ミズキ [東京都八王子市 男 38歳]
私は現在、社会生活を営む上で障害となる症状を抱え精神科に通院中である。しかし自分か仕事をせず人とも会わない理由を「心の病気だから」の一言ですませたくはない。社会の構造が生み出した病を抱えた者が、その病を社会に参加できない口実にするのは本末転倒だと思うからである。
「人間は社会のために努力(労働、勉強)すべきである」という旧来の常識が、慢性的な疲労と憎しみを生み出している現状を批判し、あえて「理由が何であれ働きたくないときには働かない自由」を主張してきたのもそのような思いからである。
ちなみに支援団体「タメ塾」(現在では青少年自立支援センター)代表の工藤定次氏は、私のような人間を「引きこもりもどき」と呼んでいる。つまり引きこもり問題を都合よく隠れみのにして、ぶらぶら遊んでいるだけの怠け者ということなのだそうである。
この本はその工藤氏と「社会的ひきこもり」の著者として有名な斎藤環医師の対談である。片や「こわもての民間援助者」、片や「良心的なドクター」(4、5P)。
タイトルから受ける印象の割にはおおむね歩み寄りムードのうちに行われたこの対談のうち、両氏の意見が最も分かれたポイントの一つは、支援者が場合によっては手を掛けて(要するに力ずくで引きずり出して)施設に連行することの是非についてであった。
工藤氏の自立観は明快で「自立とは自分の力で飯を食うことだ」(162p )。したがってタメ塾の目標も塾生の「労働による経済的自立」にある。そして彼が施設への強行な連行を正当なものと主張する根拠が、なんと「引きこもり者の自由」だというから驚きである。
本当なら実にありかたいことだが、しかし工藤氏の使う「自由」という言葉、なかなかのクセモノなのである。読みながら私は思った。かつて力を待った者が、支配という目的を隠すため、逆に自由を尊重するかのようなポーズを装いながら現れたことはなかったか。
そして浮かんできた言葉が「労働は自由への道」であった。ある意味でタメ塾にピッタリのこのスローガン、門にでも掲げてみてはいかがだろうか。
それにしても一体なぜ強制連行が自由尊重の結果なのか。彼は言う。
「おれは、彼らに『絶対的自由』を獲得してはしいんだよ。(中略)人に養われてるという状態は、精神的苦痛を伴うと思っているから、その状態から自由になってもらいたいと思っている」(49~50p)。
奇妙な論理である。自由のない「不自由」と自由を自覚できない「気兼ね」がさりげなくすり替えられているのも気になるが、そもそも引きこもり者は親に養ってもらっているから不自由なのではない。不自由だからこそ親に養ってもらっているのである。
仮に手足に障害があって不自由を感じている人が親の庇護を受けていた場合、やはり工藤氏は力ずくで引っ張り出すべきだと主張するだろうか。
もし「手足が動かないから働けないのなら障害だが、働く欲求がないから働かないというのは単なるワガママだ」と断言する人がいるとしたら、それは単に心の問題に対する無理解をさらけ出しているに過ぎない。
傷つくことによって失われ、決して本人の努力や外部の要請のみのよって回復するものではないという点て「働く欲求」は手足の運動能力と同じである。
これに対しては思考停止に陥った常識人からの「欲求なんかなくたっていいからとにかく働け」という声も当然予想されるが、工藤氏はそんなことは言わない。少なくともタテマエ的には物分かりのよいリベラリストの立場に立つ以上は言えないのであろう。
もし工藤氏が「彼らに絶対的自由を獲得してほしい」のならば、当然「働かない自由」をも尊重するはずである。
だが、彼は言う。「本人だけが自由で、自己主張しているかもしれないけど、じゃ、家族はどうなのか、周辺はどうなのか」(139 p )。
「家族の身に及ぶ危険が大きい場合の対処法」という、そもそも引きこもり支援とは別次元の問題について、ここで私か言うべきことは特にない。
しかし「子どもが働かないから親が困っている」という状況が、必ずしも「引きこもり者が親の自由を奪っている」ことを意味する訳ではないという点は指摘しておきたい。
自由と責任の所在を明確にする立場からは、たとえイヤイヤであろうと彼を養う以上、親は「養う自由を行使している」と見なされる。働かない者を家族がどうしても許せないというのであれば、彼をどう処遇するかという問題に結論を下す自由と責任は家族の方にあるのだ。
といっても本人と家族が互いの自由を侵害せずにすむ解決方法といえば「本人の餓死する自由を認めて一切の援助を打ち切る」ぐらいしか私には思いつかない。
しかし少なくとも私は、いざとなればそのような親の冷酷な決断を許す覚悟は自分に課しながら引きこもってきたつもりである。「死ぬか引きこもるか」という状況にまで追い詰められている者に、どちらかといえば自由に恵まれているはずの親が解決の責任を押しつけることこそ、「冷酷」に劣らず性質の悪い「甘え」というものであろう。
まずなにより[リベラリスト]工藤氏が大手をふって引きこもり者を強制連行できるのは、実は本人の「同意」をタテにしているからなのである。
「前の日には本人が『行く』と言っていても、次の日には体が動かなくなるケースはよくある」(119 p )。そういう時は「拒絶した体に手を添えるからな」(117 p )。
しかし考えていただきたい。人と会わない普段でさえ「社会のために働くのが当然」という常識からの批判に脅えている引きこもり者のうち、その常識の世界から現れた人間に、オメエも本当は働きてえんだろ? などと面と向かって詰問されて「いいえ」と答えられる者が果たしてどれだけいるだろうか。
「□がついた嘘を体が裏切る」という現象は心に問題を抱えた人には珍しいものではあるまい。自己が統合されておらず自分にも嘘とわからぬ嘘をついてしまうからこそ、さまざまな問題も起こるのであろう。
ちなみに「引きこもり」こそは自己統合を遂げ「働きたくないから働かない」と主張できるようになる(つまり工藤の言う『引きこもりもどき』になる)ために必要なプロセスであり、治療者はその自由を保障すべきである、という説得力に満ちた医学的見解もある(思春期内閉症)。
しかし工藤氏はこの選択肢をおそらくは故意に無視し、これ好都合とばかりに引きこもり者の「口がついた嘘」を強制連行正当化の根拠にしているのである。
前にも述べたが引きこもり者がしばしば発する「本当は働きたいんですけど」という言葉の裏に、社会のプレッシャーによるバイアスを読みとれない、読みとらない人間が支援に携わっている現状に私は大いなる疑問を抱いている。
ましてや公共の電波で「働きたくないから働かない」と主張する者を放送に堪えないような言葉で罵り(2001年4月29日、MXテレビ『Tokyo boy ・ 引きこもりの実態』一工藤氏の音声は一部カットされた)、引きこもり者に自ら進んでプレッシャーをかけるような人物などは論外である。
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