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Center:2012年5月ー引きこもりから社会参加への3つの取り組み

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引きこもりから社会参加の3つの取り組み

〔2012年5月3日の「大人の引きこもりを考える」での講演です〕

〔Ⅰ〕不登校情報センターの略歴

(1)設立と当事者グループの形成
私は80年代に教育系出版社で編集者として、すでに社会問題になっていた登校拒否・不登校に関する企画をしていました。
1992年には『こみゆんと』という雑誌を発行しました。
17年前の1995年、出版社から独立して『登校拒否関係団体全国リスト』を発行するときに、
担当編集者から著者名をどうしますか、と問われて「不登校情報センター」にしようと答えたのが不登校情報センターの始まりです。
不登校情報センターを設立して取り組もうとしたのは、不登校に関するいろいろな出版物を企画することと相談活動でした。
両方ともそれなりに始まったのですが、もうひとつ予想外のことが加わりました。
『こみゆんと』の読者であった若者数人が連絡をとってきたことです。
この若者たちはお互いに知りません。
2、3人の少数で集まるのは難しいと考えました。
当時リクルート社から『じゃマール』という個人交流雑誌が発行されており、そこに「通信生・大検生集まれ」の投稿し掲載されました。
その結果、不登校の経験者たちが集まり始めました。
目的はこれらの若者たちが互いに知り合い、話し合いできる関係にすることです。
最初の会合は1996年8月4日です。
集まったのは5人ほどで「通信生・大検生の会」としました。
会への呼びかけを重ね、1996年末にはこの会のメンバーは23人になりました。
しかし、集まるのはいつも10人未満です。
その後もメンバーは増えましたが実際に参加するのは少数です。
そこで自己紹介カードを配り、送られてきた紹介文を会報につけてメンバーに渡すようにしました。
しばらくしてから会には参加しないけれどもお互いの文通をしている人たちが数人いるのに気づきました。
自己紹介をみて文通を始めていたのです。
これを発展させ、文通誌『ひきコミ』ができたのは数年後の2000年です。
「通信生・大検生の会」のメンバーが増え、高校中退の人、中学校を不登校のまま卒業した人、高校の不登校生、通信制大学の学生など
通信生・大検生以外の人が加わりました。
しかも引きこもりを経験している人も混ざっています。
それにあわせて通信生高校生のグループ、進路を考えたい大学生のグループ、レクリエーションに取り組むグループなどが生まれました。
ほとんどのグループは小人数の会合をしただけですぐに消えましたが、自分らで何かをしたい思いが表われています。

(2)仕事につく前に対人関係づくりが必要
1998年ごろ、人材養成バンクというのを始めました。
対人関係が苦手な人を働きながら社会に慣れるようにするために土木建設会社、飲食店、農場・農家、清掃会社などに
その条件で働く場にしてほしいと頼んでいきました。
集会を呼びかけ、一般新聞に載り、多くの人が参加しました。
しかし大部分は親の参加です。
10代から20代前半の人が多く、20代後半以上は少数でした。
結果はうまく行きません。
参加者約80名のうち50名以上が何の動きもしません。
食堂に行った人が1日でやめる、農家に行こうとした人が前日に取りやめるなどです。
ある会社でパソコン教えると計画し、5日通して20数人が参加しました。
唯一の成功ですが、それが終わるとほとんどが元の生活に戻りました。
人材養成バンクはこのなかで1年程で消滅しました。
この経験は貴重でした。
不登校・引きこもり経験者は仕事につく前に身に付けることがある、
周りの人に言葉で引きこもり状態を理解して欲しいといって役立つ運動にならないのです。
社長は理解したつもりで仕事についても、その社長は外回りが多いし、同僚となる人に理解して欲しいといっても何のことだかわからないのです。
そういうなかでも関心を寄せる当事者は増え続けています。
週1回集まり話し合うという居場所ができていました。
あるとき10年の引きこもり経験のある人がこういいました。
「必要なのは、トレーニングを兼ね収入につながる会社みたいなところです」。
私はこれを不登校情報センターに集まる当事者の将来目標にしようと考えました。
1998年ごろは大塚に事務所があり、7坪のスペースに30人以上が詰めかけました。
親しくしていた大検予備校・第一高等学院の人から新小岩の校舎を使わないかと誘われて大塚から新小岩に移りました。
広さで10倍以上になりました。
窮屈状態を解消したのですが、広くなったスペースを上手く使いこなせない状態に困った記憶があります。

