Center:2006年7月ー引きこもりからの仕事起こし(その2)
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− | 〔『ひきコミ』第34号=2006年7月号に掲載〕<br> | + | 〔『ひきコミ』第34号=2006年7月号に掲載〕 <br> |
− | + | 第32号の報告のつづきです。<br> | |
+ | 今回は2004年夏から2005年夏までの1年4か月です。<br> | ||
+ | 言いかえると「あゆみ書店」が閉鎖されたとき(2004年5月)から、事務所を近くのマンションに移転した(2005年8月)期間を振りかえってみます。 <br> | ||
====(1)フリースペースへの来所者の急減==== | ====(1)フリースペースへの来所者の急減==== | ||
− | 「あゆみ書店」を閉鎖したのは、それが何ら実質的な役割をもたない、"開示された状態の書庫" | + | 「あゆみ書店」を閉鎖したのは、それが何ら実質的な役割をもたない、"開示された状態の書庫"になっていたからです。<br> |
+ | 場所は占めているけれども風景以上の役割をほとんどもたなくなっていたからです。<br> | ||
その背景にあるのは、フリースペースに来る人が急減したことです。<br> | その背景にあるのは、フリースペースに来る人が急減したことです。<br> | ||
− | + | フリースペースにやってくる人がいちばん多かった時期は、2003年秋(10月から11月)ごろと推測され、1か月での総数は450人~460人、一度でもきたことのある絶対人数は70~80名です。<br> | |
+ | 1人が平均して1か月に6~7日来ていたと思います。<br> | ||
− | + | それから1年後の2004年秋ごろのフリースペース来所者は1か月総数で200人前後、絶対数は30名ぐらい、1人平均の来所はあまり変わらず1か月に6~7日です。<br> | |
+ | 来る人は相変わらずのペースで来ているけれども、その絶対数は減っている状況になったと思います。<br> | ||
− | 私はこの減少を、"ブームが去った" | + | 私はこの減少を、"ブームが去った"と表現してきました。<br> |
− | + | この表現はいまでも有効だと思っています。<br> | |
− | + | それはこの事態はたんに不登校情報センターだけのことではなく、いろいろなフリースペース的なところでも同時に生じていたことだからです。<br> | |
− | この点をここでは詳しく入っていくのは避けましょう。 | + | しかし、それとは別の要素もあります。<br> |
+ | 引きこもりに対するフリースペース的対応の限界、行きづまりが感じられたことです。<br> | ||
+ | このような微温的なフリー スペースでの対人関係をつづけているだけでは、引きこもりから抜け出す経路としては有効に働かない、その限界が示されたということです。<br> | ||
+ | といってもこのようなフリースペースに役割がなかったとは思いません。<br> | ||
+ | それは引きこもり状態にある人、現に引きこもっている人にはいまでも必要だと思います。<br> | ||
+ | そのことは多くの人には認められないかもしれませんし、行政的支援、支援者を自称する人たちの一部からも歓迎されていない気がします。<br> | ||
+ | "労多くして、得るものは少ない"ように見えるからです。<br> | ||
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+ | この点をここでは詳しく入っていくのは避けましょう。 <br> | ||
+ | 私自身は、この時期を1つの歴史的な時期であると考えています。<br> | ||
+ | 不登校情報センターのフリースペースには、活発に見られる時期もあったし、低迷してみえる時期もある、それはある歴史法則のようなものが働いていて、二度と巡ってはこないだろうという意味です。<br> | ||
+ | それは日本の歴史における明治時代が二度と巡ってこないのと似ているような歴史法則です。<br> | ||
====(2)フリースペースを去った人の傾向==== | ====(2)フリースペースを去った人の傾向==== | ||
− | + | このフリースペースの活発期から低迷期への移行には何が起きていたのでしょうか。<br> | |
− | + | いくつかの傾向が生じたと思います。<br> | |
− | 私は、この人たちを精神的にはフリースペースを"卒業" | + | ある傾向は、フリースペースの経験をふまえた、その人なりの形で働き始めた、働く傾向に動き始めたという人が表われました。<br> |
