Center:2006年9月ー社会へのアプローチの時期ー脱引きこもり期(その2)
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社会へのアプローチの時期 ― 脱引きこもり期(その2)
〔『ひきコミ』第36号=2006年9月号に掲載〕
(9)感情は生命本能の表現
感情の役割について、補足するところから続きを始めましょう。
「引きこもりから社会参加まで」の別表(「社会へのアプローチの時期―脱引きこもり期(その1)」を参照)において
「感情(+感覚→本能)」としたところの説明です。
人間は生物として、動物として当然の本能があります。
これは遺伝子として先天的に伝えられるものです。
その本能には、個体維持本能と種族維持本能があります。
食欲、睡眠欲、性欲が三大本能といわれるのは、これに照応しています。
集団維持本能というのも読んだ記憶がありますが、家族(種族維持)以外の集団は、後天的な要素になる気がします。
母性本能が後天的なものであるのと同じように。
しかし、生物の系統発生の経緯からみて、たとえば民族的集団維持が先天的な本能といえるかもしれませんので、
この集団維持本能の有無は保留としておきましょう。
この本能が根本的な生命力になるのですが、それは感情と感覚において現実的な存在様式や表現方法を得るのです。
感覚の存在や感情表現が生命力を保持し、表わすのです。
私は数年前からこれを生命本能といってきました。
ところで私は、不勉強のためにその区別がつかないのですが、
この生命本能とは、S・フロイドがエス(英語ではid)といっているものと同じことなのかもしれません。
それはどなたかに教示いただくこととして先に進みましょう。
「感情+感覚→本能」という表記は、上の事情を表わします。
すなわち感情を抑制すると、実は生命本能の発揚を抑えることになります。
同様に感覚(視 覚や聴覚など)の働きが制約されることは、生命本能を抑制することにつながるのです。
この理由から、私は感情抑制を開放することは、生命本能を活性化させると信じられるのです。
(10)意志は正反対の2つの原因から強められる
感情を抑制せざるを得なかったことが、引きこもりの根本的な原因であり、
それが対人関係を難しくしていることを前回は述べてきたつもりです。
感情を抑制した状態の人のなかには、それに代わるもので自分の言動を支えようとする人がいます。
その代わるものの代表が意志です。
そこでもう一度、意志と感情の関係を考えてみましょう。
意志とは、自覚していること、意識していることです。
それはいろいろな形をとります。
ある物事に対する自分の受けとめ方も意志です。
子どもが父や母との関係をどうするのか考えるのも意志です。
しかし子どもには、意志を自在に操作する前段の過程があります。
乳幼児期の子どもは、自然な感情や感覚で母親にしがみついたり、甘えたり、泣いたりします。
成長するとともに、本能に基づく感情表現とは別に意志が 働き始めます。
「いつまでも赤ちゃんみたいだね」と言われると「もう赤ちゃんじゃないよ」と反発していく過程が、この幼児の意志を育てます。
意志が育つというのは子どもの成長の証しです。
しかし、小さな子どもは意志だけで父母の関係をつくることはありません。
いや、あらゆる人と人との関係は意志だけで成り立つものではないでしょう。
幼児にとっては、感情や感覚の割合が大きく、それは生命本能の自然な表われなのです。
そこに少しずつ意志(言い方をかえると意識的な言動)が加わっていきます。
心の成長とは、このバランスにおいて意志の役割が大きくなることです。
意志の役割が大きくなることは、成長の証しであり、対人関係づくりや社会生活を送るために必要な条件です。
しかし私は、感情の抑制が対人関係づくりを難しくしていると既に述べました。
感情に代わって意志がより大きな役割を占めるようになれば、対人関係や社会生活にはよいと思う人には、
まるで相反することを同時に語っているように思えるかもしれません。
この矛盾はどう考えられるのか、どう説明できるのでしょうか。
引きこもりの親からの相談では、ここによくつき当たります。
ここを説明しておきます。意志の役割が大きくなるのに2つの方向があり、それは正反対のものになるからです。
(11)ネグレクトが感情抑制につながる
幼児は、意志が未発達です。
それが父母や家族の愛情に囲まれて成長していくなかで、意志表示が育ち、身についていくのです。
このような育つ環境に恵まれなかった人は、意志が違った形で成長します。
とくに愛情に恵まれない環境(今日あちこちで指摘されているネグレクト、虐待など)のなかで成長した幼児は、
その意志がもろく、偏ったものになり、親が大事と思うことを不本意に植えつけられることになります。
このばあいは、意志の自然な成長を停止させます。
私の見るところでは、その意志というものの中心は知識であって、意志と重なってはいるけれども生命力、活力が乏しい、
