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体験記・ナガエ・私の物語(3)

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2011年2月18日 (金) 00:13時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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目次

私の物語(3)

夢の意味

「最近どんな夢を見ますか?」  初診時あからさまに嫌悪感を示していた医者との関係は穏やかなものなっていた。ただ心をのぞかれているような先入観にとらわれて、本来の話し方ではなく、少し声のトーンが高くなり話そうと思う事柄は頭を一度ひねってから口にした。  “どんな夢を見るのか”と尋ねられたが、気になっていた少女のことは内緒のしておいた。そのかわり、自分が殺人鬼になって人を殺す夢を見ると話した。代わりに答えた返事だったが嘘ではない。顔のない人形のような人間と敵対し、私は殺意のとりこになっていた。  「夢は、願望を表すっていうんだよ」  足を組み、手を組むと医者は教師のように言った。そして組んでいた足を解くと私の目をまっすぐ見据え、続けた。  「なんか怒りみたいな。誰かに対して強い攻撃心みたいなものがあるようだね。何か心あたりない?」  「おまえだよ。ムカツクんだよ。誰かに対しての怒りっていう、その誰かっていうのはテメェのことだよ」  あの子だ。影もかたちも見えなかったが声が聞こえた。今の声が聞こえなかったのだろうか。医者はこっちを見つめたままだ。  ふっと父の顔が突然浮かんだ。優しくない能面のように無表情の父。“誰かに対する強い怒り”、手首を切ってもなお心の底でくすぶっているというの? 私は自分ではなくやはり父を憎んでいたんだ。  あのことは忘れたい。だけど忘れちゃいけない。忘れられない。こんなこと誰にも知られるわけにはいかない。私は医者からすっと目をそらすと、強い口調で答えた。  「ない」  すると医者は鼻を意味ありげにすすり「ふぅん」と言った。  にぶい、と思っていた医者だったが、彼は“何かある”と嗅ぎ分けた様子だった。  しかし、あえて追求してこなかった。“言いたくないことは言わなくていい”そういうことなのだろうか。  眼鏡をかけた少女はどこへ消えたのだろうと、ぐるりと広い診察室を見回した。がらんと殺風景なこの部屋には患者の私、それからドクターの2人以外誰の気配も感じることはできなかった。  窓は開けられ、そこから少し肌寒い程度の風が吹き込んで秋の香りを振りまいているだけだった。  「悩んでいることとかない?」  きょろきょろとあたりを見まわしている私を尻目に、医者は語りかけるように聞いた。  “悩んでいること”そんなのたくさんありすぎて、どこから何から手をつけて話せばよいのだろう。家族のこと学校のこと話し始めたら止まらないような気がする。  怖い。逃げてしまおうか。そう思ったけれど、もう口を開けていて私は一気に喋りはじめていた。  「小学校の頃一緒のクラスの子がいじめにあっていたんです。そのこととは直接ないと思うんですが、その子の母親は自殺したんです」  どうしてこの話題を悩みとして話したのかわからないが、ふと口をついて出た。こういう話しをし、考えこんでしまうということは、私は死に親近感を持ち、接近しつつあるというSOSなのだろうか。  「葬儀が終わって、通夜もすんで、それ以来、その母親の子どもは学校へ来なくなりました。実の母が死んでしまうなんて、それも自殺したということはその子にとってどれほどショックになっていたことかは、なんとなくわかります。  でも学校へ来なくなったのはどうしてですか。いじめられていたとしても学校へ来ることができたのは母という支えがあったからですか。私はときどき考えこんでしまうんです。  “お前が殺した”そう私に訴えかけてくるような気がして、自分にはあの家族を救うことができたんじゃないか、私は横目で人が辛い様子になっていくのを見ていただけだった。  いじめにおいて、のけ者にされている人を見ながら、私は何もしなかった。だから私は悪くない、それでは通らない。  なぜなら見ていることはのけ者にしている者の一部に含まれてしまうからだ。何もしなかった、それこそが罪になってしまう。  「自分のことは責め続けていたの? 過去へ時間は戻らないし、死んだ人は返ってこない。自分のことを優しいなんて思ったことある? 自分のことを否定的にみるのはよくないことだよ」  そう医者が話し終えると、私は、昔教会学校へ行っていたことを思い出した。毎週土曜日か日曜日に通っていた。