− | + | この人たちもいろいろですが意識としては、「フリースペースの役割を終えた」とか、「このような状態をつづけていても将来(人生)を開けない」と感じていたように思います。<br> | |
+ | 私は、この人たちを精神的にはフリースペースを"卒業"した人であると考えます。<br> | ||
+ | しかし、この"卒業生たちの高い割合での特徴は"、卒業後も、ときどき来所することが多いことのように思います。<br> | ||
+ | そういう"糸の切れない"自分から抜け出すために、「もう行きません」と宣言してみたり、秘かに決心してみるのですが、それでも時おり連絡してきたり、顔をみせたりしますし、フリースペース時代に出来た人間関係は大切にしているように思います。<br> | ||
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+ | 次の傾向は、再び引きこもり的生活に戻っていった人たちがいます。<br> | ||
+ | この人たちもまたさまざまで、それ以降も長期的な引きこもり生活に入ってしまった人、再びフリースペースに戻ってきた人、ほかの支援団体に向かっていった人・・・などがいるように思います。<br> | ||
上の2つの傾向にまたがった、フリースペースの来所した時期に人間関係のこじれ、対立を経験したことが契機になった人もいます。<br> | 上の2つの傾向にまたがった、フリースペースの来所した時期に人間関係のこじれ、対立を経験したことが契機になった人もいます。<br> | ||
− | 私が知り得る範囲では、このような経験者は主に、前者の"卒業"気分組に入る人が多いのですが、いわゆる陰性行動としての意志表示をしやすい引きこもりの人が、" | + | 私が知り得る範囲では、このような経験者は主に、前者の"卒業"気分組に入る人が多いのですが、いわゆる陰性行動としての意志表示をしやすい引きこもりの人が、"見えない方向"で動くことが多いので、このあたりの判断は、さらに年月を経てからの方がいいでしょう。 <br> |
− | + | ||
+ | もう1つの傾向が、フリースペースに来つづけている人たちです。<br> | ||
+ | この人たちは、そこで何かできることを見つけ、来つづけることの意味を見出した人たちだと思います。<br> | ||
+ | もちろんまだそこまではいかないけれども「まだフリースペースに代わる場所を見つけ出せない」「引きこもり生活に戻りたくない」「社会に入っていくには抵抗がある」という思いが同居するなかでの、フリースペースの役割認識でしょう。<br> | ||
====(3)この時期の収入金額レベル==== | ====(3)この時期の収入金額レベル==== | ||
この最後の傾向にいる人たちを主な対象として、私は、不登校情報センターで「収入につながる取り組み」の開発を持ちかけていたことになります。<br> | この最後の傾向にいる人たちを主な対象として、私は、不登校情報センターで「収入につながる取り組み」の開発を持ちかけていたことになります。<br> | ||
− | + | これらの「収入につながる取り組み」は、このときに突然にわき起こったわけではありません。<br> | |
+ | その前の時期に始めて、のろのろと続いていたことを継承する形でつづいていたわけです。<br> | ||
「あゆみ書店」は2004年5月には実質的に閉鎖されていましたが、それに代わる「収入につながる取り組み」が既にあったのです。<br> | 「あゆみ書店」は2004年5月には実質的に閉鎖されていましたが、それに代わる「収入につながる取り組み」が既にあったのです。<br> | ||
− | + | その様子は『ひきコミ』第32号に掲載した「収入になる取り組み等記録」による、月別の収入金額の一覧表でも確認できます。<br> | |
− | 「あゆみ書店」 の時代の「書店」からの最大収入は、3.9万円ですから、低水準のなかでのワンランク上であると理解しています。 個人として最高収入は、2005年1月の9. | + | 2004年5月から 2005年8月までの引きこもり当事者の収入合計は、最高が2005年1月の40万円、最低が2004年7月の6万円、平均15万円です。<br> |
+ | 「あゆみ書店」 の時代の「書店」からの最大収入は、3.9万円ですから、低水準のなかでのワンランク上であると理解しています。<br> | ||
+ | 個人として最高収入は、2005年1月の9.8万円です。<br> | ||
+ | 毎月平均して20人前後の人がこの「収入につながる取り組み」に参加しています。<br> | ||
