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性暴力

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==[性暴力==
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==性暴力==
'''施設の子供間 性暴力の調査 厚労省、実態把握へ 国への報告規定なく'''<br>
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'''性暴力の耐えられない軽さ'''<br>
厚生労働省は、児童養護施設などの子ども間で起きた「キスをする」「身体を触る」といった性的な暴力に関する初の実態調査を開始した。<br>
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■存在の耐えられない軽さ <br>
施設内での子ども間の暴力事案については法律上の規定がなく、自治体などが把握しても、国に報告したり、事実を公表したりする仕組みが整っていないため、表面化しにくい実情がある。<br>
+
ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の冒頭で、ニーチェの永遠回帰の概念を応用しながら、こんなふうに「軽さ」について書いていると、批評家の松岡正剛氏は書く。<br>  
同省は年度内に調査結果をまとめ、対策につなげる。<br>
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そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。 <br>
調査は、全国の児童養護施設のほか、一時保護所や、保護された子どもを家庭で預かる里親などを対象に、アンケートで実施している。<br>
+
出典:ミラン・クンデラ 存在の耐えられない軽さ 松岡正剛の千夜一冊<br>
2017年度に起きた子ども間の性暴力について、全てのケースの発生時期や場所、具体的な内容や発覚の経緯などを聞く。<br>
+
ここでは、永遠の繰り返しとして捉えられる「永遠回帰」は究極の重さとし、通常の我々の人生はその正反対の「軽さ」として捉えられている。<br>  
性暴力には「身体的な接触」のほか、「裸を撮影する」「入浴時にのぞく」なども含まれ、子ども全員の入所前の家庭環境なども聞き取る。<br>
+
哲学者のドゥルーズは、永遠回帰を「重さ」としては捉えていないものの、通常は、同じことが繰り返されるイメージをもつそれは、究極の重さのひとつなのかもしれない。<br>  
2月中に結果を回収し、集計と分析を行う。<br>
+
それに対してクンデラは、われわれの人生は「軽いもの」として、どちらかというとポジティブに捉えているようだ。<br>  
児童福祉法は、児童養護施設の職員による子どもへの暴力事案は、都道府県に公表するよう求めている。<br>
+
■最低の暴力 <br>
一方で、子ども間で起きた性暴力を含む暴力事案は、法律上の規定がない状態となっている。<br>
+
だが、クンデラが言うほどその「軽さ」はポジティブなものではない。<br>  
関係者の間では以前から、実態解明や対策を求める声が上がっていたが、今回の厚労省の実態調査は、三重県内の児童養護施設で多数の性暴力事案が起きていたことが判明したことがきっかけだった。<br>
+
現実の世界では、たとえば「性暴力」という最低の暴力が日々生じている。<br>  
同県名張市内の施設に入所していた女児が11~12年にかけて、入所中の少年から性的な暴力を受けていたことが発覚。<br>
+
事例をあげるのは被害者のことを思うとやはりためらってしまうのだが(その事例の表象に接することで被害者は二次被害に遭う)、新聞記事にもなっているのであえて引用すると、たとえばフリースクールでの性暴力事件がある(フリースクールの子、性暴力から守れ 10代でスタッフによる被害、今も苦しむ30代女性)<br>  
女児側が起こした裁判で、同県が提出した証拠資料などから、県内の施設では、08~16年度の9年間に軽度なものも含め、計111件の性暴力が起きていたことが明らかになった。<br>
+
この暴力は最低のものだと僕は思うが、当該法人は、おそらく自組織防衛の動機から、長らく被害者を潜在的存在として隠蔽してきた。<br>
厚労省家庭福祉課は「まずは実態を把握し、問題が起こった背景を解明して予防につなげていきたい」と話している。<br>
+
そのフリースクールは長らく、事件そのものの存在を認めることができなかったようだ。<br>  
親元などから保護された子どもは、全国に約4万5000人おり、このうち約2万6000人(17年3月末時点)が児童養護施設で生活している。<br>
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この事件は、被害者/当事者が長い時間がたったあと、その被害を訴えた。<br>
〔◆平成31(2019)年1月29日 読売新聞 東京夕刊 〕 <br>
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その後、フリースクール側との和解に至り、その和解の経緯は裁判所により守秘義務とされたため、そもそもの事件の具体的記述はいまもされてはいない。<br>
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■当事者の存在が薄くなる<br>
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当事件は、加害側のフリースクールが老舗フリースクールだったため、議論が拡散していった。<br>
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つまり、不登校擁護運動の中心団体だった当該フリースクールが20年前に起こした不祥事について、団体の存在自体を問うことは避けようという議論がネット中心に沸き起こった。<br>不祥事=団体だとすると、長年のフリースクール運動の価値が貶められてしまうという危惧があったのだろうか。<br>