家はキリスト教徒、クリスチャンではないが興味があったので、一つ年上のお姉さんと言って、親しんでいた人に誘われたのがきっかけで通うことになった。  私は、一人ではなかった。小学校時代、私は一人だと、孤独だと思っていた。だが、それは間違いだった。  教会学校へ行くことを心のよりどころにしていた。聖書を読み賛美歌を歌い、私は没頭した。まだ小学生だったわけだから、聖書や賛美歌の意味はさほどわからなかった。 わからなくてもいい、私は読めるものは読み、歌えるものは歌った。イエス様は天からいつも私たちを見て守ってくださっている。だから、あなたは一人じゃない。  私はそれを信じよう、信じたい、そう思いながら祈った。どんな辛くてもイエス様はいつか助けてくださる。そう思い込もうと日々努めた。  私は、親に話せなかった分、牧師と話をしていた。もちろんこの件に関しても私は話しを聞いてもらったと思う。  「自分を責めてはいません。彼女は自分の意思で死んだのです。誰も罪人ではありません。彼女が亡くなったのは誰のせいでもないのです」  牧師は私を慰めた。  本当に誰のせいでもないのだろうか。自ら死を望んだあの母親の子どもの名をトモコと言った。“トモコのために”と言って、トモコを一人ぼっちにして彼女は死んだ。 どうして私を置いていくの? ねぇ、どうして母さんは一人で死んでしまったの? 私を一人にしないで、母さん。  トモコは仏壇の前で、自問自答を続ける。  エコーのように医者の言葉がこだました。“過去へ時間は戻らない。死んだものは生きかえらない”  もし時計の針を逆に回転させることができるなら、どうかトモコを一人にしないであげて。  誰のために彼女は死んだのか。何を思い、何を考え、何を一人で苦しんでいたのか。  何のために彼女は命を断つ必要があったのか。何のために彼女は死んでしまったのか。  悲しみと孤独を投げかけてくる自殺。生き残った者に疑惑を抱かせる。  私は、どこまでいっても見ていることしかできない。あの家族に関わろうなどというのは誤算である。私は私という成りたった一人の人間と照らしあわせながらあの家族を傍観し、自分を解剖しようと試みていただけかもしれない。  “自殺”というテーマに取り組んでいた私自身もかなりぐったりし、薬を処方されていた。親は薬を私から奪いとり「こんな薬飲むな。気違いめ」と私に鋭く文句をなげつけた。  だが私は取り上げられた薬を奪い返し、何錠か飲んだ。飲むと耳の近くの頭でふつふつと泡がわきあがっているような感覚がした。副作用だろうか、口がよく渇いた。ペットボトルに入った水をがぶがぶ飲んで、顔が少しむくんだ。  代謝がぐんぐんよくなって、運動しているわけでもないのに汗が出て、私は、“やる気”を起こすようになり家中をほうきではいたり、風呂のそうじにこってみたり、太っ腹で陽気な気分になり、洋服を山ほど買おうとしたり、沈みかけていた気分は高揚して私は一日中動いていなければ落ちつかなくなった。  薬だけで人はこんなに変わってしまうものだろうかと私は驚いた。現代の医療の進歩に拍手。そして薬は人を変えてしまうこともあるのだと薬に対する恐れも持つようになった。  その回のカウンセリングはそれで終わった。カウンセリングの基本は、患者が患者自身の力で回復していくことだ。だからたとえ医者に質問したとしても、その質問は最終的には自分の問題として返ってくる。医者と自分の問題について話し合っていることは、自分と対話していることに他ならないのだ。  自分と話しをする。簡単そうだが、根気がいる。まず自分と話しをするためには、“セッティング”が必要である。ゆったりとした時間をたっぷり確保すること。そして心の余裕。自分を掘り下げていくのだから、自分が今までさけてよけてきたことに直面しなくてはならなくなってくる。  しかし、そこから足を遠ざけ身をひいていてはダメだ。聞き手を信頼し、逃げないという勇気を持ってほしい。  それから段階をへると自分の嫌な所が目につくようになる。略していうと自己嫌悪ということになるのだろうか。自己嫌悪に陥ると自暴自棄、そこからくる自信喪失。さまざまな課題が待ちうけている。  その辛く、長い道のりをこえと峠を越すと、やっと希望を持ち自信をつけ新しい自分と対面することができる。カウンセリングは実際に体にメスを入れたり、注射を打ったりするわけではないが、それと同様苦しみが伴う。  手術をし、腫瘍を取り除いた後は、痛みが消えるように、精神面でも苦痛は緩和され、よりよい自己が形成されて安定した生活が送れるようになる。  今や“カウンセリング”は流行語のように使われるようになったが安易にからかいやおもしろ半分で受けないでほしいと思う。本当に自分を見つめ直したい人、真剣に悩んでいる人のためにカウンセリングは生まれたのだと思うから。