====(4)『スクールガイド』と検索サイト制作==== | ====(4)『スクールガイド』と検索サイト制作==== | ||
この時期には『不登校・中退生のためのスクールガイド(2005年版)』の編集作業がありました(東京学参、2004年12月発行)。<br> | この時期には『不登校・中退生のためのスクールガイド(2005年版)』の編集作業がありました(東京学参、2004年12月発行)。<br> | ||
− | + | 編集に必要なデータ入手作業は2004年の春から始めており、夏以降は集ったデータの文書入力が中心になりました。<br> | |
− | + | 実際にこの作業に関わったのは5人です。<br> | |
− | このタイミングで、『スクールガイド(2005年版)』編集のために集めたデータ(それは文書入力作業を終えて手元にあります)をどう活用していくのか考えました。 | + | この作業を 終えた2004年9月には、それらを出版社に渡し、その後はゲラの校正やレイアウトの一部修正が残っているだけでした。<br> |
− | + | 2004年の春ころ、不登校生を海外留学の形で支援しているK氏から、不登校情報センターのホームページを改善し、情報提供できるようにという提示がありました。<br> | |
− | + | これを受けて、私はそれまでの不登校情報センターの取り組みを表示するホームページから、不登校・引きこもりの支援団体の情報提供をするホームページにしようと考えてきました(その後、2006年にはさらに新たな情況のなかで、このホームページは発展しています)。 <br> | |
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+ | このタイミングで、『スクールガイド(2005年版)』編集のために集めたデータ(それは文書入力作業を終えて手元にあります)をどう活用していくのか考えました。<br> | ||
+ | パソコンに関係していた数人にこの課題を示し、これらのデータを、出版社側の不利にならないような加工をほどこして、ホームページ上に掲載する作業が始まりました。<br> | ||
+ | これを第1次「情報検索サイト」制作の試みと呼びましょう。<br> | ||
+ | 私はホームページ制作の技術的なことはわかりませんから、必要な条件を指示していきました。<br> | ||
+ | それを技術的に実現するにはかなりの処理が求められたと思います。<br> | ||
+ | Wくんがそれを担当し、ある日インターネットの仮画像上にその姿が表われました。<br> | ||
+ | かなりの労力と時間を通してできたもので、見栄えの点でも、技術的な支えの点でも申し分のないものに思いました。<br> | ||
+ | しかしこの作業がなかなか進みません。<br> | ||
+ | そして、作業の途中、全体の3分の1程度が表示されたところで、2005年春先に作業がストップしたままになりました。<br> | ||
+ | Wくんは、「情報検索サイト」を制作し始めた時期に、アクセスのカウントを表示することにしました。<br> | ||
+ | その開始日は2004年11月21日を起点 としています。<br> | ||
====(5)『支援団体ガイド』の編集とウェブサイトの改善==== | ====(5)『支援団体ガイド』の編集とウェブサイトの改善==== | ||
− | + | 不登校情報センターには、かつて『登校拒否関係団体全国リスト』という情報本を編集していた時期があります。<br> | |
− | + | 最後の発行は1999年12月のことで(1999年~2000年版)となっています。<br> | |
− | + | これは出版社の消滅によって長らく発行がとぎれていました。<br> | |
− | + | 2005年のはじめに、出版社「子どもの未来社」から『登校拒否関係団体全国リスト』の復活の提案がありました。<br> | |
− | + | 私は『スクールガイド』との情報内容の重複を避けた企画の提示をし、これにより新たな情報本の編集作業が始まりました。<br> | |
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− | + | そうしてできたのが『不登校・引きこもり・ニート支援団体全国ガイド』です(発行は2005年10月)。<br> | |
− | + | この情報内容は、相談室などの支援団体が中心であり、『スクールガイド』で紹介した学校(スクール)情報は、その付録の形で名称、連絡先などを個条に紹介する形に止めました。<br> | |
+ | この支援団体の情報入手作業、集まったデータの文書入力作業を数人が担当しました。<br> | ||
