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「ひきこもり文学」について

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2019年10月28日 (月) 08:47時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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「ひきこもり文学」について(未完成下書き)

NHKEテレが「ひきこもり文学」としたのはたぶんその番組の中心部分がひきこもり経験者の体験手記であることに関係するはずです(これは推測です)。
しかし、私が『ひきこもり国語辞典』を文学の可能性として考え始めたのはもっと前のことです。
ひきこもりをどう理解するのか、理解をもっと深くしようとしたのは彼ら彼女らと関わり始めたころからです。
その過程で『ひきこもり国語辞典』が生まれたのです。
辞典では言動を題語にして五十音順に並べます。
意味系列にそって理解する分類ではなく、五十音順に並べたのです。
いろいろな人のどこかに関係するというか思い当たる節が見つけやすいでしょう。
どこからでも入っていける、誰でも関係するところはありそう…その意味で手を付けやすいと思います。
けれども深くはなりません。
心理学や精神医学への助走になるかもしれません。
社会関係や福祉分野の理解に進む手掛かりになるかもしれません。
これらはオーソドックスなこの社会問題、自分の理解、自分の家族の理解に進む糸口です。
2014年夏前に1冊の本を見つけました。私の雑学趣味のなせることです。
『日本文学の古典』(第二版、西郷信綱・永積安明・広末保、岩波新書、1966年)です。
この本で取り上げられた日本文学は代表的ともいえる数点です。
これまでとは違った角度からのひきこもりの理解を感じました。
この本が示すのは、人間理解の文学的なアプローチとでもいうものでしょう。その基本的なトーンを近松門左衛門の『曽根崎心中』の説明で見ましょう。
「醤油屋の手代・徳兵衛と天満屋のお初とは愛しあっていた。
徳兵衛はお初を、金で買う遊女としてではなく、一人の女性として愛するようになっていたし、お初もまた、遊女としてではなく、一個の女性として徳兵衛を愛していた。
このような愛は、廓という秩序の中で、太夫との恋を人工的に磨く粋の立場から見ると、野暮であるともいえる。
そして、一途で野暮なその恋は、廓の秩序を無視し、その結果、不幸をもたらす。
つまり、不幸が人間性のあかしとなる」。
この『日本文学の古典』に取り上げたのは近松ばかりではありません。
源氏物語は「一夫多妻制の生みだす女の不幸は宿世」という時代の物語文学です。
俳諧の松尾芭蕉は「封建時代の民衆のかなしみをになって生きようとした」人物と描かれ、短い詩である俳句を文学にしました。
近松の場合は「廓の秩序を無視」したこの時代の恋愛を扱い、「不幸が人間性のあかし」になる戯曲にしました。
いずれもその時代の抜けがたい状況のなかでの誠実さを曲げないで生きた人たちを描き文学に高めました。
確かにこれらの代表的な文学は明るくはない。
むしる不幸であるし、暗いとも言えるでしょう。
暗いのがいいのではないけれども、時代や環境においてそれを打破できないでなかで誠実に生きようとする人間のすごさを表わしました。
だから文学に高められたのです。
明るいとか暗いとかはその重さには比べられません。
ひきこもり(という生き方、存在のしかた)にもまたそのような潜在性、可能性がありはしないか、文学になりはしないか。
そうであればひきこもりをもっと深いところで理解できると思いました。彼ら彼女らの誠実で、受け身で、不器用な姿にそれを確信します。
  ここで“誠実さ”も説明しなくてはなりません。
ひきこもりの彼ら彼女らは自分を“誠実さ”とみなしていない可能性があるからです。
彼らの示す“誠実さ”は、できるだけ人に迷惑をかけたくない種のものです。
“誠実さ”もまたひきこもり的に表現され、事態打開的な誠実な生き方には見えません。
それでも自分の置かれた状態を否定的と感じながらも甘受して生きようとする姿には“誠実さ”があるのです。
近松の描く、醤油屋の手代・徳兵衛と天満屋のお初の誠実さもまたそのような姿ではないですか。
人間は、ことに誠実な人間は、現実世界の中で、その環境を自力で打破する出口が見つからない時にどうするのか。
自分を曲げることはできない、小器用にすり抜けることができない。
文学はそこに1つの出口を設けたといえるかもしれません。
私はこの『日本文学の古典』から事態をそう理解をしました。
けれども近松文学は、現実の心中事件がモデルです。
心中することが当事者にとってはおかれた状態から抜け出る出口でした。
ひきこもりの当事者には、少なくとも多数には文学が出口というのは現実的ではありません。
私はこれと似た言葉をずいぶん前に(まだ若いころに)読んだ記憶があります。
それを探し出しました。
19世紀の社会主義者F.エンゲルスの『原始キリスト教に寄せて』という小論文です。そこにこうありました。
「キリスト教は発生時には被圧迫者の運動であった。
それが最初に現われたのは、奴隷および被解放奴隷の、貧者および無権利者の、ローマによって征服または撃破された民族の宗教としてであった。
両者は、キリスト教も労働者社会主義も、隷従と困窮からの到来まぢかい救済を説く。
キリスト教はこの救済をば、死後のあの世の生活に、天国に、社会主義はこの世に、社会の変革におく」。
宗教の発生と文学の違いはありますが、類似してはいませんか。
