●文通番号18-11  個人と集団

オーパーツ [福島県いわき市 男 39歳]

 現在の教育や子育ての方向性の問題で、「自立と貢献」や「独立と共存」といった、自分の個性を育みながら同時に他人や社会ともうまく調和するようにという意見をよくきく。

 私自身も自分のアイデンティティーはだいぶ育ってきたので、自己洞察とか他人の行動心理の分析想像などはよくわかるようになってきたと思う。

 しかし、じゃあそういう他人と関われるかというと、これがまるでダメなのである。他人の未熟さで何をされるのかわからないという怖さがあり、ミーティングやジムや電車など、多くの人が集う場に入ると、とたんに身の置き所がなくなり緊張してくる。いわゆる「居場所のなさ」の問題である。

 テレビを見ていても、大家族スペシャルとかホームドラマとか、どれも各々が自分を出しつつ、家庭や職場の中で自分の居場所を必死で獲得しようとしている様がうかがえる。「大家族」とかは、あのぐちゃぐちゃの人間関係の中で、キャッキャッできる強さはいったい何なのだろうと素直に感心する。

 どうやら心理学でよく使われる「アイデンティティーの確立」と「居場所感」が、家庭や社会の中での人間関係を安定させる二大要素といえそうである。

 いじめの問題でも、もし誰か嫌な奴がいたら1対1でやりあえばいいのに、いじめる側はどうして徒党を組みたがるのだろうか?たぶん表面的にしかつきあえない人たちが、誰かを仲間はずれにすることで自分たちの関係の安定性を図ろうとする、村八分的ゆがんだ居場所の獲得を無意識でやっているからだろう。

 そういう未熟な人たちは誰か一人そういう対象がいればそれが誰でもいいわけであるから、もし孤立した人を助けておはちが自分に回ってきたのではたまったもんじゃないと、周りの人が傍観者になるのもわかる。

 そのいじめ合いの関係性から距離を置きたいという心理だと思う。学校のいじめは単にいじめ合うその人たちの問題ではなく、未熟な人たちが1つのクラスにまとめられることによる、どうしようもないひずみの表れなのかもしれない(たぶん上に立つ先生の対応でそのひずみは大きくも小さくもなるだろうが)。

 同時にいじめられる側にも問題があることを、集団を恐れる自分の体験を通してまた見えてきた。自分も去年やっと誰かを標的にしたい思いをのりこえたと思ったら、また今年大きな問題が浮上した。

 職場の中で「つるんでいる」人たちを見ると無性に腹が立ってくるのである。ランチメイト症候群とかで誰かとくっついていないと不安な人たちが今や多いそうだが、前述のようにその人たちの関係安定性のために、自分が孤立阻害され犠牲にされそうですごく嫌なのである。

 これもまたたぶん幼い時の母親との関係のキズだろうと思い、いったいどういうことなのか探ったが、しばらくは全然わからなかった。

 そして最近になってわかってきたことは、今回は誰かを標的にしたいのではなく、集団から自分が標的にされるのではないかという恐怖を、幼い頃からずっと持ち続けていたということだった。

 そしてその恐怖の原因にもようやく気がついた。前回書いたように、私か生まれた頃、母親は社宅の中での上司の奥さんたちとの狭い人間関係で疲れはて(たぶん標的にされた)、げっそりやせ細っていったと父親も言っている。

 父親としてもそういう母親を何とかしなければと思い、新築の家を建てることを決めたそうである。そういう動機で家を建てるというくらい、母親の状況は深刻だったと思うのだが、家が建つまでの何年間は社宅に住み続けないといけない。

 その間の母親の精神救済、家庭安定、父親のフォローとして幼なかった私か先の村八分的犠牲を負ったと考えると、集団に対する自分の恐怖心とよく一致する。

 父親もまた養育歴に問題があり、そういう関係性でしか母親をフォローできなかったことは理解できなくもないが、当時の自分の置かれた状況を想像すると、あまりにも苛酷で涙が出そうになる。自分に対する精神的な親のフォローというものがなきに等しかった。

