Category: 13:東京都

●文通番号64-03  視線をコントロールできない

aoi(あおい) [東京都大田区 女 36歳 無職]

◇状態・・・自宅生活中です。無職です。

◇趣味・特技・ファン・・・パソコン、料理、お笑い番組、音楽好きです。

◇文通したい相手・・・女性で30代~40代の方。

 私は、対人恐怖症からひきこもりになり、精神科へ通いながら、親と同居しています。ひきこもって12年になります(その間、色々ありました)。

 人と話すのが苦手です。自分の太った体、きれいじやない顔に、とても強い劣等感を持っているので、外に出るのが苦痛なほどです。

 1番困っていることは、自分の視線が、うまくコントロールできないことです。外出して時、たまたま視野に入った人の背中に目がいくとそらせなくなり、その人が不信がって振り返るほど見つめてしまいます。ですので、外出する時は、帽子をかぶるか下を向いて歩きます。

 調子が悪い時は、外へ出られません。 「自分の視線が、他人に迷惑をかけている」と思うと、苦しくてたまりません。

 人から声をかけられるのにも慣れていないので、びっくりして返事ができません。待合室で、隣に人が座ると、見ないようにするのがひと苦労です。

 こんな自分ですが、よかったら文通から始めていただける女性の方をお待ちしています。

 これから40代を迎えるにあたって、色々なお話しができたら、そう思っています。

 よろしくお願いします。

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●文通番号42-03  経験発表サイト開設しました

いちじゅ [東京都足立区 男 35歳 非正規労働者]

 引きこもり経験者のいちじゅと申します。

 私が引きこもり始めたのは、中学1年生だった1984年です。4年後、外へ出るようになったものの就学・就労せず、対人関係もない状態が続きます。

 2000年から引きこもりの自助グループに参加し、なんとか人の中へ入っていけるようになりました。

 1年前からは郵便局の非正規職員をしています。今でも人づき合いが苦手ですが、22年ぶりに引きこもりから卒業できた気になっています。

 経済的に少し余裕が出来たのでパソコンを買い、自分の経験をウェブサイトにまとめてみました。ご覧になっていただけると幸いです。

 ひきこもり歴22年 いちじゅの経験発表サイト

 http://www.geocities.jp/ichiju1/index.html

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●文通番号33-04  ひきこもり九条の会 

いちじゅ [東京都足立区 男 34歳 社会不安障害]

 「ひきこもり九条の会」呼びかけ人のいちじゅと申します。

 「九条の会」とは、2004年6月10日、九条を初めとする日本国憲法改悪への動きを許さないため、井上ひさしさんら9人の文化人が結成しました。

 「九条の会アピール」に賛同する人なら各地、各分野で「九条の会」を作ってよく、現在4770のグループが活動しています。

 精神科医の斎藤環氏によると、ひきこもりは意外にも社会的関心の高い人が多いそうです。 2000年の総選挙のとき、斎藤氏の勤務する病院で開かれている「ひきこもりデイケア」のメンバーを調査したところ、8割が投票したといいます。

 「ひきこもり九条の会」の対象は、「社会的ひきこもり」の定義か「社会不安障害」の診断基準に該当し「九条の会アピール」を支持する方に限定したいと思います。会費は不要です。

 活動は、ひきこもりの人たちに「アピール」を広める運動、ネット署名等「ひとりでできる」「家でもできる」サイバーアクション、メーリングリストや文通での会員間の交流などを考えています。

 活動第一弾として、5月3日付読売新聞18面に、9672の個人・団体ともに「九条実現」全面意見広告を掲載しました。「ひきこもり九条の会」の名も小さく載っています。

 ご連絡お待ちしております。

*「九条の会」オフィシャルサイト

 http://www.9-jo.jp

*「ひぎこもり九条の会」

 http://blogs.yahoo.co.jp/hikikomori9

 hikikomori9@yahoo.co.jp

  「九条の会」アピール

 日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。

 ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。

 侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。

 しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして、子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。

 アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかおりません。一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。