(3)引きこもりの理解と前進の方向
新小岩に移ってきたころの私には目標はあっても、引きこもりからの社会参加の道はまだわかりません。
人材養成バンク式ではなく仕事につく以前の対人関係づくりをどうすすめるのかは手探り状態です。
その集まる場所はできても対人関係づくりの方向や内容ははっきりしません。
そんなころに別の支援団体から引きこもり当事者向けのアンケートが送られてきました。
どんな仕事を望むのか、そのために何をしているのかというようなものです。
引きこもりを対象にしてはいないアンケート調査だと思いました。
これに答えを書いているのを横に見ながら、引きこもり経験者の現状にあったアンケートがほしいと思いました。
そのアンケート「引きこもりの人が望む将来生活の姿」をつくり(2001年5月)、通所している人に渡し回答を待ちました。
2003年9月までの2年余かけて71人から集めました。
彼らは仕事や社会を回避しているのではなく、むしろ社会や仕事のほうがある傾向の人を回避し続けているのではないか、
社会参加の仕方は就職が中心になるけれども、必ずしもそれだけではない。
個人事業的なもの、創作的なものの割合が高いと思います。
また農業やボランティアへの関心は相対的に低いと思いました。
そのころに読んだ本にE.クレッチマー『天才の心理学』(岩波文庫)があります。
その終わりのほうに引きこもりを理解するかなり有効な表現がありました。
小胆な人は細かなことに気がつきそれに傷つきやすい、優柔不断で引っ込み思案、内的葛藤の人であるというのです。
しかし、ある時期に気弱に気づいたことを発表すると世の中を動かすほどの反響をえる。
その結果に驚いて引きこもってしまうが大衆の前に引き出されリーダーにされてしまう。
そのような例としてドイツ宗教改革を始めたM.ルター、フランス革命の精神的な先駆者J.ルソーを挙げています。
小胆な人というのが実に引きこもりと一致すると思いました。
漠然としていましたが引きこもりを理解しその本質に触れる可能性を見出した思いでした。

(4)センター内で作業するグループができる
引きこもり支援方向の手探りの途中で、意外なことが持ちかけられてきました。
2000年ごろ大塚から新小岩に移る直前に30歳前後の会というのができました。
その会は月2回くらい集まっていたのですが、新小岩に移って3年目くらいしたある日、数人が私に話しかけてきました。
「不登校情報センターを働ける場にして欲しい」というのです。
30歳前後の会の人たちに集まってもらい、様子を聞きました。
就職の形では働けない、ここにいる人なら一緒に働けるというのです。
30代近くなるとこのような形で問題が見えてきたのだと思います。
「どれくらいの収入が要るのか」と聞いてみると、あまり考えていないようで、働く経験をしたいとか、小遣い程度があればというものでした。
これを聞いてスタートはできるかもしれないと思いました。
取り組んでいく具体例を聞くと内職やポスティングという答えが返ってきました。
そのころは文通誌『ひきコミ』も出版社が手を引いていました。
私は自力で発行するには簡易印刷機がほしいと考え、ある方法で事務機器会社に寄贈をお願いしていました。
その場で印刷機があれば何かをできるかもしれないと話し、事務機器会社に印刷機の寄贈を頼んでいるので一緒に行かないかと提案しました。
2人が行くことになりました。
この30歳前後の会のあと生まれたことは、地域情報誌「ぱど」と月刊新聞「江戸川タイムス」の周辺地域へのポスティング、
リコー社からデジタル印刷機の寄贈を受け、印刷物の自主発行です。
内職も試みましたが労多くして益がなく2度のケースでやめました。
このグループに「あゆみ仕事企画」という名前をつけました。
ただ30歳前後の会のメンバーが中心とはなりませんでした。

