としての睡眠力を弱める?

睡眠薬、睡眠導入薬について、このところよく聞くことの感想を書きましょう。
一部の情報に基づくものとは思いますが、無視はできないと信じるからです。
いろいろな人から睡眠薬服用の話を聞きます。なかなか眠れない(寝付けない)、眠りが浅い…それで睡眠薬を服用しています。
様子を見ながら薬を減らし、最終的には睡眠薬を使わないという願望が多いです。
医師からもそういう主旨の説明を受けています。
しかし、私はそれを実現し睡眠薬を使わなくなった人を知りません(いるはずですが!)。
睡眠薬を使わなくなった人はいます。
その場合は(医師の意向を無視して)自分の意思で薬を飲まないと決めた人です。複数います。
服薬中断に伴うある種の身体症状が出ます。離脱症状といいます。
麻薬中毒者が麻薬をやめるときに見られる症状と同種だと思います。
その苦しい時期を過ぎて睡眠薬のない生活を取り戻しました。なかなかつらい時期です。
医師からは自分で勝手に薬を中断しないように勧められます。
こういうやり方を医師は勧めないし、危険であると忠告します。
私もこの手の相談を受けたことがあります。
私は服薬をやめるのに同意できませんが、それは服薬を続けるのがいいと思うからではありません。
私が服薬をやめるように勧めたことを根拠に離脱症状が出ても責任を負えないからです。

睡眠薬服用を続ける人から3年後、5年後に聞くと薬は減っていません。
当初の薬が効かなくなった、むしろ薬の量が増えている、より強い薬になった…こういうことが多いです。
薬の服薬を始めるスタートの方向や仕方が正しくないと思えます。
睡眠薬に代わり眠れる対処法はあるのでしょうか? 
不眠の原因は、生活(将来)の不安、緊張したストレスの強い生活などです。
それを回避・解消するのが不眠を解決する根本にあります。
そういう人生、生活全般に及ぶことはすぐには答えが出ません。
そこで、より個人的な条件による対処法が考えられています。
聞きかじった範囲の代表的なものを挙げてみます。ストレス解消に関係する気がします。
① 運動するというのがあります。
効果的な場合があります。からだを動かすという意味では仕事もそれに相当する場合があります。
からだが疲れても眠れないとなると運動だけに期待はできません。
② 食べ物はどうでしょうか。
カフェインを含むコーヒーが睡眠に有効とか逆に眠れなくなるということを聞きます。
食べ物が睡眠に関係するはずですが、食べ物全体についてはよくわかりません。
睡眠にはメラトニンが関係します。ある種の食べ物により体内に取り入れることは可能です。
それを身体化する、すなわち食べ物を身体能力としての睡眠力にするには、消化機能の健全性が備わり、消化機能以外の適切な運動も前提です。
③友人関係、特に緊張感なく心配事などを話せる相手の存在もあります。
個人的に話せる友人づくりも役立ちます。孤立感を減少させるのでしょう。
場合によっては最大の対応方法かもしれません。しかしこれは即物的にはできません。
④ 重要なのは将来の不安、職業や働けないというのも大きな不眠理由です。
こう考えていくと個人的(個体的)な条件に即した、手がけられる対処法には個体差が大きく、どういう方法がその人に最適かを決めにくくなります。
かりに決めたとしても多くは時間がかかり、途中で挫折しやすいものです。

これらはいずれも医療の範囲ではありません。
医療はシンプルな対処法として睡眠薬服用を提案します。
医療面で手を打った状態にするのです。
多くの場合、医師の対応方法には薬の種類選びと組み合わせ、薬の量、飲み方以外には方策もないのです。
薬の効果はすぐにでます。
しかしやがて効かなくなります。
効果を出すために薬の量を増やし、より強い薬に変える。私が聞いているのはこの循環状況です。
何かを見失っているのではないかと感じるのです。
睡眠薬服用に頼る睡眠とは、体に備わる自然に睡眠する能力(睡眠力?)を育てないのではないか。
逆に睡眠薬服用によって身体に備わる睡眠力を弱体・消失させてはいないか。
これが睡眠薬依存の正体ではないかと私は考え始めています。
そう主張したいところですが、証拠がありません。
多くの人は薬の服用に不安を感じていますが、それを裏付ける証拠があやふやです。
薬の服用の効果が見られない場合、薬の種類選びが正しくなかったのではないか、薬の量や薬の組み合わせが上手くなかったのではないか、飲み方が適切ではなかったのではないか、という対処の仕方に頭を巡らします。
薬の服用自体がよくないと感じながら医師との話ではそうなりません。
ほとんどの医師にとってはそういう選択はありません。
というよりは医師には薬をどうにかするしかないのです。
その結果、好んで睡眠薬に依存するつもりはないのに身体能力として睡眠力が弱くなります。
睡眠薬でカバーせざるをえなくなる。それを睡眠薬依存というのではないか。
さらには精神の安定性も大事でしょうが、そのあたりになると収まりがつきません。
しかし、医療はそれらの大事な分野には及びません。
例えば人間関係、家族状況、職業などが関係する領域です。
医療・医師に過大な役割と期待を負わせているだけです。
医療・医師のせいにしていても不眠は解消しないと心すべきでしょう。