 二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかおりません。

 憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。

 私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。

  2004年6月10日

  井上ひさし(作家)

   梅原猛(哲学者)

  大江健三郎(作家)

奥平康弘(憲法研究者)

    小田実(作家)

  加藤周一(評論家)

   澤地久枝(作家)

  鶴見俊輔(哲学者)

三木睦子(国連婦人会)

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●21号-文通希望せず  『ひきこもりセキララ』

よし子 〔東京都・主婦〕

 『ひきこもり、セキララ』を読みました。読んでみて思ったことは、作者が特別変わっているという印象はないのです。

 ひきこもりになった作者と、ならなかった普通の人との違いは何かなと考えると、その一つに、父親との関係の違いがあるように思います。サラリーマンで役員の地位までなった、ノアさんの父親はかなりのやり手だったのでしょう。

 気の弱い息子を自分と同じか、あるいは、それ以上の仕事ができるように教育したかったと思います。しかし逆にそれが、本人のやる気や考える力、自分で生きる力を、うばってしまったのかなと思いました。

 幼児時代から小学校低学年の頃の事はあまりくわしく書いていなかったようで、よくは解らないのですが、人間の人格形成は幼児期にほとんどなされるので、その時期に本人が自信を持てなくなるようなことが、繰り返しあったのかもしれません。

 それと現在大人になってからのことですが、働く事は、本当に大変なことで、どうしても働かなくては食べていけない状態になった時は、必死になり、働けることがあるのかもしれません。例えば、嫌な事ですが自分をやしなってくれていた親が他界してしまうとか、病気で入院しまうとか。

 幼い時から自立の芽を親がところどころでもぎとって来たからこの豊かな時代になってひきこもりが増えたような気がします。昔はひきこもりなんていませんでしたから。私が小学生の頃は両親は必死で働いていたので、私は夕食の準備や片づけをするのが毎日の仕事でした。今もそういうことをする子は少ないだろうと思います。

 私もわが子を家事手伝いよりも勉強をするように育てて来ましたが、生きていくためには、家事手伝いも大切なことの一つだったと今となっては反省しています。

 わが家には、北豊島通信制高校?類一年の娘がいますが、なんとか無事卒業まで通えることを祈り毎日過ごしています。

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●文通番号20-05  第二の軸

ミズキ  [東京都八王子市 男 38歳 無職]

 ときおりマスコミ上で引きこもりを肯定的に評価する意見に出会うことがあります。曰く「引きこもりは内的成熟のプロセスである」「自分らしくある勇気と創造力を無意識に発酵させる時期」「孤独を深めたものだけが真の自分に出会える」……。いずれも勇気を与えてくれる、と同時に説得力に満ちた言葉です。

 私自身の場合を振り返ってみても、周囲に流されず孤独の時を獲ち取れたからこそ、今の自己肯定感と自信を取り戻せたのだと断言できます。何より社会に適応した人からこのような意見が出る、という事実に私は勇気を与えられるのです。

 かたや一部支援者による「一人でいても何も変わらない」などという「脅迫という弱さ」と発想の貧しさしか伝わってこないような言葉には悲しい思いを禁じえません。宮台真司の言葉を借りれば「中途半端な支援はむしろ、支援を必要とする人を大量に生み出す社会問題を放置するのに貢献しがち」で、支援者の「本人の意識さえ変われば引きこもりは解決」という姿勢は、社会の側にあるはずの要因をも隠蔽してしまうでしょう。

 不登校の場合には見られるような、多くの引きこもり者を生み出している構造にまで斬り込む視点を持った真の「支援」者の存在を私は残念ながらまだ聞いたことがありません。

 それが実は内なる自分の選び取った道であったことに気づくためには孤独と苦悩の時間が必要です。しかしこれは自己実現を目指す引きこもり者にとっては乗り越えるべき試練でしょう。これがしばしば医学的に見ても有害無益なブランクとなってしまう原因の一つは孤独そのものにあるのではなく、「孤独は不健康、不幸、悪でしかない」という周囲の脅しと非難がもたらすストレスにあるのではないでしょうか。

