ここ壱カレー店で「また間違ってください」と…

カレー専門のCoCo壱番屋平井店でのことです。
夏場になってからこの店によく行きます。
肉系でなく海産物系は? と探したら「エビにこみカレー」がありました。
いつも食べる量は半分、ハーフです。
これを何回か食べてきたのですが、先日伝票を見て「?」と思いました。
514円になっていたのですがよく思い返すと、483円のときと514円のときがあるようなのです。
店員に聞くと店長役が来ました。
特に注文がなければ“ポーク味”、メニューにはこれが書いてあります。
私は“ビーフ味”と注文しています。
“ビーフ味”のときは+30円になるようです。
ということは483円のときは+30円を見逃していたことになります。
メニュー表にもそれは書いてありません。
だから伝票を起こす店員も483円にしていたのでしょう。
+30円をしっかり覚えている店員のときは514円だったわけです。
私は納得して「これからも間違って483円でお願いします」というと店長は苦笑い。そうするしかないでしょう。

中野信子『サイコパス』を読む

中野信子『サイコパス』(文春新書、2016年)を読みました。
感想としては思ったほどの刺激的な内容ではありませんでした。
<松田武己の“サイコパス度”はどれくらいなのか>を見ようとしたところもあったのですが、低い自己評価になりました。
著者によるとそういう自己評価は当てにならないそうですが…。
サイコパスが犯罪と結びついて理解されてきた経過があるけれども、実はもっと幅のあるもののようです。
ざっと100人に1人ぐらいは該当する程度の理解が必要らしいです。
しかし。『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM5)にはサイコパスの記述はありません。
統一診断基準がないなかでの各種の研究の紹介です。
中野さんは科学者らしく慎重であり、研究された論文を紹介する形をとり、自分の確信したことを基礎に展開していません。そこは私的には評価できるのですが、逆に刺激が少ないのはそのためかもしれません。
たとえばマザー・テレサ。ある人の書かれたものを紹介する形でこう言っています。
「博愛主義者とは、特定少数の人間に対して深い愛情を築けないサイコパスなのかもしれません」(114ページ)
マザー・テレサがサイコパスと言うのではありません。
またこれでマザー・テレサの全体を語ったとは言えないのですが、納得できるところはありますね。
この本に書いてあることではないのですが、殺人を犯してバレなかった人がとても人情溢れる人助けをつづけた、という話を読んだことがあります。
罪滅ぼし、というところでしょうか。
懐疑的すぎて博愛精神に富む人全体を”怪しむ”ようにはなりたくはないですが、人間の奥行きは深いことを教えてくれます。

3色ボールペンが324円

いつでも筆記具を身につけている生活をしているのですが、電車で向かう途中にポケットにないと気づきました。
あちこちのポケットを探り、カバンをひっくり返し(そういうときのためにカバンには1本入れておくことにしていたのに!)…。
しかし、どうしても筆記具が必要になり、駅構内の売店でボールペンを買いました。
何と3色のもので324円です。筆記具にしては高い買い物になりました。
自宅には捨てるほど(? いやいや売るほど)筆記具はあります。
せっかく買った3色ボールペンは思いのほか書き心地はよくありません。
筆記具の書き心地の相性はかなり大事です。
その買った3色ボールペンは、いまは筆記具用の箱に刺さっていますが、果たして出番が回ってくることはあるかどうか。
余っているところに無駄な一本を足してしまったようです。
こういうのは値段以上に無駄なことをしたと思うのです。