(5)ホームページの制作グループ
パソコンを使っている人のなかには不登校情報センターという名称のホームページをつくる人がいました。
数か月から1年ほどで担当が代わるのですが、そのたびに自分なりのHPをつくります。
前任者のものを引き継いで発展的に作ることになりません。
4名が同じようなことを繰り返しました。
自分が関心をもつ内容をHPとしてつくるのです。
2003年ごろにある支援団体の人から不登校情報センターのHPを活用できるようにという提案がありました。
私の方の都合も2004年ころから出版社が学校・支援団体情報の本の発行を渋るようになっていました。
情報本からネット情報に変えていく時期になったのです。
2004年になり、このパソコンを使うメンバーに不登校情報センターのHPづくりの構想を話しました。
思い思いに不登校情報センターのHPをつくっていた人たちにようやく方向づけができたという感じです。
パソコンは数台ありましたから、それに関係なく自分の関心で何かをしている人もいます。
私が提案した不登校情報センターのHPは全国の学校・支援団体や公共機関の情報を載せる大きなHP制作の構想です。
じつは私にはHPを作成する技術的な知識はありません。
すでに発行している何冊かの情報本を見本にして、HPの構想を話し、誰かが中心になってその実現をめざすという形です。
『スクールガイド』という情報本があり、それを参考にHPをつくり始めました。
実際は一人がつくり始めただけです。
他の人はHPの違う場面のテーマを提案してつくる方法をとりました。
その中心になっている人が精神的に疲れると制作作業が停滞します。
そんなことを繰り返して何とか最低限の条件ができたのは2004年11月21日のことです。
不登校情報センターのHPのアクセスカウント表示はこの日を起点にした累計数になっています。
こうして不登校情報センターにはあゆみ仕事企画とHP制作という当事者による2つの作業グループができました。
ところがHPを制作しても、その作業は収入にはなりません。
情報を紹介したからといってお金を払う人はいないのです。
そこから「パソコンを生産財にし、収入源にする」方向を考え、収入にするための別の取り組みを考え始めました。
お金をもらえるようなHPにするには信頼性があり、多くの人がそれを利用する状態のHPにしなくてはなりません。
パソコンを使う人に全体構想の一部を小分けしてそれぞれが各自のペースでできる条件を徐々につくり始めました。
2004年から2005年にかけてのころです。

(6)2004年――時代の変わり目
2004年は不登校情報センターができてから9年目です。
取り組みの経過からだけではなく、社会的背景からも曲がり角の年だと思います。
ニートという言葉や発達障害の理解が広がったのはこの年からでしょう。
引きこもりや不登校に取り組む団体にこの理解は徐々に広がり影響を与えていきました。
NHKのひきこもりキャンペーンが3月で終了になりました。
その後、情報センターにくる当事者が急減しました。
親の会の参加者も徐々に減っていきました。
多くの当事者が集まり、それに振り回されるばかりで主導的には何もできない時期も終わりに近づきました。
目的意識的な支援活動を始められる時期が本当に始まったのかもしれません。
30代前後の会の人たちの提起はそれに重なったのです。
HP制作という課題が明確になったのも偶然とはいえないように思います。
2001年6月に新小岩に移転してきたのですが、無料で借用できる最低限の期間は3年でした。
その後どうするのかははっきりとは決めてはいなかったのですが、所有者の第一高等学院が倉庫としての使用頻度はだんだん高まっていました。
3年過ぎた2004年中ほどから、そろそろ潮時だと考えていたのです。
あるとき「倉庫使用を本格的に考えているので将来移転をしてほしい」ということが伝えられました。
結局、翌年2005年8月になって近くのマンションに移転することになりました。
多くの物を処分し、通所してくる当事者が少なくなっていたので、狭くはなったといえ活動不可能といえない環境ができました。
2005年6月にNPO法人の申請をし、11月はじめには認可され法人登録もしました。
不登校情報センターは十年にしてようやく目的意識的な団体となったと思います。
通所者一人ひとりが課題を持って対処する方向をさがす、苦手で不安感のある対人関係を重ねていく場所(フリースペース)をもち、
その居場所では学校・支援団体の情報を集めるグループがありネット上の情報提供サイトを作成する。
当事者にとって大まかにいうとこんな場所です。
そのなかである人は就職活動に動き、別の人はいろいろない場所を巡り歩き、自分の関心や趣味に熱中しながら時間を過ごす。
それら各自の情報交換をする場所にもなっていました。