 さて、引きこもり問題を「社会」と「そこからドロップアウトした一部の若者」との間にあるギャップととらえる見方は、おそらく素直かつ一般的なものでしょう。しかし先に挙げたような2つの異なった立場からの意見を目にするにつれ、最近の私は、これとは別の「自己実現」と「社会適応」という第2の対立軸の存在を痛感するようになりました。

 多くの人にとって、この二つの目標を両立させることが不可能な理由が現在の社会システムにあることは「ひきコミ」誌上で今までにもしばしば指摘した通りです。引きこもり者にも「社会適応」を当面の目標とする人がいる一方、私のように「自己実現」を目指す者もいます。

 これと同様に事実上社会に適応しながら人生を送っている人たちの中にも「社会適応」指向の人と「自己実現」指向の人がいると思われます。社会自体の中にありながら普段はあまり表面化することのない、この両者を隔てるより根深いギャップは、引きこもり問題について活発に語られる場面で、より鮮やかに浮かび上がってきているのではないでしょうか。

 人間は時に社会の常識と戦いながら「より人間らしい生」を追求してきました。個人の自由を尊重し、社会適応より自己実現を重視する「実存主義」もその中から生み出されたものです。「引きこもり問題」をもこの人間追及の歴史の中に位置付けるセンスを私は支援者に期待してやみません。

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●19号-文通希望せず  相談先を紹介します

ヨーキー 〔東京都葛飾区 母親〕

 第18号に相談私設施設を募集中とあったのでわが家のことをお知らせしたく書いてみました。

 現在中3の娘ですが、中1の3学期(H13年1月、2年前)からまったく学校へ行かなくなったので、国府台病院(市川市)と葛飾区総合教育センターのカウンセリングへ親子で3か月程通いました。本人が嫌がり、本人は両方止めました。

 親(私)だけは今も葛飾区立総合教育センターに月1回の割合で続けています。合わないという人もいますが、じっくり1時間無料で話を聞いてくれ(後からお願いしてそうしてもらいましたが)、よくないところはアドバイスしてもらいました。学校の時も1年ほど相談しに行ったのでもう3年も通っています。

 本人自身がどこへも相談機関に通っていないので探して(中2、1学期から)新たに東京都教育相談センター(目黒区)アドバイザースタッフをお願いして家に来てもらいました。これは無料なのでお勧めです。心理学部の大学生が週に1回2時間家に来てくれ、勉強は教えることは出来ない決まりなのですが、話し相手、ビデオ鑑賞、コラージュなどをしてくれます。

 その後、1年ほどわが家へ通ってくれた後、東京都教育相談センターの担当の先生、学生、親と3人で月に1回ほど、東京都教育相談センターに集まり様子を話し合い指導してくれました。

 次に家の外で学生スタッフと教育的な場所で(喫茶店はだめ)会うという目標で、学生さんが娘に話してくれました。初めは嫌がったのですが、2か月後から葛飾区立総合教育センターの一室を借りて、そこへ出かけられるようになりました。

 大雨が降って行けない日もありましたが、月1~2回センターで学生さんに会いに、家に月1~2回来てもらい、続けているうちに出かけられる自身がついたようです。

 来春から週1~2回なら通えそうだからと、通信制高校(北豊島高校?類、スクーリングが多く、平日講習が希望で受けられる)へ行くことになりました。

 葛飾区立総合教育センターのカウンセリングへは本人は通っていなくても私が通って娘のことを相談しているのでよく理解しています。その先生と東京都教育センターの担当者の先生と、娘と直接かかわっている大学生の3人の連携で娘の様子や時期をみながらタイミングよく指導してくれたお陰で前へ進めることができたと感謝しています。

 3か月前には中卒後の進路が決まらずどうなるのかと心配していました。あまりせかさないように親の意見には1,2度言うだけにしていましたし、中2の1学期から私だけ月に2回の割で精神科の医師の元へ通い日常生活で困っていること、2週間の間に起きた問題などを話して指導してもらいました。不登校は家族だけではどうしようもない問題なので定期的に専門家に相談することをお勧めします。