ダイエット

何回目かのカウンセリングで“友達”について話すことになった。偶然の一致だったが私の友人も、主治医は違うが同じ病院でカウンセリングを受け入院していた経験がある。  その子は名前をナオミというのだが、通称ヨッサンと呼ばれ、私とは親友とよべるほど仲よくしていた。  ヨッサンとは同級生でその関係は中学1年の時から何も変わらない。険悪な関係になったり、ケンカをしたことが全くない。  ヨッサンはどう思っているかはわからないけれど、私はこの関係に満足している。この先もこの関係でいたいとさえ思っている。  ヨッサンと仲良くなったきかけは、確かナゾナゾのゲームをしたことが最初だったと 思う。ヨッサンと話しているとどんなに小さくてつまらないことでも楽しく思えたし、話しても話しても次から次へと話題がつきなかった。  入った部活も同じで、私たちの仲は急激に縮まり深まった。もちろんクラスも同じでいつも一緒にいた。  中学1年は平凡に過ぎていった。平凡といっても私は中学生は中学生なりに、センパイとの不和に悩んだりもしたし、バレンタインデーには胸をときめかせてチョコレートを手作りし騒いだりもした。それなりにいろいろあったが、まともにスクールライフを送っていた。  だが中学2年に進学し、夏休みが終わり2学期が始まり中頃になると、ヨッサンの心に異変が生じた。他から見ているとなんだか、ヨッサンやせてきたよねー、という感じだった。日に日に細くなっていくヨッサンが心配で、もしかすると重い病気にかかっているのかもしれないと思わせた。  「何かあったの?」とか「何か隠しているのでは?」とか私は思いを手紙に託し書いた。  しかしヨッサンは心を開いてくれることはなかったし、貝のように殻にはいってしまい、とうとう入院してしまった。  私は何かヨッサンを傷つけたのだろうか、私は考えに考えぬいたがわからなかった。自分が語りかけてもヨッサンは自らを閉ざしていくばかりで、手のつけようがなかった。あれだけ親しくしていた私にさえ話せない深い悩みがあるのだろうか、どのくらいしんどいことなのだろうか、私は思った。  しかし私はその反面、私自身も傷ついてしまっていた。なぜ、何も言ってくれないのだろうか、私たちの友情は私の一方的な勘違いであったのだろうかと。  入院しているヨッサンから何通か手紙が届いた。手紙には入院生活がどんなものか記されていた。細くなった血管をさす点滴の話やまずい味のする栄養ドリンクの話、それから今読んでいる本や趣味の話、起きてから夜寝るまでのスケジュール、几帳面な字で手紙はつづられていた。  そして、入院生活に終わりが近づいた時期から自分の思いや考えていることを文字にしてくれるようになった。自分はいったいどういう診断を下されているのか、それも教えてくれた。  それは拒食症(神経性無食欲症)だった。いまではこの病名は広まりポピュラーになったが、昔に比べれば認知されるようになったものの、その頃もまだまだ影は薄かった。  私はその病名を聞いて、不謹慎だと思われてしまうかもしれないが少しほっとした所があった。  なぜなら私はもっとガンだとかそういった病名を想像していたからだ。何科の病棟に入院しているのかも言ってくれないし、病名だってわからない。ヨッサンは私に心配かけまいとして黙っているのかもしれないと思っていた。  拒食症と聞いて私はその病気を調べることにした。“拒食症”という並べられた漢字を読むと“食を拒む症状”ということになるだろうか。家にある本棚をあさり、厚めの本を見つけだした。“家庭の医学書”。おめでたいことにわが家の者は病気とは無縁に近く、その本を開く機会はめったになかったせいかほこりがかぶっていた。  ほこりをティッシュペーパーでふきとった後、ページを開いて「心の病」の欄を見つけだした。神経性無食欲症(拒食症)アナレキシア 適正体重の85パーセント以下の体重が増えることを恐れ、やせる努力をつづける。極端なダイエットなどで食事の内容もかたよっている。  ダイエット? つまり、やせようとする病気なのだろうか。そんなものを病気にしてしまえば、おぞましいほどの数の女性が、発症してしまっていそうである。オシャレな服を掲載している雑誌、それから薬局、折込みのチラシ。行く所の先々で目にしたり耳にしたりする。  多くの年配の方が苦手としているカタカナ文字で、いわゆる外来語だが“ダイエット”という語句は知らない者は数少ないであろう。平安美人といって遠い昔の私たちのご先祖様は、ぽっちゃりした体型の女性を好んだが、この現代で“君は平安美人だね”などと誉めたとしてもケンカを売っているものと誤解されるのがおちである。  スラリと伸びた手足、そして小さい顔、くるりと大きな瞳、茶や金に染めた髪。現代の求める理想の女性像というものはまるで欧米から伝わってきたバービー人形のようである。  “コギャル”と呼ばれる人々は派手な服装を楽しみ、ガングロ(顔黒)のメイク(化粧)の盛期をつくりだしたが、現在のところ“美白”というものが流行りつつある。 それらの基盤となるものは、大和の国日本ではなく、おそらく海外から情報が着たのではないかと思われるのだ。  このように日本の文化は海外からの影響によって変化し続けている。だから女性が細身にあこがれるのは一種の長期にわたるブームみたいなものかもしれない。  それから“やせたい願望”の背景には、かつては子どもを生み育て家庭を守ることが女性にとっての生きがいだったかもしれないが、女性も男性と等しく“働いてお金をもうける”ことももうひとつの生きがいとして選択できる時代なのだ、ということも多少なりとも影響している気がする。  以上の文は“ダイエット”について私なりの考えたことではあるが、拒食症いわゆる病気と診断される場合、さらにもっと複雑な心理的要因もからみ合い、健康を害するほどの“ダイエット”にのめりこむことである。  そもそもダイエットというのは肥満と呼ばれる人が行うもので、美しくなるということが目的ではないのではないかと思う。  ここでよくダイエットの語句を見てもらいたい。ダイはDIEであり死を意味する語句である。本の終わりの方の行にはこう記されていた。――重症の場合、死にいたることもある――。  だから、やりすぎると体に有害であり、骨が弱くなったり、生理が止まったりすることもあるのだ。腹八分目というようにダイエットも同じで徹底的にしてしまうと最悪の場合、死んでしまうこともありうるのだ。  しかし、私はその本を読んだとき、拒食症という病気はどんなものであるのかということがわかっただけで、そうなる原因というものがわからず“死”という文字を目にして私は不安にかられるだけだった。  死んでしまうことがあるというのだろうか。