(7)創作活動には発表の場をつくる
2005年9月に創作活動を続けていた太田勝己君が、はがき大の作品を数枚持ってきて「1万点描いたので展示したい」と言ってきました。
事務所移転のとき協力を申し出てくれた中央区佃島の小坂クリニックに展示会場を頼みました。
快諾してくれたのですが、スペースを改装中なので年明けにしたいと連絡を受けました。
太田君はたぶんかなり切迫していたのでしょう。
就職活動を続けていたのがうまく行かなかったようです。
11月22日、突然なくなりました。
通所者にとっては強い衝撃でした。
翌年2月、遺作となった太田君の作品展を佃島の小坂クリニックで開きました。
そのとき何人かが私も作品を発表したいといっていました。
これがきっかけになって2007年12月に第2回創作展を行いました。
いろいろな経過があり今回の第5回の創作展に続いています。
2003年のアンケート「将来生活の姿」にみられた引きこもり経験者の創作活動への関心を、作品発表の機会をつくる形で実現したのです。
創作展の名称は第2回からは太田君が言っていた「はじっこにいたい」というのから「片隅にいる私たちの想造展」としています。

〔Ⅱ〕社会とつながる3つの取り組み

事務所移転後の取り組みを3つの部分で話します。
2005、6年ごろにおおよその条件はできました。
その後を現在の取り組みとします。

(1)学校・支援団体の情報提供サイトに取り組む
複数の人で分担し、ある程度相互に乗り入れる形で制作できるようにめざしました。
2006年11月に10人近くが集まり話し合う場を持ったのですが、その場かぎりのものに終わりました。
技術的なリーダー役がいないことが大きな理由です。
しかしそれだけではありません。
一人ひとりがいろいろなページに関わるにはパソコン作業には難しいものがある、引きこもり経験者のもつ気質がそうさせる、
たぶんその両方が関係すると思います。
それが共同作業として容易に超えられない壁のように思えます。
2007年になって支援者がこのサイト制作に加わりました。
その人を中心に4人ほどがそろい、チームを組んでサイト制作に取り組み、この状態は3年続きました。
途中で就職するなどによりメンバーは少し入れ替わっています。
4年後の2011年春、その中心者の職場の勤務条件が変わり来られなくなりました。
しかし、この期間にサイト制作は安定的にできるようになりました。
その状態で「パソコンを収入源にし、パソコンを生産財にする」方向が生まれたように思います。
学校・支援団体からの収入も少しずつ増えてきました。
経営的に成り立つレベルには程遠いのですが、このまま進めばある程度はいけそうな気がしています。
このサイト制作をさらに有効にするために、2010年にサイトの中心をWikiシステムにする提案がありました。
技術面のリーダーが生まれているからです。
サーバーを変える、無料で借りて運営しているブログを同一ドメインにするなど技術的な変更を伴いますが、
その方向は「パソコンを収入源にし、パソコンを生産財にする」ことです。
このWikiシステム制作には私も参加できますし、通常の文書入力できる何人かが加わりました。
不登校情報センターが管理する同じドメイン内で会員などがブログを設けることもできます。
そのブログでは広告などを選んで設定することもできます。
参加する人は小さな雑誌を発行しそこに広告を載せる感覚です。
もちろんそれにより多額の入金を期待することはできませんがシステムはそのようなものです。
このブログには10人以上が参加しています。
そういう個人ブログが多くなると不登校情報センターのサイトを見ようとする人も増えますし、それがサイト全体のアクセス件数も増やします。
相乗効果が予測できるのです。
Wikiシステムには、辞書・辞典的なサイトには有効な面がいくつかあります。
この技術的なことは省略します。
多様な情報、大量の情報を受け入れ、処理していける可能性を持っていることが「パソコンを収入源にし、パソコンを生産財にする」
のに適しているはずです。
学校・支援団体の人にも開かれていけます。
作業をする当事者にも参加する場所を提供しやすいです。
これまでのサイトの収入源はリンク料と掲載料でした。
一般の商業用のサイトと比較すれば1桁違う低額料金ですし、無料で掲載しているページも多いものです。
ところが昨年からリンクの継続が減少をしています。
社会の不況が支援団体にも影響していると感じます。
より多くの学校・支援団体の情報を掲載することでこの低収入をカバーすることが当面の対策になります。

通所する当事者にとって不登校情報センターは共通する活動としてネット上で学校・支援団体の情報提供をつづけます。
それを中心に当事者が集まり、居場所ができます。
その条件の中で当事者各人の得意なことや関心を受け入れ、企画するベースにする条件を強めます。
これらが現在の状態です。

