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4世代・約100年の子育て環境の変化=いろは(仮名)

70年代生まれの子育て中のママさんからメールをもらいました。
ご自分の子育て環境状態を書いてもらっていますが、あわせて4世代(曾祖母→祖母→母→私)・約100年の子育て環境の変化も書いてくれました。現在の子育てママの環境条件をこれらの対比からも鮮明にしてくれます。(松田武己)

〔曾祖母〕 明治産まれ。戦前、戦中、戦後の子育てです。都市域から離れた地域で農業の生活。一族のつながりのある暮らし。10人程の子どもを産み、上の子どもほど労働力だったようです。
祖母の子ども時代は蕎麦作りや馬のお世話など家の手伝いをしながら年の近いきょうだいや村の仲間と豊かな自然で遊んでいたようです。

〔祖母〕 昭和元年産まれ。戦後の子育てです。仕事のある都市近郊に移ります。子どもは二人です。祖母のきょうだいのうち何人かは比較的近い地域に散在していました。デリケートな祖母はきょうだいと会い話す事が心の拠り所だったようです。祖母の夫である祖父は幼少時代、母元から離れ養子として暮らした不遇な時期がありました。

〔母〕 昭和20年代産まれ。比較的近い地域の農業一族の村で育ちました。きょうだいは二人です。母の父親は母が産まれてすぐ亡くなったため女手一つで育ちました。亡くなった父の一族の繋がりのある土地柄で育ち、親戚には恵まれていたようです。私を含め、二人の子どもを産みました。
私の子ども時代、二人の祖母宅でいとこ達とよく遊びました。まだ、ゲーム機はなく、自然に外遊びすることが多かったです。外は子ども達の声が響く遊び場でした。私は道路で自由に遊び、友達とブロックの壁を登り降りしながら追いかけっこをしたり、農地で蓮花摘みをしました。流れが早く広い川へ行き、水際で石を投げてたり薄暗い森にも入りました。今、思うと危険な場所、誰かの私有地、公共の場ですが、外遊びは当たり前で、注意を受けた事がないです。

〔私〕1970年代生まれの団塊ジュニアで、今も子育て中です。
子どもがまだ小さい頃、住まいの地区には子どもがいて毎日暗くなるまで遊んでいました。地区の子ども達は順に中学に上がったことで子どもがいなくなり、この数年はコロナや夏の猛暑をきっかけにしてさらに外遊びする子どもが激減しました。
子どもは外遊びしない・出来ないです。自由に遊んでよかった外の世界は、誰かの私有地に変わっていました。「危ないよ」「そこは入らない」、他のお母さん達が注意する事をさせられず、外の世界で自由を満喫した子ども時代を過ごした私にとって注意して回る事の多さに心が痛みました。

女性は自己実現のためだけに働くのではないと思いました。核家族で地域との繋がりが希薄であれば、働きに出るしかないようです。得られるのは様々な安心です。自分の安定、子どもは保育の先生に預けられ、習い事も用意でき単独育児ではならない安心。住宅費、レジャー費、老後の資金の安心。働いてレジャーを買い家族で楽しむ、こういうレールしかないです。逆にこうでないと親子ともに孤独に陥ってしまうように感じます。

子育ては自分自身が安定していること、働けること、経済力、安定した親、親類、親がいなければ誰かが助けてくれるような人柄がないとできない難行になっていると思います。母子にこれらがないと敵地に立っているような感覚になります。昭和の寛容な外の世界も、子どもにお節介する人もいない。親が人間関係が苦手でも、昔は子ども一人で出掛ける世界がありました。今はなく、親の持つもので子どもの人生が決まってしまうこわさがあります。

今は一人で生活を回していく自活力を求められるので、どうしても母子ともに評価に出会ってしまいます。母、子ともに性質や行いに対して、いい悪いを無視したところで大事にされる準備期間がなくなってしまいました。大事にされるとは、未熟な部分こそ大事にされ、想いを感じ取られ、共有し、評価されずに、認められる、守られる体験だと思います。こういったものが得られにくくなりました。

私は話を聞いてくれるある場で、毎回涙しか出ず泣き続けました。どれほどに孤独で、それでも踏ん張っているか、踏ん張った分の涙で溢れました。そんな事は誰も知りません。自活しきれていない私の行いは直すところだらけのようでした。
生きていく中の悩み、育児の悩みは自分一人だけで作ったものではないです。ここには上の代から引き継いだ思い残しを貰った自分がいます。人生に悲観していない、熱くて温かい血の流れを感じています。

怖くても自分を出したのがきっかけ AH(東京在住)

