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軽井沢風越学園

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軽井沢風越学園

種類・内容
所在地 389-0113 北佐久郡軽井沢町大字発地1278-16
TEL 0267-31-5581

いじめや不登校の元凶:同質性を求める学校システムを問い直す
苫野 一徳 いじめや落ちこぼれで、多くの子どもたちが学校という場所に息苦しさを感じている。
その最大の要因は同質性を求める教育。
「個」の多様性を生かす教育の構造転換を起こすよう筆者は主張する。
増え続けるいじめや不登校
日本の教育システムが、危機的状況に直面している。
例えば、2019年に行われた文部科学省の調査で、小・中・高等学校および特別支援学校におけるいじめの認知件数は54万3933件で、前年度に比べ31%も増加していることが明らかになった。
不登校や暴力行為、自殺なども増加傾向にあるという。
同年のNHKの調査でも、不登校の11万人に加え、自分のクラス以外の教室で過ごす別室登校や、一部の時間だけ在校する部分登校など「不登校傾向」にある中学生が33万人もおり、合計すると44万人に達することが分かった。
中学生の8人に1人が「通常の学校生活を送っていない」という、極めて深刻な事態である。
なぜ、不登校および不登校傾向になるのか? その理由として、多い順に以下が挙げられている。
「クラス全体の空気がイヤ」(44%)
「学校の勉強についての悩み」(36%)
「友人関係をめぐる問題」(29%)
「先生との関係についての悩み」(23%)
「いじめを受けた」(21%)
「決まりや校則になじめない」(21%)
理由が一つではなく、複合的なのも昨今の不登校の特徴である。
この複合性ゆえに、不登校の問題は、その本質も解決方法も、今日、非常に分かりにくくなっている。
ベルトコンベヤー式システムの弊害
しかし、問題の本質は実は極めてシンプルである。
私たちが長らく当たり前だと思ってきた学校の慣習的システムが、もはや限界を迎えているのだ。
すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、教科ごとの出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムである。
こうした工場のベルトコンベヤーのような教育システムは、19世紀にイングランドで“発明”され、やがて日本を含め世界各地に広がったものである。
時あたかも、大量生産型の産業主義華やかなりし時代。
教育もまた、文字通り大量生産型のシステムを採用することによって、国民の教育レベルを一気に向上させることができると考えられたのだ。
そしてそれは、ある意味では確かに奏功したと言っていい。
しかし今では、このシステムこそが、学校におけるさまざまな問題を引き起こす根本的な要因となっている。
例えば、いわゆる「落ちこぼれ」の問題。
「みんなで同じことを、同じペースで」勉強していると、1度つまずくと授業内容が分からなくなり、その先クラスメートに付いていけなくなるといったことが起こってしまう。
その結果、子どもたちは学校に行くのが苦痛になる。
その逆のパターンもある。「吹きこぼれ」と呼ばれる問題だ。
学習内容をすでに十分理解しているにもかかわらず、「みんなと同じ」が求められるため先へ進むことが許されない。
その結果、授業に興味を失い、学校嫌いになってしまうこともある。
落ちこぼれや吹きこぼれは、子どもたち一人ひとりの学力の問題というよりも、現代の教育システムによって生み出される構造的な問題なのだ。
同年齢からなる同質性の高い教室空間は、同調圧力を高め、空気を読み合う息苦しい雰囲気を生み出してしまう傾向がある。
それがいじめの温床になることも少なくない。
学年学級制という、この今では当たり前のように考えられているシステムも、元をたどれば、子どもたちをベルトコンベヤー式の教育に最適化させるために19世紀に発明されたものである。
多様化する子どもたちに対応できない教育現場
学校システムが今なお同質性を前提として運営されているのに対して、現在、教室の中にいる子どもたちは決して一様ではない。
例えば今日、7人に1人の子どもが貧困状態にある。
この問題が学力格差と密接に関係していることは、今では広く知られていることだろう。
経済格差の問題とは別に、発達障害の子どもたちの数も近年増加傾向にあることが知られている。