極端な言い方ですが魂が欠けている意志表示です。
思春期から青年期にかけて引きこもった人を見ると、子ども時代に家族関係において圧迫感のある生活を送っています。
家族と一緒に生活しながら、その生活・文化的環境になじめないでいます。
それは、心身の状態で表われることが多いようです。
たとえば極端に食が細い(拒食的である)とか、人前でおどおどしているような形です。
身体的(内科的)な異常がないかぎり、それは子どもの精神状態が身体症状になって表れているのです。
このような子ども時代を経た人は、生命本能の表現である感情を家族に受け止められた経験が乏しいのです。
20 代以上になった子どもの遠い記憶を復元すると、それは親の躾(しつけ)であったり、幼少期からの一方的な親の期待であったり、
子どもが不安を表わしているのに、ほとんどいつも親は励ましによって事態を転換させる試みをしたことなどを経験しています。
いずれも、子どものそのときの気持ちや状態を受け止めるものではありませんでした。
程度の差はありますが、これらはネグレクトされた子どもです。
これらが心の成長の面で、子どもにとって伸びのびできる環境には恵まれてこなかったと言えるのです。
このようなばあい、子どもは感情を抑制させる方向に動きます。
自然な意志の成長とは、感情表現とバランスのとれたものですが、子どもの状態をよく見ない親の思い(願い)による子どもの躾は、
アンバランスな意志を成長させます。
子どもは自然な気持ちに沿った行動ではなく、親の気持ちや考え方がどこに向かっているのかを察知して、
それに沿った動きをしようとします。
いわば親の顔色をうかがう行動をとるのです。
子どもは、この心配りにエネルギーを消耗させています。
親の思いの一方的な程度が強いほど、子どもは感情の抑制を強めます。
子どもの先天的な感性が繊細であるばあいほど、子どもの感情抑制は強まります。
おそらく親側の一方的な思い込みの強さと、子ども側の感受性の強さの相関関係により、子どもの感情抑制の程度は決まるのです。
私が接触してきた引きこもり経験者は、そのような時期をある程度経験していると思えるのです。
こういう感情抑制を図っている子どもは、自然な感情を伴った意志表現とは別に、
むしろ感情との結びつきを断ち切った意志の力、知識の力で、自分の言動を決めようとします。
(12)感性を抑制した意志の問題点
感情と意志の関係をまとめてみましょう。
感情に代わって意志が大きな役割を果たすようになると、対人関係づくりや社会生活にスムーズに入っていけます。
このようになる意志は、感情抑制によらない、自然な感情表現と協調する意志です。
おそらくこの意志は、心理学でいう自我というものと同じことなのでしょう。
感情(それは生命本能の発現方法)を開放することは、意志を育てます。
逆に、感情表現が抑制されていると意志はもろい、偏ったものになります。
生命本能の協力をうまく取り入れないと意志(自我)が、成長しづらいという意味になります。
前に「感情に代わって意志が」と表記したのは不十分な言い方で「感情と協調関係にない意志」というのが、
より適合した言い方になるでしょう。
意志(自我)というのは自分らしさ、自分で納得できる自分自身など(少しあいまいな要素を含みますが)と表現する人もいますが、
おおかた的を射ているはずです。
同じ意志と言っても、感情と協調的であるばあいと、感情と対抗的であるばあいとでは違います。
引きこもりの人のなかには、後者に属する感情を抑制して意志による言動を図る人が多くいます。
そういう人に感情表現をすすめることで、少しずつ感情と協調的な意志に転換できるようになるのです。
感情と対抗的である意志というのは、一か八かの賭け事のような危うい言動になりやすいものです。
たとえていえば、マラソンをするのに百メートル走の調子で走り出すように思うこともあります。
それらの行動や考え方は、からだで支えられたものではなく、頭の計算だけで動いているように見えるのです。
意志が知識と読みとれると思うのはこのようなばあいです。
私の記憶のなかでは、いずれにしても比較的順調に進んでいった例は少ないはずです。
「引きこもりから社会参加まで」の別表において、「意志(理性)」としたのですが、うまい表記ではありませんでした。
「意志(自我)」の方がいいでしょう。
私が、この別表で考えていた「理性」のなかには、社会的規範とか、人間関係における自然にできるルールも想定しています。
これは心理学では超自我として知られる分野です。
そうすると、「意志(理性)」の表記では自我と超自我が同じ枠内で粗雑に扱われていることになりますので、
この部分は訂正しなくてはなりません。
そして超自我についての私なりの体験的な理解では、用語として社会的意志といったほうが実際的だと思います。
ここではそれ以上のことは省略します。
それとは別の事情を次に考えていきます。
(13)からだの記憶としての潜在意識