私は73歳、50歳位までひきこもりでした。いまはすっかりよくなり幸せな毎日を送っています。ひきこもり当時のつらさはよくわかります。
3歳位までに人間の脳は出来上がると言われています。3歳位までのことを思い出してみよう。我慢して生きてこなかったか?
いじめはきっかけであって本質ではない。私の場合は2歳の時に妹がうまれ、私はおばあちゃんおじいちゃんの所で寝かされました。
母親がいなければ夜も日も明けない頃です。見捨てられる恐怖をいやというほど味わいました。誰も助けてくれない、理解してもくれない2歳の幼児には自分を自分で守ることはできない。自分の感情で生きられない。人に受け入れてもらえるか否かで生きている。よく思われたい中毒で心はボロボロ。
自分であってはいけない、愛されないと思い込んでいる。我慢強く言うことをよく聞く。人間関係のスタートは親子関係です。
実際の自分の感情にならなければよくならないのです。人はけして嫌わない(嫌われる恐怖が強い)。
人と心が触れあえば依存性から自立性へと成長できる。これが信じられるか否かなのです。恐怖を抱えながら自分を出したときそれが受け入れられた。これがきっかけでした。
人と人との心の触れあいを知らない、たから人が怖いのです。自己実現した人との中で自分を出してください。必ずよくなります。

カツアゲを受けた体験から支援員になりました

――マーサン (30代男性、愛知県)2023年8月15日
自分は小学三、四生から学校を休みがちになって中学ではいじめや不良グループからカツアゲにあったりして学校に行けなくなり、ズル休みしたり、囲碁を打ちに日本棋院にいったり好き放題な事をしまくっていました。
そして、僕が中学を卒業して弟がいじめによって不登校になってしまいました。
後々から兄の自分の素行の悪さも弟がいじめによる不登校の原因になっていてショックを受けました。
なんとかしようとしたけど何もできなかったこと虚しさがあり、同じように苦しんで方の力に今度こそなりたく、不登校訪問支援員の資格の勉強をしていて、支援の現実を知りたいとおもったのが動機です
得意なことは、興味を持ったことへの知識を集めることです。
自分の性格は明るい方だと思いますが、空気を読むのが苦手で、トンチンカンな事を行ってしまったりします。
人生史上自分の印象に残ってるのは後輩からカツアゲされたことだと思います。
「俺の親はヤクザだぞ」とかマンガでしか言わないセリフを恥ずかしげもなく言ってる姿です。
(カツアゲしてきた子の家は地元駅横にある小さな建築会社の息子)で組=ヤクザと勘違いしていたようでした。

◎ 相談したい人、意見交換したい人は不登校情報センターに、手紙やメールを送ってください。 マーサン に転送します。

文通ボランティアの希望者が少しずつ続いています。多くはご本人も何らかの被害を受け、あるいは苦しい体験をされたことがあると思います。

そう考えて、文通ボランティアの希望者にはご自分の経験を書き送っていただくようにお願いしています。しかし、文通ボランティアを希望する気持ちには被害や苦しい経験を語るよりも、逆にそういう体験者の助けになるように役立てたいと考えているように思います。マーサンさんはそれをはっきりと言っています。

文通において「相談したい人、体験の意見交換したい人」の双方を対象としているのはこのためです。読まれた皆さんからのお便りを待っています。

人が怖くて街中にも出にくい

――ほしもり(30代女性・栃木県)2023年7月23日
わたしは今も、人がとても怖くて、街中へ出かけるときは、気合いがいります。いまだにうまく人付き合いもできません。
きっかけは、小学校6年生のことでした。クラスの女子に、無視されたり汚いもののように扱われるようになりました。全員からです。原因はわかりません。直接は言ってこないからです。学校で、一言もしゃべらない日もありました。
すぐに学校に行きたくなくなり、家の近くの森に行き、午前9時くらいまで隠れていました。その日は学校を休めましたが、担任が家にやってきました。なんで行きたくないのか聞くので、無視されたりする話をしました。
すると担任は翌日またやってきて、いかにも書かせた感じの、女子みんなの手紙という紙きれと、「あなたの勘違いだったんだよ」と言って笑いました。あ、逃げられないんだ。誰もわたしを信じてないんだ。何かが崩れた瞬間でした。
その後は小、中、高、吐き気と腹痛、下痢と一緒に学校へ通いつづけました。学校では、いつも緊張し、愛想笑いでした。一分が長くて、本当に逃げたかった。
こうして無理し続けて大人になったわたしは、中身は子供のままで、また傷つくんじゃないかと、何かにつけて思ってしまう人になりました。人から見たら、なんてことないじゃない、と思われるかもしれないレベルの、いじめですが。わたしにとっては人が変わるくらいの、ショックな一連の出来事でした。信用しきっていた友だちに裏切られること、大人がみんなクラスメートのほうについたこと、きついです。
わたしの経験は、このような感じです。

