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Center:113-「和」をめぐる新しいルールの必要性(?)

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(ページの作成: == 「和」をめぐる新しいルールの必要性(?)== 〔2007年8月〕 先日(7月29日)の参議院選挙で自民党は大敗しました。ところが...)
 
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先日(7月29日)の参議院選挙で自民党は大敗しました。ところが安倍晋三(首相、総裁)はいち早く「首相続投」を宣言し、党内の大勢はこれを容認する方向になっています。
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先日(7月29日)の参議院選挙で自民党は大敗しました。ところが安倍晋三(首相、総裁)はいち早く「首相続投」を宣言し、党内の大勢はこれを容認する方向になっています。 <br>
選挙をうけた直後の国会開会の日、自民党の議員総会が開かれました。数名の代議士から首相の目前で「首相は一度身を退くべき」「国民は投手(首相)交代を求めた」と発言したのです。
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選挙をうけた直後の国会開会の日、自民党の議員総会が開かれました。数名の代議士から首相の目前で「首相は一度身を退くべき」「国民は投手(首相)交代を求めた」と発言したのです。<br>
これを見て、元幹事長で非主流にいる加藤紘一氏の感想。「日本社会では本人の前であのような発言をすることはこれまでなかったこと」と、むしろ肯定的なとらえ方をしています。このことを考えたい。
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これを見て、元幹事長で非主流にいる加藤紘一氏の感想。「日本社会では本人の前であのような発言をすることはこれまでなかったこと」と、むしろ肯定的なとらえ方をしています。このことを考えたい。<br>
なぜ本人の目前で退陣を迫る発言がこれまでなかったのか。ここに「競わない」和の精神と神道的な潜在的心情が働いている、と考えます。しかし、これでは十分な説明ではないでしょう。
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政治世界で本人の目前で首相退陣を迫ることはいくらでもありました。一つは野党側の要求が第一でこれは相当に多い。しかし与党内からもありました。1970年代末に「三木降ろし」があり、自民党の内紛的様相を示し、首相本人の目前で退陣要求はされました。
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今回は、「自民党内の仲間うちで」、「同時に続投が大勢になっている状況のもとで」という二つの条件があるのに、「本人の目前で」ということが異色なのだと思います。すなわち仲間うちという共同体においては、大勢とは別の動きを示すことは、和を乱すものとしてこれまでは暗黙のうちに回避されてきたのに、それが崩れてきている、という意味になります。
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もう少し先に進みましょう。といっても今回の発言には政治状況がとくに関係していますが、私がそれに何かいうのは適当ではないので、その部分への言及はやめておきます。一般の一つのまとまった集団社会(閉鎖的な社会とまでは言えないでしょうが)の事情として考えたことです。
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1つは、和の精神は、共同体的な人間集団に根づき、そこから発生し広がっています。これは『儒教とは何か』(加治)において、儒教が孔子のときに、(血縁・地縁的な)共同体的原理から、共同体を超える原理につくりかえられ、孔子の後継者たちは国家や統一国家(秦)の成立の時代にかけて整備していったことと対比されるように思います。すなわち和の精神を生み出しているはずの神道はそのような発展がなかった、少なくとも国民的に受け入れられる形での発展がなかったといえるように思います(明治期以降の国家神道は成功しなかった)。
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第2に、古代国家のことはさておいて、近代国家ともいうべき明治になってからも、古代(または古式)的な神道的心情である和の精神は、継続していることです。それは共同体原理から生まれたものなのにしばしば共同体を超えても働く原理になり、そうであることにより、しばしば不都合を生じていると思います。
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その不都合は、単一の神道的心情とはみなされず、政治や社会の指導者たちが身につけた儒学の問題として扱われることが多く、それは近代民主主義の視点から批判の対象にあげられたように思います。神道的心情は隠され、しかしときどきに神道自体も反民主主義の作用をするものとみなされてきたように思います。
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3つめに、少し視点を変えた角度からの見方です。共同体原理である「和」が働くのが世間というものではないでしょうか。「和」の心情は、しばしば共同体を超えたところでも作用しているので、日本の文化的・社会的状態全体が「世間」ということばで表現されるようになっているように思います。しかし、その共同体を超える部分と、超えるのが適当ではない部分の境界原則が不明瞭で、雑然としていると考えられます。これが個人を尊重するという近代民主主義の点からすると、いろいろな不透明な状況を生み出しているようです。
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これら全体を総括した現実社会では、たとえば次のような状況が生まれます。隣人・家族への心配り・気づかいが大事。生じる事態を無言のうちに了解し、それぞれが他者を傷つけないように身を慎む。意見というのは出すぎた形であり、お互いにわかりあったなかで自分の力量の範囲に身をおく。そこには暗黙の世間があり、世間に迷惑をかけないことが生きる上での基準になる…などです。
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これらは確かに個人の尊重に基いて民主主義が定着していくなかでは、個人を抑圧する作用があります。同様に、過当な競争から弱い立場の人をある程度保護していく役割があったのですが、それが現実社会の変化のなかですり切れて喪失していったようにも思います。
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例えばこの数日、大相撲の横綱・朝青龍の動向が報道されています。TVをみていたところ、朝青龍に対しては、大相撲のルールに従うこと、世間の反応はどうかの2つの基準からみて判断することになるという解説者の意見があり、一瞬あっと思いました。大相撲のルールというのは、共同体(この場合は職能団体)のルールでしょう。
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しかしそれだけでは十分ではなく世間が出てきたのです。たぶんこの2つのルールの共通性と分離性(独立性)がうまくいっていないのでしょう。そして私には、もう一つ国際ルール(日本とモンゴル)というのも浮上してくる可能性を感じます。
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なぜ本人の目前で退陣を迫る発言がこれまでなかったのか。ここに「競わない」和の精神と神道的な潜在的心情が働いている、と考えます。しかし、これでは十分な説明ではないでしょう。<br>
おそらく共同体ルール、一般社会ルール、国際ルールの3つがあり、そこには共通性とともにそれぞれの独自性があり、しかもそれらが統一的に整合されていることが求められるのでしょう。神道(大相撲は精神的にはかなり結びついている)は、この面に対処しなくてはならなくなってきたように思います。しかし、これはただ神道に限らず、予測としてはあらゆる宗教やあらゆる文化・文明にも通じることと思います。儒教文化圏というのもそこに入るはずです。
