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KHJいわて石わりの会

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2021年6月18日 (金) 12:28時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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KHJいわて石わりの会

所在地 〒029-2208 岩手県陸前高田市広田町字前花貝80-21
代表 佐々木善仁
TEL携帯 080-1830-9046
FAX 019-613-4516

目の前で沈んだ母「生きろ」胸に 父とのしこり越え、息子告げる「いい人できた」【#あれから私は】
東日本大震災で被災した人たちを毎日新聞記者は継続して取材し、「いま」を伝えてきた。
今回登場する男性は2014年春と16年秋、20年春に取り上げた。震災10年を前に思いを聞いた。
岩手県陸前高田市で津波にのまれ、トタン屋根の上で17時間漂流した末に助かった佐々木陽一さん(40)は、一緒に逃げた母のみき子さん(当時57歳)と、引きこもりで自宅にいた弟の仁也(じんや)さん(同28歳)を失った。
佐々木さんと父の善仁(よしひと)さん(70)の二人暮らしが始まったが、佐々木さんは父が教師の仕事に没頭し、家庭を顧みてこなかったことを不満に思ってきた。
だが、15年から障害者スポーツを広める仕事を始め、競技の勉強や周知活動にのめり込むうちに、いつも教え子のことを考えていた父の気持ちも少し理解できるようになった。
「ずっと独りかな」2年前に転機
移住した自宅の近所で愛犬の「ちゃちゃ」と散歩する佐々木陽一さん(右)、婚約者の石垣美奈子さん=埼玉県秩父市で2021年2月14日、手塚耕一郎撮影
20年の年の瀬。佐々木陽一さんは岩手県陸前高田市の自宅で、父の善仁さんと別れのあいさつを交わした。
「頑張ってくる。行ってきます」「気を付けてな」。
車を夜通し運転し、翌朝到着したのは埼玉県秩父市のアパート。
2年前に知り合った石垣美奈子さん(25)との新しい生活が始まった。
初めて会った時から、明るくてよく気が付く石垣さんに好印象を持っていた。
ただし年齢差もあり、結婚できるとは思っていなかった。
そんな時、石垣さんから東京ディズニーランドへのデートに誘われる。
「『ずっと独りかな』と思うこともあった。こんな僕でも選んでくれるなら」。
将来を自然と考えるようになった。
1年前の3月11日。佐々木さんは岩手県久慈市にある母の実家を訪れた。
東日本大震災で亡くなった母のみき子さんと弟の仁也さんの墓前に手を合わせ、「いい人ができたよ」と報告した。
みき子さんの驚いた顔が浮かび、仁也さんの「妄想でしょ」という声が聞こえた気がした。
「助かったんだ。生きろ」直後に母は沈んだ
突然の激しい揺れに襲われたあの日。当時、小学校の非常勤講師だった佐々木さんは自宅にいた。
「巨大な津波が来る」と直感した。
2階の弟の部屋の前で、母が扉越しに「早く逃げて」と声をかけていた。
それでも扉は開かない。弟は中学時代から引きこもりがちだった。
佐々木さんは「2階まで波がこないでくれ」と祈りながら、扉のそばに米10キロと炊飯器、ジュース24缶とスナック菓子を置いて、母と逃げた。
ごう音とともに道路を駆け上がってきた黒い波にのまれ、佐々木さんは母と市営球場まで流された。
何とか内野スタンドに上がったが、さらに津波が迫る。
「もう駄目だ」と弱音を吐くと、母は「せっかく助かったんだ。生きろ」と言った。
それからすぐ、佐々木さんは流れてきたトタン屋根に乗ったが、急に水位が上がり、母は沈んでいった。