◎ほしもりさんに相談等をしたい方は、不登校情報センターにメールをください。転送します。

ひきこもり相談・学習会(東京都江戸川区)

不登校情報センター主宰の松田武己による「ひきこもり相談・学習会」を始めます。
第1回のテーマは「ジェネレーション(世代間)ギャップ」です。
親と子の間の考え方、感じ方の違いは社会背景の大きな変化が関係しています。
歴史学や産業各分野・とくに農業研究者によると、日本社会は過去1500年のなかで最大の大きな変化の途中にあります(明治維新や第2次大戦後の変化よりも大きい)。最近50年間の変化は世代間の考えや生活スタイルに大きなギャップを生み出しています。かつて「普通」とされていたものも普通ではなくなりました。
このあたりを最初の学習テーマにします。個人的な相談も行います。
日時:7月8日(土)15:00~17:00
場所:平井コミュニティ会館(江戸川区平井4-18-10)。JR総武線平井駅南口から徒歩10分。
参加対象:当事者、その家族、関心を持つ人。
参加費:300円(当事者無料)
連絡先:03-5875-3730(松田)、open@futoko.info

気になる40ー50代になる人の心身状態(松田武己)

不登校情報センターを設立して28年になります。80年代の半ばに、不登校という問題を知ってから40年近いです。実際に関わる人たちの中心は不登校というよりはひきこもり、または準ひきこもりという人たちであり、その人たちに囲まれた生活になってから20年以上になります。
多くのことを聞き、また見ることができました。各人個別の事情がありますが、その共通する背景に社会の動きがあります。社会の動きの一端がその人に力を及ぼし、その人の生活状況や気性・気質によっていろいろな姿形になって表われるのです。周囲の事情という外部条件と本人の体質・気質という主体条件の組み合わせからひきこもりが生じ、しかも多様な個別状況を表わすのです
20年前に関わったひきこもりの人たちも40代から50代になります。10年ぐらい前には、「人は30代の半ばをすぎると自動的に(あるいは強制的に)大人になる」ということをよく口にしていたものです。先日、親の“老い”が見えてくるのがこの年代という納得できる意見を聞く機会がありました。
その前には、ひきこもり経験者も「(心の内では)30歳までには何とかしようとして動き出す」ことが多いと話した時期もあります。
その前には……いやこのあたりでやめておきましょう。
要するに私は、関わった人たちの様子をみて、何かを感じとり、その時期のある傾向を言葉にしていたのです。それぞれの時期の言葉は、1つの傾向を示すものです。今でもある程度は通用すると思っていますが、もちろん全てを言いつくすわけでもありません。
さて、40代から50代にすすんできたひきこもりの経験者に対して—―もちろん全ての人に対してではなく、私が関わっているなかでの特徴的な人に向けて何を言えばいいのでしょうか? それを考え、参考意見を探しています。
いろいろなタイプ・状態がいるなかで、私がとくに気になるのは十人前後の人です。すっかり連絡がとれなくなっているのに、「その後の様子」が気になる人もいます。自ら命を断った数人もいます。彼らは私が気にしている人たちのさらに先の姿を予見していたのではないか、と思えるのです。