+ | 作業量は『スクールガイド』の文書入力よりははるかに多くなります。<br> | ||
+ | 付録の形で集めた学校(スクール)に関係する情報は、全日制高校、通信制高校、高等専修学校、技能連携校、フリースクール系(サポート校、高卒認定予 備校など)、適応指導教室、養護学校、山村留学校、夜間中学校などです。<br> | ||
+ | これは一覧表の姿で情報分類・整理されています。<br> | ||
+ | このスクール関係情報のうち、重複していない部分を、ホームページの「情報検索サイト」と並列する形で取り入れることにしました。<br> | ||
+ | その際、Wくんの制作した技術的な面をできるだけシンプルにし、より簡単に、掲載、更新、削除ができるように求めました。<br> | ||
+ | 担当はWくんに代わりPくんになりました。これを 第2次「情報提供のページ」と呼ぶことにします。<br> | ||
+ | 現在の不登校情報センターのホームページ、とくに支援団体に関する情報提供はこのときの形を原型にしています。<br> | ||
+ | それを基礎に多くの方面での改善と企画を積み重ねていったわけです。 <br> | ||
+ | 問題もありました。<br> | ||
+ | この「情報検索サイト」から「情報提供のページ」の制作はそれぞれかなりの時間を必要としたのですが、それに見合う支払いができないのです。<br> | ||
+ | 2冊の情報本編集とその販売金をこの制作の作業量に回すことにしたのですが、それは一部を支払っただけである、といっていいでしょう。<br> | ||
+ | この制作に対しては、WくんとPくんの2人には"借りがある"と考えています。<br> | ||
+ | ただそれがどの程度であるのかははっきりせず、次の時期(2005年9月末)に、ホームページをつくるときには、その"借入額"を明示しようとしました。<br> | ||
+ | 収入源としては、この情報検索のページに掲載したいくつかの学校とリンクをすることで、リンク料というのを設定して協力を呼びかけました。<br> | ||
+ | 2005年の春ころには10件ぐらいの協力の申し出がありました。<br> | ||
+ | ホームページが充実し、ページランクがあがり、検索エンジンでの位置があがり、アクセスする人が増えれば、いずれ収入源となるかもしれないという、わずかな期待が見えてきたのもこのころのことです。 <br> | ||
====(6)DM発送作業とポスティング==== | ====(6)DM発送作業とポスティング==== | ||
前の2冊の情報本の編集と、それをホームページ上の情報提供に移すという作業が、この時期に生まれた大きな事情でした。<br> | 前の2冊の情報本の編集と、それをホームページ上の情報提供に移すという作業が、この時期に生まれた大きな事情でした。<br> | ||
− | + | しかし、そのほかのことは、前の時期からつづいていることです。<br> | |
− | + | そのなかで、大きな役割を占めたのは、私たちが「発送作業」とよんでいるものです。<br> | |
− | + | これは、不登校や引きこもりの人を受け入れている学校や支援団体の案内書や催し物企画を、不登校情報センターの相談者等にDM(ダイレクトメール)の形にして送る作業です。<br> | |
− | 2誌のポスティングは堅調で最低は2004年5月の45,370円、全体として上昇気味で、2005年7月71,900円が最高です(引越し作業のあった2005年8月分が半分で34, | + | 送り先は全国で数千人分あります。<br> |
+ | この人を対象に「私のところはこういう取り組みをしています」という案内をよびかけるのです。<br> | ||
+ | 学校などの事業所が企画参加しています。<br> | ||
+ | だいたい新年度前の1~2月と、秋の9月ごろの年2回企画してよびかけていますが、この1年4か月の時期には4回実施しました。<br> | ||
+ | 2004年6月、9 月、2005年1月、5月です。<br> | ||
+ | これは不登校情報センターのよびかけ時期以外に別の支援団体からの依頼が2回あったためです。 <br> | ||
+ | この1年4か月の「収入につながる取り組み」の合計は245万円ですが、このDM発送による収入は53万円、21%になります。<br> | ||
+ | 2誌のポスティングは堅調で最低は2004年5月の45,370円、全体として上昇気味で、2005年7月71,900円が最高です(引越し作業のあった2005年8月分が半分で34,040円ですが、これは特別事情)。<br> | ||
