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Center:115-日本的精神の定着と変化(スケッチ)

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キリスト教が世界各地に広がる過程では、それぞれの地域における精神的風土や習俗と融合していったに違いありません。<br>
 
キリスト教が世界各地に広がる過程では、それぞれの地域における精神的風土や習俗と融合していったに違いありません。<br>
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その普及方法がたとえ異教徒撲滅ということであっても、キリスト教の定着においてはその土地の旧来の風習や生活様式をとり入れるしかなかったのでしょう。<br>
 
その普及方法がたとえ異教徒撲滅ということであっても、キリスト教の定着においてはその土地の旧来の風習や生活様式をとり入れるしかなかったのでしょう。<br>
  
 
井沢元彦によると日本におけるキリスト教の普及は人口の1%未満らしく、とても広く普及している状況ではありません。<br>
 
井沢元彦によると日本におけるキリスト教の普及は人口の1%未満らしく、とても広く普及している状況ではありません。<br>
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井沢はそれを芥川龍之介と遠藤周作の小説を紹介する形で、日本の精神風土における「つくりかえる力」や「泥沼」力を指摘しています。<br>
 
井沢はそれを芥川龍之介と遠藤周作の小説を紹介する形で、日本の精神風土における「つくりかえる力」や「泥沼」力を指摘しています。<br>
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その力、柔軟というべきか底なしというべきか、その力の源泉をさぐるために偶然に2冊の本を手に入れました。<br>
 
その力、柔軟というべきか底なしというべきか、その力の源泉をさぐるために偶然に2冊の本を手に入れました。<br>
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1冊は梅原猛『日本学事始』(1985年9月、集英社)、もう1冊は養老孟司『無思想の発見』(2005年12月、筑摩書房)です。<br>
 
1冊は梅原猛『日本学事始』(1985年9月、集英社)、もう1冊は養老孟司『無思想の発見』(2005年12月、筑摩書房)です。<br>
  
ここでは梅原猛が同書で上山春平と対談の形で日本学と称している内容にふれることにします。
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ここでは梅原猛が同書で上山春平と対談の形で日本学と称している内容にふれることにします。<br>
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日本の精神的風土の源流を両者とも神道においているとみることができます。しかし両者の神道は明治期に形づくられた国家神道ではありません。<br>
 
日本の精神的風土の源流を両者とも神道においているとみることができます。しかし両者の神道は明治期に形づくられた国家神道ではありません。<br>
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いやもっともっとさかのぼります。江戸期の国学もその問題点を相当にするどく批判的にとりあげています。<br>
 
いやもっともっとさかのぼります。江戸期の国学もその問題点を相当にするどく批判的にとりあげています。<br>
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そのなかでも最も重視し、最も深く問題を浮かび上がらせたのは、8世紀初頭の『古事記』『日本書紀』とその当時の政治的・宗教的改革です。<br>
 
そのなかでも最も重視し、最も深く問題を浮かび上がらせたのは、8世紀初頭の『古事記』『日本書紀』とその当時の政治的・宗教的改革です。<br>
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そこをさらに超えて、日本精神の源流を探求していく2人ですが、上山春平は、稲作文化が日本に渡来してくる以前の1万年もつづく縄文期にあると予測しています。<br>
 
そこをさらに超えて、日本精神の源流を探求していく2人ですが、上山春平は、稲作文化が日本に渡来してくる以前の1万年もつづく縄文期にあると予測しています。<br>
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その時代の比類のない狩猟採集文化が自然信仰の根をつくっており、それがシャーマニズムの形にされたのが神道というわけです。<br>
 
その時代の比類のない狩猟採集文化が自然信仰の根をつくっており、それがシャーマニズムの形にされたのが神道というわけです。<br>
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梅原は上山説にはただちに同意を示しているわけではなく、両者ともその源泉の探求課題としておいているのです。<br>
 