*会報『ひきこもり周辺だより』9月号に掲載するときに加筆修正をしました。
加筆修正した文章に差し替えました。(9月4日)

コミュ障を自称する人からの電話連絡

1月に介護付き老人ホームを見学する機会があり、参加者を呼びかけるために多数に案内を送りました。
ひきこもり経験者、無業者を対象に働けそうな場所を探す機会にしませんかという趣旨です。
その送った1人から、半年が過ぎたところで電話連絡が入りました。
電話の内容はひきこもりに関する問い合わせでした。
電話をした時間は38分で、いろいろなことを聞かれ、答え、また質問をさせてもらいました。
相手は男性、アラフォー世代、無職です。
コミュ障を自称していましたが、ゆっくりと聞けば話せるわけです。
電話という会話手段もこの場合はよかったと思います。SAさんと呼びましょう。
SAさんがコミュ障を自称するのはこういうことです。
自分の感じたことをそのまま話してしまい、相手が嫌がることがよくある。
そういうことが重なって、どう話せばよいのかわからなくなってしまった。
それで自分ではコミュ障(コミュニケーション障害)と感じる。おおよそこういうことではないかと思います。
これまで関わった人に似たことを言う人はいました。
押し黙り型のコミュ障に対して、言い方まずい系のコミュ障とでもします。
SAさんからその次に出てきたテーマは、そういう自分と話していたらストレスを感じませんか、というものでした。
遠慮がちで他の人を優先する気持ちが並外れで面後臭くなる…その場合はたぶん面倒がストレスになることもありますが、SAさんの場合はそれには遠い状態です。
ですがSAさんはご自分の話し方、対面している状態では自分の存在そのものが相手にストレスを与えると考え、または予測しているのでしょう。
これまでの経験で自分の存在が相手にストレスを与えたと確認できることがあったのかもしれません。
私が出会ったひきこもり経験者にはこのタイプは少なからずいます。
そこに自分がいることで周囲の人に迷惑になっていると話す人です。
本人が思うほどそんな感じになったことはありませんし、むしろ意外な言葉を聞く感じでした。
そういうことを話さなければフツーにしておれたのに、そう話されるとこっちが居づらくなる感じです。
こういう雑談的なものが電話で38分になったのです。

さて、もう少し話を続けてみます。
ちょうどある要望がありました。
「ひきこもりと一緒にいてストレスはなかったのか」などをブログに書いてほしいというのです。
やや違った展開になるので、項を変えて「ひきこもりと一緒にいてストレスはなかったのか」をテーマに続きを書きましょう。

手伝いを頼み動きのなかでわかってもらう

「ほとんどの人が出来ているのにあなたはなぜできないの」と考える家族に、これこれの理由で出来づらいと説明し理解してもらうことは大変です。
自然に完璧を求める性格などと話しても、イメージできないのでしょう。
感覚が鋭いことはひきこもりになりやすい理由の1つですが、これもよく伝わりません。
発達障害の傾向があると話したり、自分の特色を説明して理解してもらおうと努力を続けている人もいます。
けれども上手くいかず「家族が理解しない・家族から理解されない」状況になっています。
私は家族からの相談に対しては、「わからないかもしれないが、わかろうとする気持ちで聞くのが大切です」とよく言います。
たぶん周辺にいる家族にとってはいちばん大事なことだと思います。
しかし、これは家族の側であり、本人の意図的な努力とは別です。
この状態を和らげるには、当事者としても工夫がいります。そのヒントになれば…。

