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高度経済成長期の農山村の変化

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このサプライチェーンの見直しの中で企業の国内回帰も考えられそうですが、まだ何ともいえない時期です。<br>
 
このサプライチェーンの見直しの中で企業の国内回帰も考えられそうですが、まだ何ともいえない時期です。<br>
 
今のところ、この視点が農業や農産物に対してどの程度向けられているのかもわかりませんが、いずれその目は出てくるでしょう。<br>
 
今のところ、この視点が農業や農産物に対してどの程度向けられているのかもわかりませんが、いずれその目は出てくるでしょう。<br>
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高度経済成長期の農山村の変化

私自身のたどってきた道を見ながら、高度経済社会を生み出した日本社会の変化を考えます。
私が島根県石見地方の中学校を卒業したのは1961年です。
高度経済成長が始まりかけていたころです。
同級生の半数余りが高校に進学しました(今日のほぼ全員の高校進学状況とは比べものになりません)。
就職組は地場産業というべき農業と漁業につき、就職する女子は出雲や関西地域などの紡績工場に行きました。
中卒のままで職に就く人は珍しくはありません。
時代はまだ「それ以前」でした。

*私の生まれた地域の「それ以前」の産業経済状態は、農業が中心でしたが漁業があり、鉱業(古くは石見銀山、私が中学生のころは石膏を産出する鉱業)がある多産業型の地域でした。
高度経済成長以前の社会を「稲作中心の農業社会」というのは国土全体の状態をよく見ていない言い方でしょう。
山や丘が多くて水平な水田を設ける稲作は限定的でした。
農業では丘を利用した畑作がむしろ多いと思います。
宮本常一『山に生きる人びと』(河出文庫、2011)は、鉱業、林業などの様子を詳しく述べています。
石見地方という平地の少ない地域にいた私には、この本で語られる稲作以外の経済生活が、むしろ山岳地域の多い日本をより正確に表していると考えます。
◎辻達也『江戸時代を考える』(中公新書、1988)にはこう言います。
「近世に入って身分が固定化されたばかりでなく、武士・百姓・町人と、はなはだ単純化された。
ことに百姓といえば、今日ではほぼ農民と同義に用いられている。<br87 >しかし百姓という身分に組み込まれた人々の中には、農業以外の生業を持つ人々も少なくなかった。
たとえば漁民などはその最たるものであろう。
近世の領主権力はこれを漁業の民とは把握せず、彼らがわずかに耕作する海辺の田畑に基づいて、これを百姓=農民と捉えたのである。
同様に村の鍛冶屋も鋳物師も山の猟師も木樵も、すべて百姓であった。
日本は古くから、山の民、海の民あるいは川の民など、単純な農民でない人が多数いたという」(87p)。
網野善彦『日本の歴史をみなおす』(ちくま学芸文庫、2005)のなかで「これまでの歴史研究者は百姓を農民と思いこんで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中に提供していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまったことは、疑いありません」(255p)といいます。
百姓は江戸期には就業人口の8割近くを占めていたのですが、ほとんどが農民というのは言い過ぎで、武士・僧侶・専業的な商人を除く多くの職種を含んだものといいます。
“百姓”という文字の使われ方においても納得できそうです。

高校を卒業後、私は母と弟と一緒に大阪に出ました。
次兄が大阪で働いており、そこで4人が一緒に暮らしました。
島根県は全国1の過疎県になったわけですがわが家もその渦の中にいたのです。
なお石見地方は「過疎」という言葉が初めて使われ始めた地域といいます
(小田切徳美『農山村は消滅しない』 岩波新書、2014、24p)。