声をかける間もなかった。佐々木さんは翌朝、海岸に一人流れ着いたが、弟は数週間後、母は1カ月後に遺体で見つかった。
「わだかまり」から「敬意」へ 父の努力
東日本大震災の津波で弟と母を亡くした佐々木陽一さん(右)。
父善仁さん(左)と向き合う時間が増えていた=岩手県陸前高田市で2016年9月2日、佐々木順一撮影
2人を失って始まったのが、父との生活だった。
震災の年の3月末に退職するまで36年間、仕事に没頭した父。
朝も夜も食卓を家族と囲む時間はなく、息子たちとはほとんど関わってこなかった。
佐々木さんは父の無事にほっとした一方で、「面倒くさいのが残ったな」との思いもあった。
弟が中学2年の時、父の転勤で一家は陸前高田市から岩手県釜石市へ引っ越した。
これを機に、弟は不登校になった。
盛岡市の県立高校に進んでいったん自宅を離れたが、卒業後に戻ると再び、引きこもりがちになった。
母は、そんな弟を理解しようと、地元で「親の会」を発足させた。
母が将来の不安を相談する相手は「仕事人間」の父ではなく、佐々木さんだった。
佐々木さんには父だけが、家族の苦悩を分かち合っていないように思えて、わだかまりを感じていた。
そんな父が震災後に定年を迎え、親の会の活動を引き継ぐことを決めた。
「退職したら向き合う」という母との約束だった。
父は毎月、引きこもりの子を持つ親が集まる会に通うようになった。
「長男は妻の目、妻の思いで私を見ている部分もある。最初は一緒に暮らすのも嫌だったと思う」。
父の善仁さんはそう振り返る。
19年秋の台風19号で、引きこもりの若者を支える施設に土砂が流れ込んだ時は、車を飛ばして泥出し作業に駆け付けた。
「母との約束、守ってるんだな」と佐々木さんも父に一目置くようになった。
野球や相撲、政治から道の駅まで。共通の話題で会話も増えた。
父は同年末、体調を崩して入院していたが、20年4月に退院した。
「結婚を考えている人がいる」と報告すると、「生涯独身だと思っていた」と驚き、喜んでくれた。
父は、結婚願望の強かった母から「結婚するのか、しないのか」と迫られた昔話も初めて明かしてくれた。
「自分も女性からのアプローチがきっかけだった」。父子に新たな共通点が見つかった。
「働かないでどうするつもりだ」後悔胸に
移住した自宅の近所で愛犬の「ちゃちゃ」と散歩する佐々木陽一さん(左)、婚約者の石垣美奈子さん=埼玉県秩父市で2021年2月14日、手塚耕一郎撮影
20年7月、石垣さんに「僕と結婚してください」とプロポーズした。
当初は陸前高田市で暮らすことも考えた。しかし石垣さんには持病があり、運転免許を取ることが難しい。
「岩手での生活には車がいる。病院を新たに探す必要もある。自分が行った方がいい」。
埼玉県所沢市にある石垣さんの実家近くに移り住むことを決心した。
都会での生活には慣れていない。古里のように自然が多くて静かな秩父市を選んだ。
退院して間もない父を一人残すことには心配もあったが、父からは「自分の人生。悔いのないように」と背中を押された。
佐々木さんは震災後、非常勤講師の任期を終え、福祉施設で働いたり、障害者スポーツを広める仕事をしたりしてきた。
震災前は弟に「働かないで将来どうするつもりだ」と言い捨てたこともあった。
でも震災後、「普段からもっと相談に乗ってやれていたら。人には言えない心の葛藤があったのではないか」と悔やんだ。
弟のような心に病を抱えた人を支える精神保健福祉士の資格取得を目指してきたが、結婚に備えて福祉の現場からはいったん離れ、運送会社の契約社員になった。
大型車両の運転や、運送作業の手伝いをする。トラック運転手は憧れの職業の一つだった。
「子どもの頃の最初の夢。仕事は楽しい」と充実している。
運転と料理ができる佐々木さんは買い出しと食事の支度、石垣さんは掃除洗濯と食後の片付けを担当する。
