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− | '''妻と次男亡くした元小学校校長、家族と向き合えなかった後悔胸に…懸命に踏み出す再生の一歩'''<br>
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− | 妻と次男の遺影を立て、毎日手を合わせる佐々木善仁さん(撮影・岩田浩史)<br>
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− | ◇東日本大震災から10年 あの日あの時3.11(7)<br>
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− | 発生から10年を迎える東日本大震災の記憶と教訓はいかに受け継がれているのか。<br>
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− | 被災地ルポ「あの日 あの時」第7回は、引きこもりだった次男と妻を津波で亡くした、岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(70)。<br>
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− | 次男は家族の説得に応じず家から出ず、妻も逃げ遅れ犠牲に。<br>
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− | 仕事に追われ家族に向き合わなかった佐々木さんは自分を責め続けました。<br>
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− | 佐々木さんは、地震発生当時校長を務めていた広田小学校のそばに暮らしている。<br>
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− | 市の中心部にあった家が津波で流されたため、学校関係者が探してくれた仮住まいだが「結局10年住んじゃってますね」。<br>
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− | 地震の3週間後には定年退職で教職を離れたが、温かい近所の人たちとの付き合いが気に入っている。<br>
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− | あの日は、学校の中庭で整地作業中に地震に遭った。<br>
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− | 海はすぐそばだが、高台で津波は届かなかった。<br>
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− | ただ、道路が遮断され“陸の孤島”となった地域で唯一の避難所となったため、続々と駆け込む地域住民らの対応に追われる日々を送った。<br>
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− | 家族の安否が気になったが、校長として、避難所の責任者として自分の思いを優先できなかった。<br>
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− | 地震3日後の14日、広田小を訪れた長男陽一さん(40)だけは無事が確認できたが、妻みき子さん(当時57)と次男仁也さん(当時28)は連絡がつかなかった。<br>
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− | 教員たちに促され、ようやく2人を探しに向かったのは19日。自宅周辺はガレキの山となっていた。<br>
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− | 避難所回りを重ねるうちに、みき子さんと仁也さんの命は絶望的と悟った。<br>
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− | 2人の最期は意外な形で知った。陽一さんがメディアの取材に話すのを隣で聞いた。<br>
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− | 地震3日後、広田小で会った際には聞かされなかった話だった。<br>
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− | 「津波が来る!逃げよう!」。みき子さんの必死の説得も、仁也さんは聞かなかった。<br>
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− | 中学から不登校になり、震災前の3年は家から全く出ない状態だった。<br>
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− | 陽一さんは通帳など必需品を車に積み込み、運転席で2人を待った。<br>
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− | だが津波が目の前に迫り、車で逃げることもできなくなった。<br>
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− | みき子さんと陽一さんは隣家に駆け込み、屋根によじ登った。<br>
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− | 仁也さんと我が家は津波に流されていった。2人が乗った屋根も流され、やがて津波に砕かれた。<br>
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− | みき子さんは陽一さんに「生きろ」と言い残し、冷たい水にのまれていった。<br>
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− | 佐々木さんは、家族の壮絶な最期に心を引き裂かれる一方で、陽一さんが自分に話さなかったことにショックを受けた。<br>
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− | 広田小での陽一さんは興奮した様子で「俺は大丈夫だ。<br>
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− | 自分の仕事を頑張れ!」とだけ告げて去っていった。<br>
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− | 佐々木さんは「変だな」と思ったが、それ以上の会話はなかった。<br>
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− | 「悲しかったはずなのに、避難所で忙殺される私に言えなかったのかと思うと胸が痛みます」とうなだれた。<br>
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− | 「仕事人間」だった自分は、息子が大事なことを話せない親になってしまったのか。<br>
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− | いつの頃からか陽一さんとも仁也さんとも会話が減っていた。<br>
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− | 仕事に追われ、家で会うことも減っていた。<br>
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− | 陽一さんに「仁也ともっと向き合えよ!」と胸ぐらをつかまれ、取っ組み合いのケンカとなったこともあるという。<br>
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− | 佐々木さんは「学校で毎日いろんなことが起き、家庭に手が回らなかった。<br>
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− | 仁也もいつか立ち直ってくれるはずと考えていた。<br>
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− | 部屋の扉を強引に開けて向き合うようなことはしなかった」と後悔し続けている。<br>
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− | 仁也さんの遺体は地震2週間後の25日、みき子さんは4月中旬に見つかった。<br>
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− | 仁也さんはひと目で分かったという。<br>
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− | 家から出ないので肌は真っ白で、髪は伸び放題。<br>
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− | 陽一さんに聞いた最期を思い出し、涙が止まらなかった。<br>
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− | 震災後はみき子さんが立ち上げた、不登校と引きこもりの子供を持つ「親の会」の活動を引き継ぎ、その家族の悩みに寄り添う。<br>
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− | 定年後、みき子さんと一緒に通う約束だった。<br>
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− | 自身が向き合えなかった家族に対する、せめてもの罪滅ぼしでもあった。<br>
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− | 後で知ったが、仁也さんは毎朝トイレと風呂を掃除し、規則正しく食事していた。<br>
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− | 社会に出られない苦しみの中、自分を何とかしたいともがいていたのではないか。<br>
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− | みき子さんが専門書で引きこもりの勉強を重ねていたことも知った。<br>
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− | 「悲しみや苦しみを時間が解決するというのはうそですね。<br>
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− | いろんな思いがどんどん研ぎ澄まされていく」。<br>
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− | 家族とのささいな日常を思い出しては後悔を深める佐々木さんだが、取材中に笑顔を見せる瞬間もあった。<br>
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− | ぎくしゃくしていた陽一さんとの関係が、改善し始めたのだ。<br>
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− | 父子2人の暮らしは、佐々木さんが陽一さんの帰宅に合わせて食事を作ることになり、スポーツや政治などを話題に会話が増えた。<br>
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− | 障がい者スポーツを広める仕事を始めた陽一さんが「教え子のことを常に考えていた父の気持ちも、少しは分かってきた」と話していることを人づてに聞いた。<br>
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− | みき子さんとの約束を守り、支援活動に努力する姿も認めてくれているようだ。<br>
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− | 失ったものは大きいが「少しずつでも、分かり合っていけたらうれしい」と佐々木さん。<br>
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− | 陽一さんとの絆は紡ぎ直しの最中だが、それを支えに、毎日を懸命に生きている。<br>
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− | 〔2021年3/8(月) スポニチアネックス(岩田浩史)〕 <br>
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− | '''ひきこもりの子支える心情共有 盛岡で家族ら集い'''<br>
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− | KHJいわて石わり会の集い(NPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会主催)は5日、盛岡市上田の上田公民館で開かれ、ひきこもりや不登校の当事者や家族ら約10人が思いを共有した。<br>
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− | 元広田小校長で、妻とひきこもりだった次男を東日本大震災の津波で失った陸前高田市広田町の佐々木善仁(よしひと)さん(66)が、不登校ひきこもり気仙地区父母会の活動を報告。<br>
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− | 「同じ時間と場所でやり続けることが大事だ」と説明した。<br>
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− | 子育てを妻に任せきりにして仕事中心だった過去を振り返り、「今さらながら次男、妻の心情が分かってきた。自分のための活動でもある」と吐露。<br>
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− | 「亡くなった2人の分まで命を全うしたい」と語った。<br>
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− | 〔2016/11/6 岩手日報〕 <br>
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