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Center:111-儒教について少しの追加

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==儒教について少しの追加==   
 
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〔20011年3月30日に掲載〕<br>
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 陳舜臣『儒教三千年』(朝日新聞社、1992年3月)をあっという間に読んでしまった。著者の儒教とその歴史に関する深い知見には学ぶべきことは多くあるけれども、当面私が求めていることとの関係ではあまりたいしたことは得られなかった。<br>
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陳舜臣『儒教三千年』(朝日新聞社、1992年3月)をあっという間に読んでしまった。<br>
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著者の儒教とその歴史に関する深い知見には学ぶべきことは多くあるけれども、当面私が求めていることとの関係ではあまりたいしたことは得られなかった。<br>
  
 次のように示すことができるでしょう。少なくとも明治以前の日本では、仏教は僧侶になるために学ばれ、神道は神主になるために学ばれた。儒教は、とくに江戸時代においては、行政官になるために儒学として学ばれました、と。<br>
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次のように示すことができるでしょう。<br>
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少なくとも明治以前の日本では、仏教は僧侶になるために学ばれ、神道は神主になるために学ばれた。<br>
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儒教は、とくに江戸時代においては、行政官になるために儒学として学ばれました、と。<br>
  
 
そして明治以降も、行政官または政治家になる人のなかで、言いかえれば多数の知識人のなかで儒学は学ばれつづけてきたのです。<br>
 
そして明治以降も、行政官または政治家になる人のなかで、言いかえれば多数の知識人のなかで儒学は学ばれつづけてきたのです。<br>
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明治以降は、徐々に科学が、とくに自然に関する科学が入り、儒学の弱点というか空白部分である技術面の知識を補充するようになったように思います。<br>
 
明治以降は、徐々に科学が、とくに自然に関する科学が入り、儒学の弱点というか空白部分である技術面の知識を補充するようになったように思います。<br>
  
本書の第六章は「儒と近代」になり、「儒教圏繁栄論」にふれています。本書が書かれた当時、世界の中で、韓国、台湾、香港、シンガポールが「経済発展が進み、治安がよく、秩序が保たれている」(213ページ)として、儒教が近代化成功のキーワード説になってきたことへの論評です。<br>
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本書の第六章は「儒と近代」になり、「儒教圏繁栄論」にふれています。<br>
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本書が書かれた当時、世界の中で、韓国、台湾、香港、シンガポールが「経済発展が進み、治安がよく、秩序が保たれている」(213ページ)として、儒教が近代化成功のキーワード説になってきたことへの論評です。<br>
  
 
これについて台湾の李登輝が「儒教よりも、いずれも植民地を経験したこと」があり、「異質の文化も受け入れざるをえません」(215ページ)として、「複合文化経験繁栄論」のネーミングをつけています。<br>
 
これについて台湾の李登輝が「儒教よりも、いずれも植民地を経験したこと」があり、「異質の文化も受け入れざるをえません」(215ページ)として、「複合文化経験繁栄論」のネーミングをつけています。<br>
 
明治期の儒教批判として福沢諭吉をあげています。<br>
 
明治期の儒教批判として福沢諭吉をあげています。<br>
  
「明治政府はご一新といって、五箇条の誓文に『旧来の弊習を破り天地の公道に基く可し』」という項を入れました。儒教や仏教も旧来の弊習にされてしまう風潮があったのです。とくに仏教は『廃仏毀釈』が行き過ぎになり、貴重な文化財がこのときに多く失われています。けれども、やがて明治政府は儒教復活をやろうとしたのです。西南戦争がすんだあと明治14年(1881年)ごろから、儒教をもとにした秩序づくりを考えていたようです。これが『教育勅語』発布につながります(225ページ)。<br>
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「明治政府はご一新といって、五箇条の誓文に『旧来の弊習を破り天地の公道に基く可し』」という項を入れました。<br>
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儒教や仏教も旧来の弊習にされてしまう風潮があったのです。<br>
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とくに仏教は『廃仏毀釈』が行き過ぎになり、貴重な文化財がこのときに多く失われています。<br>
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けれども、やがて明治政府は儒教復活をやろうとしたのです。<br>
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西南戦争がすんだあと明治14年(1881年)ごろから、儒教をもとにした秩序づくりを考えていたようです。<br>
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これが『教育勅語』発布につながります(225ページ)。<br>
  
 
福沢諭吉は、この儒教復活に反論し、「明治政府が後退しているとみえました」(226ページ)。<br>
 
福沢諭吉は、この儒教復活に反論し、「明治政府が後退しているとみえました」(226ページ)。<br>
  
 
[[Category:不登校情報センター・五十田猛・無神論者の祈り|むしんろんじゃ]]
 
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2011年10月29日 (土) 22:49時点における版

儒教について少しの追加

〔20011年3月30日に掲載〕

陳舜臣『儒教三千年』(朝日新聞社、1992年3月)をあっという間に読んでしまった。
著者の儒教とその歴史に関する深い知見には学ぶべきことは多くあるけれども、当面私が求めていることとの関係ではあまりたいしたことは得られなかった。

次のように示すことができるでしょう。
少なくとも明治以前の日本では、仏教は僧侶になるために学ばれ、神道は神主になるために学ばれた。
儒教は、とくに江戸時代においては、行政官になるために儒学として学ばれました、と。

そして明治以降も、行政官または政治家になる人のなかで、言いかえれば多数の知識人のなかで儒学は学ばれつづけてきたのです。

明治以降は、徐々に科学が、とくに自然に関する科学が入り、儒学の弱点というか空白部分である技術面の知識を補充するようになったように思います。

本書の第六章は「儒と近代」になり、「儒教圏繁栄論」にふれています。
本書が書かれた当時、世界の中で、韓国、台湾、香港、シンガポールが「経済発展が進み、治安がよく、秩序が保たれている」(213ページ)として、儒教が近代化成功のキーワード説になってきたことへの論評です。

これについて台湾の李登輝が「儒教よりも、いずれも植民地を経験したこと」があり、「異質の文化も受け入れざるをえません」(215ページ)として、「複合文化経験繁栄論」のネーミングをつけています。
明治期の儒教批判として福沢諭吉をあげています。

「明治政府はご一新といって、五箇条の誓文に『旧来の弊習を破り天地の公道に基く可し』」という項を入れました。
儒教や仏教も旧来の弊習にされてしまう風潮があったのです。
とくに仏教は『廃仏毀釈』が行き過ぎになり、貴重な文化財がこのときに多く失われています。
けれども、やがて明治政府は儒教復活をやろうとしたのです。
西南戦争がすんだあと明治14年(1881年)ごろから、儒教をもとにした秩序づくりを考えていたようです。
これが『教育勅語』発布につながります(225ページ)。

福沢諭吉は、この儒教復活に反論し、「明治政府が後退しているとみえました」(226ページ)。

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