少し古いデータだが、2012年の文科省の調査によると、発達障害の可能性のある小中学生は全体の6.5%に上り、1クラスにつき2~3人の割合とされている。
つまりクラスの中には、経済的にも学力的にも特性的にも、極めて多様な子どもたちが存在しているのである。
本来であれば、学校はこうした子どもたちの多様性に十分に応えられるシステムへと転換していかなければならない。
しかし少なくない学校は今、むしろこれまで以上に画一的な環境を作り上げてしまっているように見える。
例えば、細かなルール。むろん、かつても厳しい校則はたくさんあった。
しかし今日では、それが極めて細分化しているのが特徴だ。
「ポニーテール禁止」「うなじを見せてはならない」「下着は白に限定」「ソックスの長さは何センチ」「スカート丈は膝下何センチ」「持ってきてよい持ち物はこれこれに限定」「暑くても顔をあおいではいけない」「マフラー禁止」‥‥。
茶髪の生徒には「地毛証明」を提出させるという人権侵害さえ、多くの学校ではいまだにまかり通っている始末である。
「学習規律」の名の下に、授業の受け方まで細かく決めている学校も多い。
持ってきてよい筆記具や、それらを机のどの場所に置くかまで決めていることもある。
ノートの取り方、手の挙げ方、「話型」と呼ばれる発言の仕方まで、事細かに決められることもある。
このように細かく管理されているのは、子どもたちだけではない。
先生もまた、例えば「授業スタンダード」の名の下に、学校や教育委員会から全員が同じような型で授業をするように求められているケースも多い。
今日の学校では、子どもたちも先生も、「みんな同じ」であることがますます求められているのだ。
不登校の増加も、むべなるかなである。
その背景にはさまざまな理由があるが、そもそも、「みんなで同じことを、同じペースで」のシステムの中では、一人ひとりの多様性に十分に対応することが困難であるという現実がある。
さらに、世界一と言われる教師の多忙さのために、多様な子どもたちを同質性の中に無理にでも押し込んでしまわなければ現場が回らないという実情もある。
もっとも、実はそのことが、かえって教師の負担を重くするという悪循環に陥らせてしまってもいるのだが。
クラスの全員を、細かな校則や「スタンダード」にいちいち従わせなければならない労力を考えてみていただきたい。
公教育の構造転換を
その一方で、これらの問題を克服すべく、今多くの教育関係者が全国各地で「公教育の構造転換」を目指して動いていることもまた、ぜひ知っていただきたい。
同質性の高い教育システムからの転換を目指すこうした取り組みは、国、自治体、学校、民間など、それぞれのレベルで確実に広がりつつある
。私自身も、幼小中が混ざりながら学び合う「軽井沢風越学園」(2020年4月開校)の設立・運営に、共同発起人として携わっている。
このような動きを進めるにあたっての一つのビジョンを、私は「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合へ」と呼んでいる。
「みんなで同じことを、同じペースで」ではなく、「ゆるやかな協同性」に支えられた「個の学び」が尊重される学びへと転換しようというものだ。
「学びの個別化」が実現されれば、子どもたちは、必要に応じて人の力を借りながら、また人に力を貸しながら、自分に合ったペースで学びを進めることができる。
その際、同質性の高い学級を、異年齢で構成されたコミュニティーへと再編成するのも一つだ。
幼小中高などが、校種を越えてもっと混ざって学び合う機会を作るのもいい。
多様性を同質性の中に押し込むのではなく、むしろ多様性を包摂し、認め合い、生かし合える環境を整えるのだ。
異学年の学び合いの光景を見たことのある人は、高学年の児童たちがいつも以上に頼もしい顔をしていることに気づくはずだ。
その一方で、低学年の子どもたちは、お兄さんお姉さんから優しく教えてもらえるという安心感を持つことができる。
学校は、多様性があるからこそ、互いにもっと助け合える環境になり得るはずなのだ。
カリキュラムも、出来合いの答えばかりを勉強するのではなく、いわゆる探究型の学びを中核にする。
ただ言われたことを言われた通りに勉強するのではない。
自分たちなりの問いを立て、自分たちなりの仕方で、自分たちなりの答えにたどり着く、そんな本気になって没頭できる数々の「プロジェクト」を学びの中核にするのだ。
異年齢や、場合によっては異世代の人たちとチームを組んで遂行してもいい。
学びの意義を、子どもたちは今よりずっと実感することができるようになるはずだ。
「公教育の構造転換」は、確実に起こるし、起こしていく必要がある。