私は、学校では授業中はよかったけれども休み時間をどう過ごせばいいのかわからなかった、という人がいます。
会社で働くことになり、仕事をしている間はいいが、
休憩時間の世間話とか仕事を終えた後の付き合いがダメという人がいます。
両者は共通したことで、引きこもりを経験した人の多数がこういう心理的状態を経験します。
これらの原因には個別の事情も関係しますから、全部を説明することはできません。
最も重要で共通する要素を、私は次にように考えます。
一言でいえば、無意識部分に蓄えられたものが少ないためです。
意志(意識すること)以外の、意識の奥にひそんでいるはずの情報(潜在意識)が乏しくて、
意識を働かせた言動以外のことができにくいのです。
これも、感情と協調のとれた意志ではなく、感情を抑制し、
感情と対抗する形の意志で動くようになった一つの結果になると思えます。
こうなるのは「感情と対抗的な意志」の力で、
自分の成長や周囲への対処をしてこなければならなかった長期の成育履歴によります。
このような負荷条件が知らず知らずのうちに知識に偏った情報入手の方法、ことばや文字に偏った情報になるのです。
文字やニュースやことばには表すことができない。
それよりも桁外れに大量の生の情報をからだに蓄える道から外されてきたのです。
この遠因、そして根本的な原因は、幼児期にまで遡ります。
父母をはじめ家族の少なくともだれか一人に対して、心を配って生活せざるをえなかった体験が関係しています。
幼児期に感情のおもむくままに無邪気にふるまって、おもしろがられたり、なぜられたり、声をかけられたり、
ときには怒られたり、笑われたりした経験が乏しいように思います。
こんなことをしては怒られるのではないか、こうすれば喜ばれるのではないかという配慮を、
幼児期から一つひとつ判断しながら過ごすようにさせられてきた人です。
人間は、乳幼児期からの成長過程で、周囲の人と接触していくなかで、さまざまなことを情報として取得していきます。
それらはあるときは言葉として身につけ、あるときは言葉にできる事柄として身につけます。
しかし、その接触で得た情報の大部分は言葉にはできません。
からだの奥にしまわれていてある時のある場面で、自然に出て作用するのです。
いや、出るといっても、意識の表面に出ないで作用していることさえあります。
この言葉にできない大量の、漠然とした、感覚として受け止めたこと、
生理的に受け入れたり拒否したことが、身につけた主要部分を占めます。
これは言葉にできる部分よりもはるかに多いのです。
これらは潜在意識(意識下の意識)として蓄積されています。
言い方を変えれば、これらはからだの記憶というべきものなのです。
これが人を安定させる作用をするのです。
(14)感情抑制は潜在意識量が少なくなる
幼児期から子ども時代にかけて配慮的な生活を送らざるをえなかった人は、
このからだの記憶、ことばにできない意識下の記憶が乏しくなります。
こういうと少し違ってきますね。
からだの記憶としてはあるけれども、
たとえば吐き気、苦痛、空しさなどの不快な気憶によって覆われているといった方がいいかもしれません。
しかしその覆っているものを取り除いてみると、
意識下の記憶が収まっているはずの宝庫には豊かな記憶の量は見つからないのです。
こういう人にとっては、からだが気憶しているのは人間の雰囲気への不安です。
自然な感情に基づく意図しない無邪気な行動が、危険なものに感じられるのです。
約束されていたり受けとめられることが保障されていないと不安になるのです。
学校での授業や就業先での仕事は定まったことであり、これらは比較的できやすいものです。
休み時間や休憩時間をどう過ごすのかは決まったものがありません。
普通は決まったものがないから休めるのです。
ところが、休む方法が決まっていないと休めない気持ちになります。
実は、それは休めないことなのです。
おそらくこの人たちは、本当の意味では休んでいないのかもしれません。
雑談、世間話、テーマのない話ができないというのは、休み方の決まりがないと休めないのと似た事情です。
これは、自然に身に付いた言葉(知識)以外の経験、
からだの記憶としての潜在意識(意識下の記憶)の層の薄さによるものです。
人間は意識していること、言葉にできることの数倍いや数十倍のものをからだの記憶として保持し、
それによって自然な行動ができるようになります。
幼児が親や親しい顔見知りのいないところで自由に振舞いにくいのは、この無意識的な情報の圧倒的な不足も関係しています。
幼児であればこの状態は周囲の人からたやすく理解され、認められ、むしろ子どもらしさとして歓迎され、励まされます。
しかし成人に近い年齢を重ねてなお、からだに蓄えているはずの情報量が少ないとやっかいです。
それを補なおうとする一つの方法が、知識に基づく意志的な言動です。
心理療法のソーシャル・スキル・トレーニング(SST)というのは、それを効果的にカバーしようとするものなのでしょう。