 私が通った所は、青山渋谷メディカルクリニックで、予約制で待たされず一人20分と時間が決められているのでその中で質問することのメモを準備して行きました。

 基本的には不登校児は親への依存心が強いこと、私の場合は子どもを押しすぎるので、それをひかえるようよく注意されました。

 学生スタッフと本人とのかかわりは、本人と対等の立場でつき合ってもらえたこと、外の風が家へ入ったことがよかったのでお勧めします。

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●文通番号18-20  読書レポート「激論!ひきこもり」

ミズキ [東京都八王子市 男 38歳]

 私は現在、社会生活を営む上で障害となる症状を抱え精神科に通院中である。しかし自分か仕事をせず人とも会わない理由を「心の病気だから」の一言ですませたくはない。社会の構造が生み出した病を抱えた者が、その病を社会に参加できない口実にするのは本末転倒だと思うからである。

 「人間は社会のために努力(労働、勉強)すべきである」という旧来の常識が、慢性的な疲労と憎しみを生み出している現状を批判し、あえて「理由が何であれ働きたくないときには働かない自由」を主張してきたのもそのような思いからである。

 ちなみに支援団体「タメ塾」(現在では青少年自立支援センター)代表の工藤定次氏は、私のような人間を「引きこもりもどき」と呼んでいる。つまり引きこもり問題を都合よく隠れみのにして、ぶらぶら遊んでいるだけの怠け者ということなのだそうである。

 この本はその工藤氏と「社会的ひきこもり」の著者として有名な斎藤環医師の対談である。片や「こわもての民間援助者」、片や「良心的なドクター」(4、5P)。

 タイトルから受ける印象の割にはおおむね歩み寄りムードのうちに行われたこの対談のうち、両氏の意見が最も分かれたポイントの一つは、支援者が場合によっては手を掛けて(要するに力ずくで引きずり出して)施設に連行することの是非についてであった。

 工藤氏の自立観は明快で「自立とは自分の力で飯を食うことだ」(162p )。したがってタメ塾の目標も塾生の「労働による経済的自立」にある。そして彼が施設への強行な連行を正当なものと主張する根拠が、なんと「引きこもり者の自由」だというから驚きである。

 本当なら実にありかたいことだが、しかし工藤氏の使う「自由」という言葉、なかなかのクセモノなのである。読みながら私は思った。かつて力を待った者が、支配という目的を隠すため、逆に自由を尊重するかのようなポーズを装いながら現れたことはなかったか。

 そして浮かんできた言葉が「労働は自由への道」であった。ある意味でタメ塾にピッタリのこのスローガン、門にでも掲げてみてはいかがだろうか。

 それにしても一体なぜ強制連行が自由尊重の結果なのか。彼は言う。

 「おれは、彼らに『絶対的自由』を獲得してはしいんだよ。(中略)人に養われてるという状態は、精神的苦痛を伴うと思っているから、その状態から自由になってもらいたいと思っている」(49~50p)。

 奇妙な論理である。自由のない「不自由」と自由を自覚できない「気兼ね」がさりげなくすり替えられているのも気になるが、そもそも引きこもり者は親に養ってもらっているから不自由なのではない。不自由だからこそ親に養ってもらっているのである。

 仮に手足に障害があって不自由を感じている人が親の庇護を受けていた場合、やはり工藤氏は力ずくで引っ張り出すべきだと主張するだろうか。

 もし「手足が動かないから働けないのなら障害だが、働く欲求がないから働かないというのは単なるワガママだ」と断言する人がいるとしたら、それは単に心の問題に対する無理解をさらけ出しているに過ぎない。

 傷つくことによって失われ、決して本人の努力や外部の要請のみのよって回復するものではないという点て「働く欲求」は手足の運動能力と同じである。

 これに対しては思考停止に陥った常識人からの「欲求なんかなくたっていいからとにかく働け」という声も当然予想されるが、工藤氏はそんなことは言わない。少なくともタテマエ的には物分かりのよいリベラリストの立場に立つ以上は言えないのであろう。

