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不登校の50年史

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2018年12月19日 (水) 14:40時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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不登校の50年史

奥地圭子さんに聞く【不登校50年・最終回/公開】連載「不登校50年証言プロジェクト」
奥地圭子さんは本紙の代表理事であり、登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク、フリースクール全国ネットワークの代表理事、東京シューレの理事長、東京シューレ学園の理事長でもある。
これらの肩書きだけからも不登校の歴史との関わりの深さがうかがい知れる。
1978年の息子さんの不登校から40年あまりの不登校との関わりは、日本の不登校の歴史と多く重なる。
たんに長いということではなく、肩書きとなっている団体は、不登校の歴史で重要な役割をはたしてきたが、奥地さんはこれらの呼びかけ人であり続けた。
「日本の不登校史」その特徴は
日本の不登校の歴史で非常に特徴的なことは、親が専門家を盲信せず、目の前の子ども自身から学ぼうとし、その声を発信し続けたことだ。
また、その動きが不登校の流れに大きな役割をはたしてきたことでもある。
奥地さんは息子さんの不登校を通して「そこで発見したのが『わが内なる学校信仰』です」と言う。
親の会では一人ひとりの親が不登校について「そもそもをどう考えるのかが大事」ということで、名前も「登校拒否を考える会」としている。
この姿勢・考え方は各地に広まり、考える会という名前も各地の会で採用され、全国ネットワークにもその名が使われている。
子どもの声を聞き、学校信仰を一人ひとりの親が自分の頭で考え相対化していく場として始まり、全国に広まったのだ。
発足にあたっての会則に「『日本社会を変えたい』と書いてある」のは偶然ではない。
活動の広がり
親の会の活動を通して「楽になった子どもたちが来るようになると、いっしょに遊んだりして非常に表情がいい」ということが起きてくる。
奥地さんは、子どもたちの「僕たち、どこ行けばいいの? 明日から行くところがない」という声に応えて「学校以外の場」をつくり出していく。
現在、全国各地に広がっているフリースクールの草分けのひとつだ。
フリースクールを基盤に奥地さんは子どもたちが声を挙げていくことをサポートしてきた。
子どもによる登校拒否全国アンケートや全国各地での子どものシンポジウムなどである。
ホームエデュケーションを日本に積極的に導入し、その普及に尽力もされてきた。
学校信仰の相対化は、みずから社会を変え・創るということにもつながり、フリースクール全国ネットワークを呼びかけ、結成後はこのつながりも不登校を経験したり、フリースクールで育つ子どもたちの状況を改善していく運動にも発展していく。
フリースクールなどに通うために通学定期券が使えるようになったり、教育機会確保法をつくったりしている。
「学校以外の学び場の人たちも税金を払っているのに、公的な資金が学校外の場には出ないで、自分たちで費用を払って支えている」「二重籍」という状況を変えようというのだ。
不登校と社会の変化
不登校の運動は「教育はお上だけがやるものじゃないという感覚が、少しは広がってきたかな」「ずっと学校復帰が前提だったのが、学校復帰のみを求めないと変わった」という変化ももたらしたという。
不登校と関わり、月日を重ねるなかで、「変化した部分と、変化しなかった部分がある」と言う。
「70~80年代と比べたら、『不登校はあり得るよね』ぐらいには変化している」一方、「学校中心社会で、多くの人は学校に通って社会に出ているわけだから、本当に学校に行かない、行けない子の気持ちがわかるかというと、難しい」という。
節目をふり返るということ
不登校50年証言プロジェクトというからには、そのときどきのその人が体験した不登校や不登校に関わる状況が現れてくる必要がある。
すると、50年という年月のなかでどのようなことがあり、起き、変わったこと変わらなかったことが浮かび上がってくる。
恣意的に特定の事柄を争点化するというようなことではなく、そのときどきに焦点となったことをていねいに残していくことには意味があるように思う。
そこには常にさまざまな思いや考えが交錯している。
西と東の2つのチームではとり上げきれない多くの人がインタビューの候補に挙がった。
奥地圭子さんのインタビューは47回に渡る連載の最終回にふさわしいと言えよう。
この47回をどのように読んだのか、あちこちで多くの会話が交わされればと思うし、そのような声を共有できればと思う。
不登校50年 #47 奥地圭子さん
〔2018年10月11日 不登校新聞(本プロジェクト関東チーム委員・朝倉景樹)〕

学校に行けない…「不登校50年」が問い直すもの 不登校新聞「不登校50年 証言プロジェクト」
