不登校情報センターの居場所時代
不登校情報センターの居場所の内容(暫定内容です)
居場所とは何か? それは「居場所がない」という人の問題意識から生まれた言葉のようです。たいがいは家庭が居場所、学校が居場所、職場が居場所…になりますが、不登校だと学校が、就業をしていないと職場という居場所はありません。そうなるとなぜか家庭内においても居場所がなくなります。はじめから「ない」のではなく「居心地がわるい、落ちつかない」という感覚から、家の外に出るのですが、行き場がなく、それが「居場所がない」感覚になるのでしょう。
ここではひきこもり(及び不登校)経験者が集まった不登校情報センターを1つの居場所と考えて、「居場所とは何なのか」を考えてみたのです。私は不登校情報センターを居場所にするつもりで始めたのではありません。ただ結果的にはそうなった。少なくともそう思う人たちが少なからずいた点を考えて、その実際を考える材料にします。
きっかけは不登校情報センターを設立した1995年あたりにあります。当時リクルート社から『ジャマール』という個人情報誌が定期発行されていました。そこに「大検生、通信生集まれ」という呼びかけを載せたところ、数人が集まりました。当初は私との個人的な接点だったのですが、この人たちをお互いにつなげたいとの思いから「大検生・通信生の会」をよびかけました。
1996年8月6日、横浜で初会合を開いたのは神奈川在住の人がやや多いので、そうしたわけです。目的は、①学習する、②情報交換する、③対人関係のコミュニケーションの機会にする、でした。このうち①学習はほとんど有名無実でした。この様子を続けると「居場所論」からは微妙にずれていきますので、やや強引に「居場所」に焦点を当てて推移を話します。
通信生・大検生の会は、各場をそのつど借りて(移動して)開いていたのですが、1998年8月に不登校情報センターの事務所を設け、固定してから居場所に向かいます。
通信生・大検生の会の名前はこれから向かう先を示します。集まって来た人の多くは、中学・高校時代の不登校の経験者であり、高校中退の経験がある人であり、そしてひきこもり・準ひきこもり経験者でした。
ひきこもり状態の人が多く、アルバイトなど一時的な以外仕事には就いていないか全く仕事の経験がない人たちです。初めに「居場所がない」として紹介した人たちと同じです。
私の役割をいえば「集まる場の提供者」でした。初めての人が多くて何から始めていいかわからない人たちが数名集まった場で、集まった人たちに「自己紹介から始めましょう」と促したのがせいぜいの内容ではないかと思います。
1998年8月に事務所を設けて以降は毎週水曜日にしていました。狭い個室に30人以上が詰めかけ、身動き困難な状態でした。それがスタートでしたが2001年6月に新小岩の第一高等学院旧校舎に移った後はほぼ毎日、誰かがやってくる状態になりました。
私は「話がある…」と呼びかけられない限り特に何もしていません。場の設置者であり、大まかな安全と清潔を心がけただけです。
同時に親の会を月1回開いていましたし、カウンセラー指向の人が少しずつやってきました。別のひきこもり当事者グループが場所を貸してほしいと言っていたので、又貸しもしました。
これだけを見ると「居場所」とはいったい何なのかわからない、つかみどころがないでしょう。いや実際「居場所」とはつかみどころがない、少なくともはっきりしないものです。
不登校情報センターの居場所の内容の推移を見ると、それがどういう内容をもったかを知ることができます。場の設定者である私からは特別にあれこれしたことは少ないです。ほとんどないと言ってもいいかもしれません。それに代わり参加者から「~をしたい」というばあいは、少なくともこれという支障がない限り実現するようにすすめました。とくにカウンセラー指向の人が個別にいろいろ試みてくれました。
何しろ教室(個室)が4つあるので実施するには支障はありません。個別相談カウンセラーを開いた人がいます。参加する親たちによびかけて学習会を開いた人がいます。学習塾を開いた人もいます。当事者向けに「保険業務の説明会」を開いた人がいます。メークアップ教室を開いた人がいます。太極拳(?)をよびかけたお母さんもいました。映写会もありました。
当事者同士のサークル(?)=インラインスケートグループを作った人、何かの仕事に就けることを目的に「30歳前後の人の会」として定期的な会合を開いた人もいます。ある本をテキストにした学習会、パソコン教室を開いて数名を生徒にして教え始めた人もいます。
これらの協力者、当事者、親の会の参加者がそれぞれの時期にいろいろなことを呼びかけ、それぞれに数名が参加していきました。どれにも参加しない人もいました。
そういう動きのなかで、私に要請がありました。1つは「不登校情報センターを働ける場にしてほしい」というものです。見事にできたわけではありませんが、内職よりも少しは収入になるものができました。
1つはポスティングといって情報誌の地域配布を請け負う取り組みです。もう1つはDM発送です。不登校生を受け入れる学校などとのつきあいはあったので、その学校案内パンフレットを、手持ちの名簿(全国で1万人以上分ありました)に基づき、指定地域に郵送するものです。ほかにも一時的にはPCの修理などもありましたが、継続的なものはこの二つです。