1986年、高校を卒業して22年後に、家族がそろってその田舎に集まりました。
その前に父が亡くなっており家系の法事のためでありました。
長兄は一家の墓地をここから兄のいる埼玉県に移す手続きをしました。
お寺の住職さんは「都会に行った人たちは戻ってこない」と嘆いていたといいます。
ここは漁師町であり、農業ほどの離職はないようです。離農は進んでいましたが、核家族化も進んだので、総戸数(街並みの景観)はそう減っていなかったと思います。
この背景から浮かんでくる問題意識、高度成長期のなかで失われたものは何か?
そこで直感で買ったのが2冊の古本です。
既に紹介した小田切徳美『農山村は消滅しない』と徳野貞雄『農村の幸せ、都会の幸せ』(NHK出版、2007)です。
さしあたりはこの2冊を参考にひきこもり問題の経済社会的な背景、長い期間に生まれた人々の生活の変化を見ていきます。
2冊とも高度経済成長の時代に壊してきたもの、失ったもの、取り残されたものを、農山村地域に見ています。
核家族(今ではニューファミリーといいます)や食糧事情は都市域を含む日本全体の問題ですから、農山村に限定されるものではありません。
しかし、この高度経済成長期に失われたものは農山村地域でより象徴的に表われたのではないかと思えるのです。
高度経済成長期は社会的な大変化の時期であり、ひきこもりの最も基本的な社会的な要因になると思えます。
この背景状況を除いて、それを個人の心理状況の問題に限定するなら、ひきこもりを深く理解することはできないのではないか。
かつての社会構造から生まれてきた精神生活(例えば、「男は外で働き女は家を守る」)を、新しく生まれた社会構造の上に負わせる役割に加担させてしまうのではないか、と。
このような大きな変化の時代においても多くの人は相応に対応できました。
社会構造とそこに暮らす人間の精神構造はおおむね一致するからです。
同時に、変化が大きな時期には一定数の人、ある事情をもつ人たちはうまく対応できません。
ある事情とは必ずしもマイナス要件を持つ人に限りません。
特に感性の優れた人はそのようになりやすいのです。
そして重要なことは、社会の進歩はうまく対応できた人のなかにだけのものではないのです。
むしろうまく適応できない人のなかに、新しい時代に必要な準備があります。
適応できない人とは、必要な準備が足りないだけではなく準備が過ぎてしまうこともあります。
ひきこもりとして表われる人たちの状態はごくバッサリといえばこの両極を示しています。
したがって社会的な病理としてのひきこもりは、問題の所在を明らかにする役割をしますが、ひきこもりを直すとか、社会への適応に終始すればいいものとは違います。
彼らが求めるもの、表現するものをどう受けとめ、受け入れるのかを問われる面もあるのです。

*江原昭善『進化のなかの人体』(講談社現代新書、1982)は人体の進化に関してこういいます。
「ある特徴が変異性をしめすということは、その特徴が完全な安定ではないことを意味している。
…いわゆる退行的なもののほかに、未来を予想させる先取りの性格を持ったものもある。
この先取りの斬進的変異には、マイナス変異とプラス変異の二種類が区別される。
…プラス変異では、特徴の形成がだんだん強くなり、ついには新しい機能を獲得するような現象についていえる」(85-86p)。
これは身体の形状に関するものですが、身体的な感覚・感性を通して、行動面や精神生活にも及ぶと考えられます。
ひきこもりの全体がプラス変異というのではなく、そういう内容が含まれる、と私は理解しています。

高度経済成長とはどんなものなのか
先の網野善彦『「日本」とは何か』が指摘した日本史上における高度経済成長期の意味を、徳野さんは要約してこう語ります。
「この変化が起きてから、たかだか四〇~五〇年です。
長く見て1500年、短く見積もっても400年続いてきた安定的な暮らしが変わって、…別世界に来たような変動です。
人々がこの変化に合わせられなくて当然です。
その結果、…結婚できない、子どもが産めない。
だから少子化になり、社会は高齢化します。
隣近所との付き合いができないから、安全性の問題が出てきます。
昔のように子どもたちを地域ぐるみで見ないから、子どもが犯罪に巻き込まれてしまう。
ご飯を食べるにしても、食材は完全に他者に依存していて、ちゃんとしたものが食べられない。
添加物や防腐剤の入った加工品や輸入品が横行します。
冬にスイカやトマトを食べています。
それに身体が耐えられなくてアトピーなどの弊害がでてきます」(徳野貞雄・前掲書 34―35p)。
かつての農業や林業は衰退し、日本は明治以来の産業振興策の上に、高度経済成長を通して工業の発達した経済社会になりました。
若者を中心に農山村から都市に大量の人口移動がありました。
*基幹的農業従事者数(仕事として自営農業に従事した者)は、1960年1175万人、2015年175万人で平均年齢67歳と高齢化が著しい。
(西谷正浩『中世は核家族だったのか』(吉川弘文館、2021)。