まるでビジネスレターみたいな手紙

ある人にメールで手紙を書きました。
項目ごとに番号を振り(個条書き)、まるでビジネスレターみたいです。
私のやり方はずいぶん昔からそれに近いです。
20歳ごろ母に連絡の手紙と書いたのですが、個条書きでした。書くことは少なく手紙ではなくハガキです。
私だけでなく多くの男性はそうではないでしょうか。
手紙・はがきからメールに代わったぶん、男性の多くは(そして女性の一部も)助かっていると思います。
個条書きにするのは、伝える点を明確にするためです。
不登校情報センターを始めてからは、相談ごとに手紙やメールで返事をすることもあります。
その場合も個条書きに近く、項目毎に番号を振ることがあります。
読む側にとっては手紙ではなく、論文を受け取る気分かもしれません。
返事や回答を内容の連続する物語ではなく、何と何を答えたのかを明確にするためです。
手紙と論文の中間にあたるエッセイを書いているつもりですが、番号がついているとむずかしく感じるかもしれません。
でも番号がないとさらにわかりづらくなりませんか。

是枝裕和監督の『万引き家族』を見る

連日の暑さのなか、納涼を兼ねて映画館に行きました。
是枝裕和監督の『万引き家族』を見ることに。
先日、DくんとNさんが話していた映画談議に出ていたものです。
正直驚きました。
映画にうとい、というより映画業界にうとい私にとって、ちゃんと見ているんだと思いました。
カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した。
カンヌ国際映画祭が映画業界でどういう位置にあるか知りませんが、慧眼というのはこういうときに使うものだと思いました。
観客数がどうとか、興行収入がどうとかは周りのマスコミが騒いでいることかもしれないですね。
砂糖だけで出来ている甘いヒューマンドキュメント、言い方は悪いが子どもだましのロマンティックストリーは、足元にも及ばない衝撃です。
いちばん驚いたのはパルム・ドールの目の高さでしょうね。映画業界をみなおした気分です。

情報として集め、事典としてまとめる

6月28日「仕事を好きなことにした方法」を書きました。
その中に、2番目の仕事にしたのが編集者であり、最初に企画した本が大ヒットしたと書きました。
きょうIさんが来て「何という本ですか?」と聞かれたので答えました。
『ピノキオの手』です。
Amazonで調べたら、発行は1980年11月、古書で出ています。
サブタイトルは―9回の手術にたえてがんばるお母さん先生の手記― 。ずいぶん懐かしいです。
この本の企画は私の好みのスタイルによるものではありません。
著者の長谷弘子さんは大学時代の友人であり、その体験記です。
ひきこもりなどの当事者に体験記を書くように勧めているのは、この続きかもしれません。

では私にとっての好みの企画スタイルとは何か。
<情報として集める>と<事典としてまとめる>の2点になるみたいです。
話しながらはっきりしたように思います。
それなりに独特であり、特徴的な傾向になると思います。
全てを説明できるわけではなく、いや企画したことの半分も説明できないのかもしれません。
「仕事を好きなことにした方法」とは、情報として集め、事典としてまとめる。
それ以外のことは言葉にできるほどではないので、最大の特徴とするしかないでしょうね。

「ツートースト!」って落ち着かない

ファストフード店で店員同士が注文を確認しあっています。
「ツートースト!」だそうです。
やむをえないでしょうか。落ち着かない気分ですね。
「ツートーストズ!」とでも確認しようものなら、違和感というか変な気どりを感じて白ける気分になりそうですからね。
でも「トースト2枚!」とか「トースト2つ!」にしてもらいたいですね。
そうすれば安心できます。
英語を取り入れながら複数のときの表現を日本語式にしているおかしさはほかにもいろいろありますね。
何とかなりませんか?!

