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体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(4)

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森田はるか(東京都)
 
森田はるか(東京都)

2011年2月22日 (火) 22:25時点における版


目次

引きこもり模索日記(その4)

森田はるか(東京都)

リストラされた父との関係

私が毎日仕事に出るようになった頃、父は会社で実績が上がらず、リストラされる。父が無職となり家の経済状態はますます厳しくなっていった。母のパート収入だけが頼りとなり、母は1日15時間も働くような毎日になっていた。しかし母は私に生活費を家に入れることを強要しなかった。私が低所得であったこともあるが、「お前ももう自分のために貯金しておかなければいけない年だから…」と言ってくれた。父は退職後全く働きに出る気はなかったようだ。父は信用金庫で管理職を勤め、不動産でも責任者的立場の役職だったので、プライドがあったのだろう。この期に及んで人に遣われることを嫌ったようだ。しかし父は真面目な人間だったので、母にはかなり気を遣っていた。今度は父が家事などを手伝う「主夫」になったのだ。しかしそれが私には許せなかった。「おれの事を散々バカにしておいてテメーはなんだ!」台所に立つ父を見るたび、悔しくて殺してやりたい気分だった。父が作った料理など食べたくなくて、外食したり弁当を買ったりしたこともあった。私は相変わらず遊びに出掛けることもなく、お金を遣うこともなかったので、少しぐらい生活費を入れてもよいと思っていたが、父が生活費を管理し、その金で付き合いのゴルフや麻雀に出掛けていたので、そんなことに金を遣われるのは嫌だと思い家に金は入れなかった。その代わり、なにかあった時のために貯金をするようにした。母は常にお金の心配をしていたし、家で突然の出費がある時は実際この貯金が役に立っていた。

毎日働きに出るようになったとはいえ、私は時給で働くアルバイトの立場だった。職場ではよく「いつまでもこんな安いバイトなんかしていないで早く就職した方がいいよ…」と言われた。私は自分の経歴を一切カミングアウトせず、普通の人を装っていたので、周りの人は一般論として当たり前のことを言っていたと思うが、家の経済状態や母にばかり負担をかけていた事情もあり、余計に「このままではいけない…」…と焦った。この職場で2年が過ぎた頃、業績不振で店が閉店になるという話が出た。またその頃、母も職場の体制、待遇が変わることで、転職を考えていた。そんな状況のある日、休日に私が買い物から帰ると、父は相変わらず家でテレビを見ながらゴロゴロしていた。その姿が私にはあまりにもノー天気に見えた。私の怒りは頂点に達した。「テメー! 人のことをさんざんバカにしておいて、テメーはなんなんだ! 会社クビになったら毎日家の中でゴロゴロしやがって! 恥ずかしいと思わねーのか!」父は「お前いつからそんな偉そうな口が利けるようになったんだ! おれは30年も働いてきたんだ。ここはおれの家だ、気に入らないなら出て行け!」私は「テメーは隠居できる身分だと思っているのか? 母親に何時間も働かせておいて! おれが毎日家にいる時はおれのやっている事(家事等)をさんざんバカにしやがって、テメーはそのマネしかしてねーじゃねーか! 働きに出る気がないなら死ね! 粗大ゴミ!」父は「自分の子どもにそんなことを言われるとは思わなかった…」と言った。私は「言わせたのはテメーだ!」と言ってやった。その場は部屋にいた弟が出てきて治めてくれた。私は「ついに言ってやった!」…としばらく興奮冷めやまなかった。父親との関係、家の経済状態、就職問題…と、かなり気持ちが不安定になっていた。