そのビジョンとロードマップを、学校関係者のみならず、市民レベルの対話を通して描き合っていきたいと思う。
今回の新型コロナウイルス危機に際して、学校教育はその在り方を抜本的に見直すことを余儀なくされている。
現場は今、混乱のただ中にあるが、これを機に、「公教育の構造転換」に向けての議論がさらに深まることを期待したい。
【Profile】苫野 一徳 TOMANO Ittoku
哲学者・教育学者。熊本大学教育学部准教授。軽井沢風越学園理事。
早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。
著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社、2013年)、『教育の力』(講談社現代新書、2014年)、『はじめての哲学的思考』(筑摩書房、2017年)、『「学校」をつくり直す』(河出新書、2019年)、『愛』(講談社現代新書、2019年)など。
〔2020年4/22(水) nippon.com〕

学年とクラスをなくせば不登校は激減する
なぜ子どもは不登校になるのか。その原因のひとつは、強制的に同年齢の集団をつくる「学年」や「クラス」にある。
熊本大学教育学部の苫野一徳准教授は「同年齢の集団をつくるのは学校だけ。
社会と同じく年齢が“ごちゃまぜ”の環境なら、不登校も減るはずだ」という――。
※本稿は、苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)の一部を再編集したものです。
■学校を「ごちゃまぜのラーニングセンター」にしたい
わたしは学校を、もっともっと多様性が混ざり合った、いわば“ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていくべきだと考えています。
そもそも市民社会とは、生まれも育ちもモラルも価値観も国籍も宗教も異なった、きわめて多様な人びとからなる社会です。
だから学校もまた、本来であれば、できるだけ多様な人たちが出会い、知り合い、多様性を「相互承認」する機会をもっと豊かに整える必要があるはずなのです。
でも、今の多くの学校は、ある意味ではきわめて同質性の高い空間です。
同じ学年の子どもたちだけからなる学級集団を、みなさんは不思議に思ったことはないでしょうか?  
そんな同年齢集団は、学校のほかにはないんじゃないかと思います。
「自由の相互承認」は、わたしたちがまさに多様な人たちと出会い、知り合うことから始まります。
知り合うことがなければ、分かり合うことも、そして認め合うことも当然できないからです。
だから学校も、本来であれば、年齢や世代や障害のあるなしや国籍などを超えて、もっともっと多様な人たちが行き交う場にしていく必要があるはずなのです。
■なぜ学校には「学年」「学級」があるのか
でも、学校は長い間それができませんでした。
というのも、近代の学校は、大量の子どもたちに一気にさまざまな知識技能を学ばせる必要があったからです。
そのため、学年学級制を採用し、「みんなに同じことを、同じペースで、同じようなやり方で学ばせる」、いわば大量生産型・ベルトコンベヤー式の教育を続けてきたのです。
多様な子どもたちが教室にいれば、画一的なカリキュラムを一斉に教えることができなくなってしまうからです。
こうして、学年が分けられ、小学生と中学生が分けられ、中学生と高校生が分けられることになりました。
障害のあるなしでも分けられることになりました。
学校は、かなり同質性の高い子どもたちからなる集団になったのです。
改めて考えてみると、今、障害を持った多くの人と日常的に交流している中学生が、一体どれだけいるでしょうか。
幼児としょっちゅう遊んでいる高校生が、一体どれだけいるでしょうか。
現代の社会では、子どもと日常的に交流した経験のない若者が、その後もほとんど子どもと関わることなく親になることだってあるのです。
いや、むしろそれが一般的です。
わたしたちは、いつしか激しく分断された社会を生きているのです。
■同じ年齢の集団は「同調圧力」が働きやすい
同年齢集団は、どうしても同調圧力が働きやすく、異質な存在を排除しようとする傾向を生み出してしまうものです。
その結果、子どもたちは人と違うことを恐れ、空気を読み合うことをいくらか強いられるようになります。
“人と違う”がゆえに学校になじめず、ついには不登校になってしまった子どもたちと、わたしはたくさん出会ってきました。
でも彼らの多くは、学校を一歩出ると、実はとても生き生きとできるものです。