家族に手伝ってもらえそうなことをお願いしてはどうでしょうか。
理解してもらうよりは自分が動きやすくなる条件づくりを助けてもらうのです。
あまりいい例とは言えませんが、こんなことがありました。
時間内に(または同時に)いろいろなことはできないので、何か一つを手伝ってもらいたいと頼みました。
そうしたら「食器洗いならできる」との返事です。
これ自体は本質的なことではありません。
自分の手で丁寧に食器洗いをしたくて時間をとってしまう、だからそれを見守っていてほしい、ということが本音に近いのです。
それでも「頭で理解されるのを待つより、動きを通して少しずつ分かってもらえる」方向に気を移します。
家族が理解するのは理屈からではなく、日常の動きを手伝う過程かもしれません。
動きのなかでどんな困難を抱えているのか少しずつわかるからです。

以上は、前に家族の相談を受けたときのことですが、あまり具体的に書けず、ピントがずれたようです。
参考にならないかな?

人の中にいられない人が難しくなる

「中高生の不登校でいちばんの問題はどうなりますか?」との問いに、カウンセラーのMさんが「人の中にいられないことじゃないかな」と即座にこたえました。
うん、これは私も納得できます。
学習塾のZさんを含む3人で、不登校をめぐる最近の状況を話している中でのことです。
よく考えてみるに中学生・高校生の不登校の様子を直接に聞く機会が少なくなっています。
以前に関わっていた人たちは大学生になった、大学で不登校気味だ、社会人になった…ということはよく出てくるのですが、中学生・高校生の現在はあまり聞かなくなりました。
中学生・高校生の不登校の生徒は確かにいるのですが、以前に比べて深刻さが下がっている感じがします。
もちろんこういうことは比較によって深刻さを計るものではありませんが。
不登校の様子を聞いたとしても聞いている私も「何とかなる」という感じが初めからするのです。
相談に来る家族が以前とは違っているのはそこです。
Zさんは、情報としていろんなことがわかるようになったし、社会の対応もできてきているからじゃないか、といいます。
それも確かで、以前はこんなことをしているのは自分だけじゃないか、うちの子だけじゃないか、という気持ちでいたと思います。
それがこの10年、20年のなかで変わってきたのです。
そうすると今の時点で中高生の不登校でいちばんの問題はないか、というのが冒頭の質問です。
不登校というだけではなく「人の中にいられない」状態であることが、将来にわたりマイナス要因として働きそうと思えるのです。
周囲の人の影響を受けやすいにしても、ともかくは同じ場にいられる状態であれば、徐々に力もつくしエネルギーも湧いてきます。
しかし、「人の中にいられない」状態では、そういうものもなかなか出てこないのではないか。
Mさんはそういう面を感じ指摘したのです。
言われてみると納得できます。
情報センターに通所しつづけるうちに(初めのうちは人がいない時間をねらっているように思えても)、対人関係のそれぞれのハードルをわずかずつ超えてきたように思います。
その時間は個人差があるのですが、その人なりのペースで少しずつ対人接触の経験を重ねてきたのです。
そういうのがないと人との接触を避けるひきこもり状態から、ほとんど浮上してこない感じはします。
私とは接点ができても対応として難しくなります。
これまでかかわった数人を思い出しながらこれは1つの判断材料になります。

ひきこもり対応への優先順位の低さとセルフネグレクト

自治体の生活困窮者窓口で対応するAさんと話しました。
生活困窮者自立支援法により自治体が正式にひきこもりに対応できる制度的な条件ができたのが2015年4月です。
Aさんの話では、それでもこの窓口における“ひきこもり”の優先順位は低いようです。
江戸川区の福祉の方から聞いたところでも相談件数の数%でしたからわかる気がします。
しかし、相談件数の少なさだけが理由ではありません。
受け付けた後の対応方法がわからず、多様な状況に対する方法が確立していないからです。
せいぜいどうすれば働けるようになるのかを考えるのですが、それが対応方法ならここまで時間は過ぎてこなかったでしょう。
居場所が大事ですがその相談窓口に居場所があるわけではなく、どこかを紹介するしかありません。
言いかえるとたらいまわしにされるのです。相談しにいく気力が萎えますね。
もう一つは、相談する方の“勢いの弱さ(?)”も予想できます。
相談の多くは親ですが、正当性を強く言う手持ちの材料がありません。
「私の育て方の問題が…」などの自分では背負えない事情もあります。
私はある新聞記事を出し、こういうのが続出しないと本気で動かないのかなと見せました。

Aさんとの話しの場に、Kさんが参加しました。
Kさんは60代後半のお母さんで息子のCさんは40代、定職はなく親が生活を経済的に支える状況です。
息子Cさんは広義のひきこもりといっていいでしょう。
その新聞記事は長いのですが、ここに引用します。