佐々木さんの料理の腕は母仕込みで、酢の物やあえ物は「おいしい」と好評だ。
石垣さんの体調が悪い時は決して無理をさせない。
精神保健福祉士を目指して勉強したことも、婚約者を支えるのに役立っている。夏までには婚姻届を出す予定だ。
財布の写真に誓う「生きる」
移住した自宅の近所で愛犬の「ちゃちゃ」と散歩する佐々木陽一さん(右)、婚約者の石垣美奈子さん=埼玉県秩父市で2021年2月14日、手塚耕一郎撮影
財布にはいつも、母と弟の写真を忍ばせている。
あの日の母の「生きろ」の一言が、人生の支えになっている。
この10年、「あの時、死んでいれば楽だったのに」と嘆く人の声も聞いた。
佐々木さんは「2人の分も人生を全うしよう。どんなことがあっても、生きていればなんとかなる」と信じている。
古里を離れて初めて迎える3月11日。
新型コロナウイルス禍のため墓参りはあきらめ、仕事場で黙とうする。
「彼女と頑張って生きていくよ」。写真の2人にそう報告するつもりだ。
この記事は、毎日新聞の紙面連載を元にしたYahoo!ニュースとの共同連携企画です。
東日本大震災で被災した人たちを記者が継続して取材し、「いま」を伝える記事を随時配信します。
〔2021年3/5(金) 毎日新聞【日向米華】〕 

妻と次男亡くした元小学校校長、家族と向き合えなかった後悔胸に…懸命に踏み出す再生の一歩
妻と次男の遺影を立て、毎日手を合わせる佐々木善仁さん(撮影・岩田浩史)
◇東日本大震災から10年 あの日あの時3.11(7)
発生から10年を迎える東日本大震災の記憶と教訓はいかに受け継がれているのか。
被災地ルポ「あの日 あの時」第7回は、引きこもりだった次男と妻を津波で亡くした、岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(70)。
次男は家族の説得に応じず家から出ず、妻も逃げ遅れ犠牲に。
仕事に追われ家族に向き合わなかった佐々木さんは自分を責め続けました。
佐々木さんは、地震発生当時校長を務めていた広田小学校のそばに暮らしている。
市の中心部にあった家が津波で流されたため、学校関係者が探してくれた仮住まいだが「結局10年住んじゃってますね」。
地震の3週間後には定年退職で教職を離れたが、温かい近所の人たちとの付き合いが気に入っている。
あの日は、学校の中庭で整地作業中に地震に遭った。
海はすぐそばだが、高台で津波は届かなかった。
ただ、道路が遮断され“陸の孤島”となった地域で唯一の避難所となったため、続々と駆け込む地域住民らの対応に追われる日々を送った。
家族の安否が気になったが、校長として、避難所の責任者として自分の思いを優先できなかった。
地震3日後の14日、広田小を訪れた長男陽一さん(40)だけは無事が確認できたが、妻みき子さん(当時57)と次男仁也さん(当時28)は連絡がつかなかった。
教員たちに促され、ようやく2人を探しに向かったのは19日。自宅周辺はガレキの山となっていた。
避難所回りを重ねるうちに、みき子さんと仁也さんの命は絶望的と悟った。
2人の最期は意外な形で知った。陽一さんがメディアの取材に話すのを隣で聞いた。
地震3日後、広田小で会った際には聞かされなかった話だった。
「津波が来る!逃げよう!」。みき子さんの必死の説得も、仁也さんは聞かなかった。
中学から不登校になり、震災前の3年は家から全く出ない状態だった。
陽一さんは通帳など必需品を車に積み込み、運転席で2人を待った。
だが津波が目の前に迫り、車で逃げることもできなくなった。
みき子さんと陽一さんは隣家に駆け込み、屋根によじ登った。
仁也さんと我が家は津波に流されていった。2人が乗った屋根も流され、やがて津波に砕かれた。