実はわたしのゼミにも、不登校の中学生や高校生などがよく参加しています。
彼女たちは、大学生に引けを取らないくらい、議論に対等に、そして楽しそうに参加しています。
コミュニティが同質であればあるほど、わたしたちは息苦しくなるものです。
でも、もし多様性が担保されていたならば、そしてその多様性を必要に応じて行ったり来たりできたなら、
自分がより生き生きできる人間関係を見つけることも容易になるに違いないのです。
■学校をさまざまな人が学ぶ「複合施設化」する
そんなわけで、わたしが思い描いている未来の学校の姿は、幼児から小・中学生、高校生、大学生、地域の人やお年寄り、障害者や外国人まで、
とにかく多様な人が当たり前のように集い合う、“多様性がごちゃまぜのラーニングセンター”です。
学校の複合施設化と言ってもいいでしょう。
学校を、子どもたち“だけ”が学ぶ場ではなく、さまざまな人たちが集い学び合う場にしていくのです。
そうして、多様な人たちが、必要に応じて、同質性や多様性を行ったり来たりできる環境をつくるのです。
学校は、なぜ子どもたち“だけ”が学ぶ場でなければならないのでしょう?
せっかくの学習施設です。必要に応じて多様な人が集い学び合う、相互刺激の場にしてみてはどうでしょう?
  そんなことできるわけがない、と思われるかもしれません。
確かに、壁はいくつもあるでしょう。セキュリティの問題は、特に考えなければならない問題です。
でもわたしは、いくつもの理由から、これは20~30年後の未来にはきっと実現する、少なくとも実現させるべき学校の姿だと確信しています。
■地域の人が参加することを文科省は奨励している
理由は大きく二つあります。
一つ目の理由は、前にも言ったように、「みんなで同じことを、同じペースで」の学びが、今や時代に合わなくなっていることに、多くの人が気づいていることです。
カリキュラムは、今後「探究(プロジェクト)」が中心に確実になっていきます。
とすれば、その探究が異年齢チームで行われることも十分ありうるでしょう。
小学生と中学生と高齢者による、地域の課題解決プロジェクトチームが組まれることだってあるかもしれません。
学校は、今よりもっともっと、多様性を自然に包摂できる空間になっていけるはずなのです。
先述したように、学習指導要領は「社会に開かれた教育課程」を謳っています。
地域の人たちが学校教育にもっと参画することを、文科省は大いに奨励しているのです。
学校の中に、もっと多様性や流動性を。
同質性の高い息苦しい空間を、もっと風通しのいいものにしていきたいものだと思います。
■「1年生と2年生が一緒に学ぶ」学級が増えている
学校が“ごちゃまぜのラーニングセンター”になっていくだろうもう一つの理由は、特に地方で進んでいる、
少子化や過疎化に伴う小規模校や学校統廃合の問題です。
今、学校統廃合は加速度的に進んでおり、中には何十キロものバス通学をしている子どもたちもいます。
現代の学校教育における、最大の問題の一つです。
でもわたしは、まさにこの現状こそが、学校を否応なく“ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていく大きなきっかけになるのではないかと考えています。
小規模校について言えば、今、全国で複式学級が急速に増加しています。
1年生と2年生など、異年齢からなる学級のことです。
でもこれは、見方を変えれば、異年齢という多様性の“ごちゃまぜ”がすでに実現した環境だと言うこともできます。
複式学級では、同じ教室内で、異学年の子どもたちを二つに分けて一斉授業をする光景も時折見られます。
でもそれはあまりにもったいないことです。ぜひ、これをチャンスに、学びの「個別化」と「協同化」の融合へと舵を切っていきたいものだと思います。
異年齢という多様性を活かした、“ゆるやかな協同性”に支えられた個の学びを実現するのです
(「個別化」と「協同化」の融合、より正確には、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」とわたしが呼んでいるこれからの学びのあり方については、拙著『教育の力』および『「学校」をつくり直す』をご参照いただければ幸いです)。
そして当然、「プロジェクト」は、時と場合に応じて異年齢からなるプロジェクトチームによって進めることが可能です。
小規模校は、多様性が自然な形で混ざり合う条件がすでに整っているのです。
■「大人が学ぶ姿」は子どもたちの刺激になる
次に、学校統廃合の問題について。