医師と出会い情報センターと出合う 常にイライラしていて店の客や路上で自分勝手なムカつく奴がいると喧嘩をすることもあった。「自分は不幸だ」という被害妄想が強く、普通の順風満帆そうに生きている奴等への敵対心も強かった。このままだと自分が犯罪者になる危険を感じ、この時は自分の意思だけで精神科の病院を訪ねた。まだ「引きこもり」という言葉を私は知らなかったが、自分のこれまでの経歴やその当時の悩みを医者に話した。うまく話せたかどうかは分からない。そして「神経症」と診断された。医者は「貴方がこれまで辛い経験、苦労をされてきたことはわかりました。しかし貴方は自分の力でアルバイトが出来るまでに回復した。それは自信にするべきです」「お父さんとの関係は無理に和解しようとせず、まず話し易いお母さんを通して話しをするようにした方がよい」「就職は履歴書など少しは脚色しても構わないのだから、あまり深刻に考え過ぎないように」…と言われた。そして「医者に出来ることは話しを聞いて薬を出すことしか出来ない。薬で少しは気持ちが楽になるかもしれないが、自分で意識し、行動しなければ自分を変えることは出来ない」…とも言われた。薬はしばらく飲んだが、眠くなるばかりで、あまり効果がなくやめてしまった。その後図書館で引きこもりを扱ったある本に出会う。その本はある施設を紹介した本であったが、「不登校、高校中退後、働きもせず毎日家の中にこもっている人が増えている。こうゆう人を<引きこもり>と言う」…という内容だった。詳しく読めばまるで自分のことが書かれてあるような内容で「自分だけじゃなかったんだ…」と思い、嬉しく、救われるような気持ちになった。そしてこの施設に電話を掛けてみた。しかしこの施設でカウンセリングを受けるには「ン万円」のお金が掛かり、それも何回か通い続けなければ意味がないと言われた。しかも施設に通うとなれば「ン十万円」単位で費用が掛かると聞き、結局この施設に行くことは諦めた。その後、個人情報誌『じゃマール』を通じ不登校情報センターの松田武己さんと知り合う。確か「不登校、高校中退者の体験手記募集」…という内容で掲載されていた。私は簡単な自己紹介文を書いて送った。すると「通信生、大検生の会」会報なるものが返信されてきた。詳しい活動内容は分からなかったが、「通信制や大検の学生を対象にした集まりかな?」程度に思っていた。ときどき会合もやっていたようだが、私は仕事の都合もあったし、当時の家の事情では大検や通信で勉強している余裕などなかったので、参加することはなかった。しかしその後も頻繁に会報が届けられた。なんだか悪くなり、私はときどき近況報告を書いた手紙を返信していた。この頃から松田さんは「なにかやりたい事、企画、提案があれば協力します!」…と呼びかけていた。そして1年くらいたった頃、仕事が休みの日に会合があったので参加してみた。私以外のメンバーは学生の女の子が2人。自己紹介をして、松田さんから会の活動状況等を聞いたが、「みんな、勉強の場を求めているのかと思ったが、実際は友達を求めている人が多いようなのでその方向で会の活動を考え中…」…とのことだった。

ハウスクリーニングの研修をうける

それからしばらくして店の閉店が決まった。ほぼ同じ時期、母の転職も決まっていた。さらなる地獄への扉が開いた…。私はしばらく別の催事業者で働くことになった。母はガソリンスタンドの取引先で働き出した。しかし今度は母が新しい職場で人間関係がうまくいかなかった。家に帰れば職場のお局さんの悪口、不満ばかり言っていた。私はおもしろくなかった。「おれがさんざん職場での悩みや不満を言っていた時は<我慢しろ、お前が悪い>みたいなことを言っておいて、いざ自分がその立場になったらなんだ!」母にはその後苦労を掛けているのでそれ以上不満は言わなかった。結局母はこの仕事を数か月で退職。その後飲み屋で働く。しかし、この飲み屋も人間関係がうまく行かない上、経営者がいい加減で給料の未払いなどがあり、母は自分で飲食店を経営する方向で準備を進めようとしていた。母は「もうこの年ではガソリンスタンドの時と同じだけ稼げる職場はない。お父さんもアテにならないし、お前も人に遣われるより家の仕事を手伝う方が良いだろう?」…と言っていた。私は反対だった。資本金もなく、借金で事業を始めるリスクは大きいと思ったし、だいたい飲食店など安易過ぎると思った。しかし自分がアルバイトの身分ではなにも文句は言えない。母は家族のために事業を始めようとしているのだ。私は自分が就職するしかないと思った。催事の会社は社員の募集はしなかったし、会社自体傾いていた。その当時、私が関心を持っていた職業にハウスクリーニングがあった。もともと掃除が嫌いではないし、この仕事は将来的に少ない資本で独立も可能と思っていたからだ。当時は求人も結構多かった。求人案内に目を通していると、新規社員を募集する新しい会社があった。さっそく電話をして面接に出掛けた。面接したのはその会社のハウスクリーニング部門の責任者だった(実質的にはこの責任者の個人経営だったのだが)。「稼ぎたいならうちの専属で独立すればいい。やる気さえあれば少ない資本で月50、60万円は稼げる。仕事はいくらでもあるから心配ない。貴方のようなやる気のある人を待っていたんだ…」後で考えればずいぶん調子のよいことばかり言われていたのだが、家の事情もあり、やってみるしかないと思った。とりあえず研修の形でこの仕事を始めた。研修で仕事を教えてくれたのは、私より1歳年上で独立して仕事をしている人だった。この人は良い人で熱心に仕事を教えてくれた。いきなり独立するのは自信もなかったし、抵抗もあったのだが、家の経済的事情から母に強く勧められ、その後委託で独立することになった。独立には器材購入のため、数十万円掛かった。

