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Center:2011年8月ー引きこもりから抜け出す“きっかけ”

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引きこもりから動き出す“きっかけ”

〔『ひきコミ』2011年8月号より転載〕
引きこもりから抜け出していく“きっかけ”を質問されることは多いものです。

その答えが、実は“きっかけ”以降のいろいろな方法になっていることも珍しくはありません。
実際に引きこもりから抜け出したという当事者さえも、そのような返事・回答になってしまうことは多いのです。

それもやむをえない事情があります。
坂道を登りきらないうちに立ち止まっていると、また坂道を下っているようになる感覚が、ここにあるからです。
聞かれているのはなぜ坂道を登り始めたのかを聞きたいのに、答えは登りきるために必要なことになりやすいという意味です。
実際は両方とも必要なのです。
しかし、問題の中心は動き始めのとき、坂道を登り始めようとした“きっかけ”にあります。
“きっかけ”については、いろいろなことがいわれています。

私なりにそれらを調べてみたところ、実は多くは動き始めた後のいろいろな方法、坂道を登りきるために必要なことが占めています。
そのなかで本当に“きっかけ”と思うものは2種類です。

(1)危機感

その1つがは危機感です。
当事者の危機感であり、親や周囲の人の危機感ではありません。
支援者にとっての危機感は別物です。
これは当事者が動いた後のいろいろな方法に関係することになります。
当事者の危機感の具体的な例を挙げてみましょう。
親の死亡や病気があります。
家業の倒産や廃業があります。
自然災害があります。自分の身体に危機が迫ってきたという感覚でしょう。
近隣の家の火事、交通事故の目撃や被害。
ほとんどが不幸なことです。
少なくとも意図的な対応策として推奨できるものはありません。
これほど明確ではなくても、もう少し緩和された形で提示されるものは、親の高齢化・老いです。
家計を知らせる預金残高を通帳ごと見せられた人もいます。
しかし、このような危機が迫っていたら引きこもっている当事者は動けるのでしょうか。

動ける人もいれば、動けない人もいるとしか言いようがありません。
わからないのです。


達観していると思えるタイプの当事者には、密かに死を覚悟している人もいます。
実際にそうできるかどうかはおそらく本人もわからないと思いますが、問い詰められると“死”を口にすることがあります。
自分で“生”への道を切り開くのがいかに困難であるのかを深く感じています。
達観するというのはその状態を自分なりに受けとめ、理解するギリギリの状態なのかもしれません。
安易な慰めことばは、無責任な気休めとしか思えないのです。
動けない人の全部が、このような達観になっているとは思えません。
だから葛藤する人もいます。
何にも感じていないように見える人もいるかもしれません。
そうすることしかできないのでしょう。


年齢が低い人は葛藤状態が多く見られます。
葛藤はまたエネルギーのある証拠です。
その葛藤の行く先が落ち着いているように見える達観であるとしたら、このような達観は必ずしも喜べないことがわかるでしょう。
私の知る範囲では、この年齢の境界は個人差が大きく関係しますが、30代の中盤です。
30代に後半において、この葛藤が高まる事態は私にとっても不安なものです。
しかし、そういう経路をとらなくては当事者本人にとっては道を切り開いていけないものと思います。


このようなときにいかに安全な策をつくるのかは、社会的なセーフティネットの中に位置づけるべきものだと思います。
個人的な安全策をはかる方法は、静かな達観状態に落ち着かせることになります。
それは引きこもり状態を継続させることにつながります。

社会的なセーフティネットとは何でしょうか。
社会全体で、国や自治体やさまざまな社会組織がそれぞれにおいて取り組むことを指します。
私にはそれらの全体はわかりません。
私にわかる範囲のことは、家族として、支援者としてできる範囲のことです。
答えは引きこもり当事者をそのままの状態で受け入れ、可能な限りそのままの生活スタイル、興味・関心を生かして社会生活ができる条件をつくっていくものになります。
それがめざすものになります。
もしそれが出来るならば見本、模範として当事者に希望をもたらすでしょう。
たぶんそれらの取り組みの集積されたものを、手助けするのが国や自治体の支援策になるのではないでしょうか。
引きこもり当事者のそのままの状態、性格や行動スタイルなどを基本から変えていく内容の施策は空振りになるしかないでしょう。
このような社会的なセーフティネットが整えば、30代後半以上の人が次に向かい始めて動きを示すとき、すなわち平穏から葛藤を示し動こうとするとき、背中に手を当ててもいい気持ちになるでしょう。

(2)「待っている」

しかし、このような事態以前の、全然動く気配いがない引きこもり当事者の家族をもつ親にとっては、最初の“きっかけ”のもう一つの方法を知りたいと思うでしょう。
それは、そのような方法が「ない」ことを自覚するところから始まると思います。
引きこもっている本人がその気になる以外には方法はないのです。
「ない」と確定することがもう一つの方法です。
厳密に考えれば後者は、もう一つの方法ではありません。
別の方法があると思うと家族からいろいろな撹乱要因が持ち込まれてしまいます。
ですから私は当事者本人を除いて方法は「ない」と家族が事態を受けとめるのがスタートになると思います。

方法はありませんが、家族として日常的にすることはあります。

それをして欲しいのです。
家族がすることをすれば引きこもり当事者は動き出すかといえば、それはありません。
そういうことは期待しないのです。
期待するから当事者の動きを止めていると理解するのがいいと思います。

家族がすること、できることは多くあります。
衣食住を可能な限り健康的にすることです。過大に優美にするのではなく、家族にとって普通に健康的であることです。
他者との関係を本人が出て行くのでなければ、やってくるような環境をつくることです。
できることをしてもらう、ほめる、教えてもらう…ことなどです。
その場合でも、それによって当事者が動くためのものにはしないことです。
そうなるかならないのかは、家族にできる範囲を超えていることです。
このほかにもいくつかあると思いますが、省略します。

省略できない重要なことは、「あなたを待っている」と伝えることです。

必ずしもことばでなくてもいいでしょう。
「信じて待っている」のほうがいいのかもしれません。
このことばは、絶望状態におかれた人が絶望を死に直結させないで生きる、希望を持つと実感したことによるものです。
「自分を待っている人がいる」――これは特別のものではありません。
絶望を感じている人に生きようとする力を与えるものは他にないと思います。
「自分を愛し待っている人間に責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することはできない。彼はまさに彼の存在の何故をしっている」
「この世では一見何の成果も得られないように見えること、たとえそれが犠牲であっても意味を持つ」
これはナチスの強制収用所を体験し、毎日多くの人が虐殺されていくなかで生きる意味と希望を説いたV.E.フランクル『夜と霧』の中のことばです。
引きこもりをこのような状況と類似させるのは極端すぎると感じる人もいるでしょう。
私には、生と死の切迫感を背に生きる状況にさほど違いはないとさえ考えられます。
絶望感には根本的な違いはないのです。
東日本大震災において海岸地域に住む被災者から「私の作る海産物の注文が来た。待っている人がいるから工場を再建させたい」主旨のことばを聞きました。
待っている人がいる、自分は待たれている、それを意識するとき体のなかに湧き上がるものが生まれるではないでしょうか。
「あなたを信じて待っている」――これをどのような場面で、どのようなタイミングで、どのような表現で伝えることができるのでしょうか。
おそらくそれは稚拙によるよりも、真情がどれだけ込められているのかによって決まるのです。
本物のなかの本物を求められてしまいます。
それに応えようではないですか。
表現は自然に出てくるでしょう。
 



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