その結果、人口が集中した都市域だけではなく農山村社会も徐々に変わっていきました。
ただ高度経済成長が続いていた時期は人口増加の時代であり、離農が進んでも農村人口の減少はそれに比例して減少したのではありません。
*「1970年代の低成長期に入り、都市からの吸引力が衰えたことや政策支援によって農山村の生活条件の整備が進んだこともあり、以前の雪崩のような人口流出は沈静化した。
ところが…出生者数よりも死亡者数が多い人口自然減社会が始まったのである。…1988年のことである。」(小田切徳美・前掲書、18-19p)。
*人口減の要因である、出生率の低下もこの社会の変化の中で生まれてきた個人の、とりわけ女性の自立を求める変化の一端を示しています。

しかも、農山村社会は思いのほか強靭であって、農山村で働く人の多数には60歳・65歳定年はなく、高齢で働いている現実を見ることができます。
定年で働かないのがいいのではなく、都市域では定年後に多くの人が「失業者」になっている面も見なくてはなりません。
都市型定年退職者は「社会的失業者」(徳野貞雄・前掲書、143p)ということです。
その社会的失業に対応しているのが、企業等に表われた定年延長の動きや全国に広がるシルバー人材センターです。
かつての農山村は子どもから高齢者までがバランスよく構成された地域機能的共同体(非公式の法人)です(徳野貞雄・前掲書、45p)。
ムラ社会自体が地域の安全を図り、公共設備などをつくり・維持する役割をしていました。
農山村での人口減はその維持する力を弱めていきました。
山林や田畑の荒廃、共同の水の管理、消防などの地域の生活と安全を守る力も後退していきました。
この面をサポートする役割は今日の自治体のきわめて大きな部分を占めています。
かつては家族や地域共同体(村落)が持っていた力がなくなり、自治体にその役割を任せていくのです。
北海道占冠村の自治体広報にその一例が載せられていたので紹介します。
民生委員・児童委員のところに相談に来てくださいという呼びかけに見ることができます。
家族内でしてきたこと、共同体の中で続けてきたことの多くが自治体の取り組みになっています。
これは全国的なことであり、農山村域・都市域に共通する事情です。

これからも地域と共に
■地域の身近な相談相手
民生委員・児童委員は厚生労働大臣から委嘱された非常勤の地方公務員です。
給与の支給はなく、ボランティアとして、占冠村では9人(うち2人は主任児童委員)の委員が活動しています。
村民の身近な相談相手として、常に住民の立場に立ち、生活上の心配ごとや困りごとなどの相談に広く応じるとともに、行政や専門機関へのパイプ役として、関係行政機関の業務にも協力しています。
個人の秘密は固く守られますので、日常生活での困りごとや悩みごとなどがありましたら、お近くの民生委員・児童委員にお気軽にご相談ください。
■ささいな悩みでもお気軽にご相談ください
▽暮らしのこと
・住まいに関すること、近所付き合いに関すること、生活費に関すること、生活保護に関すること、遊び場などの危険箇所に関すること
▽在宅生活に関すること
・毎日の介護で困っていること、福祉サービスの利用に関すること、介護保険制度に関すること、施設利用に関すること(小規模多機能施設など)
▽家族関係のこと
・結婚、離婚に関すること、親子関係に関すること、扶養に関すること、相続に関すること
▽育児・教育のこと
・育児やしつけに関すること、いじめや不登校に関すること、学校生活の悩みに関すること、非行に関すること、児童虐待に関すること など
〔広報しむかっぷ 2021年6月号〕>> 
自治体本来の仕事もありますが、以前はそうとは言えなかったものも見られます。