父にとって「人生最悪の日」

しばらくして、父が体調を崩し入院する。当初は風邪が悪化した程度と思っていた。この時期、私の給料の支払いが月末締めの翌月末払いで2か月間給料がなく、母にも安定した収入がないという状態で、家は経済的に最も苦しかった。母も自分の仕事がうまく行かなくなってからは、父への不満を口にするようになっていた。「こんなお金が大変な時に入院なんかして…」身体の心配よりお金の方が心配。それが正直な気持ちだった。数日後、医師から病状の説明があり母が呼ばれた。説明には父本人も同席していた。私は正直、嫌な予感がした。それは以前、父に面と向かって「死ね!」と言ってしまったことへの罪悪感からかもしれない。悪い予感は的中、母は泣きながら帰ってきて「お父さんガンなんだって…」と言った。私は驚きもあったが、悪い予感があたり「やっぱり…」という気持ちと、父に対してのこれまでの態度に強烈な罪悪感を持った。父は日記にこの日を「人生最悪の日」と記している。皮肉にも父が入院したことで入院保険が支払われることになり、金の心配はなくなった。母は父の知り合いの酒屋でとりあえず働くことになった。私の仕事は初めのうちは順調に予定が入っていたが、次第に仕事が少なくなっていった。研修で世話になった人や、同期で入社したバイトの人と連絡をとり相談したが、他のバイトの人も「仕事が入らず困っている」…とのことだった。研修で世話になった人からは「あの会社は最近支払いが悪く評判が悪い。おれが仕事を世話するからあそことは関わらない方が良いかもしれないぞ」…と言われた。あまりにも仕事が少なくなってきたので別に仕事を探そうとしたが、父が入院中で親戚や知り合いの見舞いがあり慌ただしかったことや、保険のおかげでいくらか家計が安定していたので、母が「今は無理に働かなくてもよい」…と言ってくれたので他の仕事は始めなかった。

父が入院してしばらくたった頃、憔悴していた母の変わりに、私と父の兄である叔父とで担当医を尋ねた。担当医の説明で、「父は末期の胃ガンで他にも転移しており、手術できる状態ではなく、余命6か月」…と宣告された。「これから抗がん剤による治療で一旦回復するので、一時退院して余命を有意義に過ごしてもらうのが目標です」と言われた。父は自分がガンであることは知っていたが末期であることは知らなかった。入院中の父は特に具合が悪い様子もなく、元気そうに見えたのであと半年で死ぬ人間とはとても見えなかった。医者から言われた言葉が信じられなかった。父が入院してから、私と父の関係は険悪ではなくなったが、どう接してよいのかわからなかった。抗がん剤による治療が始まると吐き気などで毎日苦しそうだった。あんなに憎んだ父が、実際に苦しんでいる姿を見るのは辛かった。罪悪感もあり「おれを許してくれ…」と神に祈るような気持ちになった。治療の効果があり、父は一時退院の日を迎えることが出来た。嬉しそうに家に戻ってきた姿が印象に残る。それまでは家にいる父が許せない気持ちだったが、この時はさすがに私も嬉しかった。