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政治世界で本人の目前で首相退陣を迫ることはいくらでもありました。一つは野党側の要求が第一でこれは相当に多い。しかし与党内からもありました。1970年代末に「三木降ろし」があり、自民党の内紛的様相を示し、首相本人の目前で退陣要求はされました。<br>
初めに紹介した、自民党内での首相への直言は、この「和」のフレームが、一般庶民レベルを超えて、社会のリーダー的部分にも広がってきたことを示しているように思います。加藤紘一氏の感想は、こういう背景をもっているように私には受けとられるのです。<br>
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今回は、「自民党内の仲間うちで」、「同時に続投が大勢になっている状況のもとで」という二つの条件があるのに、「本人の目前で」ということが異色なのだと思います。<br>
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すなわち仲間うちという共同体においては、大勢とは別の動きを示すことは、和を乱すものとしてこれまでは暗黙のうちに回避されてきたのに、それが崩れてきている、という意味になります。<br>
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もう少し先に進みましょう。といっても今回の発言には政治状況がとくに関係していますが、私がそれに何かいうのは適当ではないので、その部分への言及はやめておきます。<br>
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一般の一つのまとまった集団社会(閉鎖的な社会とまでは言えないでしょうが)の事情として考えたことです。<br>
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1つは、和の精神は、共同体的な人間集団に根づき、そこから発生し広がっています。<br>
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これは『儒教とは何か』(加治)において、儒教が孔子のときに、(血縁・地縁的な)共同体的原理から、共同体を超える原理につくりかえられ、孔子の後継者たちは国家や統一国家(秦)の成立の時代にかけて整備していったことと対比されるように思います。<br>
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すなわち和の精神を生み出しているはずの神道はそのような発展がなかった、少なくとも国民的に受け入れられる形での発展がなかったといえるように思います(明治期以降の国家神道は成功しなかった)。<br>
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第2に、古代国家のことはさておいて、近代国家ともいうべき明治になってからも、古代(または古式)的な神道的心情である和の精神は、継続していることです。<br>
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それは共同体原理から生まれたものなのにしばしば共同体を超えても働く原理になり、そうであることにより、しばしば不都合を生じていると思います。<br>
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その不都合は、単一の神道的心情とはみなされず、政治や社会の指導者たちが身につけた儒学の問題として扱われることが多く、それは近代民主主義の視点から批判の対象にあげられたように思います。<br>
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神道的心情は隠され、しかしときどきに神道自体も反民主主義の作用をするものとみなされてきたように思います。<br>
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3つめに、少し視点を変えた角度からの見方です。<br>
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共同体原理である「和」が働くのが世間というものではないでしょうか。<br>
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「和」の心情は、しばしば共同体を超えたところでも作用しているので、日本の文化的・社会的状態全体が「世間」ということばで表現されるようになっているように思います。<br>
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しかし、その共同体を超える部分と、超えるのが適当ではない部分の境界原則が不明瞭で、雑然としていると考えられます。<br>
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これが個人を尊重するという近代民主主義の点からすると、いろいろな不透明な状況を生み出しているようです。<br>
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これら全体を総括した現実社会では、たとえば次のような状況が生まれます。隣人・家族への心配り・気づかいが大事。生じる事態を無言のうちに了解し、それぞれが他者を傷つけないように身を慎む。意見というのは出すぎた形であり、お互いにわかりあったなかで自分の力量の範囲に身をおく。そこには暗黙の世間があり、世間に迷惑をかけないことが生きる上での基準になる…などです。<br>
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これらは確かに個人の尊重に基いて民主主義が定着していくなかでは、個人を抑圧する作用があります。<br>
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同様に、過当な競争から弱い立場の人をある程度保護していく役割があったのですが、それが現実社会の変化のなかですり切れて喪失していったようにも思います。<br>
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例えばこの数日、大相撲の横綱・朝青龍の動向が報道されています。TVをみていたところ、朝青龍に対しては、大相撲のルールに従うこと、世間の反応はどうかの2つの基準からみて判断することになるという解説者の意見があり、一瞬あっと思いました。大相撲のルールというのは、共同体(この場合は職能団体)のルールでしょう。<br>
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しかしそれだけでは十分ではなく世間が出てきたのです。たぶんこの2つのルールの共通性と分離性(独立性)がうまくいっていないのでしょう。<br>
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そして私には、もう一つ国際ルール(日本とモンゴル)というのも浮上してくる可能性を感じます。<br>
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おそらく共同体ルール、一般社会ルール、国際ルールの3つがあり、そこには共通性とともにそれぞれの独自性があり、しかもそれらが統一的に整合されていることが求められるのでしょう。<br>
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神道(大相撲は精神的にはかなり結びついている)は、この面に対処しなくてはならなくなってきたように思います。<br>
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しかし、これはただ神道に限らず、予測としてはあらゆる宗教やあらゆる文化・文明にも通じることと思います。儒教文化圏というのもそこに入るはずです。<br>
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初めに紹介した、自民党内での首相への直言は、この「和」のフレームが、一般庶民レベルを超えて、社会のリーダー的部分にも広がってきたことを示しているように思います。<br>
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加藤紘一氏の感想は、こういう背景をもっているように私には受けとられるのです。<br>
  