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また同時に、それと正反対の極端な議論、つまり団体そのものの解散を迫る言論も飛び交った。<br>
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そんな事件を起こしてしまう団体などなくなってしまえ、という提議だった。<br>
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それら、加害フリースクールを問うたり守ったりするなかで、現れてきたのが、「被害者」の後回しだった。<br>
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性暴力の被害からこの事象は始まり、その性暴力を生んだ団体のあり方とは何だったのか、という流れへとその議論は移っていった。<br>
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そうした流れのなかで、そもそもの提議者=当事者の存在が薄くなっていったのだった。<br>
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■性暴力の事実性の是非と、加害者のそれまでの社会的功績 <br>
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性暴力とその被害の苦しみは、そのような議論の流れの中で軽くなるものではない。<br>
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僕がここで細かく指摘するまでもなく、その受けた苦しみは、究極の「重さ」である。<br>
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その重さはけれども、なぜか別の議論の背景へと移動していく。<br>
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上のフリースクール性暴力事件で言うと、団体を守るための議論が現れ、当該団体を守るためのさまざまな言葉たちによって、そもそもの性暴力の重さが背景化していく。<br>
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ということは、性暴力被害者=当事者の存在も潜在化していく。 <br>
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ほかの事例では、たとえば当欄で時々とりあげてきた「グラドル保育士」問題などもあるがここでは深入りしない(きわどいグラドルが子どもたちにトラウマを与えたかどうかは背景化され、その事実性の是非が問われる)。 <br>
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これは性暴力に関する議論の一般化につながり、たとえば、<br>
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1.その性暴力は事実だったのか <br>
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2.加害側がもつ功績 <br>
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などへと議論が広がる。<br>
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レイプ裁判で細かい事実性が問われ当事者が二次被害を被ってしまうのは、そもそもの一次的な性暴力そのものが後回しにされ(「軽く」され)、この1と2のような議論へと簡単にそれ(性暴力の事実)が接続されてしまうという現象が起こることからそれは生じる。<br>
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■「重さ」が「軽さ」になる <br>
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なぜか、「性」は、表面化されたあと、ほかの問題の背景へと移っていく。<br>
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それは極端に「重い」事象だが、他の問題(事件の事実性や、加害者のそれまでの社会的功績)が現れた時、簡単にそれは後回しにされてしまう。<br>
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「性」にまつわるトラブルは、簡単に、後回しにされ、背景化される。<br>
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その事実の「重さ」を誰もが知りながらも、他の問題が付随すると、最大のその事実が「軽く」なり背景化していく。<br>
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それが「軽く」なることについて、人々は無意識的にあまり考えないようにしているみたいだ。<br>
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その無意識的な軽さも、最低の暴力のひとつだと僕は思う。<br>
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'''田中俊英''' <br>
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〔2020年3/3(火) 田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕 <br>
  