農産物の商品化の進行と消費者の増大
私が働くために石見地方から大阪に出たのは、高校を卒業した1964年のことです。
それから数年したある日、働いていた病院近くのお店にイチジクがならんでいるのを見ました。
イチジク―子どものころは畑の間にあるイチジクの木に登り、実ったイチジクはおやつ代わりのものでした。
確かにそれはドロボーでしたが、そんな意識はまるでなく地域の人たちもそれをとやかく言う風習はなかったのです。
その子ども時代からは10年以上過ぎたころ、店先で売られているイチジクは私には驚きでした。
それはこれまでは商品とは考えられなかって農産物が、商品化していく大きな流れのほんの末端の出来事でした。
米はもちろん以前から商品流通していましたが、それに加えていろいろな農産物が商品になりました。
都市に移り住んだ人たち、新しい大量の労働力は、食べ物、着る物、住むところを、全体として購入する人=消費者になったのです。
働く企業から給与(賃金)を受け取るサラリーマンの大量発生です。
給与生活者は特に明治以降、着実に増えていましたが、高度経済成長の時期の増大は規模が違います。
労働者は商品生産者や専門サービス提供者であるとともに商品の消費者でもあります。

*1951年の全国にある事業所数は、314万1396でしたが、バブル経済末期の91年には、655万9377事業所を数えてピークになりました。
これは総務省調査によるもので、「農林漁業に属する個人経営の事業所、家事サービス業、外国公務に属する事業所を除く、すべての事業所が対象」です。
同じ期間に、従業者は1535万6353人から、5501万3776人、3.6倍になりました。
(関満博『日本の中小企業』中公新書、2017、4-6p)。

農産物の商品化に合わせて、いろいろな物がこの大量の消費者の登場を対象に商品として生み出されていきます。
テレビ・洗濯機・冷蔵庫などの電化製品は代表例です
(1964年までの石見地方にいたわが家にはテレビ・洗濯機・冷蔵庫はなく、多くの家がそうでした)。
大量の商品が出回る中で、生活は便利になります。農産物の多くが商品にかわりました。
「より良い商品をより安く」「上等なものを選び出し形のそろわないものは排除する」…などの独自の法則が働きます。
競争がし烈になり、一時的な利益を狙う粗悪品も登場します。
そういう一時的な粗悪品は淘汰されますが、食の安全性の確保は徐々に低下していきました。
「農産物を形よく作るために農薬漬けにされました。土壌も汚染され、環境問題も起きてきました。
もともと日本の農は環境保全型のものだったのですが、これが放棄されてしまったのです」(徳野貞雄・前掲書、58p)。
これらの影響が初めに表れるのは子どもたちです。
私の記憶では最近では小学生の40%が何らかのアレルギー反応の体質を持つといいますが、農薬はその最も重要な原因物質でしょう。
この子どものからだは、1970年には「子どものからだがおかしい」と大きく報道されたことです。
*私が出版社に入って初めて編集を手伝ったのは岐阜県恵那地方で子どものからだを調査していた川上康一さんの『 子どもの心とからだ―レポート 恵那の教育実践』でした。
教育系の出版社であり、私は1編集者として子どものいろいろな状態に関心を持ちました。
1970年の子どものからだがおかしいに続いて、1980年代の半ばの不登校の子どもの増大を、「子どものこころがおかしい」、1990年代後半には「子どものいのちがおかしい」と伝えたことがあります。
90年代の命とは、自殺や殺人が子どもの世界に広がった状態を感じたからで、特にサカキバラ事件というのが象徴しています。
子どもの状態はいつも時代を先行して示すものです。