文部省(当時)が学校基本調査で「学校嫌い」の統計を取り始めたのは1966年。
日本で唯一の不登校・ひきこもり専門紙「不登校新聞」(NPO法人全国不登校新聞社)は2016年、半世紀の節目に「不登校50年 証言プロジェクト」をスタートさせた。
不登校経験者、保護者、フリースクール、医師、教師、研究者ら30人を超える声を集め、今夏、連載を終える。
「不登校50年」が問い直した問題は何か。このプロジェクトの統括、山下耕平氏に聞いた。
(聞き手・読売新聞メディア局編集部 鈴木幸大)
◆「英語でタイは釣れん」
「だれも中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語でタイは釣れん」
岡山県の児童相談所職員だった佐藤修策さんは、1947年(昭和22年)に中学校が義務教育化された当時のエピソードを紹介した。
瀬戸内海に面した倉敷市の漁村で、家庭訪問にまわると、中学校に行っていない生徒がゴロゴロいた。子どもに漁業を継がせたい父親は、釣りのイロハは学校では身につかないと主張した。
「中学校は英語を学ぶことができるんですよ」。そう言って親を説得しようとしても、鼻で笑われた。
「子どもを学校へ通わせるのは親の義務です」。
当時は、こんな立て看板があちこちにあった。「勉強がいやなら、さっさと働け」と言ってしまう教員もいた。
「学校に行かなければならない」という考え方もなく、不登校が問題になることもなかった。
◆「学校に行けない」
文部省は1950年に長期欠席者(年間30日以上の欠席者)の全国調査を初めて実施。
この調査によって、49年度の長期欠席者は、小学校で約40万人(出現率4.15%)、中学校で約34万人(同7.6%)。
小中合わせて約74万人いることが明らかになった。
家庭が貧しくて学校に通えない。病気がちで通学が難しい。農業や漁業などを営む家庭は幼い弟妹の面倒や家事の手伝いを優先させた。
長期欠席は、経済的理由が59.6%を占めた。 ところが、60年ごろになると状況が変わった。はっきりとした理由がないのに欠席が長引く児童・生徒が現れた。
経済的に困窮しているわけでもなく、健康状態に問題があるわけでもない。
にもかかわらず、精神科や児童相談所にこんな悩みを訴える子がいた。
「なぜだか分からないけれど、学校に行けない」
学校に行けないのは子どもに問題がある?
◆学校へ行こうとすると足がすくむ
精神医療の問題として議論が繰り返された。
学校に行けない――。その原因として、精神障害の一つである統合失調症、母親と離れると不調になる母子分離不安、自閉症、神経症などが疑われた。
しかし、徐々に、子どもに原因があるとする考え方に疑問符がついた。
子どもではなく、学校の状況に問題があるのではないか。
国立精神衛生研究所(現・国立精神・神経医療研究センター)に勤務していた児童精神科医の中沢たえ子さんが1960年に「学校恐怖症の研究」を発表している。
これが、日本で初めての不登校についてまとめられた論文とされる。
学校恐怖症は、高所恐怖症や閉所恐怖症といった状態と同じで、学校へ行くとなると思わず身構えてしまったり、足がすくんで前に進めなくなったりする体の反応だ。
◆病院内に「親の会」
不登校は、子どもの問題ではなく、解決には学校を変える必要があると訴えていたのは、元国立精神・神経センター国府台病院児童精神科医長の渡辺位さんだ。
「腐った物を食べたら下痢をする。下痢が問題なのではなく、細菌の繁殖した食べ物を摂取したのが原因であって、排出しようとするのは防衛反応。下痢の原因を見ないで、下痢だけを治そうとしてもだめ」
渡辺さんは1973年、病院の中で同じ悩みを抱える保護者が集まる「親の会」を設立した。
そこに集まった保護者らは、周囲から白い目で見られ、自責の念に悩まされていた。
「母親の育て方が悪いから、甘えた子になった」
「父親が厳しくしないから、子どもがわがままになった」
「自分の育て方が間違っていた……」
そういう見方にさらされながらも、親の会は、子どもの側に立って、学校のあり方を問い直していった。
「不登校新聞」の編集部(東京都北区)
当事者が語る「なぜ、学校に行けなくなったのか」
◆「自分は悪い子」と泣いた
「不登校50年」の連載には、学校に行けなくなった不登校経験者も登場する。
1987年、小学4年のときに学校へ行かなくなった男性が当時の心境を打ち明けている。
  「学校は絶対に行かねばならないと強く信仰していると、ちょっとの休みで、『いけないことをしてしまった。もう顔見せできない』と思って、1週間、2週間と休むようになって、それが1か月、2か月となって、どんどん行けなくなってしまう。私の場合は、そんな感じで学校に行けなくなって、『もう人生おしまいだ』と思っていました」
男性は「自分は悪い子だ」と親に訴えて泣き、物に当たり、苦しんだという。
◆「学校は行かなきゃいけない」
いじめをきっかけに不登校になったエピソードを語る当事者もいる。
高度経済成長期の1970年代に小学生だった男性だ。
高等教育を満足に受けられなかった親世代が、子どもには教育を受けさせ、良い学校を出て、良い会社へという将来を望む社会の風潮があった。
進学熱が高まる一方で、放課後になると、草野球に興じる子どもたちもいる、そんな時代だった。