[[Category:子どもの虐待のニュース|せいぼうりょく]]  
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[[Category:子どもの虐待|0せいぼうりょく]]  
 
[[Category:児童養護施設|せいぼうりょく]]
 
[[Category:児童養護施設|せいぼうりょく]]
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[[Category:田中俊英|せいぼうりょく]]

2023年3月24日 (金) 17:54時点における最新版

性暴力

性暴力の耐えられない軽さ
■存在の耐えられない軽さ
ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の冒頭で、ニーチェの永遠回帰の概念を応用しながら、こんなふうに「軽さ」について書いていると、批評家の松岡正剛氏は書く。
そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。
出典:ミラン・クンデラ 存在の耐えられない軽さ 松岡正剛の千夜一冊
ここでは、永遠の繰り返しとして捉えられる「永遠回帰」は究極の重さとし、通常の我々の人生はその正反対の「軽さ」として捉えられている。
哲学者のドゥルーズは、永遠回帰を「重さ」としては捉えていないものの、通常は、同じことが繰り返されるイメージをもつそれは、究極の重さのひとつなのかもしれない。
それに対してクンデラは、われわれの人生は「軽いもの」として、どちらかというとポジティブに捉えているようだ。
■最低の暴力
だが、クンデラが言うほどその「軽さ」はポジティブなものではない。
現実の世界では、たとえば「性暴力」という最低の暴力が日々生じている。
事例をあげるのは被害者のことを思うとやはりためらってしまうのだが(その事例の表象に接することで被害者は二次被害に遭う)、新聞記事にもなっているのであえて引用すると、たとえばフリースクールでの性暴力事件がある(フリースクールの子、性暴力から守れ 10代でスタッフによる被害、今も苦しむ30代女性)
この暴力は最低のものだと僕は思うが、当該法人は、おそらく自組織防衛の動機から、長らく被害者を潜在的存在として隠蔽してきた。
そのフリースクールは長らく、事件そのものの存在を認めることができなかったようだ。
この事件は、被害者/当事者が長い時間がたったあと、その被害を訴えた。
その後、フリースクール側との和解に至り、その和解の経緯は裁判所により守秘義務とされたため、そもそもの事件の具体的記述はいまもされてはいない。
■当事者の存在が薄くなる
当事件は、加害側のフリースクールが老舗フリースクールだったため、議論が拡散していった。
つまり、不登校擁護運動の中心団体だった当該フリースクールが20年前に起こした不祥事について、団体の存在自体を問うことは避けようという議論がネット中心に沸き起こった。
不祥事=団体だとすると、長年のフリースクール運動の価値が貶められてしまうという危惧があったのだろうか。
また同時に、それと正反対の極端な議論、つまり団体そのものの解散を迫る言論も飛び交った。
そんな事件を起こしてしまう団体などなくなってしまえ、という提議だった。
それら、加害フリースクールを問うたり守ったりするなかで、現れてきたのが、「被害者」の後回しだった。
性暴力の被害からこの事象は始まり、その性暴力を生んだ団体のあり方とは何だったのか、という流れへとその議論は移っていった。
そうした流れのなかで、そもそもの提議者=当事者の存在が薄くなっていったのだった。
■性暴力の事実性の是非と、加害者のそれまでの社会的功績
性暴力とその被害の苦しみは、そのような議論の流れの中で軽くなるものではない。
僕がここで細かく指摘するまでもなく、その受けた苦しみは、究極の「重さ」である。
その重さはけれども、なぜか別の議論の背景へと移動していく。
上のフリースクール性暴力事件で言うと、団体を守るための議論が現れ、当該団体を守るためのさまざまな言葉たちによって、そもそもの性暴力の重さが背景化していく。
ということは、性暴力被害者=当事者の存在も潜在化していく。
ほかの事例では、たとえば当欄で時々とりあげてきた「グラドル保育士」問題などもあるがここでは深入りしない(きわどいグラドルが子どもたちにトラウマを与えたかどうかは背景化され、その事実性の是非が問われる)。
これは性暴力に関する議論の一般化につながり、たとえば、
1.その性暴力は事実だったのか
2.加害側がもつ功績
などへと議論が広がる。
レイプ裁判で細かい事実性が問われ当事者が二次被害を被ってしまうのは、そもそもの一次的な性暴力そのものが後回しにされ(「軽く」され)、この1と2のような議論へと簡単にそれ(性暴力の事実)が接続されてしまうという現象が起こることからそれは生じる。
■「重さ」が「軽さ」になる
なぜか、「性」は、表面化されたあと、ほかの問題の背景へと移っていく。
それは極端に「重い」事象だが、他の問題(事件の事実性や、加害者のそれまでの社会的功績)が現れた時、簡単にそれは後回しにされてしまう。
「性」にまつわるトラブルは、簡単に、後回しにされ、背景化される。
その事実の「重さ」を誰もが知りながらも、他の問題が付随すると、最大のその事実が「軽く」なり背景化していく。
それが「軽く」なることについて、人々は無意識的にあまり考えないようにしているみたいだ。
その無意識的な軽さも、最低の暴力のひとつだと僕は思う。
田中俊英
〔2020年3/3(火) 田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕

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