手紙

私は本を閉じると、自分の部屋へ戻り“死”について考えた。親友が死んでしまうということ。もし、死んでしまったら、会いたいと思っても、会えない。体は冷たくなって、口を開いてくれなくて、一緒に笑ったり泣いたりできない。共に創りあげてきた思い出を私だけが抱えて生きていく。共有されない私一人の思い出として。  ときどきヨッサンのことを思い出して寂しい気持ちになって、涙を流したりするのだろうか。そんなの嫌だ。絶対に、彼女の死んでほしくない。生きてほしい。  拒食症という病気は、ボディイメージのゆがみだけで食を拒むことではないのかもしれない。生きることを拒んでゆく心の病とも言えそうだ。私が一人この世から消えてしまうこと、それは大きく見るとたいした出来事ではない。世界は、世の中は広大だ。  でも、忘れてほしくないことがある。必ずどこかで自分を思ってくれる人がいるということを。何もかも信じられなくなったとしても。自分など居ても居なくても何も変わらない、そう思ったとしても、生き抜いてほしい。  過去は変えることができないけれど、未来は限りなく変化させることができる。いまとてつもなく酷な状況にいて、死が希望だと思っていたとしても実行するのはやめてほしい。  生きることに価値を、いま見いだせないとしても、未来には友人や家族や友達、もしかすると自分の子どもが待っているかもしれないのだから。  “死”は裏切りだと思っている。そんなに焦って死ななくても、生きようという気分になるまでゆっくり休み、エネルギーを蓄えるのもいい。  自殺する前というのは、何かを気に病んで追い込まれた気分になるのではないだろうか。だが、どんなに解決しそうにない悩みを抱えているとしても、死だけがすべてを解決してくれそうだと思ったとしても、本当にすべてが解決しないケースが多いのではないかと思う。  とりあえず、生きてさえいれば、きっとどこかで暗いトンネルを抜け出すことができるはず。だから、生きてほしい。  ヨッサンに生きてほしいと思った。生きることが彼女にとって楽でなくても、どんなに辛いことだとしてもどうか死なないでほしい。私は思った。  その思い出を私は手紙に書いた。しかし、私はヨッサンからその回の返事をもらうことはできなかった。熱く思いを語った手紙を彼女はどう受け取ったのだろうか。  私は、動揺した。なぜ返事が返ってこないのか。その時、私は、あれほどいい手紙を書いたのになぜ何も言ってくれないのかと腹を立てている自分がいることに気づいた。そして、がく然とした。  何を、私は期待していたのかと。私はそのことを彼女に見抜かれていたのかもしれないと思い、自分は無神経の極みだったのではないかと反省した。  彼女に生きてほしいと願ったのは、彼女のためではなく、それは友情ではなく、自分のエゴから来たものかもしれないと私は自分を疑うしかなかった。  どうすれば、彼女に生きる力を与えることができるのだろう。傷ついた心に、自ら閉じてゆく者に、なにをしてあげることができるのだろう。“いやし”の真の意味を、私は知りたい。