これもまた、わたしは学校を”ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていくための大きなきっかけにすることができると考えています。
せっかくの学校を、統廃合してつぶしてしまうのではなく、学びの複合型施設へとリバイバルするのです。
そのことによって、学校を子どもたちだけが学ぶ場所ではなく、地域の人、親、学生、幼児など、さまざまな人が集い学び合う、
“ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていくのです。
先生だって、学校を自分の学びの場として、子どもたちにその姿を大いに見せてあげてほしいと思います。
たとえば、国内外の最新の教育事情を学ぶためのプロジェクトチームなんかをつくって、学校で大いに学び合っていただきたいと思います。
先生は、子どもたちの「共同探究者」「探究支援者」であると同時に、自らがまさに「探究者」であり続けるのです。
大人が学ぶ姿を見ることは、子どもたちにとって大きな刺激になるはずです。
子どもたちや保護者の多くは、先生が研修などで常に学び続けていることをあまり知りません。
だったらなおさら、子どもたちの目に触れないところで研修を行うのではなく、
むしろ子どもたちがプロジェクトに勤しむその隣で、先生たちもプロジェクトに打ち込んでいるなんていう姿があっても素敵じゃないかとわたしは思います
(もちろん、学校では子どもたちの「探究支援者」であることが第一ですが)。
学校は地域づくりの要です。
なくなると、地域住民をつなぎ合わせていた力が弱まり、町の活気も失われてしまいます。
■軽井沢に「幼少中」が混ざり合う学校をつくる
だったら、学校を今よりもっと多様な人たちの学びの空間にしてしまってはどうか。わたしはそう考えています。
2020年に仲間と共に開校を予定している幼小中「混在」校、軽井沢風越学園は、文字通り、幼小中が混ざり合う学校として構想しています。
「自由」と「自由の相互承認」の実質化を学校づくりの原理とし、「同じから違うへ」と「分けるから混ぜるへ」をコンセプトとした学校です。
それは文字通り、“ごちゃまぜのラーニングセンター”になるでしょう。 
幼小中の子どもたちだけでなく、保護者や地域の人たちも、それぞれの関心や必要に応じてこの学校に関わり学び合う、そんな学校にしたいと考えています。
軽井沢と言うと、お金持ちの別荘地のイメージがありますので、時々裕福な家庭の子どもたちのための私立学校と誤解されてしまうのですが、
わたしたちが目指しているのはそのような学校ではありません。
あくまでも、地元の子どもたちのための「地域と共にある学校」です。寮などもつくりません。
ほんとうは公立学校をつくりたかったのですが、義務教育段階においては公設民営の公立学校の設置が法律で認められていないため、ひとまず私立学校の形を取りました。
でも、経済的な理由で入学できないような子どもがいないよう、今さまざまな方策を練っているところです。
■公教育制度は「150年程度」の歴史しかない
とまれ、来るべき市民教育の本質は、単に道徳教育や市民教育の“授業”をするだけでなく、
学校それ自体を、多様な人たちが知り合い、交流し、そして「相互承認」の感度を育み合っていく場としてつくっていくことにあるとわたしは考えています。
繰り返しますが、これは決して突飛なアイデアではありません。
今の常識に、あまりとらわれないようにしたいと思います。
わたしたちが今知っている学校の姿は、歴史的、また世界的に見てもきわめてローカルなものです。
そもそも公教育制度自体が、整備されてからせいぜい150年の歴史しかないものなのです。
時代と共にその姿が大きく変わっていくのは、ある意味で当然のことです。
上に述べたことは、何十年後かの、ごく一般的な学校の姿になっているかもしれません。
いや、そのような姿へと、わたしたちは学校を向かわせていく必要がある。
わたしはそう考えています。
苫野 一徳(とまの・いっとく)熊本大学教育学部准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。
主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。
幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。
熊本大学教育学部准教授 苫野 一徳 写真=iStock.com
〔2019年7/9(火) プレジデントオンライン〕

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