みき子さんは陽一さんに「生きろ」と言い残し、冷たい水にのまれていった。
佐々木さんは、家族の壮絶な最期に心を引き裂かれる一方で、陽一さんが自分に話さなかったことにショックを受けた。
広田小での陽一さんは興奮した様子で「俺は大丈夫だ。
自分の仕事を頑張れ!」とだけ告げて去っていった。
佐々木さんは「変だな」と思ったが、それ以上の会話はなかった。
「悲しかったはずなのに、避難所で忙殺される私に言えなかったのかと思うと胸が痛みます」とうなだれた。
「仕事人間」だった自分は、息子が大事なことを話せない親になってしまったのか。
いつの頃からか陽一さんとも仁也さんとも会話が減っていた。
仕事に追われ、家で会うことも減っていた。
陽一さんに「仁也ともっと向き合えよ!」と胸ぐらをつかまれ、取っ組み合いのケンカとなったこともあるという。
佐々木さんは「学校で毎日いろんなことが起き、家庭に手が回らなかった。
仁也もいつか立ち直ってくれるはずと考えていた。
部屋の扉を強引に開けて向き合うようなことはしなかった」と後悔し続けている。
仁也さんの遺体は地震2週間後の25日、みき子さんは4月中旬に見つかった。
仁也さんはひと目で分かったという。
家から出ないので肌は真っ白で、髪は伸び放題。
陽一さんに聞いた最期を思い出し、涙が止まらなかった。
震災後はみき子さんが立ち上げた、不登校と引きこもりの子供を持つ「親の会」の活動を引き継ぎ、その家族の悩みに寄り添う。
定年後、みき子さんと一緒に通う約束だった。
自身が向き合えなかった家族に対する、せめてもの罪滅ぼしでもあった。
後で知ったが、仁也さんは毎朝トイレと風呂を掃除し、規則正しく食事していた。
社会に出られない苦しみの中、自分を何とかしたいともがいていたのではないか。
みき子さんが専門書で引きこもりの勉強を重ねていたことも知った。
「悲しみや苦しみを時間が解決するというのはうそですね。
いろんな思いがどんどん研ぎ澄まされていく」。
家族とのささいな日常を思い出しては後悔を深める佐々木さんだが、取材中に笑顔を見せる瞬間もあった。
ぎくしゃくしていた陽一さんとの関係が、改善し始めたのだ。
父子2人の暮らしは、佐々木さんが陽一さんの帰宅に合わせて食事を作ることになり、スポーツや政治などを話題に会話が増えた。
障がい者スポーツを広める仕事を始めた陽一さんが「教え子のことを常に考えていた父の気持ちも、少しは分かってきた」と話していることを人づてに聞いた。
みき子さんとの約束を守り、支援活動に努力する姿も認めてくれているようだ。
失ったものは大きいが「少しずつでも、分かり合っていけたらうれしい」と佐々木さん。
陽一さんとの絆は紡ぎ直しの最中だが、それを支えに、毎日を懸命に生きている。
  〔2021年3/8(月) スポニチアネックス(岩田浩史)〕 

ひきこもりの子支える心情共有 盛岡で家族ら集い
KHJいわて石わり会の集い(NPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会主催)は5日、盛岡市上田の上田公民館で開かれ、ひきこもりや不登校の当事者や家族ら約10人が思いを共有した。
元広田小校長で、妻とひきこもりだった次男を東日本大震災の津波で失った陸前高田市広田町の佐々木善仁(よしひと)さん(66)が、不登校ひきこもり気仙地区父母会の活動を報告。
「同じ時間と場所でやり続けることが大事だ」と説明した。
子育てを妻に任せきりにして仕事中心だった過去を振り返り、「今さらながら次男、妻の心情が分かってきた。自分のための活動でもある」と吐露。
「亡くなった2人の分まで命を全うしたい」と語った。
〔2016/11/6 岩手日報〕 

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