『少女まんがに描かれた母親像』と『ひきこもり国語辞典』を増刷

事情があり自作本の制作に週末の時間をとりました。
あゆみ書店発行の2冊、『少女まんがに描かれた母親像』と『ひきこもり国語辞典』を増刷中です。
月曜日までかかります。
版下は以前につくっています。コピー機を使いこれを両面印刷します。
印刷した紙を折り、ページをそろえて並べる。これが帳合です。
表紙をつけてホチキスで止め、製本テープをつける。これが製本です。

宮本常一は『日本庶民生活誌』でこういっています。
「ほとんど刃物を使用しない」軟質文化、「刃物を利用して制作する」硬質文化にわけ、「日本の民衆の家庭は軟質文化の工場であり、家庭はそういうものを制作することによって成り立っていた」。
前者は手芸品、後者は工芸品に代表されますが、分類方法は少し違うみたいです。
山田盛太郎の『日本資本主義分析』のなかにこういうのを見つけました。
Jammerhohlen(ヤンマーへーレン、惨苦の芽屋)=主に農業生産者の生計補充用副業。

現代でいえばSOHOが宮本常一や山田盛太郎の家内作業かもしれません。
私の自作本製作は、その規模も頻度もそのレベルではありません。
生計補充用にははるかに遠く気分転換の趣味です。収支が赤字でないのは奇跡でしょう。
読者の皆さんにも好きなことを続けることを勧めます。
ユーチューバーにならなくたって好きならやればいいのです。
あゆみ書店 http://ur0.link/KXnY

潜伏キリシタン関連の世界遺産の登録に思う

潜伏キリシタンに関係する長崎・熊本の施設等が世界遺産に登録されました。
昨日の朝日新聞を読んでいたところ、感動する記事がありました。
“信徒発見”です。
幕末の1850年代に長崎に天主堂が建てられ、そこにキリスト教信仰者が名乗り出たというものです。
250年の禁教時代を家族と地域の継続のなかで生き抜いたすごさです。
しかし頭の中で展開したのは別のことです。
アンネ・フランクの場合はどうなのか。ナチスの下でユダヤ人として発見され、処刑されました。
その前に思い浮かんだのはモザンビク独立宣言の初代大統領の言葉です。
独立のために闘ったモザンビク人が牢獄に入れられ処刑された。
大統領が独立宣言のなかでその名前を次つぎと“真の英雄”と紹介しました。
潜伏キリシタン、ナチスの元でのユダヤ人、独立闘争のための戦士…全部違うけれども公然と生活できない、活動できない条件におかれ、しかも生命が絡んでいる。
日本では治安維持法がありました。
私の義父・義母は“レッド・パージ”で職を失いました。
潜伏キリシタン(隠れキリシタン)はそれらの先行者でもあります。

仕事を好きなことにした方法

6月20日「ストレスを感じるばあいとは」の続き、「好きなことしかしてこなかった」を書きましょう。
わかりづらいかもしれませんが、このテーマで書いています。
1964年4月、私は高校を卒業後17歳8か月から職に就き、働き始めました。
初めの16年は医療事務、次の16年は編集者、その次は不登校情報センターで23年余り。
合計55年になります。
働くのは好きです。好きな仕事をしてきたから働けたともいえます。
しかし、その間に嫌なこともありました、したくないこともしたはずです。
でも大きな流れのなかでの短い、小さな逆流です。