+ | 収入の合計は、89万円で全体の36%を占めます。<br> | ||
====(7)NPO法人と集合的SOHO==== | ====(7)NPO法人と集合的SOHO==== | ||
− | + | 最後に、この時期には1つの準備がありました。<br> | |
− | + | 「引きこもりからの仕事起こし」という点では最も基本的なことです。<br> | |
+ | どのような事業所にするのかの枠組みづくりです。<br> | ||
+ | これには、事務所になっている第一高等学院新小岩校の借用がすでに3年を超えており、いずれは移転先を考えなくてはならなくなっていたことが1つの前提です。<br> | ||
+ | そのうえに、どのような事業所にするのか、既にNPO法人化にすることはしばしば話題になり、私の頭の中でも思い浮かべていたことですが、それをいよいよ具体化しなくてはならなくなったのです。<br> | ||
私がこの条件・要素として必要だと思ったことは、ここは引きこもり経験者が何がしかの訓練を受けて通過し、やがて外に働く場を求めて出ていく形のものではないこと(そういう人がいてもいいけれども、そういう人のためのものに限定はしないこと)。<br> | 私がこの条件・要素として必要だと思ったことは、ここは引きこもり経験者が何がしかの訓練を受けて通過し、やがて外に働く場を求めて出ていく形のものではないこと(そういう人がいてもいいけれども、そういう人のためのものに限定はしないこと)。<br> | ||
ここは引きこもり経験者が、自ら働き、その労働(作業)に応じて、収入を得られる型のものにしていくこと。<br> | ここは引きこもり経験者が、自ら働き、その労働(作業)に応じて、収入を得られる型のものにしていくこと。<br> | ||
− | + | この2つのことは同じことを両面から述べたことです。<br> | |
+ | それを保障するためには、いろいろな条件が求められますが、収入を現実に得られる取り組みにすること(収入がなければ崩れる)。<br> | ||
引きこもり経験者が、現実の運営にかかわり、できるだけその取り込み全体を主導していくようになること(これは、養成的内容になる)。<br> | 引きこもり経験者が、現実の運営にかかわり、できるだけその取り込み全体を主導していくようになること(これは、養成的内容になる)。<br> | ||
予測としては、これは各人のSOHOをつくり、それを合体させたものになるでしょう(これは個人の意志と能力の尊重になる)。<br> | 予測としては、これは各人のSOHOをつくり、それを合体させたものになるでしょう(これは個人の意志と能力の尊重になる)。<br> | ||
− | + | 2005年春から具体的な準備をすすめ、不登校情報センターをNPO法人とするための設立総会を6月22日に開きました。<br> | |
− | + | (管轄の東京都からは10月28日に認証され、翌月、法人登記を行いました)。<br> | |
− | 2005年9月以降の状況を(その3)として、記述する予定です。 (つづく) | + | この後、8月に事務所を近くのマンション1室に移すことになりました。<br> |
+ | 移転によりフリースペースのワークスペース的様相は一層明らかになりました。<br> | ||
+ | 必ずしも喜ばしいことではありません。<br> | ||
+ | これを1つの到達点として、次に進んでいくことになります。<br> | ||
+ | 2005年9月以降の状況を(その3)として、記述する予定です。 <br> | ||
+ | (つづく)<br> | ||
[[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2006年07月]] | [[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2006年07月]] | ||
+ | [[Category:文通誌『ひきコミ』|2006年07月]] | ||
+ | <htmlet>amazon_okuchi_keiko_etc001</htmlet> | ||
+ | <htmlet>amazon_nihon_senbotsu_gakusei_kinenkai001</htmlet> |
2021年1月6日 (水) 07:57時点における最新版
目次 |
引きこもりからの仕事おこし(その2)
〔『ひきコミ』第34号=2006年7月号に掲載〕
第32号の報告のつづきです。
今回は2004年夏から2005年夏までの1年4か月です。
言いかえると「あゆみ書店」が閉鎖されたとき(2004年5月)から、事務所を近くのマンションに移転した(2005年8月)期間を振りかえってみます。