そして現代のひきこもりの問題も、あの世の天国ではなく、この世の現実生活のなかで出口を見つけ出さなくてはなりません。
現代においてそれは可能であり、他の社会問題と同じです。
どのような内容の、どの程度の社会変革が必要なのかはまだわかりませんが、越えられないものではないでしょう。
そう遠い先のこととも思えません。
社会関係の面から、身体科学の面からその解決の出口は用意されていくと期待できるのです。
私が「ひきこもり文学」のこのような可能性に初めて気づいたのは(この言葉のままで気づいたのではありません)もっと前のことです。
私は以前に教育系の出版社で編集者をしていました。高校生や中学生年代の人からの投稿や作文を見る機会がありました。
そういう中で優等生的なよく勉強をして書いた生徒の作文よりも、生活実感あふれるもの、友達との関係や自分の苦しみを書いたものにひかれました。
とくに登校拒否(当時は不登校よりも登校拒否ということが多かった)の経験を書いたもののなかに人間の真実があると思えるものが多くありました。
数年して私はそれらを総括して感想を書くことになりました。その部分がこれです。
「人間ということについても、登校拒否の子どもたちは大変な提起をしているように思う。
彼ら、彼女らの手記を読んでみるといい。
その手記の内容の重さは、感動的である。
若者たちの手記で、これほど自分の体験がしっかり見つめられたものは、“群”としてはあまりないように思う。
この手記の多くからは、彼、彼女がいかに人生に対して真っ正面から立ち向かっているのかが伝わってくる。
何と哲学者の多いことか。
人間としての、繊細さ、やさしさ、深さ……が自分の苦しみとして語られている。
小器用に素通りできないのだ。
それに無為安逸な選択もない。
「偏差値が高いので医学部に合格できると思い、医師の道を選びました」というような無機質なことができない。
偏差値で自分を判断し、進路を選択するサイボーグのような人間が次々に生まれているなかで、「自分は何なのか、何ができるのか」を本気でさがし求めている一群の子どもたち―そういう彼、彼女らが登校拒否の子どもたちのなかにいる。
私たちは、このような登校拒否の子どもたちを見間違ってはいなかったのか? 
この子たちは社会についていけないのではない。
むしろ、社会のゆがみについていけなかった、いけないのではないのか?」
(登校拒否は教育と社会をゆるがす 1993年2月)。
当時は登校拒否といった人たちの体験手記から受けた衝撃を私はこのように表したのです。
その後、不登校情報センターの看板を掲げるようになった背景の重要な1つです。
ひきこもり経験者の体験手記も同じことが確信できます。
文学としての構造やスタイルの巧拙はひとまずおきましょう。
自力では打開できない環境の中で誠実に生きようとした人たちの記録であるから、「可能性」は生まれるのです。
NHKEテレが「ひきこもり文学」としたのは、そういう可能性を考えた人がいる証左としましょう。
しかしここまですすんだところで、引き返さなくてはなりません。
体験手記と国語辞典は違います。体験手記は人生を深く語ります。
国語辞典はあるときの人の言動の一面を表します。
体験手記と国語辞典は相対していますが範囲が違います。
そして国語辞典はその意味での文学にはなりえないというのが正直な判定です。
そのうえで言えることがあります。『ひきこもり国語辞典』はひきこもりを理解する役割がありますが、それを超える役割もあります。
理解ではなくて何が理解を超えているのでしょうか。
ひきこもり国語辞典は、生身の人間の個人差を解析し、その人個人の特質性を理解していく要素があるからではないか。
すなわち理解してそれを行動のエネルギーなり、動機づけの役割をもっているのではないか、そう感じています。
  以上を書いたあたりで、私はいったん立ち往生しました。
2か月したあたりである評価の仕方にづきました。
ひきこもり国語辞典は新しいタイプの言行録ではないかと。
論語は孔子の言行録、新約聖書はキリストの言行録、歎異抄は親鸞の言行録…など言行録は主に個人の言行を弟子たちが著したものです。
それに対して『ひきこもり国語辞典』は特定個人の言行ではありません。
ひきこもり当事者たちの言行を、そばにいて彼ら彼女らを見聞きしていた私がまとめたものです。
対象が複数の人であり、まとめ役の私は弟子というよりは同席者という意味で新しいタイプの言行録と考えるのです。
特定ひとりの経歴やストリーではなく、いろいろな時期の、いろいろな瞬間の、いろいろなひきこもり当事者の言行を採取したものです。
上に挙げた言行録に限らず言行録には宗教書とされるものがあります。
しかし、宗教書とは言えないものもあります。
『ひきこもり国語辞典』もそうですし、おそらくこのような見方でみればいろいろな書物が新しいタイプの言行録と再評価されるのかもしれません。
だから新しいタイプというのではなく、昔からあった書物にはこのようなものがあるのかもしれません。
新しいタイプの言行録は、今の時点になって新しい名前がつけようとしているだけで、必ずしも新しくはないのかもしれません。
このところ日本ではやるものの1つに「~あるある」というのがあります。
ある事物や現象によくある特徴を並べてみる流行です。
『ひきこもり国語辞典』も言い換えれば「ひきこもりあるある」なわけです。
それぞれの事物や現象を同じようにより意図的に集めれば「~あるある」は「~国語辞典」になると思います。
違った言い方をすれば『ひきこもり国語辞典』は、これまで文学のジャンルではない。

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