梅原は上山説にはただちに同意を示しているわけではなく、両者ともその源泉の探求課題としておいているのです。<br>
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明治期に、民俗学の柳田国男と折口信夫が先駆的に国家神道の枠から離れて独自に挑戦しました。<br>
 
明治期に、民俗学の柳田国男と折口信夫が先駆的に国家神道の枠から離れて独自に挑戦しました。<br>
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たぶん南方熊楠もこの仲間に入れることはできるでしょう。南方は自然科学者の目を併せもっていた点で注目されるはずです。<br>
 
たぶん南方熊楠もこの仲間に入れることはできるでしょう。南方は自然科学者の目を併せもっていた点で注目されるはずです。<br>
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====(2)古代国家成立時の政治・宗教改革の意味====
 
====(2)古代国家成立時の政治・宗教改革の意味====
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さて問題は、8世紀はじめの政治・宗教改革にふれなくてはなりません。<br>
 
さて問題は、8世紀はじめの政治・宗教改革にふれなくてはなりません。<br>
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具体的には天武天皇、持統天皇による日本における律令制の確立、それと併行して神道と仏教の両方が非常に似通った方法である種の改革を行いました。<br>
 
具体的には天武天皇、持統天皇による日本における律令制の確立、それと併行して神道と仏教の両方が非常に似通った方法である種の改革を行いました。<br>
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政治的には大宝律令であり、後者が『古事記』と『日本書紀』です。<br>
 
政治的には大宝律令であり、後者が『古事記』と『日本書紀』です。<br>
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注目されるのは、聖徳太子作といわれる「十七条憲法」が両者とも、藤原不比等の手になる可能性を示唆されています。<br>
 
注目されるのは、聖徳太子作といわれる「十七条憲法」が両者とも、藤原不比等の手になる可能性を示唆されています。<br>
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そうであるならばこれまた8世紀初頭の政治的・宗教的変革の産物ということになります。<br>
 
そうであるならばこれまた8世紀初頭の政治的・宗教的変革の産物ということになります。<br>
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日本の古代国家は8世紀初頭で、それは672年の壬申の乱のあとです。それを法制度として定めたのが大宝律令(701年)。「律令というのは、隋・唐でできた刑罰の体系で、令は命令、律は禁止です。…罰の思想、法律による罰の客観的規定がそのとき出来たんです」(梅原、52ページ)。<br>
 
日本の古代国家は8世紀初頭で、それは672年の壬申の乱のあとです。それを法制度として定めたのが大宝律令(701年)。「律令というのは、隋・唐でできた刑罰の体系で、令は命令、律は禁止です。…罰の思想、法律による罰の客観的規定がそのとき出来たんです」(梅原、52ページ)。<br>
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私はここに、共同体的(仲間内的)慣習が、共同体を超えた国家体制に取り入れられるときに求められる継承と発展の姿を確認できます。<br>
 
私はここに、共同体的(仲間内的)慣習が、共同体を超えた国家体制に取り入れられるときに求められる継承と発展の姿を確認できます。<br>
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それがどれほど公平に適応されたかはひとまずおくとしても、原理として導入された、そこに古代国家らしさを感じます。「公共的価値体系」(上山、60ページ)をつくったのです。<br>
 
それがどれほど公平に適応されたかはひとまずおくとしても、原理として導入された、そこに古代国家らしさを感じます。「公共的価値体系」(上山、60ページ)をつくったのです。<br>
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儒教が孔子のときに、死者を葬る儀式から一つの宗教として確立していったように、その儒教が中国の古代統一国家(秦王朝)成立のときに法家の形で発展していったように、民間にある習慣や精神風土は、時代的要請のなかでそれに応える形で継承しながら発展を示すしかありません。それが継続していく方法です。ときにそれが旧来の習慣や考え方を破壊するだけの仕業に終わることがあったとしてもです。<br>
 
