Center:2000年5月ー不登校・引きこもりの当事者の会合をめぐって
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〔B5版メモ用紙5枚に「不登校・引きこもりの当事者の会合をめぐって(試論)」と清書していたもの。<br> | 〔B5版メモ用紙5枚に「不登校・引きこもりの当事者の会合をめぐって(試論)」と清書していたもの。<br> |
2017年11月19日 (日) 20:37時点における版
不登校・引きこもりの当事者の会合をめぐって
〔B5版メモ用紙5枚に「不登校・引きこもりの当事者の会合をめぐって(試論)」と清書していたもの。
2000年5月25日の日付があります。
2012年5月31日の掲載においては表現などを変えていますが、99%以上は原文どおりです。〕
マスコミ関係者の参加について
マスコミ関係者(TV・新聞・雑誌)に対して、不登校情報センター、こみゆんとクラブ・人生模索の会などの体験発表会、交流会の場に参加するように勧めています。
私がそこに期待していることは、不登校、高校中退、引きこもり、あるいはそれらの近接領域にある人と家族の生の声を聴き、雰囲気を感じ取ってほしいことです。
私は、マスコミ関係者からいろいろな機会に取材を受けます。
その状況において、可能な説明はしますが、その時点で第1次情報ではありません。
たぶん整理され、総合され、抽象され、たぶんなにがしかの仮説によって説明しているのです。
私からの情報入手は第2次情報にならざるを得ません。
テレビや新聞で報道される、これらの問題の取り扱いに関して、私はいつもわずかずつ違和感があります。
それは取り上げる対象者を私が知っている人と違うからではないと思います。
マスコミにおける報道は、第2次、第3次情報になっていることと関係していると思います。
たとえば、TVで直接に当事者が出て話す場面があります。
これは第1次情報だと思うかもしれません。
しかしそうは言いきれません。
その登場した当事者に聞いてみると、一番言いたかったことは放映されず、副次的な主張の部分が主に放映されている、という場合が少なくありません。
そこには“編集作業”が入っているからです。
ディレクター、編集者、記者などが、一定の視点・角度、問題意識を持つのは当然であり、それは避けられないのですが、それが“編集作業”になっています。
これらの事情が、当事者の直接登場する報道であっても、1次情報とは言いきれない理由です。
もし違和感のない報道があるとすれば、その当事者のすべてをそのまま読みとれるもの以外にはないでしょう。
しかしテレビや新聞などマスコミは、スペースも時間もきわめて限られているので、これを満たすことはできません。
当事者の交流会や体験発表会は、それに対して、当事者のすべてをそのまま読みとれるのにものに近くなります。
このような場にマスコミ関係者が出席していれば、より正確に、全体像をとらえることができるでしょう。
それを、いわば正比例する形で限られたスペース、限られた時間に報道で表現することを願っています。
といってもそれはきわめて難しいことであり、違和感なく見られる報道は少ないと思います。
しかし、このような場面に何度も参加することによって、マスコミ関係者もだんだんと習得し、一定の視点の基づくものであっても、違和感なく見られる報道が期待できるようになるでしょう。
特別に、宗教的、政治的あるいは学派的な色彩で持って、事態を枠付けしなければ、という前提においてです。
マスコミ関係者との「ギブ&テイク」について
このような場に、マスコミ関係者の参加を勧めていることに対して、ある席で当事者の1人が「ギブ&テイクなんですか?」と質問してきました。
ギブの面とは、マスコミ関係者に出席を認め、自由な情報入手の場を提供していることをさしています。
ではテイクの面とは何でしょうか。
このような会合の場面を新聞紙上で紹介してもらったり、雑誌で発表してもらえるでしょう。
それは社会的信用、社会的認知を高めるというものでしょう。
そしてテイクの面において、そのような事実、効果、役割を否定できるものではありません。
その意味で「ギブ&テイク」というのは当たっていると思います。