 もし工藤氏が「彼らに絶対的自由を獲得してほしい」のならば、当然「働かない自由」をも尊重するはずである。

 だが、彼は言う。「本人だけが自由で、自己主張しているかもしれないけど、じゃ、家族はどうなのか、周辺はどうなのか」(139 p )。

 「家族の身に及ぶ危険が大きい場合の対処法」という、そもそも引きこもり支援とは別次元の問題について、ここで私か言うべきことは特にない。

 しかし「子どもが働かないから親が困っている」という状況が、必ずしも「引きこもり者が親の自由を奪っている」ことを意味する訳ではないという点は指摘しておきたい。

 自由と責任の所在を明確にする立場からは、たとえイヤイヤであろうと彼を養う以上、親は「養う自由を行使している」と見なされる。働かない者を家族がどうしても許せないというのであれば、彼をどう処遇するかという問題に結論を下す自由と責任は家族の方にあるのだ。

 といっても本人と家族が互いの自由を侵害せずにすむ解決方法といえば「本人の餓死する自由を認めて一切の援助を打ち切る」ぐらいしか私には思いつかない。

 しかし少なくとも私は、いざとなればそのような親の冷酷な決断を許す覚悟は自分に課しながら引きこもってきたつもりである。「死ぬか引きこもるか」という状況にまで追い詰められている者に、どちらかといえば自由に恵まれているはずの親が解決の責任を押しつけることこそ、「冷酷」に劣らず性質の悪い「甘え」というものであろう。

 まずなにより[リベラリスト]工藤氏が大手をふって引きこもり者を強制連行できるのは、実は本人の「同意」をタテにしているからなのである。

 「前の日には本人が『行く』と言っていても、次の日には体が動かなくなるケースはよくある」(119 p )。そういう時は「拒絶した体に手を添えるからな」(117 p )。

 しかし考えていただきたい。人と会わない普段でさえ「社会のために働くのが当然」という常識からの批判に脅えている引きこもり者のうち、その常識の世界から現れた人間に、オメエも本当は働きてえんだろ? などと面と向かって詰問されて「いいえ」と答えられる者が果たしてどれだけいるだろうか。

 「□がついた嘘を体が裏切る」という現象は心に問題を抱えた人には珍しいものではあるまい。自己が統合されておらず自分にも嘘とわからぬ嘘をついてしまうからこそ、さまざまな問題も起こるのであろう。

 ちなみに「引きこもり」こそは自己統合を遂げ「働きたくないから働かない」と主張できるようになる(つまり工藤の言う『引きこもりもどき』になる)ために必要なプロセスであり、治療者はその自由を保障すべきである、という説得力に満ちた医学的見解もある(思春期内閉症)。

 しかし工藤氏はこの選択肢をおそらくは故意に無視し、これ好都合とばかりに引きこもり者の「口がついた嘘」を強制連行正当化の根拠にしているのである。

 前にも述べたが引きこもり者がしばしば発する「本当は働きたいんですけど」という言葉の裏に、社会のプレッシャーによるバイアスを読みとれない、読みとらない人間が支援に携わっている現状に私は大いなる疑問を抱いている。

 ましてや公共の電波で「働きたくないから働かない」と主張する者を放送に堪えないような言葉で罵り(2001年4月29日、MXテレビ『Tokyo boy ・ 引きこもりの実態』一工藤氏の音声は一部カットされた)、引きこもり者に自ら進んでプレッシャーをかけるような人物などは論外である。

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●文通番号17-11  「社会的暴力」論

ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕

 数年前一人の若者による「なぜ人を殺してはいけないのか」というあるテレビ番組内での発言が、ひとしきり世間の注目を浴びました。私の知る限りその後社会からはこの問に対するなんの納得すべき回答も示されませんでした。