4月の初めにネット上のブログであるお願いをしました。それをもう少し詳しくしたのが今回です。
(1)20代後半で亡くなったある人は、幼児期に虐待を受けていました。ある父母の集会受付をしてもらったとき、「私はここに来ている親たちに“こんなことしたってダメなんだよー”って叫びたいくらい」と言っていました。そのときその人の心身の中に何があったのか。おそらく言葉にはしがたい体内の異変、取り戻すことのできない何かを感じていたと思えます。
私はそれをひき出せませんでした。ひき出すにはもっと深い信頼関係と多くの時間が必要でした。その関わりを含めて本人がそれを明確にし、言語化できる状態になることが必要でした。それを言葉にできるとき、共にそれを受けとめ、理解し、受け入れる人が必要だったと思えるのです。
(2)受けとめる、理解し、受け入れるというのはたやすくはできません。解離性同一性障害(俗にいう多重人格)の人は、とくに幼児期に自分では受けとめられない難題を受けたことが要因になっていると知りました。
私の関わった人にもこの状態の人がいました。一見元気ですが、何かの拍子に、落ち込み、寝込み、動けなくなります。ウツ症状で過眠という、聞く側の人にわかりやすい言葉で自分の状態を伝えます。聞く人は何となくわかった気になるでしょうが、本当のところは伝わっていないし、伝わらないと知っています。だから日常のわかりそうな言葉を使って周囲の人を安心させるのです。
この人の奥深くにある、本当の苦しみ、心身の問題は何なのでしょうか。この人とは時間をかけて聞く機会を持ちましたが、それに到達しないまま連絡がとぎれました。すごい悔しさと申し訳なさが今も私には続いています。
40代から50代になったひきこもり(ひきこもりという言葉さえ伝えやすい言葉になりました)の人たちの奥にある心身の問題とは何なのでしょうか。私の手元には上の2人から聞いた多数の記録、その1人と文通した人から贈られた厚みのある手紙類があります。それらを改めて読み返すことは大いに参考になると思います。しかし同時にそれでもなおとらえきれないものがあると予測できます。
私の周囲にいる気になる人たちは、このまだ私がつかみえない心身の奥にある問題を抱えたまま、ある人は一見元気そうに、ある人は普通に生活をつづけるためにその課題という困難を忘れたふりをし、おし隠していると思えます。
昨年11月手紙をよこしたSN君の手紙を会報とこの「ひきコミWEB版」に載せました。「いったい自分は何の障害なのか? ただのウツではない。ただの強迫性障害でもないと思う」と彼はいいましたが、その先を言葉にはできません。
それは多くの医学者、身体科学の研究者が取り組みながら、なお届かないテーマのようです。例えば、ウツ症状、愛着障害…などはそうです。体験した当事者の深い経験、その結果としての今の状況を深く知ること。加えて身体内部を多面的に観察できる装置が必要であると予測できます。私にはその条件がないので私の手元でこの全体を明瞭にすることはできません。
今できるのは私が関わり知りうる極限まで近づくことです。その先の深いところはまだ言葉にし難いので、比較的わかる範囲の言葉でよびかけます。この言葉の先の深い何かを明瞭な言葉にする協力をさせてください。
                                     
ひきこもり経験者で次の経験をした人からお話を聞きたいと思います。
*対象はひきこもりと近接の心身状態(睡眠障害・摂食障害・オーバードーズ・対人恐怖などの経験者)の人であり、15歳以上の人(年齢上限はなし)とします。
(1)ひきこもりを経験した人でいわゆる「底着き体験」「底打ち体験」をした人。ひきこもり状態が深刻になり、わずかに動くのも困難というほどの経験をした人です。その時期とその後の様子。
(2)薬依存/薬依存を恐れて「強制的な断薬」を実行した人。
医師などのいうことに反して実行した人を考えています。
*私(松田)はこのような方法を推奨しているのではありません。
(3)ウツ状態から「神秘体験」を経験した人。
非常に感動的な「宇宙と一体化した」「光に囲まれた」「神の世界を体験した」などの言葉で表現することが多いようです。それまでの過程や経験談です。
(4)上記以外の大変な心身状態を体験した人(適応能力をはるかに超えた苦痛を体験した結果の解離性同一性障害=俗にいう多重人格など)。
*体験は文章に書き送付していただく(FAXも可)、メールで送っていただく、電話で話を聞かせていただく(1回では済まないことがあり、基本は数回の電話)方法になります。電話は、予約にしますので一度事前に連絡ください。
これらのやり取りはいずれも基本的には公表する予定はありませんが、公表等が必要になれば公表部分を事前に合意してからにします。お名前・住所等の個人情報部分は公表しません。

      

本当はこんなんだったんだよー近況報告を兼ねて 2022年12月 S.N(匿名)

マツダさんへ いつも忘れたころに通信をおくってくれてありがとう。

今(ずっと?)キツい状況にあるのと、マツダさん直筆のメッセージに心動かされ、何か書いた方がいいんじゃないか、と思いペンをとりました。いつも文章を書く時はスマホなりで構成を考えた後、書きはじめるのだが、そんな事してる気力が無いので思いつくままダラダラ書く事も許してほしい。漢字も少ないし字もきたない。よろしくたのむ。(注:ひらがなのいくつかを漢字にしました)

不登校情報センターは、そもそも当時、サロンとよばれる場所にSMさんと会って一人で行く勇気が無いからいっしょに行こう、と誘われたのがきっかけ。その後SMさんとは長い付き合いになるんだけど、今は連絡とっていない。あのころとにかく人がこいしかった。人脈が無かった。どこでも顔を出そうと思っていた。ひきこもりとは無縁だった。むしろ強迫的に毎日外へ出た。通信で「インラインスケート」にふれているが、ぼくがみんなを誘った気がする。センターにはヒマさえあれば通い、SMさんと音楽の話をしたりTA君と、また彼ともけっこう付き合うのだが、しばらく前に決裂している。TA君ともたわいもない話をした。