第2章扉

相談電話

スマートだった猫は丸みを帯び、毛はふさふさとして冬の支たくをはじめた。またストーブやこたつなどの暖房器具を出すほどではないけれど、半袖の服を着ている人はもうみかけない季節になった。  診察室にある外界へと繋がった小さな窓からのぞく風景も青々としげった木ではなく赤や黄色の葉をつけ、ぴゅうと風が通りすぎると渇いた音をたて、はらりと舞い、そして散った。  私はもう学校へ行こうという気になれず、病院と家を往復するだけの生活をしていた。数日間は学校へ行こうと思ったこともあった。  教科書をそろえて制服を着、玄関に立つのだが戸を開けて閉めて、また開いて閉じたりしていた。  そうこうしているうちに時間は過ぎていってしまい、家の中から出ることも困難になった。  そういう毎日を過ごしているうちに、私にとって学校とは何なのだろうという疑問にぶちあたり、最終的に社会的接触を積極的にしなくなったというわけだ。  学校へ行っている生徒たちよりも、不登校で苦しんでいる子たちの方が、学校とは何か、“教育”はどうあるべきなのかなど真剣に掘りさげて考えている人が多い気がする。それは逃避しようとするため、よけいきわだってそうなってしまうのかのしれない。  おそらく私もそのうちの一人ということになるだろか。家から出られなかったので、私は電話帳を持ってくるとそういった関連の話のできる相談機関はないかと調べた。すると相談電話というものが専用に設置してある機関を見つけることができた。  少し緊張したおももちで一呼吸してから電話をした。受話器からトゥルルル-トゥルルル-という呼び出し音が聞こえる。どんな人が出るのだろうと、ドキドキし身構えていた。  何秒ほどコールしただろうか。ふと呼び出し音は途切れ、しんと静まり返り、いくつぐらいだろうか、男の人の声が受話器からひびいた。  「はい。もしもし××教育事務所相談です」  男の人はやんわりと言った。  「あ、あのぅ。学校へ行けなくてどうしたらいいのかわからないんです・・・・・・」  私はあたふたとし、答えた。もっとこうなめらかに言うつもりだったのに舌がもつれてしまった。だが中年ぐらいの声を持った電話ごしの男性は、意に介さないようで、にこやかに続けた。  「大丈夫ですか。一緒におじさんとがんばりましょう」  それから学校へ行かなくなったのは、いつ頃からか、親はそれについて何と言っているのか尋ねた。  私は緊張の糸がぷっつり切れ、安心しせかされるように喋りまくった。不平や不満、親について家族について、そして学校について、電話ごしから聞えるおじさんの声はとてもあたたかく感じられた。“一緒に”私はそう言ってくれる人が欲しかったのだ。親でも家族でもなく、それから精神科医よりももっと何か頼れる安心感があった。名前も知らない顔も見えない人の存在がこんなに大きく感じられるなんて不思議だった。  話しに切りがつき「ありがとうございました」とお礼を言うと、おじさんは「かけてきてくれてありがとう。勇気がいったと思う」と言い、最後に「僕は吉田といいます。またかけてきて」と告げると受話器を置いた。  その後、少しぼうっとした。人とこんなに力を入れて話したのは久しぶりだった。話し終えた後、胸につっかかっていたものが、吹き飛んでいったような感覚がした。また何かあったとしても、電話をすればなんとかなる。久びさに盛り上がった気分だった。  人間が嫌いだと私はどこかで思い込んでいただけで、実際は人から安らぎを得ることができる自分がいた。人は人にいやされるそんな話を聞いたことがある。人は人に救われる。私にとって吉田のおじさんは救世主だろう。 過食そして退学

