パソコン導入とホームページ制作の変遷
パソコン導入とホームページ制作の変遷
——不登校情報センターのあゆみの一面
1995年9月に不登校情報センターを設立。
どう伝わったのかよくわかりませんが不登校の相談が相次ぎました。
翌年6月に大塚の自宅近い社会教育会館で講演会を開いたところ、母親を中心に数十人が参加しました。
これを参考に以降、講演相談会を続け、やがて中心テーマを「不登校生の進路」にウェイトをおくようになりました。
フリースクールや受入高校を中心に教育機関の紹介を主にするつもりでした。
他方では仕事(アルバイト等)への関心を寄せる人たちもいました。こちらには対応するところがありません。
アルバイト可能なところを探そうとしたのですが、まとまったものになりません。
それまでの希望者向けに「人材養成バンク」と名打って参加を募ったところかなりの申し込みがありました。
あるハローワークの職員が関心をもって協力してくれました。
人材育成バンクの名称で、農業、清掃、福祉関係の団体に連絡し、協力を呼びかけました。少数の人が参加をしましたが、ほとんどは実らないままです。
そのなかにパソコン講座を開き、技術者を養成する会社がありました。参加者は7、8人で、2週間ほどの研修でした。
結果はそれだけで終わった人もいましたし、パソコン教室に通い始めた人もいました。情報センターに来るようになった人もいます。
その後でこの会社から1台のパソコン(Windows94のブラウン画面の大きなもの)が寄贈されました。大塚に事務所のあった1998/99年の頃です。
今回のテーマであるパソコンとホームページ制作はここから始まります。当時の私にはパソコンは全くの異物でした。
UHくんがそれを使い何かをしていました。やがてパソコン教室を開きたいと話してきました。
経過は全くわかりませんが、2人の教師が週2回の夕方このパソコン教室に通うことになりました。1人は自前のノートパソコンを持参していました。
もう1つ——これもどういう経過か記憶はありませんが、中国人の陳(チン)さんが、不登校情報センターに関心を寄せてくれました。
ある日大塚にあった事務所を訪ねてきて、不登校情報センターのホームページをつくると申し出てきました。
私は、それまでに数点の出版物を編集し、本を出していました。
それでこの本(十点はなかったと思いますが)を紹介するだけのホームページを不登校情報センターのホームページとして制作するようにお願いしました。1999年のことです。
記憶では日本サイエンスという会社が運営するサイトの1ページが、不登校情報センターのホームページであった——これは後日、独自のホームページを立ち上げたときにNTくんが教えてくれたことです。
当時の私がいかにインターネットやパソコンについて何も知らなかったのかを物語るものです。
実はURLというのも知りませんでした。この時期にホームページができたことはかなり早い方になるはずです。
2001年6月、事務所が大塚のワンルームから新小岩の(旧)第一高等学院の校舎への移転になりました。
このとき第一高等学院からは、4つの教室、机やイス、本棚、電話(FAX兼用?)、コピー機など半ば居抜きで無料提供してくれました。
使用料はなく、電気・水道料金が場所代として必要になっただけです。
中古のパソコン(ブラウン画面)も6、7台があり、これも自由に使える状態でした。
テーマをパソコンとホームページに絞って、経過をふり返っていきます。
事務所移転後もUHくんのパソコン教室はつづいていますが、受講者は通所していた人に代わり、数人いました。
別にSPくんもパソコン教室(?)をしました。これは、仲よくしていたある人と、その知人となった2人が受講者でした。
パソコンの技術を教え合う関係の延長であり、このような通所者同士の関係の媒介物になって、使われ始めたのです。
いろいろな学校と協力関係ができていたのですが、武蔵国際総合学園(現在の日々輝高等学校の前身)で、パソコンを買い換えるので、使わなくなったパソコンを譲る話がありました。
合計16台、これを神奈川県綾瀬校にもらいに行きました。知人に運送をお願いしてMIくんと3人で出かけました。
16台のパソコン全部を使うわけではなく、1台の機能を高めるために、メモリーなどを付け替え集積し、バージョンアップしました。
その中心になったのがSNくんとYTくんでした。先日SNくんの話をTNくんと話しているなかで、今回のエッセイのテーマが浮かんだのです。
このパソコンとホームページ制作の経過も、きわめて独特のものであり、不登校情報センターの歴史の特色を示していると考えたのです。
パソコンの使用についてはもう1つの出来事があります。まずUHくんが、独自のホームページを作りました。
それは2ちゃんねる式の書き込み自由のものです。次にMAくんもこれとは別の2ちゃんねる式ホームページをつくり、さらにTHくんもつくりました。
それぞれが互いに関係なく自分の好みのものをつくり、ある人のは炎上したこともあります。
2004年春、不登校情報センターの公式ホームページをつくることにしました。
高校留学を事業とし親しくしていたWSOセンターの平井さんからは、公式ホームページ制作の依頼がきたのです。
SNくんをはじめ数人に集まってもらい相談しました。
出版準備中の『不登校・中退生のためのスクールガイド〔2005年版〕』(東京学参、2004年12月)に集めた学校・フリースクール、親の会、相談室の紹介データの一部を収録するのです。
私は技術的なことは全くわかりませんから、これらの団体の内容を種類別、地域(都道府県)に探しやすくするホームページづくりを提案しました。
実際にはMSくんやMIくんがつくり始めました。