当時、最近までだが、虚勢をはって、とにかくいきがっていた。何も見えていなかった。見た目と共に性格も強がって無理をしていた。多分無理をしていた事にすら気付いてなかった。そのくらいクスリと強迫観念にあおられていた。完全に強迫性障害だった。何かにがんばる事か、死ぬ事か両極端に大きくゆさぶられていた。センターはちょっと自分には物足りなく感じていた。

そのころTKさんと出会い、そのままWKさんのフリースペースに入りびたる事になりセンターとは疎遠になった。同じころ渋谷で花を植える活動をしているボランティア団体にも顔を出すようになる。その関係は今もつづいている。お世話になっている。

その間、何度も大量の薬づけ治療から抜け出そうと、薬を絶ってはまたもどすということをくり返している。最近、よき治療者と出会い、計画的に薬をぬいていったところ、想像以上に精神的にまいってしまって、ここ数か月、さんざんな日々をすごした。

結果、薬ぬきではやっていけない事を自覚し、薬をぬくことは二度としないと思う。前よりは少ないが、少しのんでいる。

いったい自分は何の障害なのか? ただのウツではない。ただの強迫性障害でもないと思う。

ずーっと東洋武術をやってきた。今もやってる。支えだったが、苦しみの原因でもあった。とにかく練習しないと一日が始まらなかったし、おえる事もできない。小さいころから不安が強く、その不安を、他人を「腕力」で黙らせる力をもつ事でごまかした。最初、筋肉を鍛えてのりきった。小学校卒業のころには疲れきっていて、そのまま中学二年の夏休みで不登校になった。身体の成長が遅かったため、弱さを感じ、バランスを崩した。もともと無かった自信が地に落ちた。

そこからはい上がるのに3、4年かかった。ひきこもりと言えるのはこのあたりだろう。心底自信を失っていて、「不潔恐怖」になったうえ、食べるのは悪だと思いこみ、食事を削った。

あのころ身長は今と同じくらいあって175㎝で体重は40.5㎏まで削った。もう死に手がとどく数字だった。食べられないし、物をさわれない、さわってほしくないという状態で、奇跡的に知り合いのつてで武術を個人的に習った。17、8歳の時だと思う。

その後、薬物治療を望んで始め、19のころ世の中デビューした。

本来、コミュニケーションでなんとかするべきところを、物理的な「何か」で解決してしまおうとしてしまったのが間違いだった。その思考は9、10歳のころから変わらず、今も身にしみこんでいる。

でも本来攻撃的な人間ではなく、臆病なので、多分に負荷をかけつづけている。なかなかその思考パターンというか、モデルからぬけられず、今も苦しんでいる。失うばっかりの年齢になり、キツい。成り立たなくなっていく。

仕事はとにかくしたかった。25、6の時にうまい具合にヤマトの倉庫で働けた。一年ちょっと。何でやめたのかは覚えていない。34歳ころ、ちょっと離れた同じヤマトの倉庫で働き始めたが、4日でやめる。通い続ける事に精神的に、ものすごい苦痛を感じた。以来、働こうとはしていない。どっかの童貞男が、セックスすれば全てうまくいくと思っているように、自分も「働いてさえいれば」と強く思う。とにかく仕事について、人並みになりたい。強く思う。そうすれば全てうまくいく、と。でもなかなか踏み出せないし、現実的でない。

マツダさんにいいアイデアがあれば、おねがいしたい。

44歳現在、無職で障害年金をもらって20年くらいになる。

人間関係について。彼女とよべるものは二人いた。一人目は20代中盤にフリースペースで知り合った女で、当時大量の薬のせいか、セックスが全く楽しくなく一年くらいで終わった。

二人目は今もお付き合いしている。年上でアタマがよく、とても愛してくれる。でも、薬でさんざんアタマをゆさぶられたせいか、単純に愛せない。自然の感情が欠如しているようだ。これは友人関係にも言えることで、他人をおもいやる事が今いちできない。先ず自分、と考える。他人のため、というのが全く理解できない。だからマツダさんのような仕事もわからない。恩もすぐ忘れる。やってもらった事には、すなおにありがとうと言えず、通りこして「申しわけない」と感じてしまう。これは自己肯定感を際限なく下げる。