市場システムと交通網の確立
商品の多様化と増大の中で、社会にまた別のものが整ってきました。市場システムです。
私が小学低学年のころ母は早朝の列車で1時間余りの出雲に出かけて仕入れをしていました。
漁師町の小さな商店に並べる他地域の商品の仕入れです。
出雲は出雲大社という大宗教施設に近いばかりではなく、出雲今市として知られる地方の交易の中心地でもありました。
中学校に行くころには母の今市通いはなくなり、父は水産加工場を始めました。
中学のころにはこの水産加工場に手伝いに出かけたものです。
この事情はよく分かりませんが、商品流通の変化も関係していると推察できます。

高度経済成長の時期はこのような地方の狭い交易システムに代わる全国的な、あるいは国際的な大きな市場システムがつくられました。
産業社会の発展に伴い、市場システムも新たにつくられたのです。
徳野貞雄さんは「中央卸売り市場体制ができてから」大きく変わったといいます(前掲書、26p)。
この市場システムを徳野さんの意見を参考に要約的に紹介すれば2つの面があります。国内的な面と国際的な面です。
国内的な面では、農山村の商品の集荷を担当した農業協同組合がこの市場システムにつながれました。
それを結ぶ全国的な流通・交通体制が確立します。
道路網の整備と貨物を含む自動車産業の成長です。
そのために開発という名の自然改造、ときには自然破壊もありました。
宅配便が表われたのもこの時期です。
そして都市域でのスーパーマーケットやコンビニエンスストアの販売網が広がりました。
国際的な面では輸入農産物の増大と国内農林業の衰退です。
農業生産物の自給率の急激な低下は各国の中でもとりわけ低いことに表われています。
私はこれらの方面をよく知らないので詳しくは書けませんが、それが日本の農業・農山村政策に表われ、田畑林の荒地化、廃家屋・廃集落につながっている点は確かでしょう。

企業における雇用状態の変化
農業者に代わる大量の労働者が生み出されたのが高度経済成長です。
1990年ごろからその労働者のおかれた状態に変化が生まれました。
高度経済成長の成果を満喫していた時期を終え、その満喫時代がバブル経済と反省される時期になります。
就職難の時代の到来であり、満足できない就職者の増大により離職者が大量に表われ始めました。
これには若い世代に生まれた新しい感覚―自分を生かす仕事に就きたいーの増大です。
大規模家族から離れて自由を感じる生活の中で成長した感覚ではないかと思います。
この背景にはプラザ合意という国際的な取り決めがあり、後で事情を書きます。

この状況の中で、雇用状態にも変化が生まれます。
初めはフリーアルバイター(フリーター)というのは、自分の好みに沿って仕事を選んでいける感覚だったはずです。
ところが雇用状態が大きく変化する中で、フリーターは新たに生まれたさまざまな非正規雇用の1種であることが明らかになっていきます。
*非正規雇用という言葉が生まれるのに合わせて、従来の終身雇用は正規雇用という言葉で呼ばれるようになりました。
ちょうど障害者という言葉が広がるのに合わせて健常者という言葉が生まれたように。
このような就業・雇用状態の不安定さ、自分に合った仕事がしたいという感覚の両面のなかで、より感受性の高い人たち、自己主張力の弱い人たちに社会に入るのに怖さを感じる人たちが増大していきました。
これも1つのひきこもりの背景事情です。