(2)創作活動とネットショップ
2006年2月の「太田勝己作品展」により創作活動を生かす取り組実が生まれました。
2007年に第2回想造展ではポストカードや自作作品集が生まれました。
2009年の第3回想造展のあとブログ「片隅にいる私たちの創造展」を立ち上げました
(このブログはWikiシステム導入とともに「センター便り」に統合されました)。
2010年の第4回想造展はネットショップ「あゆみ雑貨店」と「あゆみ書店」を設定しました。
ネットショップは有効な活動になっていないので、これを活動させなくてはなりません。
ネットショップはこれまで無料貸与のサイトにお店を出している状態です。
活動条件を広げるために自前のサイトにネットショップを開きます。
通信販売のために別のドメインにしています。
昨年末に不登校情報センターのURL・ドメインを〔futoko.info〕に変更しました(従来のfutoko.co.jpも有効です)。
そういう準備をすませて方向を考えるのがいまの課題です。
今回の第5回想造展では出展者の退潮が現れました。
この状態をどう理解すべきかはまだわかりません。
これまではいくつかの作品を冊子にまとめ販売できるパターンができました。
ネットショップの生かし方はこれが一つですが、しかし商品数が少なすぎます。
ネットショップを創作活動とは相対的に独立させて発展させようと思います。
たとえば読み終えた本の再販売、フリーマーケットやリサイクルショップの要素をネット上で行うものと考えています。
創作活動自体をどうするのか、どうなるのかは未知数です。
新小岩地区センター会議室を会場にして想造展ができたことは、身軽に展示会をする条件になるのかもしれません。

(3)対個人サービスの仕事づくり
昨年夏、「引きこもり後を考える会」を始めたいという提案がありました。
数人が3回ぐらい集まり話しました。
引きこもり状態から抜け出した後の経験の意見交流です。
仕事につくなかでの経験したこと、将来の生活を考えての対策、障害者手帳、年金の支払い、生活保護、住宅問題などがテーマに話し合われました。
仕事につき収入を得られる道以外で、それらの条件を解決する根本策は、社会的には用意されていません。
しかし研究する余地はあります。
できそうな芽は、個人として半ば自営業として仕事始めを考えている人がいることが確認できました。
登録型で仕事に就いている人にも、個人で働く方法を望んでいることがわかりました。
それらを昨年10月に「引きこもりを抜ける仕事づくり」発表会として行いました。
これと並んで自分で仕事起こし、仕事づくりをしようとする人も現れました。
得意なことや興味関心を収入に結び付けようとする有志です。
「チョコシゴ」という名称のグループです。
各自が自分の仕事づくりをめざします。
「引きこもり後を考える会」と「チョコシゴ」の2つの動きの特徴は、就職型よりも自由業・自営業型であり、
職種としては対個人サービス業的なものになりそうです。
実例は整体師、メイクサービス、居場所ガイドでしょう。
カウンセラーになりたいという引きこもり経験者の気持ちもここに一致するはずです。
メンバーの一人は手紙相談を提示しています。
これはカウンセラーの特殊パターンです。
カウンセラーもまた対個人サービスです。
これに類するのに家庭教師、パソコンの個人指導などがあります
。 10年前に「将来の自分の姿」としてアンケートにあった仕事や職業は、いまのこの動きと矛盾しない、整合性のあるものと判断しています。
要するに引きこもり気質に合う仕事というのは、対個人サービス的なものです。
一人ひとりを対象に丁寧なかかわりを持っていく仕事です。
就職型の仕事に就くのは、組織に指揮系統があり、作業手順にしたがって集団のなかですすめる仕事に就くことです。
大人の引きこもり経験者にはその壁はかなり高くなっていると思います。
彼ら彼女らが仕事についたときに遭遇する困難はここに関係しています。
コミュニケーション能力を高める、SSTに熟達することは、それ自体が仕事につくのと同じ難題になるのです。
「いまのその状態を自ら受入れて」社会参加する道はこの意味から必要ですが、実現する社会的な条件ができていないために困難になるのです
。 それを社会的条件ができるのを待って始めるのではなく、いまいる状態から自分にできることに取り掛かろうとしているのが、
いまの当事者の取り組む仕事づくりです。
個人の特徴・特技を生かす仕事づくりです。

(4)不登校情報センターは広報・連絡事務所
不登校情報センターの役割はこれらの取り組みの後方からの支援です。
具体的には関係者の交流の場をつくる、発表の場をつくる、広報の役割です。
さいわい信頼性の高いウェブサイトができています。居場所としていろいろな人が関わります。
共同事務所のような役割になるはずです。
これらをどう活用するのか、活用されるのか。それがいま直面していることです。

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