“閉じこもり”という状態から何日が経っただろうか。家にかかってくる電話には出ず、太陽の光を浴びることを嫌がり、まるで自分などいないかのように、ひっそりと暮らした。何をしてもおもしろくなく、テレビを見る気もしなかった。  そのかわり、そのどこへ向けてよいのか、わからないパワーは“食”へ向かった。  食べて、食べて、日がら一日中食べられる限り食べつくした。  たいして体を動かすわけでもないのに、ご飯を何杯もおかわりし、ポテトチップスやチョコレート、甘いお菓子やラーメン、高カロリーものも関係なく食べた。  こんなに、食べては太ってしまうと自分にブレーキをかけようとするのだが、自転車が自然に坂で勢いがつき、スピードをあげるように猛烈に下っていく。“食べたい”という欲望を止めることはできなかった。  体重計に乗ってみると60キロ近くになっており、腹に脂肪がついて、股もすれるほどになっていた。  母はそんな私の様子を見やると、「何もしないくせに、食べるばっかりで。まるまる肥えてきた」と言い、「極道、怠け者、もっと働け」と尻を叩いた。  そう言われると少しは茶碗を洗ったり、洗濯物を干したりすることもあったが、余計に食べる量は増え、体重計の目盛も右側に動いた。ほぼ、食べて寝ての日々。  いまから思えば、私は時間を無駄にせず、何かしていればよかったのにと思ってみたりすることもあるが、まぁそれなりに今の私にたどりつくためには、その“何もしない時間”というのは大切だったのだろうと思い改める。  デブになった私は、さらに家から出るのが苦痛になり、家に中では居間をさけ、自室に居ることが多くなった。  しかし、嫌でも自室にじっとしてこもっているわけにもいかなくなった。家を取り壊すことになったのだ。あの“おんぼろ屋敷”である。  生まれてから私は16年間、この家に住んでいる。どんなに古く、ぼろく、豚小屋のようでも私にとっては“家”なのだ。近所の人たちには、せせら笑われ、友達を連れてくることさえ恥ずかしく思い、早く建て直したいと幼いころから願い続けていたが、いざそれが実現してみると、空しい気もする。  空き箱をスーパーなどからもらい、いらない物は捨て、必要なものはそれにつめた。家を取り壊すことが決定したのは、私が中3の夏休みの終わりのことだった。  つまり、だいぶ前から荷物については準備をしていたが、家中全部の物をつめきってしまうまでは、時間がかかったのだ。  生活に最低限必要なものも箱や袋に入れると、わが家は新しい家が建つまで、小さなそれこそ小屋のような一軒家を借りて、引越しした。家を建てようというプランがたつきっかけとなったのは、台風が日本に到来したためであった。  “おんぼろ屋敷”だったので台風の強風にあおられて屋根がはがれ飛び、雨も降っていたので家中が水びたしになってしまったのだ。  不幸中の幸いとでもいうのか、家は広かったので屋根が飛んでしまっても、残っている部分に住むことはできた。仕事の都合上、遠方にアパートや家を借りることは考えられなかった。だから新しい家を建てることになったのだ。  引っ越した家には長年、誰も住んでおらず、古臭いカビやほこりの臭いがした。さらに、引っ越す前に何度か足を運び、ダニアースをしたり、カーテンをつけたりしに行ったが、まだ、すっきりとしていないようだった。  布団を敷き、一晩眠ったが翌日、吐き気と目まい、それから頭痛をもよおした。これではまるで中毒である。あれほど気にしていた人の目どころではなく、あわてて窓を全開にし、階段をかけおりるとドアを開け、外のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。頭がすっきりとするまでその場に立っていた。  目覚めたのは、まだうす暗い景色の時間帯だったが、家へ入ったのはもう日が出て、あたりは明るい朝をむかえていた。こんな家で、何日も暮らさなければならないのだろうかと、ため息が出そうだった。一日が長く、日が経つのは早いと感じられた。  そんな、だらしのない生活を送っているだらしのない私に、あるニュースがとびこんできた。それは学校からだった。ため息がこぼれる量がますます増えそうなニュースだった。  「このまま休んでいたら留年です」  私は電話に出なかったので、母からそのことを聞いたが、聞いたときは“留年”という二文字を耳にしてとまどった。高校は義務教育ではない。欠席日数、単位がとれなくては落第なのだ。だらけていた気分が一ぺんにひきしまる声だった。留年なんてハジである。留学ではなく一字ちがうだけで、ずい分違う、留年なのだ。  だが、学校へは行けそうにないと思った。長く休んでしまったので、なおさら行きづらいのだ。おそらくクラスの子たちは、好奇の目で私を見るだろう。冗談ではない。そんな好奇に目にさらされ笑われるくらいなら、絶対に行きたくない。  もし、留年し来年の4月から新たに登校するなんて、とんでもない話だ。だってそうなれば、一学年下の子たちと混ざってスクールライフを送らなくてはならないのだから。“プライド”を捨てることができず、捨てようとしても、たこの吸盤のようにしつこくまとわりついて離れてくれなかった。  一つ年が違うというだけで、きっと避けられるだろうし、敬遠され友達だってできそうにない。しかも、それを卒業するまで3年という短くも、おそろしく長く思われる日々を過ごさなくてはならないのだ。  私はこの先どうするか、こんつめて考えるようになった。学校を退めようという考えが頭をよぎった。“学校を退める”そんなことをしたら、私の将来は、どうなるのだろうか。中退の中卒では、正規の働き口もごくわずかしかないだろう。  バイトで一生、食べていけないだろうし、何かあった時のために保険もおりない。運よく就職先が見つかったとしても、安い賃金で働くことになりそうだ。  高校の卒業資格ぐらいはとりたい。人並みにいて生きたい。そう思ったが、この高校へ行く気にはどうしてもなれなかった。どうすればいいのだろう。  だけど、もう退めてしまいたい。はじめのうちは不確かだった、その思いは確実に私の頭の中を占拠し、根をおろした。「学校を退めよう」誰が何と言おうと私はもう決めたのだ。