(1)フリースペースへの来所者の急減
「あゆみ書店」を閉鎖したのは、それが何ら実質的な役割をもたない、"開示された状態の書庫"になっていたからです。
場所は占めているけれども風景以上の役割をほとんどもたなくなっていたからです。
その背景にあるのは、フリースペースに来る人が急減したことです。
フリースペースにやってくる人がいちばん多かった時期は、2003年秋(10月から11月)ごろと推測され、1か月での総数は450人~460人、一度でもきたことのある絶対人数は70~80名です。
1人が平均して1か月に6~7日来ていたと思います。
それから1年後の2004年秋ごろのフリースペース来所者は1か月総数で200人前後、絶対数は30名ぐらい、1人平均の来所はあまり変わらず1か月に6~7日です。
来る人は相変わらずのペースで来ているけれども、その絶対数は減っている状況になったと思います。
私はこの減少を、"ブームが去った"と表現してきました。
この表現はいまでも有効だと思っています。
それはこの事態はたんに不登校情報センターだけのことではなく、いろいろなフリースペース的なところでも同時に生じていたことだからです。
しかし、それとは別の要素もあります。
引きこもりに対するフリースペース的対応の限界、行きづまりが感じられたことです。
このような微温的なフリー スペースでの対人関係をつづけているだけでは、引きこもりから抜け出す経路としては有効に働かない、その限界が示されたということです。
といってもこのようなフリースペースに役割がなかったとは思いません。
それは引きこもり状態にある人、現に引きこもっている人にはいまでも必要だと思います。
そのことは多くの人には認められないかもしれませんし、行政的支援、支援者を自称する人たちの一部からも歓迎されていない気がします。
"労多くして、得るものは少ない"ように見えるからです。
この点をここでは詳しく入っていくのは避けましょう。
私自身は、この時期を1つの歴史的な時期であると考えています。
不登校情報センターのフリースペースには、活発に見られる時期もあったし、低迷してみえる時期もある、それはある歴史法則のようなものが働いていて、二度と巡ってはこないだろうという意味です。
それは日本の歴史における明治時代が二度と巡ってこないのと似ているような歴史法則です。
(2)フリースペースを去った人の傾向
このフリースペースの活発期から低迷期への移行には何が起きていたのでしょうか。
いくつかの傾向が生じたと思います。
ある傾向は、フリースペースの経験をふまえた、その人なりの形で働き始めた、働く傾向に動き始めたという人が表われました。
この人たちもいろいろですが意識としては、「フリースペースの役割を終えた」とか、「このような状態をつづけていても将来(人生)を開けない」と感じていたように思います。
私は、この人たちを精神的にはフリースペースを"卒業"した人であると考えます。
しかし、この"卒業生たちの高い割合での特徴は"、卒業後も、ときどき来所することが多いことのように思います。
そういう"糸の切れない"自分から抜け出すために、「もう行きません」と宣言してみたり、秘かに決心してみるのですが、それでも時おり連絡してきたり、顔をみせたりしますし、フリースペース時代に出来た人間関係は大切にしているように思います。
次の傾向は、再び引きこもり的生活に戻っていった人たちがいます。
この人たちもまたさまざまで、それ以降も長期的な引きこもり生活に入ってしまった人、再びフリースペースに戻ってきた人、ほかの支援団体に向かっていった人・・・などがいるように思います。
上の2つの傾向にまたがった、フリースペースの来所した時期に人間関係のこじれ、対立を経験したことが契機になった人もいます。
私が知り得る範囲では、このような経験者は主に、前者の"卒業"気分組に入る人が多いのですが、いわゆる陰性行動としての意志表示をしやすい引きこもりの人が、"見えない方向"で動くことが多いので、このあたりの判断は、さらに年月を経てからの方がいいでしょう。
もう1つの傾向が、フリースペースに来つづけている人たちです。
この人たちは、そこで何かできることを見つけ、来つづけることの意味を見出した人たちだと思います。
もちろんまだそこまではいかないけれども「まだフリースペースに代わる場所を見つけ出せない」「引きこもり生活に戻りたくない」「社会に入っていくには抵抗がある」という思いが同居するなかでの、フリースペースの役割認識でしょう。
(3)この時期の収入金額レベル
この最後の傾向にいる人たちを主な対象として、私は、不登校情報センターで「収入につながる取り組み」の開発を持ちかけていたことになります。
これらの「収入につながる取り組み」は、このときに突然にわき起こったわけではありません。