 一方自然からの回答は単純明快です。自然界には善意という観念自体がそもそも存在しませんから、人を殺してはいけない理由もありません。

 こういえばいかにも自然界が人間社会と異なり、日常的に暴力が横行する恐ろしい世界であるかのように聞えますが、本当にそうでしょうか。

 暴力が日常に横行しているのは人間社会も同じことです。むしろ人間ほど同一種族内で激しく傷つけ合う動物はそう多くはないのではないないでしょうか。何より自然界と人間社会、それぞれにみられる暴力の質の違いについて十分考慮に入れるべきであると私は思います。

 人はみな「自然」と「社会」という2つの世界を同時に生きています。第9号でも述べた通り残念ながら現在の社会は「社会的プライドに基づく憎しみ」という自然界には存在しない感情によって秩序を維持されるシステムです。社会(人)は自然の一部を「悪」と名づけて憎みますが、そのことにより自然(人)からも確実に憎み返されているのです。この憎しみ(=精神への暴力)の応酬自体がすでに人間社会を自然界に勝るとも劣らず殺伐たる世界にしていると言えるでしょう。

 物理的暴力はその犯罪性を十分に強調され、抑圧されている一方で、社会が一方的に設定したルールに基づく精神的暴力はその不当性を顧みられることもなく容認され、行使されています。

 このような事実を見るにつけ、現代社会における心と体を巡る意識の不健全なまでのアンバランスを痛感せずにはいられません。

 のみならず注目すべきは、例えば学校教育―逸脱行為―体罰―非行・犯罪―刑罰(憎しみの表現としての)というような人間社会では新たに憎しみの応酬により、もともと自然界には存在しない物理的暴力までもが生み出され、ともに増幅し循環しているという点です。

 この中には一見「自然対自然」の暴力に見えながら実は、一部オヤジ狩りのような「自然から社会への逆襲」や浮浪者狩りのような「社会から自然私的制裁」といった性格の濃いものも含まれるでしょう。「悪を憎む」意識が生み出したこの暴力循環を再び「悪を憎む」ことによって抑制することは不可能と思われます。

 私は別に刑法のような「個人の自由を守るためのルール」の必要性に意義を唱えるつもりはありません。法律は憎しみとは別に成り立ちうるもののはずですから。

 そこで私が提唱したいのは、法を守るのはいったい誰のためなのかという基本的な問題についての見直しです。真に自立した個人にとって法を守るのはあくまでも自分のためです。

 目指すべきは「守りたくないほうは守らなくてもよい、その自由を認めた上で法を破った者にはペナルティーを厳正に適用する」社会。非常識な意見に聞えるでしょうが、これこそ「罪を憎んで人を憎まず」と呼ぶにふさわしい姿勢ではないでしょうか。

 逆に従来の常識通り「私は社会のために法を守っている」というプライドを法の運用とからめる限り、人間社会が増幅する憎しみと暴力の循環という地獄から解き放たれる日は来ないでしょう。

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●文通番号16-40  ちー坊より愛をこめて

ちー坊 〔東京都青梅市 女〕

 たとえばもし、君が明日死んじゃったとして周りのみんなはきっと悲しむと思う。

 君がボクなんか死んでも誰も悲しまないと思ってるかもしれないけど、それはたぶん違う。君が周りからみられてる自分より君はもっと偉大で尊厳されている。君の命は偉大だよ。

 そして本当は君はどこかでそれを知っているんじゃないかと思う。だってそんなに苦しんでいるのだから。なんとも思わなきゃそんなに苦しまないでしょ。

 あるいは今いる家族を守るためそんな行動にでていたりするんじゃないか(そんな自覚はないと思うけど)。

 とにかく君の行動は必然だったんだと思う。だけどこれからは“君のため”に生きて下さい。君が心から笑う姿を願っています。

 貴方は世界で、(この地球上で)たった一人しかいないのだから。

 自分、大事にして下さい。

 ちょっとずつ、ちょっとずつでいいから……。

 例えば対人関係がうまくもてないとか人が恐いとか。全部自己否定とか自分に自信もてないとか、そんなところからきてるように、私は思う。

 ……だから、貴方が好きなこと、貴方のしたいこと少しずつ、少しずつすることで自分、好きになる。生きてることうれしくなる。人とちがってもいいんだと思う。本当はちがうからいいんだyo。みんなちがう顔して生まれてきてちがう命を持って、それぞれのよさがありそれぞれやれることもちがう。

 せっかく生まれてきたのだから!