だから、進学塾組と草野球組は対立することがあった。
進学塾に行っている子たちは、テストの点数を伸ばし、偏差値を上げなきゃいけないというプレッシャーを背負わされた。
自由気ままに草野球で遊ぶ同級生をねたましく思い、攻撃の対象にした。
「帰り道に隠れていて、いきなり6人がかりで蹴られたり、筆箱を隠されてしまったり、定規におしっこをかけられて、それを筆箱に入れられたり、いろいろ陰湿なことをされていました」
学校が安全な場所ではないと思った男性は、小学6年で学校に行けなくなった。
それでも、「学校は行かなきゃいけないところ」「学校へ行かないことは大問題」という葛藤をずっと抱えていた。
登校拒否は早期治療をしないと……
◆新聞記事に抗議集会
「30代まで尾引く登校拒否症 早期完治しないと無気力症に」
1988年9月、全国紙の夕刊1面に精神科医ら研究グループの見解が掲載された。
登校拒否は早期に治療しないと無気力症の懸念があるとし、カウンセリングだけではなく複数の療法が必要と指摘した。
不登校や登校拒否を病気とする考え方は、本人が望まない強引な治療を招き、人権侵害につながりかねないと各地で抗議集会が開かれた。
一方で、不登校は早期発見、早期治療が必要とする考え方も根強く、学校に行きたくないという子を無理やり連れて行く保護者もいれば、家庭を訪問して子どもの部屋に押し入る教師もいた。
自然豊かな専門施設で治療を求める希望者もいれば、スパルタ式の訓練施設へ子どもを送り込むようなケースもあった。
不登校を巡っては、80年代になって市民運動が活発になった。
各地に親の会が設立され、全国規模の組織も発足した。
居場所になるフリースクールやフリースペースなども増え、不登校の子どもたちが学校以外でも育っていることが実証されるようになった。
◆強硬策も「それでどうなの?」
不登校を取り巻く環境に変化が表れると、文部省(当時)は1992年、学校不適応対策調査研究の最終報告で「登校拒否はどの児童生徒にも起こり得る」との言葉を盛り込んだ。
さらに、文部科学省は2016年、「不登校を問題行動と判断してはならない」(16年9月14日「不登校児童生徒への支援の在り方について」)という通知を出している。
こうした行政の動きを歓迎する一方で、ソーシャルワーカーの男性は連載のインタビューでこう指摘する。
「かつては学校現場でも無理してでも行かせよう、学校復帰させるための努力をしなくちゃいけないというような空気があったように思います。いまはそうは言ってもヌカにクギみたいなもので、現実がもっと先を行っている感じはします。いま強硬策を出しても『それでどうなの?』みたいな感じになっちゃうんじゃないかなと」
統計上は毎年12万人以上が学校を休み続けている実態がある。男性の言葉は続く。
「一人ひとりはいろいろ葛藤があったとしても、不登校の数は毎年積み重なっているわけだから、その数の力というのは、無言の、無形のメッセージになっている」
かつて「希望」だった学校が、今は……
◆偏見は薄れても否定的なまなざし
当事者でさえ、不登校になった理由をはっきりと説明できないことが少なくない。
朝、制服に着替えていると頭が痛くなる。玄関で靴をはいても足が前に出ない。
考えるよりも前に、体が反応する。こうなってしまったら、まず休むことが大切だ。
いったんストップすることを否定してはいけない。
その後、どうするかはまた別の問題。
最近では、不登校に対する偏見は薄れてきているが、平日の昼間、学校以外の場所にいる子どもたちに向けられるまなざしは、やはり否定的だ。
かつて、学校は「希望」だった。新しい知識を身につける。良い成績をとる。
そして、良い学校へ合格する。「希望」が、学校の求心力になっていた。
だから、ひとたび「学校に行かない」となれば、それは「絶望」を意味した。大問題だった。
しかし、ここ最近ニュースなどで話題になるブラック企業、過労自殺、老後破産といった問題を考えると、良い成績を収め、良い大学に進んだといっても、必ずしも先行きが明るいとは言えない。
学校は今、「不安」が求心力になっている。せめて高校、大学くらいは……、となってしまっている。
◆「不登校」から考える
「不登校」は、よく分からないけれど……という状況が実はあまり変わっていない。
ただ、不登校を考えることをきっかけに、精神医療や心理学が問い直されることになった。
「子どもがおかしい」という考え方が変わってきた。
学校に問題はないのか。教員の指導に課題はないのか。なぜ、学校に行かなければいけないのか。
親たちが正しいと信じたことは、本当にそうだったのか。
「学校に行けない」。そう打ち明けた我が子を目の当たりにしたある男性は、自らの会社人生を顧みることになった。
「お父さんはどうなの」。そう問いただされていると感じた。
これが自分のやりたかったことなのか。このまま定年を迎えていいのか。自問を繰り返し、結局、退職に踏み切った。
学校、家族、仕事、生活……。「不登校」を巡る50年は、当たり前と思われてきた社会のあり方を問い直している。
〔2018年4/22(日)読売新聞 不登校新聞プロジェクト統括 山下耕平〕

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