 かくして私は自分を殺して「いい子」になりすまし、親の敷いたレールにのることで居場所を与えられ、何とか生きのびることができた。つまりそれは地獄の中の救いの一本道であり、そこからの挫折イコール地獄への逆戻り、つまり「ひきこもり」行為におよんだというのが自分の半生の総括である。その集団の一員ということで父親もまた許せない。

 このように誰かを標的にしたい思い(アイデンティティーのトラウマ)と、集団から標的にされる恐怖心(居場所のトラウマ)がからみあって、いじめが生じていると理解できる。仲間はずれにされるより、嫌な思いをしても、その集団の一員でいたいという思いや、ちょっとしたからかいや注意で「キレる」という現象も何となくわかってくる。「キレる」の根底にはやはり注意され集団から標的にされることに対する恐怖があると思う。

 そもそも標的を作るということの根底には、母親からのトラウマを通して人間全体への「絶望」の壁が根深くびっしりとはられている。その壁はそこに閉じこめた怨念を誰かにぶつけて背負わせない限りこわせないことを実感した(家庭内暴力の心理か?)。私の場合もキリストにぶつけてその壁がこわれる時、「もう人間も集団もホトホト嫌だ」という何ともやりきれない思いを通って、やっと光が見えた。

 何かそんなにホトホト嫌だったのか?アイデンティティーのトラウマは、母親がまたその父親から受けたつらい過去の怨念を自分にぶつけてきたという、親子連鎖のキズだったと思う。

 居場所の方は社宅のひずみが母親を通して自分にのしかかったというキズだったと思う。

 日本の歴史のゆがみと高度成長という地域的なゆがみのクロスする時代に置かれていたがゆえに、アイデンティティーも居場所もない、地獄のような状況で生きなければならなかったのがわれわれの世代ということか?

 思春期において、自分がどう生きるかは個人の問題であり(親的自分)、学校で何を教えるかは生きる手段の問題(大人的自分)だろうと思う。

 ただ幼児期に、その基礎となるアイデンティティーと居場所感を獲得して、人間的自分を持てるかどうかは、本人の努力以前の人類や社会の共通問題ではないのか? 子どもとしての自分を獲得しない限り、親的自分(相手への思いやりや自己責任)は生まれない。それは犯罪者の例を見ても自己体験的にもそう思う。

 自意識の有無は本人にもまわりにも非常にわかりづらいが、不幸にも自分を獲得できなかった人がどうやって生きていけばいいのか、その処方箋を考えることは、学力低下や犯罪問題もおそらくからんでくる。難解かつ重要なテーマになってくるだろう。

 生きる力や考える力が学校の教育で生世代ということか?

 思春期において、自分がどう生きるかは個人の問題であり(親的自分)、学校で何を教えるかは生きる手段の問題(大人的自分)だろうと思う。

 ただ幼児期に、その基礎となるアイデンティティーと居場所感を獲得して、人間的自分を持てるかどうかは、本人の努力以前の人類や社会の共通問題ではないのか? 子どもとしての自分を獲得しない限り、親的自分(相手への思いやりや自己責任)は生まれない。それは犯罪者の例を見ても自己体験的にもそう思う。

 自意識の有無は本人にもまわりにも非常にわかりづらいが、不幸にも自分を獲得できなかった人がどうやって生きていけばいいのか、その処方箋を考えることは、学力低下や犯罪問題もおそらくからんでくる。難解かつ重要なテーマになってくるだろう。

 生きる力や考える力が学校の教育で生まれるとはどうしても思えないし、学力の低下もゆとり教育の弊害なのか意欲低下なのか、つまり人の内側と外からの刺激の関係性の問題であり、シャッターをおろしている人に外からの刺激は伝わらない。そしてその時にただ自主性だけでいいのか強制力が必要なのか、そういう複雑な問題をはらんでいる。まれるとはどうしても思えないし、学力の低下もゆとり教育の弊害なのか意欲低下なのか、つまり人の内側と外からの刺激の関係性の問題であり、シャッターをおろしている人に外からの刺激は伝わらない。そしてその時にただ自主性だけでいいのか強制力が必要なのか、そういう複雑な問題をはらんでいる。

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