THさんの事にもふれておこう。THさんには、ただ上へ上へと努力することしか考えていなかったころ、その場で楽しければいい、というようなメッセージを感じた。みんなでインラインスケートをしていたころ、うまくなる事しか考えてなかったが、割り込んできたTHさんがちょっとやっただけで「いいや、おれは」と楽しそうにしていた。「こういう楽しみ方があるんだ」と思ったものだ。亡くなったのを知ったのはずっと後だった。いいオトコだった。彼女もすてきだった。残念なことをした。

なんかキタネー字で本当にダラダラ書いてしまった。マツダさんは少しはオレの事を覚えているだろうか? 本当はこんなだったんだよ。知ってたよな、多分。まずSMさんに感謝。いなければセンターも知らなかった。たくさんの人と会えた。TA君にはひどいことを言ってしまった。なんもわかってなかった。無神経な言葉をかけてしまった。機会があれば謝りたい。申しわけなかった。

センターを作ってくれたマツダさんにも感謝している。直接なんかしてもらったおぼえは全くないが。むしろ妙にしめつけられて、あおられて、いきがっていた自分は、当時、たくさんの人を傷つけたのではないかとさえ思う。それも申しわけなかった。場をあらしてしまったのではないか、と。

ふり返れば、申しわけないでいっぱいの人生。今もキツい。本当にキツい。でも人生は簡単に降りられない。死にたい。死ねばそれに越したことはない。みんなそう思っているのではないか? 人間は生きるようにはできてない。最後までまとまりがない。これはマツダさんだけにとどめといてくれ。

ホント、ダラダラすみません。何か「たし」になれば。もう一度、お会いしたい。

まっちゃん、元気で。

追伸 S.N                               

返信ありがとう。ただダラダタ書いて終わらせるつもりだったが、やはり何かを期待していた。うれしかった。とても。ありがとう。本当にありがとう。

キレイな紙にキレイな字で打ち込んである自分の生々しい文章にショックをうけた。

何度も読み返し「こんなんなのかオレは? こんなんなのかオレは??」と涙が出そうになった。なかなかの名文じゃないか。キタナイ文字を起こしてくれてありがとう。たった数週間前に書いた自分の言葉がこんなにもささるとは。理路整然とならんだ文字ならなおさらで。お手数おかけしました。

会報への掲載の件ですが、OKです。が、疑問と、いくつかの要望があります。当事者(このよび方には昔から違和感がある)がこれを読んで、はたして勇気づけられるか?という問いです。「どーしようもない自分だけど、先には光がある…」と思っている人たちに、どーしようもない自分には、どーしようもないが延長された未来しかない、と思いこまさせるようでピンときません。自分の人生のように。マァ松田さんの判断にお任せしますが。

近況報告として、最近、医者から「自己愛がたりないんじゃないか?」とのご指摘をいただいた。自分としては真逆だと思っていたので意外だった。今さら何をしたら「自己愛」が高まるのか知りたいものです。何かいい考えはありますかね?

S.Nくんの近況報告について 松田武己

私信として松田に伝えてきた近況報告に感動して、他の人にも読んでほしいと考え、S.Nくんに会報にも載せたいという連絡をしました。会報への掲載にはOKをもらいました。S.Nくんからは、近況報告に出てくる個有名詞の扱いとともに、いくつかの要望がありました。

1つは、これを読んではたして勇気づけられるのか、「どうしようもない延長された未来しかないと思いこませるのではないか」という心配。

もう1つは、S.Nくんが担当医から「自己愛がたりないんじゃないか?」と指摘され、今さら何をしたら自己愛がたりないのかという質問です。

S.Nくんの近況報告に感動したのに続いて、この「会報掲載OK」の返事にも私は感動しました。何度も読み返し「こんなんなのかオレは?」と自分を認め、ショックを受け、涙していること——そこにS.Nくんの真実をみた思いです。

自分を認めるとか自己愛を高めるには、自分の真実に向きあうことが出発になると思うのです。ときにそれはカッコわるいものだったり、恥ずかしいものだったりもします。形が立派で言葉が飾られたばかりではこうはなりません。S.Nくんはその実例を示してくれました。読む人にはきっと勇気を与えるものと思います。