その前の時期に始めて、のろのろと続いていたことを継承する形でつづいていたわけです。
「あゆみ書店」は2004年5月には実質的に閉鎖されていましたが、それに代わる「収入につながる取り組み」が既にあったのです。
その様子は『ひきコミ』第32号に掲載した「収入になる取り組み等記録」による、月別の収入金額の一覧表でも確認できます。
2004年5月から 2005年8月までの引きこもり当事者の収入合計は、最高が2005年1月の40万円、最低が2004年7月の6万円、平均15万円です。
「あゆみ書店」 の時代の「書店」からの最大収入は、3.9万円ですから、低水準のなかでのワンランク上であると理解しています。
個人として最高収入は、2005年1月の9.8万円です。
毎月平均して20人前後の人がこの「収入につながる取り組み」に参加しています。
(4)『スクールガイド』と検索サイト制作
この時期には『不登校・中退生のためのスクールガイド(2005年版)』の編集作業がありました(東京学参、2004年12月発行)。
編集に必要なデータ入手作業は2004年の春から始めており、夏以降は集ったデータの文書入力が中心になりました。
実際にこの作業に関わったのは5人です。
この作業を 終えた2004年9月には、それらを出版社に渡し、その後はゲラの校正やレイアウトの一部修正が残っているだけでした。
2004年の春ころ、不登校生を海外留学の形で支援しているK氏から、不登校情報センターのホームページを改善し、情報提供できるようにという提示がありました。
これを受けて、私はそれまでの不登校情報センターの取り組みを表示するホームページから、不登校・引きこもりの支援団体の情報提供をするホームページにしようと考えてきました(その後、2006年にはさらに新たな情況のなかで、このホームページは発展しています)。
このタイミングで、『スクールガイド(2005年版)』編集のために集めたデータ(それは文書入力作業を終えて手元にあります)をどう活用していくのか考えました。
パソコンに関係していた数人にこの課題を示し、これらのデータを、出版社側の不利にならないような加工をほどこして、ホームページ上に掲載する作業が始まりました。
これを第1次「情報検索サイト」制作の試みと呼びましょう。
私はホームページ制作の技術的なことはわかりませんから、必要な条件を指示していきました。
それを技術的に実現するにはかなりの処理が求められたと思います。
Wくんがそれを担当し、ある日インターネットの仮画像上にその姿が表われました。
かなりの労力と時間を通してできたもので、見栄えの点でも、技術的な支えの点でも申し分のないものに思いました。
しかしこの作業がなかなか進みません。
そして、作業の途中、全体の3分の1程度が表示されたところで、2005年春先に作業がストップしたままになりました。
Wくんは、「情報検索サイト」を制作し始めた時期に、アクセスのカウントを表示することにしました。
その開始日は2004年11月21日を起点 としています。
(5)『支援団体ガイド』の編集とウェブサイトの改善
不登校情報センターには、かつて『登校拒否関係団体全国リスト』という情報本を編集していた時期があります。
最後の発行は1999年12月のことで(1999年~2000年版)となっています。
これは出版社の消滅によって長らく発行がとぎれていました。
2005年のはじめに、出版社「子どもの未来社」から『登校拒否関係団体全国リスト』の復活の提案がありました。
私は『スクールガイド』との情報内容の重複を避けた企画の提示をし、これにより新たな情報本の編集作業が始まりました。
そうしてできたのが『不登校・引きこもり・ニート支援団体全国ガイド』です(発行は2005年10月)。
この情報内容は、相談室などの支援団体が中心であり、『スクールガイド』で紹介した学校(スクール)情報は、その付録の形で名称、連絡先などを個条に紹介する形に止めました。
この支援団体の情報入手作業、集まったデータの文書入力作業を数人が担当しました。
作業量は『スクールガイド』の文書入力よりははるかに多くなります。
付録の形で集めた学校(スクール)に関係する情報は、全日制高校、通信制高校、高等専修学校、技能連携校、フリースクール系(サポート校、高卒認定予 備校など)、適応指導教室、養護学校、山村留学校、夜間中学校などです。
これは一覧表の姿で情報分類・整理されています。
このスクール関係情報のうち、重複していない部分を、ホームページの「情報検索サイト」と並列する形で取り入れることにしました。
その際、Wくんの制作した技術的な面をできるだけシンプルにし、より簡単に、掲載、更新、削除ができるように求めました。
担当はWくんに代わりPくんになりました。これを 第2次「情報提供のページ」と呼ぶことにします。