儒教が孔子のときに、死者を葬る儀式から一つの宗教として確立していったように、その儒教が中国の古代統一国家(秦王朝)成立のときに法家の形で発展していったように、民間にある習慣や精神風土は、時代的要請のなかでそれに応える形で継承しながら発展を示すしかありません。それが継続していく方法です。ときにそれが旧来の習慣や考え方を破壊するだけの仕業に終わることがあったとしてもです。<br>
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さて日本は大宝律令のあと、いくつかの律令体制を確立するための律令が発布されました。<br>
 
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それは一方では、天武天皇から持統天皇の王権確立の過程でした。その陰でまた、藤原氏が行政的な実権を、仲臣氏が神道の実権を獲得していく方法でした。<br>
 
それは一方では、天武天皇から持統天皇の王権確立の過程でした。その陰でまた、藤原氏が行政的な実権を、仲臣氏が神道の実権を獲得していく方法でした。<br>
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他方では、そして私はここに特に注目するのですが、神道が儒教や仏教を取り入れながら、ある意味で妥協し役割分担をしながら、今日につづく日本の精神風土の深層基盤をつくったと考えるのです。<br>
 
他方では、そして私はここに特に注目するのですが、神道が儒教や仏教を取り入れながら、ある意味で妥協し役割分担をしながら、今日につづく日本の精神風土の深層基盤をつくったと考えるのです。<br>
  
 
「今日につづく」といっても1300年を経る間には、政治的な変動、経済・社会的な変化のなかで当然そのままつづいているわけではありません。<br>
 
「今日につづく」といっても1300年を経る間には、政治的な変動、経済・社会的な変化のなかで当然そのままつづいているわけではありません。<br>
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平安期には怨霊思想が、鎌倉期には日本の風土にきわめて適合した仏教の盛況がありました。戦国時代には日本人の習俗に多くの断絶があったことが知られています。<br>
 
平安期には怨霊思想が、鎌倉期には日本の風土にきわめて適合した仏教の盛況がありました。戦国時代には日本人の習俗に多くの断絶があったことが知られています。<br>
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江戸時代には、儒教が国の政治・行政的バックボーンである儒学(朱子学)として広く普及しました。<br>
 
江戸時代には、儒教が国の政治・行政的バックボーンである儒学(朱子学)として広く普及しました。<br>
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明治に入ると神道は国家神道になり、廃仏毀釈という圧政がありました。<br>
 
明治に入ると神道は国家神道になり、廃仏毀釈という圧政がありました。<br>
  
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私が「今日までつづく」というのは、1300年間の大きな変化を経て、なお日本人の精神的風土に生きているものがあるというのは、それぞれの時代に変化はあったけれども、姿や形をかえてどこか共通するものがあると感じるのです。<br>
 
私が「今日までつづく」というのは、1300年間の大きな変化を経て、なお日本人の精神的風土に生きているものがあるというのは、それぞれの時代に変化はあったけれども、姿や形をかえてどこか共通するものがあると感じるのです。<br>
 
それらを一言で言い表わすことは困難です。たぶん、他人への配慮、世間に迷惑をかけない(世間を騒がせない)、争い事をこのまない(というより争い事になる以前に処理する)です。<br>
 
それらを一言で言い表わすことは困難です。たぶん、他人への配慮、世間に迷惑をかけない(世間を騒がせない)、争い事をこのまない(というより争い事になる以前に処理する)です。<br>
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悪い形で表現すれば、長いものに巻かれる、お上の言うことには逆らわない、大勢に順い、言いたいことも言わない、…となると今日的民主主義からは否定的に考えられる精神風土になります。<br>
 
悪い形で表現すれば、長いものに巻かれる、お上の言うことには逆らわない、大勢に順い、言いたいことも言わない、…となると今日的民主主義からは否定的に考えられる精神風土になります。<br>
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これらは、人間のなかで発生することですが、自然との関係でいえばまた違ったものがあります。<br>
 
これらは、人間のなかで発生することですが、自然との関係でいえばまた違ったものがあります。<br>
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自然崇拝といえば肯定的にきこえますが、自然への無力感(これも否定的とはいえないでしょう)。<br>
 