工業中心地=都市域での変化
農山村からの若者の大量移動を受け入れた都市域の変化も見なくてはなりません。
これらのことは日本の工業化、高度な産業化、生産力の向上、サービス産業の発展として見られたことです。
いろいろな事情を発生させましたが全体として社会の発展として肯定的にみられてきたことです。
私が出会ったひきこもりの経験者は都市域に住んでいる人たちです。
彼ら彼女らの親が農山村からの移住者なのか、もともとの都市住民か? おそらくは両方がいたと思えます。
さて、都市の急激な人口増は徐々に問題を重ねていきました。生産高などの経済的な指標は省きます。都市環境として大きな意味を持つのは住宅です。
都市近郊に多くの公営住宅ができました。新興開発の住宅地域が広がりました。
都市中心地と住宅地域を結ぶ交通網が発達しました。
商業施設を含む都市中心地の形成と都市整備による環境の改善も進みました。
公衆衛生面や犯罪防止の面でも改善していったと思えます。
ここでは日本経済新聞『限界都市―あなたの街が蝕まれている』(日経プレミアシリーズ、2019)を参考にしました。
*1963年のことです。私は就職試験のために同級生のマサアキくんと大阪に出ました。
就職先は違いますが試験日は同じです。
二人で初めて喫茶店に入りコーヒーの苦さに戸惑い砂糖を大量に入れた記憶があります。
試験が終わった夕方に中卒で働く人の小さなアパートに行きました。マサアキくんの知り合いです。
近くには仲間も住んでいる下町地域です。
工業地帯の近くの活気あるところで、農村から移住してきた若い人たちを受け入れる住宅地域に行ったのです。

高度経済成長に合わせて集中してきた住民の受け皿として民間のアパート群ができました。社員寮もできました。
その世代が結婚するのに合わせて住宅団地ができました。
一部でスラム化していた地域の住民もこれらに移り、都市環境も改善されました。
*団地:「都市部における人口集中と住宅不足が深刻になった高度成長期、大都市圏の郊外を中心に団地の供給が国策として急ピッチで進められた。
…国交省によると、同じ敷地内に2棟以上集まり、50戸以上あるなどの条件を満たす「団地」の数は1970年に全国で291ヵ所だった。
それが1990年には約10倍の2769ヵ所まで膨らみ、2013年末時点で約5000ヵ所となっている。
このうち約8割が三大都市圏に集中している」(前掲『限界都市』110p)。

これらが時代の変化の中でつくられた住宅状況が、マイナス要素に転化し始めるのが1990年代以降のことです。
それは人口の高齢化や少子化と重なります。
エレベーターのない5階建ての団地は住民の高齢化とともに住環境としてもマイナスを抱えることになっていきました。
団地住民の家族も子どもが独立し、親世代の中に退職者が増えていきます。
団地住民は一斉に高齢化をしていきます。
購入型のマンションや住宅開発地域でも似たような状況が生まれました。持ち家なので簡単に移るわけにいきません。
都市域で購入された住居は空き家になっていきます。
『限界都市』ではタワーマンションが同様な道をたどる、すでにそうなっているところもある、と指摘されています。

先に北海道の占冠村を例に自治体に寄せられる役割を列挙しました。
これらの多くは実は都市域でも同じです。
それに加えて都市域では次のような課題も求められているのです。
川崎市の広報にある内容を紹介します。

みんなで地域の課題を解決!!
▽転入してきた人の居場所をつくろう!
願い事がつなぐ、わんぱくコミュニティづくりプロジェクト
子どもたちに願い事(やりたいこと)を聞いて、イベントを実施し、転入してきた人が地域に関わり、住民同士のつながりにより、安心して暮らすことができる地域づくりを進めます。
実施団体:かわさき楽大師プロジェクト
大師ONE博実行委員会
▽外国につながる家族を理解しよう!
多文化共生プロジェクト~多文化cafe~
多文化を知ってもらうイベントや、外国につながる子どもを理解するセミナー、やさしい日本語ワークショップ出前講座を実施し、多文化共生社会にふさわしい地域を築くことを目指します。
実施団体:多文化共生保育研修会
▽LGBTへの理解を進めよう!
かわさき「心の声」プロジェクト
LGBTに関する音楽劇の上演や理解講座、相談交流会などを実施し、LGBTに対する考え方を少しでも浸透させ、尊重すべき個性であるという認識を持ってもらい、LGBT当事者の心的解放につなげていきます。
実施団体:グローバル文化協働支援センター
▽子ども・若者の居場所をつくろう!
子ども・若者居場所プロジェクトin富士見公園
遊びを通じた場づくりである「パークチャレンジかわさき」を子どもたちと一緒に考え、つくり上げた場所で楽しみます。
広く区民に向けて子ども・若者の居場所づくりに対する参加意識も醸成します。
実施団体:川崎区地域教育会議
▽若者の文化活動の認知度向上とイメージアップを図ろう!
カワサキSTCULFES(ストカルフェス)2021
レゲエを中心としたイベントを実施して、区内での若者の文化活動が定着し、地域で受け入れられる雰囲気が醸成されることを目指します。
今年度は富士通スタジアム川崎で開催予定です
実施団体:CirColorsJapan
問い合わせ:区役所企画課》
〔かわさき市政だより 川崎区版 2021年6月号〕