最初の医療事務は自ら選んだものではありません。
大阪市の職員として職に就き、働き先に市立大学を希望しました。
4月から同じ大学の夜間部に入学したことが影響したかもしれませんがよく覚えていません。
大学を希望したのですが、その附属病院は想定していません。
しかし、嫌だとは思いませんでした。ここで10年働き、退職し上京しました。
大学病院の10年は長く、その間に何をテーマにしていたのかは全部を思い出せません。
医療保険制度を知る(これは仕事そのものです)、患者さんと話しながら社会状況を知る(大学病院は釜ヶ崎地域に近く、労働者街がありました)=労働災害のおじさんさん達からその職業の様子をよく聞きました。SMON病というのが社会問題になったときは内科を担当していて、医師からSMON病患者さんの様子を聞きました。
眼科担当のときがいちばん実際的で自分の目の状態を話しながら教わりました。医療事務にコピー機(ゼロックス)が導入された時期にはその使い方の工夫をテーマにしました。
以上は仕事のなかでの期間の短いテーマです。
仕事以外の場に学ぶ目標ができました。
大学には通学できず(仕事の性格上、始業時に間に合わない時期が繰り返された)、授業外で社会科学サークルに取り組み、あるころから必要があり英語の翻訳をつづけました。貴重な時間でした。
しかしこれらのテーマは全体としては散漫なもので、最初の10年は自分のテーマを仕事に持ち込むという点ではたいしたことはなかったと思います。
上京した直後に、機械製作会社の事務を1か月、室内のパーテイション販売会社の事務を1か月ぐらいしたことがあります。
テーマがみつからない、まだそういう意識が低く自然と浮かんでくるテーマがなかったと思います。
仕事が合わないと判断して短期間でやめました。
定着した職は医療事務のある診療所です。大学病院で始めた医療事務に落ち着きました。
前回にこう書きました。
<取り組んでいる仕事の中に自分なりの目標や楽しみを持ち込んだ。>
初めからそういうものを見つけられるわけはないし、そういう意識もなかったはずです。
しかし、仕事を続けるなかでテーマを感じたのです。
上京後に短期間に2つのやめた仕事を思い出したことで、逆に仕事を続けられた条件が見えてきたようです。
働き続けたのは小さな診療所です。
しばらくしてからカルテ管理の大改造に取り組みました。
カルテを探しづらい、重複もあります。
そこでカルテを患者個人の単位で一元化する必要性を感じました。
その診療所にあった全てのカルテを集め一元化しました。
小さな診療所とはその地域の人が来るところであり、住民多数の受診記録(情報)を把握する勢いであったかもしれません。
事務室を改造するときにはカルテ保管のために壁面全体をカルテ入れの場にするように提案し実現しました。
情報収集的な指向が表面化したみたいです。
振り返るに事務的な仕事といっても、人を対象にしていることが何らかのテーマを思い浮かべる前提になると思います。

次の仕事は教育関係の編集者です。
結婚相手の父親が出版社の社長です。実は結婚したときは、定職がなくフリーの医療事務というバイトをしていました。
1年後ぐらいに義父から誘われて出版社に入りました。
出版はほとんど知らない世界です。見よう見まねですが、おもしろいと思いました。
大学時代の友人にガンになり片腕を失くした人がいました。結婚して子どもがいたのですが、その体験記を書いてもらいました。出版したところ、これが大ヒット企画です(映画にもなりました)。
最終発行部数は聞いていないのですが、10万部は行ったと思います。
ただこれはまぐれ当たり、ビギナーズラックでしょう。しかも私の得意とする手段による企画とは言えません。
その後、月刊教育誌の編集担当になりました。たぶん企画するのが好きで、編集との相性はよかったです。
この時期に、子ども時代から習性の情報収集的な方法を少しずつ取り入れました。
現在に続く、不登校関係の情報本の企画はこの時期の後半に始まりました。
情報収集的な方法と事典づくり傾向で企画したものがかなり多いと思います。
事典という体裁で本になったのは『中学生・高校生のための仕事ガイド』という事典です。
1年半ぐらいは原稿を書き続けました。
情報収集型の出版企画もタイプが少しずつ違う方法で試してみました。これは貴重な経験になっています。
出版社時代に企画したことはそのまま不登校情報センターにつながりました。
その後、ネット上での情報収集と情報提供に転換し、不登校情報センターのサイト制作に継続しています。
医療事務にしても編集にしても与えられたことをこなすだけなら、おもしろく感じられらなかったはずです。
始めてしばらくしたところで、自分なりのテーマを感じる。
やがて企画という形にし、与えられた仕事を自分のテーマに置き換えて追及する。
それに情報収集という方法も取り入れています。
こうすると仕事自体が好きなことになります。
これが仕事を含め私が物事を継続してきた背景理由です。

質問には「ひきこもりと一緒にいることは「好きなこと」だったのか」というのもありました。
不登校情報センターの活動の一部でもありますから、次回はそれに答えましょう。