自然崇拝といえば肯定的にきこえますが、自然への無力感(これも否定的とはいえないでしょう)。<br>
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自然との共存、もしかしたらこれは日本人だけでなく先史時代の人類に共通するし、世界各地の工業化以前の社会にはしばしばみられることです。<br>
 
自然との共存、もしかしたらこれは日本人だけでなく先史時代の人類に共通するし、世界各地の工業化以前の社会にはしばしばみられることです。<br>
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世間というのがときどき公権力そのものをさすこともありますが、公権力自体もときどき世間にはかなわないと嘆いているところをみると、公権力の向こうに働くより大きな力のようです。<br>
 
世間というのがときどき公権力そのものをさすこともありますが、公権力自体もときどき世間にはかなわないと嘆いているところをみると、公権力の向こうに働くより大きな力のようです。<br>
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丁度、台風や地震のように人の意志ではどうにもならないものが世間です。<br>
 
丁度、台風や地震のように人の意志ではどうにもならないものが世間です。<br>
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宗教観ではどうでしょうか。多くの日本人は無神論者といっていいでしょう。しかし確信的無神論者というよりは、多神教的であることが無神論者になりやすくしているといえると思います。<br>
 
宗教観ではどうでしょうか。多くの日本人は無神論者といっていいでしょう。しかし確信的無神論者というよりは、多神教的であることが無神論者になりやすくしているといえると思います。<br>
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一神教的な絶対的な神は信じないけれども、身近な古木とかときにはマジックのような目前の非合理的不思議を信じやすいという反面をもっているようにも思います。<br>
 
一神教的な絶対的な神は信じないけれども、身近な古木とかときにはマジックのような目前の非合理的不思議を信じやすいという反面をもっているようにも思います。<br>
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キリスト原理主義者のようにダーウィン進化論を否定するような極端なことは避けながら、占いのような非科学にとびついていくのです。<br>
 
キリスト原理主義者のようにダーウィン進化論を否定するような極端なことは避けながら、占いのような非科学にとびついていくのです。<br>
 
私はこれらを精神文化の特色と考え、それは8世紀以来(その源泉はさらにさかのぼるにしても)からつづいていると、(見てきたようにとは思いませんが)考えるのです。<br>
 
私はこれらを精神文化の特色と考え、それは8世紀以来(その源泉はさらにさかのぼるにしても)からつづいていると、(見てきたようにとは思いませんが)考えるのです。<br>
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2011年3月31日 (木) 18:21時点における版

目次

日本的精神の定着と変化(スケッチ)

〔2007年秋〕

(1)