農山村での廃屋、廃集落、および耕作放棄農地に対して、都市地域ではこのような課題が生まれています。
川崎市の例は最近のことであり、課題を明確にして前に向かって取り組んでいくテーマを示しています。

プラザ合意と企業の海外移転、就労条件の変化
家族・学校・地域(都市域)の変化の中で、1990年ころからひきこもりは周囲の人の中で知られるようになりました。
それまでも徐々に増えていったのですが、目につかないのがひきこもりです。
1990年ごろとは何か? 
先にそれまでの成長した時期をバブル経済と振り返るようになったと書きました。
確かに大きな変化があったのです。
ここでは関満博『日本の中小企業―少子高齢化時代の起業・経営・承継』(中公新書、2017)からいくつかの点を紹介します。
「(1970年以降の)この45年を振り返ると、1985年から92年の七~八年を境に、それ以前とそれ以後では、日本の中小企業の現場はまったく違った国のように思える。
1985年はプラザ合意の年であり、日本にとっては一気に円高が進んだ…」
1985年:1ドル=240円前後
1986年:1ドル=168円
1994年:1ドル=108円
(関満博・前掲書、197-198p)
この円高のスピードと規模はすさまじいものであったといわなくてはならないでしょう。

1980年代の後半に世界の資本主義国間で矛盾が深まり、貿易の不均衡がうまれました。
それを解消するために先進5か国がプラザ合意という協調政策を取りました。
その結果、日本の円高が異常なレベルになります。1985年に1ドル=240円前後だったものが、1994年には1ドル=108円です。
アメリカなどの貿易収支は改善に向かいましたが、特に日本は大きな影響を受けました。

*ウィキペデイアによるプラザ合意の説明
1985年、日本・アメリカ・ドイツ・フランス・イギリス先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議により発表された、為替レート“安定化”に関する合意の通称。
輸出が需要創出の大きな柱である日本が為替レートを意図的に調節することは大きなリスクを伴う。
協調介入によって人為的に円高に導いた結果、農林水産物も、鉱工業製品も、日本人労働も、全ての日本産品は競争力を相対的に失い、自然な経済成長リズムの破綻に繋がった。
日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、以前からの日米貿易摩擦に加え、ハイテク分野でも日本の成長が目立ってきたことなどによる危険視の加熱があった。
1980年代前半にはアメリカの莫大な経常赤字により日本では輸出が急伸し、経常黒字は著しく増大、これにより輸出産業を中心に好業績の企業が相次いだ(ハイテク景気)。
当時アメリカは、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる双子の赤字を抱えており、日欧諸国はアメリカによりもたらされる経常黒字が物価上昇圧力になっているという指摘があった。
これらの世界経済不均衡を是正するための効果的な手段としてドル安への誘導がなされたという指摘がある。
ドル安にすれば米国の貿易赤字、とりわけ対日貿易赤字が目減りすることが期待された。
当時の中曽根康弘首相・竹下蔵相・澄田智日銀総裁らによって決断されたこの政策は、日本がアメリカの赤字解消のための為替操作を容認した対米妥協策との解釈が一般的である。