私は知識による意志的言動やSSTを否定する気はありません。
そういう作業や訓練をしながら雑多な人間関係で感じるさまざまな情報を、
その作業の形で取り込んでいくことが大事であると思います。
実はこれが別表「引きこもりから社会参加まで」にある「対人関係(コミュニケーション、社会性)」のところです。
これはあちこちですでに記述してきましたが、機会を改めてまた記述するつもりでいます。
(15)潜在意識の蓄積が心を安定させる
子ども時代から積み重ねてきたこと、それにより得られるからだの記憶、潜在意識の厚みが人間としての自然な行動を生み出し支えます。
そういう潜在意識の厚い層を持つことが人間の成長であり、自立の条件です。
こういう条件ができているなかでは、意志は、そのからだに根づいた形で表現されます。
このときの意志は自我と結びつき、自我の表われとしての意志です。
このような潜在意識の層が十分ではない、
人間関係や社会経験がその年齢のわりには乏しい情報量であることは、自立の条件も乏しくなっています。
精神的な成長も遅れています。
しかしある場面で年齢相応の対応を求められたとき、一定の知的水準にある人は、意志(または知識)の力でカバーしようとします。
感情の支えが少ない知識に基づく対応です。
この対応は、自我との結びつきがあいまいです。
からだに根づいたものではなく、ロボットの言葉のような意志表示、自分と一体化していない空虚さを伴う意志表示になります。
これらは心の動揺性、緊張感、沈黙あるいは自己否定感情などがその人それぞれの特色として示されることになります。
同じ意志(表示)といっても自我としての意志と、自我と結びつかない、
意志の力でその場を乗り越えようとするけれども空虚感のある意志は、かなり違ったもののように思います。
幼児期の感情(生命本能の発露)に基づく自然な言動が、感情と協調する意志に基づく言動に成長し発展するのが思春期です。
これが、人間発達の心の面での成長になります。
幼児期に感情に基づく自然な言動が抑制されてきた人は、思春期においてこのテーマをうまく迎えることが難しくなります。
引きこもりとは、このテーマを十代の後半、20代、30代に入ったところで、
それぞれのしかたで取り戻そうとする試みの一方法なのです。
(16)自分を「生かす」視点
ヤングジョブスポットという職業安定所の若者対策部門に行った20代の男性がいます。
2か月余りそこの一種のフリースペースで職業準備をしました。
対人関係と技術訓練です。
あるとき、そこの相談員に話しました。
アルバイトをしていたとき、業務上のことであっても仕事仲間と話すときに緊張したり萎縮しているので
長期の仕事はできなかったそうです。
その相談員はそういう自分を直し(治し)ていくことが就業の条件になると答えました。
その彼と私は1時間余り話しました。
これといったアドバイスはしなかったはずですが、帰り際に席を立ちながら彼はこう言ったのです。
ヤングジョブスポットでは直すように言われたけれでも、今日は自分を生かすように言われた。
そこが違っていた、と。
私はそこのことを少しも意識して話していませんでした。
それだけに私が引きこもりやその延長線上の心に問題をもつ人と関わっている基本的なスタンスは、
この言葉に象徴されていると思いました。
それは、不登校情報センターが医療機関ではないことと少しは関係しているのでしょう。
私が「生かす」というとき、とくに2つの面を考えます。
1つは先天的な繊細な感受性を生かすことです。
実際には多くの人が、このために人間関係のなかでやりづらい、生きずらい思いをしています。
しかしそれを直すという気持ちでいると、一層自分を追い込み、自分を壊す方向になると思います。
生きづらいけれども、そういう自分を肯定し、その自分をどう生かすのかをさぐっていく、それが未来を開く力になります。
もう1つの「生かす」は、自分の心のなかに生まれた感情を否定的にとらえようとしないことです。
とくに怒りです。
羨ましいとか、いろいろな不快な感情もあると思いますが、それらも否定せず、ただTPOによって表現をコントロールすることです。
そのうえで、怒りや不快な感情を発散する方法や場所を見つけ出していくことです。
そして何よりも、快の感情、嬉しいとか楽しい感情を、笑いという形で表現することです。
自分の感情を生かすのが、その第2です。
別表「引きこもりから社会参加まで」の図表では、まだ基本的な説明をしていない部分が多くあります。
とくに「対人関係(コミュニケーション、社会性)」のところをいくつか説明しなくてはならないでしょう。
(なお未完)
⇒Center:2006年8月-社会へのアプロ-チの時期-脱引きこもり期(その1)
⇒Center:2006年9月-社会へのアプロ-チの時期-脱ひきこもり期(その2)
⇒Center:2007年1月-対人関係の諸相-社会へのアプローチの時期(その3)