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●文通番号16-37  「自助グループ」活動への期待

ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕

 「自助グループ」という言葉から私が想像するのは、アルコールなどの依存症やACのためのグループです。

 もちろん引きこもった人の全てがACとは限らないとは思いますが、引きこもり者には、長年にわたり共依存的な家族関係の影響下にあった人が多いのではないでしょうか。

 私自身は引きこもり者のための「自助グループ」に出席したことはありませんが、引きこもりという社会問題の解決にあたってそのような、あるいはそれに似たような場(『ひきコミ』を含め)が果たすであろう役割には大きな期待を寄せています。

 ただしそのためには、ACに限らず現代社会に生きる人たちは「狭さの押しつけにより、強い者に傷つけられ、弱いものを傷つける人間関係」にとらわれている、という共通認識が活動の土台として不可欠ではないでしょうか。

 多くの引きこもり者もいわばこのような人間関係に「急性中毒」を起こした人たちと考えられます。アルコール依存の自助グループが酒からの脱却を目標とする人の集まりであるのと同様、引きこもり「自助グループ」の活動目的はこのような人間関係からの脱却であるべきでしょう。

 たとえ「場」をつくっても、世話人やメンバーにこのような認識が欠けている場合、それは引きこもり自体を問題活動への嗜癖と見なし、そこからの立ち直りを活動目的とするグループになってしまう可能性があります。

 引きこもり問題を生み出した原因を個人の「弱さ、未熟さ」にのみ帰し、現社会に対する批判的な支店を持たないグループは、結局のところ現社会の縮図(カリカチュア)にしかなり得ません。

 このようなグループが社会的スキルと称して、共依存的人間関係のストレスに耐える強さを賞揚するなら、これはまるでアルコール急性中毒で倒れた経験を持つ人が少しずつ酒を飲んで耐性をつけているようなものです。

 当然そこでの人間関係からは、不適応を起こした弱い者がさらなる孤立に追い詰められるという自体が発生するでしょう。つまり「引きこもり問題の濃密化」です。

 一方、私がイメージするのはさまざまな活動を通じ具体的には次のような人間関係を目指すグループです。まず「自由と責任を自覚し尊重し合える」。

 第一に認められるべきは「引きこもる自由」。義務感に基づく人間関係にはない「人と関わる自由、喜び、力」を得ることができるのは、引きこもる自由を自覚できた人のみだからです。

 その他の自由についても、より大胆な言い方をすれば、お互いのワガママを許し合えるようになることが望ましいでしょう。とはいっても「他人の自由を侵害するようなワガママ」が許されないことは言うまでもありません。

 次に「お互いのワガママを調停できる」。お互いの対等な自由がぶつかり合うところには、当然ある程度の摩擦は予想されます。それを「悪いのはどちらか」という問題にすり替えたり、感情的に相手の人格を攻撃したりすることなく主張的に交渉し、ときには妥協する能力。これこそ「社会的スキル」と呼ぶにふさわしい能力といえるでしょう。

 ここでは「自分は傷ついた―だから悪いのは向こう」といった短絡した主張は認められません。

 さらにこのような人間関係の重要性に理解を示す人たちには、引きこもりの経験の有無を問わず門戸を開くのもよいのではないでしょうか。

 思えば個人の欲望(=ワガママ)を調停したところ以外に、絶対的に「正しい社会」が存在する訳でもありません。個人が自由を持て余し「許されるべきワガママ」さえ言えないような共依存的人間関係の下では、民主主義も正しくは機能しないでしょう。

 こう考えてみると、むしろこのような引きこもり者のグループが「社会の病理」から脱した新しい人間関係のモデルとなる可能性さえあながち夢ではなくなってくるのです。

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