<82歳母と52歳娘、孤立の末に 札幌のアパートに2遺体 「8050問題」支援急務
母親と娘とみられる遺体が見つかったアパート居室の玄関には、立ち入り禁止のテープがはられていた=1月、札幌市中央区
いずれも低栄養、低体温症
80代の親と50代の子どもが身を寄せる世帯が社会から孤立してしまう「8050(はちまるごーまる)問題」―。
全国で表面化する中、札幌市内のアパートの一室でも1月、2人暮らしの母親(82)と娘(52)とみられる遺体が見つかった。娘は長年引きこもり状態だったという。
道警は母親が先に亡くなり、一人になった娘は誰にも気付かれずに衰弱死したとみている。専門家は「支援策を整えなければ同様の孤立死が増え続ける」と訴える。
高層マンションの建設ラッシュが続く札幌市中央区の住宅街の一角。
築40年の2階建てアパートの1階の部屋で2人の遺体は見つかった。道警の司法解剖の結果、2人の死因はいずれも低栄養状態による低体温症。母親は昨年12月中旬に、娘は年末にそれぞれ飢えと寒さで死亡したとみられる。
捜査関係者は「2人は都会の片隅で誰にも気付かれずに亡くなった。何とか救う方法はなかったのか」と漏らした。道警によると、1月6日午後、検針に来たガス業者が異変に気付き、別室の住民が室内に入って遺体を発見した。
ストーブには灯油が入っていたが、エラーと表示され停止していた。冷蔵庫は空で、床には菓子の空き袋や調味料が散乱していた。室内には現金9万円が残されていた。
親子は週に1回だけ近所の銭湯に通っていた。銭湯の女性店主(78)は昨年12月26日、アパート近くの自動販売機でスポーツドリンクを買う娘の姿を目撃した。
「ペットボトルを抱えて何度もしゃがみ込み、ふらふらしていた」
女性店主の息子が駆け寄った。一言も話さなかったが、アパートの前まで送った。
「もう少し手を差し伸べていれば…」。息子は今も悔やんでいる。
近所の住民によると、母親は夫と死別後の1990年ごろに娘とアパートに入居した。
当時、収入は年金だけで生活保護や福祉サービスは受けていなかった。
娘は高校卒業後、就職したものの、人間関係に悩んで退職し、引きこもり状態になったという。〔2018/3/5(月)北海道新聞〕>

Kさんは、いいました。
こういうのを見ると行き先を想像するので見たくない。テレビなんかはチャンネルを変えるといいます。
この記事をみると亡くなった80代の母と50代の娘は、何かの事件を起こしたわけではありません。
誰かが被害者になったわけでもありません。これらは報じられる他の場合でもかなり共通しています。
行政側もこれという落ち度は感じないかもしれません。それだけに深刻な背景事情をとらえらないのです。
Kさんは「こうなるのも最悪ではないかもしれません」という意味を口にしました。
心の奥にある本音の気がします。
Kさんが何を言わんとしたのかおわかりでしょうか
Kさんの息子Cさんには、「やがて援助はできなくなる」旨を伝えました。
息子さんは「わかっている」と答えながらかなり落ち込んでしまうといいます。
彼は「そうなったら死ぬしかない」と言ったこともあります。これも本音でしょう。
Kさんが心配するのは事件になるような行動をしてほしくはないことです。
それならば事件性のない記事のような死亡事件の方がまだましだと言ったのです。
これはセルフネグレクトにつながります。

そこで、Aさんと私が勧めたのが福祉窓口に相談に行くことです。
お母さんもすでに行きました。
以前にCさんは私と一緒に福祉の窓口に向かったのですが、直前でCさんの足が止まりました。
息子Cさん自身まだ決心がつかないことが大きいのですが、それだけではありません。
福祉として何ができるのかを期待できないし、むしろ負担を持たされて返されるのではないかと心配があるのです。
働ける自信はまったくないのに「働く方向でのレールがつくられる」相談しに行く意味はないからです。
私なりにはこうすればいいのではないかという方向は考えたつもりです。
これだけの経済大国にして、関心をよせる多くの人がいても動きは表面をなぜている程度です。
ある社会問題に対して政府関係者が「それで何人死んだんだ」と言っているような国なんですね。
「死者が続出しないと本気で取り組もうとしない」社会になっています。
愚痴ぽくなりましたので、時間をおいて書き直します。