キリスト教が世界各地に広がる過程では、それぞれの地域における精神的風土や習俗と融合していったに違いありません。

その普及方法がたとえ異教徒撲滅ということであっても、キリスト教の定着においてはその土地の旧来の風習や生活様式をとり入れるしかなかったのでしょう。

井沢元彦によると日本におけるキリスト教の普及は人口の1%未満らしく、とても広く普及している状況ではありません。

井沢はそれを芥川龍之介と遠藤周作の小説を紹介する形で、日本の精神風土における「つくりかえる力」や「泥沼」力を指摘しています。

その力、柔軟というべきか底なしというべきか、その力の源泉をさぐるために偶然に2冊の本を手に入れました。

1冊は梅原猛『日本学事始』(1985年9月、集英社)、もう1冊は養老孟司『無思想の発見』(2005年12月、筑摩書房)です。


ここでは梅原猛が同書で上山春平と対談の形で日本学と称している内容にふれることにします。

日本の精神的風土の源流を両者とも神道においているとみることができます。しかし両者の神道は明治期に形づくられた国家神道ではありません。

いやもっともっとさかのぼります。江戸期の国学もその問題点を相当にするどく批判的にとりあげています。

そのなかでも最も重視し、最も深く問題を浮かび上がらせたのは、8世紀初頭の『古事記』『日本書紀』とその当時の政治的・宗教的改革です。


そこをさらに超えて、日本精神の源流を探求していく2人ですが、上山春平は、稲作文化が日本に渡来してくる以前の1万年もつづく縄文期にあると予測しています。

その時代の比類のない狩猟採集文化が自然信仰の根をつくっており、それがシャーマニズムの形にされたのが神道というわけです。

梅原は上山説にはただちに同意を示しているわけではなく、両者ともその源泉の探求課題としておいているのです。

明治期に、民俗学の柳田国男と折口信夫が先駆的に国家神道の枠から離れて独自に挑戦しました。

たぶん南方熊楠もこの仲間に入れることはできるでしょう。南方は自然科学者の目を併せもっていた点で注目されるはずです。


(2)古代国家成立時の政治・宗教改革の意味

さて問題は、8世紀はじめの政治・宗教改革にふれなくてはなりません。

具体的には天武天皇、持統天皇による日本における律令制の確立、それと併行して神道と仏教の両方が非常に似通った方法である種の改革を行いました。

政治的には大宝律令であり、後者が『古事記』と『日本書紀』です。

注目されるのは、聖徳太子作といわれる「十七条憲法」が両者とも、藤原不比等の手になる可能性を示唆されています。

そうであるならばこれまた8世紀初頭の政治的・宗教的変革の産物ということになります。

日本の古代国家は8世紀初頭で、それは672年の壬申の乱のあとです。それを法制度として定めたのが大宝律令(701年)。「律令というのは、隋・唐でできた刑罰の体系で、令は命令、律は禁止です。…罰の思想、法律による罰の客観的規定がそのとき出来たんです」(梅原、52ページ)。


私はここに、共同体的(仲間内的)慣習が、共同体を超えた国家体制に取り入れられるときに求められる継承と発展の姿を確認できます。

それがどれほど公平に適応されたかはひとまずおくとしても、原理として導入された、そこに古代国家らしさを感じます。「公共的価値体系」(上山、60ページ)をつくったのです。


儒教が孔子のときに、死者を葬る儀式から一つの宗教として確立していったように、その儒教が中国の古代統一国家(秦王朝)成立のときに法家の形で発展していったように、民間にある習慣や精神風土は、時代的要請のなかでそれに応える形で継承しながら発展を示すしかありません。それが継続していく方法です。ときにそれが旧来の習慣や考え方を破壊するだけの仕業に終わることがあったとしてもです。


さて日本は大宝律令のあと、いくつかの律令体制を確立するための律令が発布されました。

それは一方では、天武天皇から持統天皇の王権確立の過程でした。その陰でまた、藤原氏が行政的な実権を、仲臣氏が神道の実権を獲得していく方法でした。

他方では、そして私はここに特に注目するのですが、神道が儒教や仏教を取り入れながら、ある意味で妥協し役割分担をしながら、今日につづく日本の精神風土の深層基盤をつくったと考えるのです。

「今日につづく」といっても1300年を経る間には、政治的な変動、経済・社会的な変化のなかで当然そのままつづいているわけではありません。

平安期には怨霊思想が、鎌倉期には日本の風土にきわめて適合した仏教の盛況がありました。戦国時代には日本人の習俗に多くの断絶があったことが知られています。

江戸時代には、儒教が国の政治・行政的バックボーンである儒学(朱子学)として広く普及しました。

明治に入ると神道は国家神道になり、廃仏毀釈という圧政がありました。

第2次世界大戦のあとは、日本国憲法が生まれ、個人を基盤とする民主主義が保障されることになっています。
私が「今日までつづく」というのは、1300年間の大きな変化を経て、なお日本人の精神的風土に生きているものがあるというのは、それぞれの時代に変化はあったけれども、姿や形をかえてどこか共通するものがあると感じるのです。
それらを一言で言い表わすことは困難です。たぶん、他人への配慮、世間に迷惑をかけない(世間を騒がせない)、争い事をこのまない(というより争い事になる以前に処理する)です。