 
[[Category:不登校情報センター・五十田猛・無神論者の祈り|むしんろんじゃ]]
 
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2011年3月31日 (木) 17:58時点における版

「和」をめぐる新しいルールの必要性(?)

〔2007年8月〕


先日(7月29日)の参議院選挙で自民党は大敗しました。ところが安倍晋三(首相、総裁)はいち早く「首相続投」を宣言し、党内の大勢はこれを容認する方向になっています。
選挙をうけた直後の国会開会の日、自民党の議員総会が開かれました。数名の代議士から首相の目前で「首相は一度身を退くべき」「国民は投手(首相)交代を求めた」と発言したのです。
これを見て、元幹事長で非主流にいる加藤紘一氏の感想。「日本社会では本人の前であのような発言をすることはこれまでなかったこと」と、むしろ肯定的なとらえ方をしています。このことを考えたい。

なぜ本人の目前で退陣を迫る発言がこれまでなかったのか。ここに「競わない」和の精神と神道的な潜在的心情が働いている、と考えます。しかし、これでは十分な説明ではないでしょう。
政治世界で本人の目前で首相退陣を迫ることはいくらでもありました。一つは野党側の要求が第一でこれは相当に多い。しかし与党内からもありました。1970年代末に「三木降ろし」があり、自民党の内紛的様相を示し、首相本人の目前で退陣要求はされました。