現在の不登校情報センターのホームページ、とくに支援団体に関する情報提供はこのときの形を原型にしています。
それを基礎に多くの方面での改善と企画を積み重ねていったわけです。
問題もありました。
この「情報検索サイト」から「情報提供のページ」の制作はそれぞれかなりの時間を必要としたのですが、それに見合う支払いができないのです。
2冊の情報本編集とその販売金をこの制作の作業量に回すことにしたのですが、それは一部を支払っただけである、といっていいでしょう。
この制作に対しては、WくんとPくんの2人には"借りがある"と考えています。
ただそれがどの程度であるのかははっきりせず、次の時期(2005年9月末)に、ホームページをつくるときには、その"借入額"を明示しようとしました。
収入源としては、この情報検索のページに掲載したいくつかの学校とリンクをすることで、リンク料というのを設定して協力を呼びかけました。
2005年の春ころには10件ぐらいの協力の申し出がありました。
ホームページが充実し、ページランクがあがり、検索エンジンでの位置があがり、アクセスする人が増えれば、いずれ収入源となるかもしれないという、わずかな期待が見えてきたのもこのころのことです。
(6)DM発送作業とポスティング
前の2冊の情報本の編集と、それをホームページ上の情報提供に移すという作業が、この時期に生まれた大きな事情でした。
しかし、そのほかのことは、前の時期からつづいていることです。
そのなかで、大きな役割を占めたのは、私たちが「発送作業」とよんでいるものです。
これは、不登校や引きこもりの人を受け入れている学校や支援団体の案内書や催し物企画を、不登校情報センターの相談者等にDM(ダイレクトメール)の形にして送る作業です。
送り先は全国で数千人分あります。
この人を対象に「私のところはこういう取り組みをしています」という案内をよびかけるのです。
学校などの事業所が企画参加しています。
だいたい新年度前の1~2月と、秋の9月ごろの年2回企画してよびかけていますが、この1年4か月の時期には4回実施しました。
2004年6月、9 月、2005年1月、5月です。
これは不登校情報センターのよびかけ時期以外に別の支援団体からの依頼が2回あったためです。
この1年4か月の「収入につながる取り組み」の合計は245万円ですが、このDM発送による収入は53万円、21%になります。
2誌のポスティングは堅調で最低は2004年5月の45,370円、全体として上昇気味で、2005年7月71,900円が最高です(引越し作業のあった2005年8月分が半分で34,040円ですが、これは特別事情)。
収入の合計は、89万円で全体の36%を占めます。
(7)NPO法人と集合的SOHO
最後に、この時期には1つの準備がありました。
「引きこもりからの仕事起こし」という点では最も基本的なことです。
どのような事業所にするのかの枠組みづくりです。
これには、事務所になっている第一高等学院新小岩校の借用がすでに3年を超えており、いずれは移転先を考えなくてはならなくなっていたことが1つの前提です。
そのうえに、どのような事業所にするのか、既にNPO法人化にすることはしばしば話題になり、私の頭の中でも思い浮かべていたことですが、それをいよいよ具体化しなくてはならなくなったのです。
私がこの条件・要素として必要だと思ったことは、ここは引きこもり経験者が何がしかの訓練を受けて通過し、やがて外に働く場を求めて出ていく形のものではないこと(そういう人がいてもいいけれども、そういう人のためのものに限定はしないこと)。
ここは引きこもり経験者が、自ら働き、その労働(作業)に応じて、収入を得られる型のものにしていくこと。
この2つのことは同じことを両面から述べたことです。
それを保障するためには、いろいろな条件が求められますが、収入を現実に得られる取り組みにすること(収入がなければ崩れる)。
引きこもり経験者が、現実の運営にかかわり、できるだけその取り込み全体を主導していくようになること(これは、養成的内容になる)。
予測としては、これは各人のSOHOをつくり、それを合体させたものになるでしょう(これは個人の意志と能力の尊重になる)。
2005年春から具体的な準備をすすめ、不登校情報センターをNPO法人とするための設立総会を6月22日に開きました。
(管轄の東京都からは10月28日に認証され、翌月、法人登記を行いました)。
この後、8月に事務所を近くのマンション1室に移すことになりました。
移転によりフリースペースのワークスペース的様相は一層明らかになりました。
必ずしも喜ばしいことではありません。
これを1つの到達点として、次に進んでいくことになります。
2005年9月以降の状況を(その3)として、記述する予定です。
(つづく)