問題は、これまでその面について意識的追求が弱かったこと、ということかもしれません。
これからの研究テーマになるでしょう。
マスコミ(関係者)側に立てば、より正確な情報、より深みのある観点に立つ報道は、マスコミ自体の課題といえるでしょう。
この種の取り組み(会合)に社会的意味合いがあれば、それを何らかの形で報ずることは、マスコミ自身の持つ役割の実現ということになるでしょう。
さらにビジネスライクに表現すれば、相互利益あるいは利害の一致というところかもしれません。
学生の参加のよびかけについて
学生(この場合、家庭教師募集によって応募してきた訪問スタッフの学生)に、不登校、引きこもり体験者の交流会などの会合に参加を勧めるのも、マスコミ関係者に参加を勧めるのと似ています。
当事者の現実を知ってもらいたい、雰囲気を感じてもらいたいからです。
それは、現実に訪問活動をしたときに、基本的な対応に関する情報をより多く身につけているという形で、成果が期待できる面があります。
不登校・引きこもりの子どもは一人ひとり違っていますが、このような会合で感知する情報は、教育学、心理学、福祉学という体系化、抽象化されたこととは別の、実際的な役立つものになるでしょう。
現実と理論は結びついていますが、同じではありません。
理論は整理され、のみ込みやすくなっています。
現実は雑然としてとらえどころがないようにみえます。
このような場は、現実に近い情報認識の場といえるでしょう。
そこで学生に学んでほしいのです。
当事者にとって有益な場は何か
一方、当事者からは別の感覚で評価する人もいます。
当事者にとって、このような会合の場は、お互いにすべてをさらし、語り、表現する可能性をもって参加します。
そうすることが、自分にとっても、同席する別の人にとっても、最も有益な場になるからです。
その場で、実際にどの程度、生身の自分を表現できるのかは、その出席する場、そこに出席している人たちの信頼感に左右されます。
交流の場がより有益な役割をもつには、安心して自分を語り、表現できることが必要です。
弁解が不要であり、そうならざるを得なかった自分の姿を示すことで、自分で歩みなおすことができるのです。
“教材”は同席している別の人であって、“学ぶ”主体者は自分自身、前進していく原動力は自分自身でしかあり得ません。
そういう場に、事態の外部にいて“学ぶ人”、あるいは観察者、批評者がいることは、TPOによっては、雰囲気を壊してしまいます。
当事者以外の人(あるいは目)があることによって、事態を別の評価、別の観点で察し、力にすることがありますが、そうならないこともあります。
実は、別の目をもつ人が、そういう力をつけていく学習の場が、このような交流会などですが、それはいつもいい役割をするわけではありません。
学生の参加のしかた(これはマスコミ関係者の参加のしかたでもある)は、基本的に受け入れ、学ぶという以上であってはならないのです。
科学はそれ以上のことを求めますが、このような場は科学的真理の追求の場ではないのです。
それは別に求め、別に用意されなくてはなりません。
このほか当事者以外の参加可能な人は、カウンセラー(および会の設置者)でしょう。
それはいまのところ、私(松田武己)になります。
その助手的な役割において参加できる人もありうると思います。
ただそれがどんなしかたで、どんな関わり方で参加することになるのかは、必ずしも明確ではありません。
学生サークル結成について
これらの未整理な問題に対する結論はすぐには出せません。
極端に不都合なことが発生しないかぎり、当面ようすを見ながら、改善を重ねる、ということだと思います。
もう一つの打開策につながる方法があります。
学生による〔不登校・引きこもり〕学習サークルの結成です。
それは人間科学としての真理を追究することも射程に入れた、学習と研究とたぶん実践サークルになるでしょう。
そこが主体となり、不登校・引きこもりの体験者に協力をよびかけて、当事者の生の声を聴く機会が設定できれば、万事支障なく、事態はすすむでしょう。
ただ、人間は、その場においてどの程度信頼できるのかによって、その話す程度、話せる程度が自ずと決まってくる、ということを見通していなければ、真理の追求はおぼつかないでしょう。