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家業の成立=家事労働を考える前の社会的分業

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家業の成立=家事労働を考える前の社会的分業

〔2024年1月18日〕
家事労働は家庭・家族内における労働をさすもので、常識的なイメージでは炊事(食事づくり)、室内整理・掃除、衣類準備・洗濯、家屋・家財の修理、子育て(育児)、看護・介護・家族の健康管理、家計管理などになり、多くは女性が担当してきました。
毎日の生活・生存に欠かせないエッセンシャルワークが中心でありながら、GDPにはカウントされず生産性のないものとして低く見られる根拠になっています。
農林漁業・畜産業・手工芸製作・商店・開業医などの家業では家事労働とは切り離せないものもあります。
家事の一部も生産的・商業的・サービス的活動に含まれることもあります。
こうした家業では家事労働とは切り離せない状態です。
漁師町の商店で育った私は、同級生が漁獲物の運搬を手伝った話を聞きましたし、私は店番や店頭掃除をしたこともあります。
これらは家業の手伝いですが家事の手伝いでもあります。
家業が成り立つことは社会的分業がある程度すすんだ状態です。
家事労働を考える前に家業の成立過程を知っておく必要があります。
家事労働の社会化に至る長い道のりの前に家業の成立を話すとき私の中学生レベルの説明でも大筋は違わないでしょう。

日本では縄文時代以前から、人間(人類といってもいい)は血縁的な集団の中で自給自足的な生活をしてきました。
食べ物、着る物、住む場…などを自分たちで集め、つくり、生活してきました。
道路、住居、農地開拓、水場などは家族を超える共同体の集団作業でした。
その共同体は太古においては大家族的集団であり、相互に分担をして生活に必要な条件をつくりました。
共同体の特性、地域特性(土壌、気候、特産物)の違いを利用して共同体間で物々交換の形でこの生存に必要な物品のやり取りが行なわれました。
ときには暴力(闘争や相手の支配従属化)によったこともあるかもしれません。
日本が全体として平和的にこの時代を経てきたのは*、農耕文化が伝わる以前の採取生活時代からゆたかな自然環境によるものでしょう。
四辺を海に囲まれ外敵から安全であったこと、寒流・暖流が交差する海域でゆたかな海産物に恵まれ、四季のある温暖な気候で陸地の生産物にも恵まれました。
他方では自然災害が多く**(地震・津波・火山・台風・水害・山岳の多い地形など)人々の協力関係を強く要請されたことが関係すると推察できます。

  • 縄文人世界に稲作を持ち込んだ私たちの祖先が外来人であったかもしれません。
    • 自然災害の多発は、怒りを向ける対象を得られず、悲しみを昇華する精神文化の高い国民性になったのかもしれません。

「悲しみ自体が気高いelevate」とは東日本震災を伝える外国記者が被災している人たちの様子伝える言葉でした。

物々交換の時代には食べ物や貝などが仲介物に使われ始めました。
歴史時代に入った奈良時代には貨幣がつくられましたが、その使用範囲を住民レベルでは限られていたと思われます。
室町時代の明銭の導入、織田信長が開いた楽市楽座など通貨を広げるうえで何がしかの事情は生まれましたが、貨幣が広く使われ始めたのは江戸時代に入ってからのことでしょう。
自給自足的な状態でそれぞれのおかれた条件から農業をはじめとする第一次産業の得意分野に移行しました。
家業が発展し、社会的な分業が進んだのです。
ある程度家業が発展したころには物品を扱う商人が生まれました。商人・商業もまた家業であり社会的な分業になります。
奈良時代には都(みやこ)の近くに恒常的な市場ができました。
全国各地にも神社、寺院など人の集まる場に臨時の露店市ができ徐々に恒常的な市場になりました。
私が子ども時代をすごした1950年代(すなわち高度経済成長以前)においても、島根県大田地域の中心町で「中日」(すなわち春秋の彼岸の中日)に露天市が並び、近郊から多くの人が集まりました。
また私は以前すんでいた豊島区巣鴨には東京都青物市場があります。
江戸時代以降に江戸近郊に広がる農村地域からの農産物を露店販売する「やっちゃ場」として続いてきた場所が、現代的な青物市場に発展したのです。
第一次産業に従事する人たちは、初期は手製であった衣類などの必要品をこのような交換の形で入手しました。
多くは生活必需品ですが、特別の産物もあります。
石見地方には石州瓦があり、浜田藩には石州和紙があり、これらは家業型で生産されていました。
全国各地に特産品が生産され、商業ルートの成長とともに食料以外の物品が生産され、各地に商業の形で広がったのです。
家業は社会的分業が広がるなかで、とくに人口の多い都市域では種類が多くなりました。
子ども時代に住んだのは人口3000人ほどの漁業集落でしたが、それでも石屋(墓石)、鍛冶屋(農具の加工・修理)がありました。
商店は衣料品、雑貨店(菓子類を含む食料品が中心で、日用品・文具なども扱う)です。
サービス業型家業には理髪店と郵便局もあります。宗教施設(神社・寺院)も経済活動面で見れば家業型サービス業です。
それ以外に建築大工・左官など家業型の建築職人もいました。記憶の範囲では、恒常的に開店している食堂はありません。中心地の大田に常設食堂がありました。
以上、私の不確かな記憶と知識による家業の発展による社会的分業の推移です。
この家業の社会的分業化につづいて、家事労働の社会化、すなわち家事労働の社会的分業が全体としてはそれに遅れて、部分的には家業の社会化と平行して進んできたものと見るのに大きな間違いはないと思います。

なお家業型との異なる就業・労働形態にもふれておきます。
子ども時代を過ごした田舎の場合ですが、学校(教員・事務員)と役場職員、漁業協同組合と農業協同組合、鉄道・バス、銀行などは公共機関またはそれに準じるもので、従業員は家業とはいえません。
警察は「駐在所」といわれ、家族単位で移転してきましたが家業とは言えないでしょう。
土木建築では、築港(漁港の改修)が長期間続いていました。大手企業の技術者が近所に下宿の形(?)で住んで指揮をしていました。
築港作業員には施行を依頼した役所が仲介して住民が雇用されました。
私も休日にはアルバイトとして働いた経験があります。
石膏鉱山があり、鉱業会社が200人単位の社宅地域をつくり従業員が住んでいました。これも家業とは言えないでしょう。

私が家事労働の社会化として経験したのは保育園です。
5歳のとき、近くの寺院に保育園が開かれ、3歳の弟と一緒に入園しました。1950年ごろです。
これに類するものは以前にあったかもしれませんが、常設的ではなかったはずです。
おそらく学校に次ぐ子育ての社会化の始まりではないかと思います。
事項で家事労働の社会化をこの保育から見ていきます。

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