父の死

ハウスクリーニングの仕事は、母の知り合いから仕事を斡旋してもらえることになり続けることにした。そして元々の会社からは予想していたが、給料の支払日に支払いがなかった。事情を聞きに会社へ行くと、「取引先から支払いがない」「クレームがあったから払えない」…など人をバカにしたような答えだった。裏切られた思いがした。悔しさと、これまでの自分の人生に対する不満、怒りがこの詐欺師に向かって一気に爆発した。胸ぐらを掴んで唾をかけてやった。「そんな言い訳で納得するほどおれが無知でお人好しだと思っているのか? バカにするのもいい加減にしろ!」詐欺師は「警察を呼ぶぞ!」…と震え上がっていた。その場はこの会社が入るビルの大家がいて仲裁してくれた。その後、親会社の社長と求人広告の会社にクレームをつけて給料の一部は支払われた。父の一時退院中は何十年かぶりに家族で食事に出掛けたり、旅行に出掛けたりした。私は父と何年も会話をしていなかったので、どう接してよいかわからず戸惑った。いま考えればもっといろいろな話をしたかったが、急に仲良くするのも変だと思ったし、結局よそよそしい関係のままだった。弟の演劇も家族で観に行った。弟は親孝行ができたと思う。定期的に抗がん剤の治療があり、父はその時は具合が悪そうだったが、それ以外は元気そのもので本人は治ると思ったようだし、私も家族も叔父もよくなっていると錯覚するようだった。しかし一時退院から3か月程で体調が悪化。再入院となる。父は「もう家には戻ってこれないかもしれないな…」と家を見回し、寂しそうに車に乗って病院に向かった。再入院はもはや死を待つだけの入院だった。モルヒネで寝ている時間が多かった。1か月後、父は死んだ。悲しみよりも、父には申し訳ない気持ちで一杯だった。葬式も嫌だった。自分には親の葬式に呼べる友人も知り合いもいない。「寂しい葬式になってしまう…」と心配したが、父の人徳で多くの人に参列してもらい安心した。父は決して優秀な父親ではなかった。今考えても不満はたくさんあるし、許せないこともある。でも子どもの頃を思い出してみれば、父とはキャッチボールをしたり、旅行に行ったり、一緒に遊んでもらったよい思い出もある。そんなことは何年も忘れていた。学校に行かないこと、仕事に就かないことは人としてものすごく重大な欠陥であり問題かもしれない。でも「人が生きる意味はそれだけなのかな…?」とも思う。父が心配していろいろなことを言っていたのは私もよくわかっている。父は最期まで家族の心配をしてくれていた。でも私が命懸けで悩んでいたことまでは知らなかったと思う。親は自分の子どもに「学校に行かない、仕事も出来ない人間なら生きている資格もない。死んでしまえ」…と思うのだろうか。親と子は別の人格である。性格も価値観も違う。お互いに悩みや苦しみを理解し、人格を認め合えば、たかが学校に行かない、仕事に就けない事くらいで憎んだり、険悪な関係にはならなかっただろう。「家族」という存在はあまりにも身近で水や空気と同じようにいつまでも存在して当然のように錯覚してしまう。しかしどんなに身近な人、大切な人とも一緒に過ごせる時間は限られている。だからこそ「現在」を大切にしなければいけない。今は父に対して憎しみも悲しみもないが、申し訳ない気持ちや寂しさはある。いまさら今の自分やこれまでのことを親のせいにしても仕方ない。これからの自分の人生を自分で良くしていくしかないと思う。それが父親へのせめてもの罪滅ぼしかな…。

父が亡くなった後にはさらに人間不信になるような出来事があった。父は保険に入っていたため、死後、皮肉にも家の経済的事情はいったん楽になった。しかしその保険金をアテにして母親の親戚や知り合いが借金を申し込んできた。その内容も「子どもが予備校に通うための費用」「金融会社への借金の返済」…などというものだった。「家はお金のことで毎日の生活にも苦労してきたのに…」父が正に命懸けで家族に残してくれた金を安易にアテにして、残された家族の気持ちを無視し、自分達の都合しか考えない最低な人間がいることに失望した。しかし屈折したものの見方をすれば、ハウスクリーニング会社の詐欺師といい、保険金をたかりにきた奴等といい、こんな最低な連中が平然とこの世の中を生きているのだ。こいつらに比べれば私が生きていることぐらい十分許されるだろう。さらに屈折して考えれば、「人は生きていくために皆それぐらい必死なのだ」…とも言える。だからといってこいつらを許すつもりはないし、人を傷つけたり、騙したりする奴等は最低で絶対に許せない。でも<良い人>ばかりでは残念ながらこの世の中は生きて行けないし、他人に<優しさ>ばかり期待するのも良くないのだと思う。