休学届け

病院へカウンセリングを受けに行くと医者はカルテを書くために持っていたペンの先をひっくり返すと机にこんこんと軽く叩きながら、尋ねた。まるで私に“もっとよく考えろ、そんなことでいいのか”と訴えかけるように。  「学校退めて後悔しない?」  私には頑固な所があるらしく一度決めたことはなかなか曲げなかった。だから当然、学校は退める、そう決めたのだからたとえこの先、生きていく上で後悔することがあったとしてもそれはあきらめなければ仕方ないことだと思っていた。  医者の目を直視し、私はもう決断したのだといい聞かせるようにかたい声で言った。  「後悔しない」  すると医者は、そのことに関してはもう何も聞かず次にこう質問した。  「将来の夢は?」  彼女、つまり私には大きな夢があるからこそ、退めても後悔しないという思いがあると思ったのかそう聞いた。“将来の夢”。今まで生きてきて、いろんな職業についてみたいと、ころころ意見を変えたし、絶対にこれになりたいと思ったものは何一つなかった。  しかし、医者に尋ねられると気分で返事するわけにもいかないので数秒考えたフリをして「ない」と冷たくつきはなすように答えた。  私には、なりたいものは何か、理想も一定に定まらなかった。私は、将来何になりたいんだろう? 私はどの方向へ向かってつき進めばよいのだろう。  この瞬間でさえも私はどこへ進んでいるのかわからないままつき進んでいるのだ。だけどそれは誰にもわからない。“私の将来の夢”は、それに続く言葉をためらうことなくはっきりと言える日がいつかやって来るのだろうか。  カウンセリングのあった日、勇気をふりしぼって外出した。図書館へ情報を調べるために家から出たのだ。私はもうカゴの鳥ではない。“留年”、“登校拒否”、“中退”の文字が録されている書物はないか探した。  意外とその種の本を見つけるのは簡単で、たくさん並べられていた。悪いことをしているわけでもないのに、借りるためにカウンターへその本を持って行くのが恥ずかしかった。  私は何も悪いことをしていないし、罪の意識に悩まされている自分が自分で馬鹿げているとは思ったが、どうしようもなかった。借りてきた本を家に着いてから、片っぱしから読みほした。  読んでいくにつれ、沈んでいた気持ちが少しは楽になっていった。中退してもまた新しく再スタートを切っている人がいるということが何より励みになった。  通信制の高校、定時制の高校そして高卒同等資格の得られる大検などもあり、今の全日制高校にこだわらなくても道は開かれているのだと知った。それ以外にも不登校生や中退生を積極的に受け入れる全寮制の高校があるということもわかった。  本にはそれらの各学校の電話番号と住所、特徴なども細かく記されており、資料やパンフレット、学校案内などを取り寄せることにし、電話で送ってほしいとたのんだ。一週間以内でほとんどの資料は届き、すみずみまで読んだ。  そうこうしている間に、学校からまた連絡があり、学校へ来て休学するか退めるかして何らかの手続を取ってほしいとのことだった。  母と学校へ行き、はじめは同じ部屋で2人一緒に担任と話したが、私に「ちょっと待っていて」と担任が言うと、私をおいて母と2人でその部屋を出て行った。  退めると決断したものの、テーブルの上に広げられた退学届にサインする気になれなかった。一人で待っている間ずっとそのことを考えて、退めてその先の手続に問題があると困ると思い、休学するという結論に達した。  ちょうどよいタイミングで2人は部屋に戻ってきた。私のいない場所で母と担任は何を話していたのだろう。わざわざ別室ではなすということは、私によほど聞かれたくない話題だったのだろう。  休学願いにサインをするとそそくさと学校から出た。この学校なんて1秒たりともいたくなかった。  家に着くとせきを切ったように、母が私に怒りグチをこぼしはじめた。「愛情不足ですって言われたわ。あんだがくよくよ言って学校行かないから、私が責められるじゃない。あんたが全部悪いのに」。  あの担任は何を母に言ったのだろう。図書館で本を借りて読んでいてよかったと胸を撫で下ろした。こういう場合、子どもが問題を起こすのは親のせいだと責められることは私の読んだ本に書いてあった。特に母親。  そう考えると典型的なパターンにはまりつつあるというわけだ。それにしても余計なこと母に言ってくれたものだと開いた口もふさがらなかった。  家の母も、わざわざ私に内緒で担任と話したことをなぜ私に言ってくるのだろう。やはり担任の察するように母が悪くはないにしても、私と母の関係はどこか異常なのかもしれない。

