人からコンクリートへ: 清水大樹(元ひきこもり当事者)
これだ、ここしかない! そう思ったひきこもり支援関係の企業の面接に落ちてからまだ二週間も経っていない。あの時はもうこの世の終わりだ、今までの自分の人生は何だったのかと死にそうになっていた。いや、死ぬ元気もなかった。そこから一転、今では仕事も決まり、住む家もほぼ決まり、不安は言い出したらキリがないが、まずまずの順境にある。
落とされた面接で、「あなたの強みは何ですか?」と聞かれた時、わたしはこう答えた。「当事者と常に対等の立場で接することができることです」と。それが支援者と当事者の関係としてあるべき姿だと思っている。人が勇気を、エネルギーを奮い起こされることがあるとすればそれはどんな時か。信頼し、尊敬できる人の悩み苦しむ姿、悩みながらも前へ進もうとみっともなくあがき続ける姿を見た時ではないだろうか。それをこそ見せるべきなのだ。ただ道を示せば良いというものではない。その道を歩む生の姿を見せるのだ。そこには恥ずかしくて他人には普通見せたくないような姿が多分に含まれる。「苦しいのは皆同じだよ」などという月並みな言葉では意味がない。いや、むしろ逆効果ですらあるかもしれない。私がその言葉をかけられたとしたら、「私と同じように苦しいのに、なぜ私は歩みを止め、なぜ世の中の大半の人々は歩き続けるのか?私の頭がおかしいからか?」と傷付くだろう。
「苦しいのは皆同じ」、それは確かに真理ではあるが、それをそのまま言葉にしてはいけないのだ。たとえば家族愛がテーマの映画があったとして、そこでそのまま台詞として「家族って大事だよね」というようなことを言ってしまってはナンセンスだ。そんな三流脚本では人の心は動かない。その言葉は直接使わず、いかに観る人にそう思ってもらうかが脚本や演出の腕の見せ所だろう。それと同様に、「苦しいのは皆同じ」ということを言葉ではなく自らの姿勢をもって示さればならないのだ。悩み、苦しみながらももがき続ける姿を。それは万の言葉よりも見る者の心を動かすだろう。そのようにお互いの苦しさを見せることができるというのは対等な関係でなくては成立しない。支援者と当事者、教師と学生のような関係では駄目だ。ありがたいアドバイスをくれる単なる支援者など不要なのだ。いつだって本当に欲しいのは支援者ではなく、理解者だ。隣で共に歩んでくれる伴走者だ。あなたもそうでしょう?
先日電話をかけてきた子がこんなことを言っていた。「僕と清水さんは年も離れているし、僕が全然自分の気持ちを言葉にできていない時もあるけど、それでも清水さんはわかってくれる」。それを聞いて安心した。私は私が思うようなことをできていたのだ。そしてその子も私のことをよく分かってくれていたのだ。それが嬉しかった。そして思った。お互いに理解し合える対等な関係とは何だろう。それはもう友達と言う以外にない。私はこれまでずっと友達を作っていたのだと。別の「友達」は私が面接に落ちたことを話すと、「ぴったりの仕事なのに見る目ないですね」と言ってくれた。本当に見る目がないのがその会社の人事なのか、あるいは私なのか、それは分からない。「ひきこもり支援とは対等な友達を作ることだ」、と言い切ってしまったら世の中の評価は賛否が分かれるのは間違いない。それも否のほうがずっと多いことだろう。そういう意味ではこの結果は妥当であったと言えるだろう。そもそも人間不信気味の私に福祉は最初から向いていなかったのかもしれない。
新しい仕事はビルメンテナンスになる。今までずっと人を相手にしてきたが、これからはまったく仕事の方向性が異なる。「人からコンクリートへ」である。福祉の仕事への未練がないと言えば嘘になる、と言いたいところだが少なくとも今のところは本当に未練がない。私はワタミの社長とはちがう。「ありがとう」の言葉で心は膨れても腹は膨れない。応えぬ神に祈り続けるほど私は暇人でもないし、信心深くもない。これまで私とかかわったことで幸せになった人はいるかもしれないし、あるいはいないかもしれない。それは私が言うことではないだろう。私に言えるのは、福祉は私を幸せにはしてくれなかったということだけだ。もうそろそろ、私は私を幸せにするために動いても良いはずだ。
ということで私はもうこれで最終回でも良いのではないかと思っているが、どうだろうか。ロクに推敲もせず、だらだらと自分の思考を駄文にして垂れ流すのは、これはこれでけっこう楽しいのだが読者の側には違った思いもあるだろう。もしも一定以上まだ私の駄文に付き合っても良いという奇特な方がいるようであれば、もう少し続けようかとも思っている。ご意見、ご要望をお待ちしております。(2024年8月)