悪い形で表現すれば、長いものに巻かれる、お上の言うことには逆らわない、大勢に順い、言いたいことも言わない、…となると今日的民主主義からは否定的に考えられる精神風土になります。


これらは、人間のなかで発生することですが、自然との関係でいえばまた違ったものがあります。

自然崇拝といえば肯定的にきこえますが、自然への無力感(これも否定的とはいえないでしょう)。

自然との共存、もしかしたらこれは日本人だけでなく先史時代の人類に共通するし、世界各地の工業化以前の社会にはしばしばみられることです。

世間というのがときどき公権力そのものをさすこともありますが、公権力自体もときどき世間にはかなわないと嘆いているところをみると、公権力の向こうに働くより大きな力のようです。

丁度、台風や地震のように人の意志ではどうにもならないものが世間です。


宗教観ではどうでしょうか。多くの日本人は無神論者といっていいでしょう。しかし確信的無神論者というよりは、多神教的であることが無神論者になりやすくしているといえると思います。

一神教的な絶対的な神は信じないけれども、身近な古木とかときにはマジックのような目前の非合理的不思議を信じやすいという反面をもっているようにも思います。

キリスト原理主義者のようにダーウィン進化論を否定するような極端なことは避けながら、占いのような非科学にとびついていくのです。
私はこれらを精神文化の特色と考え、それは8世紀以来(その源泉はさらにさかのぼるにしても)からつづいていると、(見てきたようにとは思いませんが)考えるのです。


(3)

私はこの「古きよき」日本の精神文化、精神的風土が、揺らいでいると考えています。それはよいとかわるいとかという尺度では図りがたいものです。あるときは肯定的であり、あるときは否定的です。あるいはある面では評価し、別の面では非難すべきものです。
一つの出来事においてさえ、この面ではよく、この面ではよくない、ということも生じています。
それら全体が、いま日本は大きな精神文化大革命の進行中にある、と思います。若者の中にあるひきこもり現象はその表われと考えてもいいと思うのです。

一方では、他者への配慮をきわめて重視する人がいます。その発生源を理屈めいていえば、古来の自然信仰に儒学的・仏教的な心情が組み合わさった行儀作法のよい人たちがいます。
他方では、これらを無頓着に蹂躙していく各種の人たちがいます。そのなかには、個人を基盤とする民主主義的感覚の人もいます。金権的・強権的に自己利益を図り他者をかえりみないタイプの人もいます。
ある著名な漫画家が大きな自宅を赤と白の“奇抜”なデザインで建てることになりました。周辺の人たちが行政側に建築の差し止めを請求しているというニュースがあります。
上の2つの傾向がここで表面化しているのです。住民は普通の色あいの住宅を求めています。漫画家は創作者らしいアート的な家を作ろうとしているのです。

このような意見の違い、感覚の違いが、生活のいろいろな場面で発生しています。日本は全体としてこの価値観の大きな転換点にあります。
文化的変化の時代であるといっていいでしょう。それは一方では憲法の民主主義的傾向の現実化の過程とみることができます。
他方では今日の日本の混乱を憲法の民主主義がもたらしたものとして、復古調的な方法で解決を図ろうとしています。
この価値観の変化の時代は、政治的には二つの方向に力が働くのです。

引きこもり系傾向の人たちは、周囲の調子を推し測るのに苦労しながら、勝手な振る舞いをする人たちに翻弄され困惑している人たちのように見えます。
だから彼(女)らは、旧来型の社会が適しているのかというと実はそうとも思えません。
彼(女)らと父母世代との違いは、案外に父母世代の常識的な価値観による静かにして堅固な抑制の対象者でもあるからです。
事態の解決は、憲法的な個人の尊重に基づく民主主義的な方向になるしかないでしょう。
それは、産業や技術や科学に裏づけられた生活条件がそれを求めているからです。
しかしその移行は、権力的・強制的なものではうまくいかないでしょう。それが実に日本的/日本の精神風土的だからです。

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