S.Nくんへの返事などがあれば松田宛に送ってください。転送します。

テレビゲーム

「人生はゲームである」。
この言葉に込められているのはゲームに人生を見出すことのできた者の実感であろう。
自分なりの目標、努力、運、挫折、勝利の喜び……。
他の何をする気力もない時期も私は「ファザナドゥ」というテレビゲームをよくプレイした。
おもしろかったとはいえない。むしろプレイすればするほど惨めな気持ちは募っていった。
それでも私は、暗い街をネズミのようにさまよい歩いているうちに、ウニにつまずいてあっけなく死んでしまう、そんなまぎれもない自分の分身に会うだけのために毎日スイッチを入れたものである。
やがて私の興味は他のゲームソフトに移り、このゲームはさんざん罵倒された末、中古屋に売り払われてしまった。
しかし10年近く後、めきめきとゲームの腕前を上げた私はあの「ファザナドゥ」を探し求めてあちこちの店を回ることになる。
観察力、探究心、根気、体力、すべてにおいて昔よりはるかに充実している。
いろいろなことを好きになり、また好きなことになら全力で打ち込めるようになった私が、480円で再び手に入れたこのゲームを始めると、私の分身は最終ステージまで難なく突き進み、巨大なボスもあっけなくクリアしてしまった。
私の長いゲームはこうして終わった。
あれから後も私はさまざまなゲームに出会い、それぞれに思い出はつきない。
結局ゲームは私にとって家族であったとさえ言えるかもしれない。
心の底から喜び、悔しがることを教えてくれたのも、母の辛辣な視線と言葉を背に私が打ち下ろす拳を許し、受け入れてくれたのもゲームであった。
要するに「人が生きる」というのもそういうことであろう、と私は思う。
だから壊れて動かなくなってしまった今でも、私はこの器械を捨てることができないのである。(S)

私と父との関係―松田武己  2022年4月1日

私と父との関係はどうでしたか? と尋ねるRくんは同じ家に住みながら30年のあいだ父とまともな会話をしたことがないそうです。社会に関われない苦悩の源泉はそこにもあると思える彼に、はたして私と父との関係が何の役に立つのか。そんなことを考えながら浮かんできたのは父が亡くなった日のことです――。

セスナ機は20人ほど乗れる小型機で、機体の丸みが感じられる左右の壁が近くにありました。プロペラ機で左右に少し揺れます。東北の空を羽田から青森に向かう途中で右には太平洋、左側遠方かすかに日本海があると思わせる冬の情景を上から見下ろしながら飛んでいました。1981年12月の冬の空です。
青森空港は雪の中にあり、そこから青森市内へのバス、下北鉄道、大畑線と時間待ちをしながら乗り継ぎ、大畑駅についたのはすっかり夜になっていました。
駅に着くと待ち受けていた数人に案内され、車に乗って着いたところが父のいる病室です。すでに死期は迫っており、数分後死亡が確認されました。病床の父は目を開けることはなく、意識もなく、これを臨終の場に間に合ったというべきかどうかは難しいところです。父は70歳を目前にした69歳でした。

その前に直接会ったのは、父が還暦を迎えたときで、長兄がよびかけてきょうだい五人が集まったはずです。私は1974年に大阪から上京したのですが、そのときは大阪在住だったと思います。このときどんな話をしたのか。仕事の関係で水産庁とイカ漁の条件に関わったことが話されたはずです。その時点で父とは十年近くは会っていなかったのです。
1961年春、私が中学校を卒業し、高校に入学する前の春休みの期間、父が水産加工場で使うヨシを刈るために、少し離れた地域の水辺におそらく次兄と三人で行ったのが、まともに話をした最後ではないかと思います。
この水産加工場はその後、しばらくして廃業になり、さらにその後父は田舎(島根)から青森県大畑の親戚筋を頼って移っていきました。廃業までの期間、父は加工場で寝泊りをしていたようで、家に帰ることはありませんでした。
家族は離散していました。姉はすでに結婚していましたし、兄2人は高知と大阪にいました。田舎には母と弟と私の三人が残りました。母は事実上のシングルマザーです。納屋に住み、ジャガイモにバターという朝食が続きました。母の苦心を思えば、十代の2人には超貧乏生活もみじめ感は少なかったと思います。新聞配達と家庭教師と休日バイト(主に築港の土木作業)を続けていました。

父と私の関係はこういう背景事情を抜きには考えられません。私が小学校入学前は、村会議員をしていました。1953年に村は大田市に合併し村会議員はなくなりました。その後、中学校のPTA会長を勤めたらしく、私が中学生のころ、校長室に父の書いた色紙があったのを覚えています。
朝鮮戦争の後、田舎の海岸にアメリカ軍が使っていた浮きドッグが漂着しました。大量の鉄製品で、これをアメリカ軍から譲り受け、売却して中学校の体育館が建ちました。このアメリカ軍との折衝にPTA会長として関わったらしく、アメリカ兵2人が自宅に来ました。私と弟はまだ小学生のころで、この兵士から声を掛けられ何かをもらった記憶があります。
母からは「タケミは社会科はできるけれども、社会勉強はできない」と父が話していたと聞いたことがあります。一人でいる時間の多かった子ども時代の私を言い当てたものです。父の思い出はほんとに少ないです。とくに怒られたこともなければ誉められたこともありません。そこまで接点がないとは思いませんが、記憶に浮かんできません。父との関係が空白であるのは、こういう事情です。