URLは(http://www.futoko.info/zzmediawiki/)、
サーバーはNiftyでした。技術的にはHtml型であり、私は技術的には何のタッチもしていません。
その一通りの完成をみたのが2004年11月21日です。
ここからコピー・印刷の状態を書きます。
パソコン内文書を印刷できるプリンターが置かれたのは第一高等学院に移ってからです。
いつ・だれが・どこからそれを持ってきたのかは分かりません。
2階教室に数台のパソコンがあり、SNくんらがパソコンのバージョンアップを含む作業をしていました。
その時期に中古プリンターが置かれていたのです。
別に印刷機がありました。これは(株)リコー社に手紙で依頼したところ、本社に来るように返事をいただき、TMさん、KOくんと3人一緒に行き、社会貢献室の人に必要性を話しました。
リコーは既に寄贈を決めていたようで、2002年12月18日にデジタル印刷機と設置のための担当者が来られました。
デジタル印刷機はパソコンとはつながっていません。DM発行作業に使う宛先名簿は近所のコンビニのコピー機に頼るという使いわけをした時もありました。
2002年11月で発行が18号で休刊の『ひきコミ』を、この印刷機で19号を再発行したのは2003年8月です。
振り返ると『ひきコミ』発行ストップの時期は混乱期(?)だったのかもしれませんが、奇跡的な復活であったともいえるでしょう。
復刊した『ひきコミ』は97号・2012年12月まで続きました。
2005年8月に事務所を近くのマンションに移転しました。
この移転は第一高等学院の意向もありましたが、通所者も減っていたので、場所は狭くても大きな支障にはなりません。
使っていないパソコンはかなり処分しました。印刷機は新事務所に運びました。数台のパソコンとプリンターも移動しました。
2006・7年になりムラテック社の代理店から提案がありました。
コピー複合機(プリンター・FAX・スキャナー付)の導入です。
コピー複合機の導入からビジネスライクの要素が加わったといってもいいのです。
この複合機の導入後も印刷機は使っていました。
2011年3月11日の東日本大震災の時、印刷機が勝手に動かないように印刷機の前に座っていたENくんが押さえていた話をしていました。
印刷機とコピー複合機の両方があった時期です。コピー複合機の基本契約は6年、そのあと1年契約の延長をしています。
2013年8月に平井に移転しました。活動費用を賄えなくなり事務所の負担を減らすためです。
このとき印刷機はある福祉団体に譲りました。パソコン6台とコピー複合機の時期です。
平井で2回目の事務所を移転したのは2018年5月です。通所者はさらに少なくなり、作業費の未支払いがたまり、それに対応するためです。
パソコン3台とコピー複合機の時期です。
コピー複合機のドラムに支障があれば取り換えざるを得ず、すぐに10万円を要する状態です。
これを避けようとした気持ちがあったのです。
このコピー機のリース契約が満了していたころ、(株)リコーの人に来てもらい、パソコンは3台とコピー複合機のメンテナンスを含めて全体を頼むことにしました。
そのコピー複合機は2025年9月がリース契約の満期(1年延長契約)、パソコンは2025年12月がリース契約の満期になります。
パソコンは基本OSが10(テン)であり、リース契約をやり直すことにします。
以上がプリンターと印刷機能に関する変遷です。ホームページ制作とパソコン利用にテーマを戻しましょう。
私が直接にホームページ制作に入ったのは公式ホームページができた2004年11月からかなり過ぎてからです。
文章はよく書いていたので、ブログを書くように勧める人がいて、それで書いてみようと考えたのです。
時期は2009年5月ごろで、SMさんが自分もやっているYaplogに不登校情報センターのブログを設定してくれました。
当時の私はワードだけを使えるようになっていました。
Yaplogにつづいて、諸団体のイベントを紹介するページをつくり(TeaCupブログ)、「ひきコミWeb版」はHatenaブログ、他にもライブドアブログを使っていました。
これら私の様子を見て、MSくんがホームページ本体を、ワードで製作ができるWikiシステムのサーバー=さくらインターネットに変えるように提案してきました。
20この中にブログ「ひきこもり居場所たより」などのブログページもつくり、他社のブログは閉じました。Htmlで作成したものを、新しいホームページに
移行する作業と並行して新しい情報ページを作成していきました。この移行する前後の時期がパソコン作業も活発になった時期です。
情報紹介は学校・相談室・親の会・自治体の動きだけが中心です。
不登校情報センターの取り組みや私(松田武己)のエッセイ記事なども掲載してきました。
Wikiシステムに代えてから15年がすぎました。
記事数17438、総ページ数は2万ページ以上が閲覧される状態です。
しかし、事務所の場所は移転し、狭いところになりました。通所者(ひきこもり経験者)も減っています。
これからの持続性を考えると「終わり」を考えなくてはなりません。
申し出のある学校等の情報の新規、更新などの作業は続いていますが、20この点も考えて、今後を考えている最近です。
それぞれの時期に具体的なことは書いてきました。今回は全体を通して記憶によりまとめました。
思い出せないこともあるし記憶時期は手帳などで確認すれば違いがあるかもしれません。
改めて思うことは、私が主導して始めたものは限られ、提案されたこと、要望されていると感じて動いたのがきっかけになっています。
まとめの作業をしながら、不思議な感覚にとらわれることもありますが、これを肯定的に受け入れられるのです。