*ウィキペデイアによる就職氷河期・氷河期世代の説明
就職氷河期は、社会的に就職難となった時期の通称。
リクルート社の就職雑誌『就職ジャーナル』が1992年11月号で提唱した造語であり、1994年の第11回新語・流行語大賞では審査員特選造語賞を受賞した。
就職氷河期に該当する世代は、1970年(昭和45年)4月2日から1982年(昭和57年)4月1日まで、または1984年(昭和59年)4月1日までに生まれ、1990年代半ばから2000年代前半に社会に出たり、2000年前後に大学を卒業した、2019年現在において40歳前後や30代後半から40代後半を迎える世代のこととされている。
氷河期世代
日本では、就職氷河期時に就職活動を行った世代のことを「氷河期世代」と呼ぶ。
内閣府は2019年6月21日の閣議決定「経済財政運営と改革の基本方針2019」において、「(2019年)現在、30代半ばから40代半ば」と定義しており、厚生労働省は2019年8月30日の発表において、「1993年(平成5年)から2004年(平成16年)に学校卒業期を迎えた世代(33歳〜44歳)」を指し、中心層は35歳〜44歳と説明している。
2021年現在の「30代半ばから40代後半(35歳〜46歳)」は、概ね1975年(昭和50年)から1986年(昭和61年)生まれ(但し、それは高校卒業時に就職した者を基準にした場合)に相当する。
大学卒業者の場合は4歳ほど上にずれるので、氷河期世代の範囲は2021年現在で40歳〜46歳(概ね1971年〈昭和46年〉度から1981年〈昭和56年〉度生まれ)となる。

こういう事情が引き金になって、製造業の多くが海外(特に中国や東南アジア地域)に移転していきました。
国内での企業活動の縮小とともに、失業者の増大と就職難が始まりました。
新規の事業所よりも廃業する事業所が多くなります。
それとともに企業の雇用方法にもにも重大な対策が持ち込まれました。
1992年には“バブル経済の崩壊”になりました。 企業の海外移転、非正規雇用の導入の原因がすべてプラザ合意によるものではないでしょうが、それ抜きに説明できないし、最も基本的な要件であったことは消せません。
これは次章以後で見ていきます。

その国際的な為替変動の伴う経済的な背景事情を描きながら、関満博さんは90年以降の特に若者たちの起業に対する意欲の低下を指摘します。
こう述べています。
「1985年までの現場では、中小企業のまだ若い経営者たちが、顔を真っ赤にして「未来」を語ってくれたものであった。
だが、プラザ合意の1985年から92年のバブル経済崩壊までの「喧噪の七年」とでも言うべき時期が過ぎると、現在に至るまで「未来」を語る経営者に出会うことは、ほとんどなくなっていった」
(関満博・前掲書、198p)
関満博さんは、このような変化をとらえるのですが、その後の変化の中でいくつかの特徴も示しています。
2000年に介護保険制度ができた後、従来の工業型事業所に代わって医療・福祉型の事業所が生まれたこと、農村での農産物直売などの女性が中心になる事業所が多くなっている点です。

生産拠点の海外移転策は、その弊害をいくぶん解消する動きが出てきたのが2000年に入るあたりからです。
そう目立ったほどのものではないと思いますが、そこに2020年の新型コロナウィルスの大惨禍が地球を襲いました。
これは多くの影響を引き起こしているはずですが、全容を見るのはまだ先のことです。
1つ先に表れたのはエッセンシャルワーク(人の生活に必須の労働)が注目されたことです。
マスクなど衛生や医療に必要なものが国内で生産されていない状況が明らかになりました。
もう1つは、国際分業を広げるにしても、必須の物は国内で生産をしながら海外では分散する必要が明確になりました。
生産供給網(サプライチェーン)の見直しです。
このサプライチェーンの見直しの中で企業の国内回帰も考えられそうですが、まだ何ともいえない時期です。
今のところ、この視点が農業や農産物に対してどの程度向けられているのかもわかりませんが、いずれその目は出てくるでしょう。

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