引きこもり当事者でつながる

父が亡くなってから1か月くらいたった頃、不登校情報センターの松田さんから電話があった。当時松田さんは「人材養成バンク」なる事業を始めていて、「高校中退者の仕事探しについてテレビ取材を受けてみないか?」という話だった。以前、松田さんに合った時、私が「就職活動で高校中退や引きこもりの経歴があり、面接や履歴書の書き方で苦労している…」と話したのを覚えていてくれたようだ。当時はあまり深く考えずに取材を受けた(後にモザイク入りでテレビ放映もされた)。結局この「人材養成バンク」についてはうまく機能しなかったようだ。詳細について私はよく知らない。そしてこの頃から私は「自分と同じ経験を持つ人と知り合いたい」という動機から「お金の掛からない引きこもりの人のネットワーク作りを自分で始めてみたい」…と考えるようになっていた。しばらくして、ハウスクリーニングの仕事は収入が不安定なままであったこともあり、私は改めて就職活動を始めていた。しかし時代はバブルが崩壊した不況、就職難の時代になっていた。自分が「働きたい!」と思う気持ちだけでは、就職出来る時代ではなくなっていた。就職活動が難航していた時、以前催事の仕事で世話になった人から連絡があり「いま別の催事業者で仕事をしているのだけど、また手伝ってくれないか?」…という連絡があった。この催事の仕事で就職も考えたが、労働条件が悪く、経営も雇用も不安定なのでやめた。しばらくはこのバイトをしながら就職活動をしていくことにした。<職業とは人生そのものであり、その人の一生を表すもの…>そう言われれば、確かにその通りであり、仕事は安易に決められるものではない。私は十代後半から20代前半の頃、自分がやりたいこと、なりたい職業がわからないと思っていた。そう言う人は多い。しかし、私が出した現時点での結論は、そうゆうことを言っている奴は、やりたいことやなりたい職業などこれまでも、これからもなにもないのだ。なんの能力もない人間が夢や理想を言っているだけ。才能のある人はそんなことを考える前にその道へ進んでいる。私はこれまでの経験から、自分に出来ることが仕事になれば良いと思っている。確かに、他者から尊敬されたり、技術や資格が身に付く職業は魅力的だ。しかし、世の中すべての人が自分の理想通りの仕事をしている訳ではない。だからと言って、嫌な思いだけをしながら無理して働いている訳でもない。多くの人は、結婚して子どもが出来て、自分のためだけではなく家族のために生き、働くようになっていく。そうでなくても、人並みの生活、幸せを求めるならまず自分に出来る事を仕事にして働かなくてはいけない。定職に就くことはある意味その仕事で「諦められるか…」だ。しかし経験がなければその「自分に出来ること」がわからない。「まずはいろんな仕事を経験してみて…」といっても今は簡単に仕事も見つからない、失敗が許されない社会になってしまっている。

その後、当時「通信生・大検生の会」から「こみゆんとクラブ」に改名していた会の集まりに参加してみた。その日の集まりには十人くらい集まっていたと思うが、その中に家の隣の市に住むO君がいた。O君の存在は名簿で知っていたが、会うのは初めてだった。彼は通信制大学を卒業し、就職活動中で「こみゆんとクラブ」の会合にもよく参加していたらしく、当時「通信制大学生の会」を松田さんとやっていたらしい。O君とは家が近いこともあり、その後たびたび電話で話したり、食事に出かけたりして「こみゆんとクラブ」の活動について話を聞いたり、就職活動について話し合っていた。同時期、私は個人情報誌『じゃマール』に「引きこもり経験者の方、連絡下さい!」といった内容の投稿を数回出した。「自分と同じ経験がある人と知り合いたい」…という思いと「金をかけない引きこもりの人のネットワークづくり」…を始める第一歩だった。アクセスは全部で20数件あったが、その後引き続き連絡があったのは10人弱だった。しばらくは文通や一部の人とは個人的に会って話しをしたりしていた。毎日電話で何時間も身の上話をする人などもいて困ったこともあったが、友達のいない人の悩みや寂しさはよくわかったので出来るだけ対応した。そして多くの人と連絡を取っているうちに「この人にこの人を紹介したいな…」みたいなパターンが多くなっていった。同人誌、ミニコミをつくりたいと考えたが、先にミニコミを作り、その後休止した人の話だと「原稿が集まらなかったり、印刷や発送に時間や手間がかかって大変…」と聞き、とりあえず回覧ノートを始めた。回覧ノートとは市販のノートに自己紹介や近況報告を書いて郵送で転送するもので、5人くらいの人が参加を希望してくれていた。ところがこれは始めてすぐに行方不明者が出て、その人と一緒にノートも行方不明になってしまった。

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