休学届けを提出

「今の学校退めて別の高校へ行かせてほしい」  私は父と母を前にして頼んだ。それから、取り寄せ集めた、それぞれの学校のパンフレットを広げて見せた。母は目が見えにくくて読めないし、忙しくてそんなもの読んでいられない、と主張すると、その場を離れ夕食の支度を始めた。  父は、学費が高く、金のいる学校なんて行かさんぞと言うとパンフレットを乱暴に扱った。私もあまりお金のかかる学校へ行くつもりはなかった。総合的に考えて通信制の高校が最適でそこへ行かせてほしいと父に言ったが「家にずっと居てもらってもこまる」と父は答えた。  じゃあどうすればいい? 私は間を置き考えて、「バイトする」と返事をした。  バイトをしていれば、ずっと家にいるわけにもいかないし、生まれて初めて働くという経験をするのだから、何だかわくわくした気にさえなった。  しかし、父はそんな半端な甘い考えで務まると思っているのかと言わんばかりに、「バイトはさせん」とオヤジくさく言った。  「とうして! いいじゃない。もう16なんだしバイトくらいさせてくれたって。それに今時16でバイトも経験してないなんてダサすぎる」  私は負けじと言い返した。明らかに2人とも興奮している。  「今の高校ろくすっぽ続けられもせんのに、働いて給料もらおうなんざ10年早いわ」  「なんでそんなこと言うわけ。ホントムカツク。何か始めようとしてるんだし、それがいけないことなの」  「お前みたいなのはな、どうせウェイトレスやったって皿を落として割ったりな、注文間違えたりして、人様に迷惑かけるだけだ。何やったって成功しない。お前はそういう子だ」  「そこまで言うかなぁ。それじゃあねどうしろって言うの」  めくじらを立てて聞き返すと、ある高校のパンフレットを手にしながら父は言った。  「ここ。この学校へ行け。全寮制の学校。朝から晩まで修業、修業。学費も他のどの学校より安い。お前みたいなのは、こういう自衛隊みたいな場所でしこみ直さんとな」 手に持っていたパンフレットを怒ったようにテーブルの上に叩きつけると、たばこをとりだし火をつけ吸った。もくもくと煙が部屋の中をただよっている。  沈黙を破るように、今の話を聞いていたのか母が料理の手を放し、口をはさんできた。  「そうそう、家にいてもらっても困る。通信制の高校なんか行っても行かなくっても一緒。低レベルの学校。だから全寮制の高校がマシ。そこへ行きなさい」  なんて頭がかたぶつで、古い考えをしているんだろう。また言い返したい気持ちが走ったが黙って聞いていた。  通信制の高校を父や母が安易に思いすぎではないだろうか。入学試験がないぶん楽だと思われがちだが、卒業するのが難しいと言われているのを知らないのだろうか。  家の父と母は、姉と年の離れた妹の私を生み、この年まで育てたのだからもう年輩である。「今の若い子」はと非難し現代社会に目を背け、受け入れるかどうかはともかくとして理解しあえない人たちであることは違いない。  重い空気の中、夕食をとった。その後、風呂へ入り、そのことを考えていたらいつのまにか時間が食われるように過ぎていて、のぼせてしまった。  もう、こうなったら全寮制の高校へ行くしかないだろうか。全寮制ということは、学校でも寮でも同じ友達と顔を合わせなくてはならないのだ。だから苦手なタイプの子たちとも上手くやっていかなくてはならない。  赤い顔をしほてったまま風呂から上がると、テーブルの上に広げたままになっていたパンフレットをもう一度見た。  「全日制全寮制高校普通科、ニーズに応え不登校や中退者も積極的に受け入れている。 試験は作文、面接、実技試験」  この私でも受験したら合格するだろうか。パンフレットに載せられている学校はとても美しく、学校というよりもむしろ大学のキャンパスを思わせる雰囲気が漂っている。 この写真の校舎で、この私が暮すことになるんだろうか。“随時、見学できる”と記載されている。その高校は県外であり、遠方で行くのにはそれなりの気合がいりそうだか、さらに遠く、北は北海道、南は沖縄の人たちも入学した生徒がいて全国各地から来ているふうだ。見学に、行ってみようか……。  私は思いたったら吉日の女である。私は父に連れていってほしいとせがみ、了承を得ると、もう日も暮れた夜だったがアポイントメントをとるのに、学校の事務局に電話をした。  借りて住んでいる家も取り壊している家とたいして変わりなく、窓の枠と枠がうまく噛み合わず冷たいすき間風が室内に入り込み、白い雪が溶けて水になったものがサッシをぬらしている。窓を開けているわけでもないのにカーテンがゆらりゆらり時々揺れるあり様だった。  もう、コートをはおらなければならない寒い寒い1月。私は、中学三年の受験のことを思い出した。テレビのニュースでは受験の情報はまだ流れていないが、キャスターのお姉さんが「受験勉強ラストスパート頑張ってください」と番組の終わりに励ますように言ったりしている。 

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