今回は、「自民党内の仲間うちで」、「同時に続投が大勢になっている状況のもとで」という二つの条件があるのに、「本人の目前で」ということが異色なのだと思います。
すなわち仲間うちという共同体においては、大勢とは別の動きを示すことは、和を乱すものとしてこれまでは暗黙のうちに回避されてきたのに、それが崩れてきている、という意味になります。

もう少し先に進みましょう。といっても今回の発言には政治状況がとくに関係していますが、私がそれに何かいうのは適当ではないので、その部分への言及はやめておきます。
一般の一つのまとまった集団社会(閉鎖的な社会とまでは言えないでしょうが)の事情として考えたことです。

1つは、和の精神は、共同体的な人間集団に根づき、そこから発生し広がっています。
これは『儒教とは何か』(加治)において、儒教が孔子のときに、(血縁・地縁的な)共同体的原理から、共同体を超える原理につくりかえられ、孔子の後継者たちは国家や統一国家(秦)の成立の時代にかけて整備していったことと対比されるように思います。
すなわち和の精神を生み出しているはずの神道はそのような発展がなかった、少なくとも国民的に受け入れられる形での発展がなかったといえるように思います(明治期以降の国家神道は成功しなかった)。

第2に、古代国家のことはさておいて、近代国家ともいうべき明治になってからも、古代(または古式)的な神道的心情である和の精神は、継続していることです。
それは共同体原理から生まれたものなのにしばしば共同体を超えても働く原理になり、そうであることにより、しばしば不都合を生じていると思います。
その不都合は、単一の神道的心情とはみなされず、政治や社会の指導者たちが身につけた儒学の問題として扱われることが多く、それは近代民主主義の視点から批判の対象にあげられたように思います。
神道的心情は隠され、しかしときどきに神道自体も反民主主義の作用をするものとみなされてきたように思います。

3つめに、少し視点を変えた角度からの見方です。
共同体原理である「和」が働くのが世間というものではないでしょうか。
「和」の心情は、しばしば共同体を超えたところでも作用しているので、日本の文化的・社会的状態全体が「世間」ということばで表現されるようになっているように思います。
しかし、その共同体を超える部分と、超えるのが適当ではない部分の境界原則が不明瞭で、雑然としていると考えられます。
これが個人を尊重するという近代民主主義の点からすると、いろいろな不透明な状況を生み出しているようです。

これら全体を総括した現実社会では、たとえば次のような状況が生まれます。隣人・家族への心配り・気づかいが大事。生じる事態を無言のうちに了解し、それぞれが他者を傷つけないように身を慎む。意見というのは出すぎた形であり、お互いにわかりあったなかで自分の力量の範囲に身をおく。そこには暗黙の世間があり、世間に迷惑をかけないことが生きる上での基準になる…などです。

これらは確かに個人の尊重に基いて民主主義が定着していくなかでは、個人を抑圧する作用があります。
同様に、過当な競争から弱い立場の人をある程度保護していく役割があったのですが、それが現実社会の変化のなかですり切れて喪失していったようにも思います。
例えばこの数日、大相撲の横綱・朝青龍の動向が報道されています。TVをみていたところ、朝青龍に対しては、大相撲のルールに従うこと、世間の反応はどうかの2つの基準からみて判断することになるという解説者の意見があり、一瞬あっと思いました。大相撲のルールというのは、共同体(この場合は職能団体)のルールでしょう。

しかしそれだけでは十分ではなく世間が出てきたのです。たぶんこの2つのルールの共通性と分離性(独立性)がうまくいっていないのでしょう。
そして私には、もう一つ国際ルール(日本とモンゴル)というのも浮上してくる可能性を感じます。
おそらく共同体ルール、一般社会ルール、国際ルールの3つがあり、そこには共通性とともにそれぞれの独自性があり、しかもそれらが統一的に整合されていることが求められるのでしょう。
神道(大相撲は精神的にはかなり結びついている)は、この面に対処しなくてはならなくなってきたように思います。
しかし、これはただ神道に限らず、予測としてはあらゆる宗教やあらゆる文化・文明にも通じることと思います。儒教文化圏というのもそこに入るはずです。
初めに紹介した、自民党内での首相への直言は、この「和」のフレームが、一般庶民レベルを超えて、社会のリーダー的部分にも広がってきたことを示しているように思います。
加藤紘一氏の感想は、こういう背景をもっているように私には受けとられるのです。

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