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Center:108-文化(超自我)の伝承と変革

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2011年3月30日 (水) 11:51時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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目次

文化(超自我)の伝承と変革

〔2006年・2007年に執筆、2011年3月30日に掲載〕

(1)

儒教文化圏というよりは、日本人の日常生活を形づくり生活思考に関心を向けています。それはたとえば、科学の時代になっても、社会の各方面で反科学の世界から抜け出せない事情があるからです。もちろん、人間の思考や意識を通らないことはすべて自然現象として自然科学の対象になるのではありません。それは承知しているのです。
たとえば科学的食事法とか科学的歩行法があるわけではありません。ただ食事法には科学的とはいえないもの、歩行法には科学的とはいえないものがあることは確かなのです。科学は食べ物の調理のしかたをうかがうことはできますが、全体を仕切ることはないのです。
私が関わっているひきこもり経験者たちは、対人関係のところである種の壁を感じ、対人関係を広げられず社会とのつながりがうまくいかない、という状態を示しています。この根源を考えると、なかなか奥深いものがあります。対人関係とか社会参加についても科学的対人関係とか科学的社会参加なるものがあるわけではありません。しかし、科学の視点からは間違っている(奇妙な、違和感のある)対人関係や社会参加のしかたはあるように思います。
科学で全体を説明することは不都合である、その一方で科学の目からすると理解しがたいものがある、この中間または影響・相互性に目を向けようとするのです。
対人関係がうまくいかないのがひきこもりの人です。なぜそうなるのかを探っていくと、対人関係のあれこれの技術以前に問題があることがわかってきます。私はそれを人間の感覚と感情が通常の形では表現できなかった、一般的には相当長期間の過程があると考えています。しかしこの点はこのペーパーの目線からそれるのでそれ以上のことはやめておき、目標に向かってすすみましょう。

(2)S.フロイトの説明

家族における文化(思考方法や生活習慣など)の伝承がどのようにされるのかという点です。
「通常、両親とか両親に類似した権威とかは、子供の教育に当たって彼ら自身の超自我の指図に従います。たとい彼らの自我と彼らの超自我との関係がどういうふうになっていたにもせよ、彼らは子供の教育においては厳格で、注文だくさんなのです。彼らは自分自身の幼児の難儀をもう忘れてしまっていて、今では昔自分たちにきびしい制限を課した自分たちの親と、自分たちをまったく同一化して満足しているのです。
そういうわけで子供の超自我は、もともと両親を模範として築き上げられるのではなく、むしろ両親の超自我を模範として築き上げられるのです。超自我は同一の内容で充たされ、伝統の担い手になるのです。
つまりこのようにして世代から世代へと受け継がれてきた一切の不変的な価値の担い手になるのです。みなさんは、超自我というものを顧慮することによって、人間の社会的態度、たとえば非行という態度を理解するのにいかに重大な助力がえられるか、またおそらくは教育にとってもいかに実際的なヒントが生じてくるかということをさとられるでしょう。
いわゆる唯物史観は、この因子を過小評価する点でおそらく過ちを犯しているのです。唯物史観は人間の「諸イデオロギー」はアクチュアルな経済的諸関係の所産であり上部構造にほかならないと言って、この因子を排除してしまいます。それは真理ではありますが、しかしおそらく真理の全体ではありますまい。人類は決して現在にばかり生きてはいないのです。超自我のイデオロギーの中には過去が、種族および民族の伝統が生き続けているのです。この伝統は現代の影響や新しい変化にはただ緩慢にしか譲歩しないのであり、伝統が超自我を通じて働き続けて行くかぎり、それは人間生活において経済関係に左右されない強力な役割を演じるのです。」
これはS.フロイト『精神分析入門』「第31講・心的人格の分解」(1936年、新潮文庫、高橋義孝・下坂幸三訳、下巻1977年(310-311ページ))によるものです。
この文章にある超自我とは、文化とか日常生活の規範と読んでも差しつかえはないでしょう。人間が安定しつつしかも時代の変化に対応するのは、このような継承があり、自ら得たもので創造していく内在的な力の両方をもっているからです。

(3)唯物史観とイデオロギー諸形態

この文章の後半で、S.フロイトは唯物史観に対してこういっています。「それは真理ではありますが、しかしおそらくは真理の全体ではありますまい」。たぶんフロイトの言葉は唯物史観を機械的・短絡的または漫画的に理解し、当てはめようとする人には鋭い警告なのですが、唯物史観のなかにその部分への言及が少ないことも関係しています。
S.フロイトが言及している唯物史観を、最も端的に表現している有名な文章がありますので、これをここで紹介しておきましょう。
「一般的結論は、簡単に次のように定型化することができる。人間は、彼らの生活の社会的な生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係にはいり込む、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発達段階に対応する生産諸関係にはいり込む。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが現実の土台であり、その上に一つの法的かつ政治的な上部構造がそびえ立ち、その土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的〔social〕、政治的、および精神的生活過程全般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する。」…

 「経済的基礎が変化するにつれて、巨大な上部構想の全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するにあたっては、経済的な生産諸条件に起きた自然科学的な正確さで確認できる物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになりこれとたたかって決着をつける場となる、法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、簡単に言えばイデオロギー諸形態とを、つねに区別しなければならない」(  ページ)K.マルクス『経済学批判への序言』(1859年、宮川彰(訳)、新日本出版社、2001年12月)。


K.マルクスの「序言」はごく短いものですが、S.フロイトは「それは真実であります」といったんは述べています。しかし続いて「真実の全体ではありますまい」というのです。
K.マルクスは「自然科学的な正確さで確認できる物質的な変革」と「イデオロギー諸形態」である法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態を、「つねに区別しなければならない」と書いています。土台である経済的基礎が変化すると、巨大な上部構造はくつがえります。しかし両者は同一ではなく「つねに区別しなければならない」のです。その意味で、この点に関するS.フロイトと、K.マルクスには大きな差、理論上の違いは小さいと考えています。
しかし、S.フロイトが提示している「世代から世代へと受け継がれてきた一切の不変的な価値」の伝承が相当長く続くという点は、K.マルクスのなかには見当たりません。これはK.マルクス、あるいは科学的社会主義の系統においては、人間の遺伝や生命現象の全体を、社会科学と並ぶ自然科学(生物学、生命科学、遺伝学)に委ね、その成果を吸収する方式をとっていることに関係するように思います。マルクス主義(科学的社会主義)が自ら、このような問題に取り組む機会がなくなっていることによると思われます。
S.フロイトが述べていることへの答えは、自然科学あるいは精神医学や心理科学のなかに答えを見つけ出していくことになるのでしょう。
日本で科学的社会主義を標榜する政党が、政治上の姿勢とか政策によって政党選択を国民に求めています。
しかし受けとる国民の側は、それとはかなり違った要素を材料にして、政党を選ぶとか選ばないという行動をしています。その行動原理は、複雑であり、複合した要素によるものでしょうが、日本社会の風土、伝統、習慣、宗教、利害関係(直接的なものだけではなく、迂回的・非直線的なものもある)、地縁、業界、信頼感など多くのものが関係しています。
それらのなかで、重要な要素を、直接的であるか間接的であるかはともかく研究対象にするしかないのです。日常的な生活に無意識に作用している発想や感覚を何がしかのテーマでとりあげるのが有効であると思います。世間、世間論はその1つでしょう。日本的儒教文化というのかもしれません。br<>

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