父の葬儀の席で、地元漁業協同組合の弔辞が読まれています。漁業協同組合でイカつり漁の条件を各方面に働きかけた父の様子が詳しく語られました。父と離れた20年の様子を初めて知ることになりました。
苦しかった母と弟の3人の生活を思いながら、父もがんばっていたんだとこみ上げてきました。本当に泣きました。弟の方はもっとひどい泣き方になりました。弟も私も30代の半ばになっています。姉と2人の兄は事情を少し知っていたようです。私は、弔辞を聞きながら長い過ぎた時間を振り返っていたのです。
Gone with the condolences , hearing with my some tears.

Rくん、私と父の関係は大筋こういうものです。自分の経験を超えて語ることはできません。大きく異なりますが、相通じるところがあるかもしれません。

父との関係―Rくんからの手紙 2022年3月

 さきごろ1冊の本を贈られました。井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社文庫.2021)です。ぜひ読んでほしいという添え書きがあります。エッセイ集でありどの部分を読んでもいいのですが、途中でふと思いました。彼はなぜこの本を読んでほしいと思ったのだろうかと。
そこでどういう意図があるのかを問い合わせたところ、いつもの几帳面な手紙が返されてきました。その答えにあたる部分を紹介します。読者の方にもどこか思い当たることはないでしょうか?

《実は、ぼくは、父との関係が小さい頃から良くなくて、成人してからはもう30年ほどもまともに口を利いていない状態が続いております。母や姉、弟とはふつうの関係を保っているのですが、なぜだか父とはうまく関係を築けませんでした。
前に、二条淳也さんが会報で、「ぼくは、母親から愛されなかった」と言っているのを目にしたことがありますが、実はぼくは、子供のころに、父親から愛されませんでした。それは被害妄想でも、思い込みでもなく、本当のこと、事実です。そんな訳で、小さいころや小学生のころに、ぼくは非常にさびしかったものでした。姉や弟は父から愛されたようですが、真ん中のぼくだけは、なぜだか全くかまわれませんでした。今考えても、ぼくにはそれが、謎ですし、全くわからないのです。
なので、ぼくは、今でも、父には良い感情が持てないでいます。詳述すると、長くなるので、省略しますが、何が言いたいのかといいますと、ぼくは、自分と父との関係について、ずっと悩み、考えてきたので、他人の家の、父子関係にも関心があるのです、ということが言いたいのです。松田さんと、父上の関係はいかがでしたでしょうか。いろんな人にお尋ねしたいくらいなんです。父親との関係は良いですか?悪いですか?と。
そんな思いが胸中にありましたので、『夜中の電話』では、父親と、娘の関係が率直に綴られてあり、それが、まず、ぼくの第1の関心事でした。井上麻矢さんの、父親への様々な思いや、複雑な感情が綴られていることに、まず、大きな興味をぼくは覚えました。実は、ぼくは、井上ひさし氏のメッセージそのものについては、特別深い関心を持った訳ではありません。随所に、いいことを言ってはおられますが。
井上ひさし氏が昭和9年生まれで、娘の麻矢さんが昭和42年生まれです。ぼくの父は昭和12年生まれで、ぼくが昭和43年生まれです。それぞれに年齢が近いということも、なんだか親近感を覚えました。
松田さんと、父上との関係がどのようなものだったのか、知る由もありませんが、ぼくは小さいころから父との関係が良くなくて、悩み続けてきました。今現在もです。父はどうしてこのぼくを助けてくれないのだろう。無関心を決め込んでいて。同じ家に住んでいて、父とぼくとは、気づまりで、居心地が悪く、互いに避けあっています。ぼくにはもう、父との関係をどうしたらいいのか、わからないんです。ぼくは、父に、愛情を全く感じておりません。長い長い年月です。父のことを優しいなと思ったことは、小学生の低学年のころに、1回くらいしかありません。このような父と居ると、ぼくは自然と肩に力が入り、緊張してしまいます。そのため、いつも上半身が痛いのです。背中の両肩のあたりがです。でもどうしたら、リラックスできるのか、わかりません。
前回申し上げました通り、ぼくは無気力ですが、この度は、気力をふり絞って、やや長めの手紙を書かせてもらいました。今回の会報には、松田さんの子ども時代のことが書かれてありますので、興味深く読ませて頂きます。》

Rくんには手紙で返事をするつもりです。読者の皆さんからも体験談をお待ちします。

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